Geschmiere

落書き

砂男 DIE SANDMANN

2005-09-27 14:25:40 | misc

砂男
DIE SANDMANN


E・T・A・ホフマン
Ernst Theodor Amadeus Hoffmann

向原 明 訳


ナタナエルからロタールへの手紙




随分長い間手紙を書かなかったので、君たちはきっと心配しているだろう。お母さんは怒っていられるかもしれない。そしてクララの僕がこっちで自堕落な生活に没頭して,僕の可愛い天使の姿を全く忘れてしまったのではないかと危ぶんでいるに違いない。――だが、決してそんなのではないのだ。毎日毎時僕は君たち皆のことを思いだしているのだ。甘い夢の中では優しいクララの親切な姿がいつも僕の前を通り,いつもの明るい目で僕に微笑みかけるのだ。
けれど,どうして僕は君たちに書くことが出来よう。僕の精神はまったく分裂して、何も考えることさえ出来ないのだ。
僕の生活に何かしら恐ろしいものが入り込んできた。僕を脅かす運命の暗い予感が黒雲の様に僕の上に覆い被さって,どんなに明るい日光をも遮ってしまう。
ここで僕は君にこの事件について語らなければならないのだが,それは、考えてみるとほとんど滑稽に近い事件なのだ。
僕の心からの友ロタールよ!僕はどう書き出したら、数日前僕に起こった事件が僕の一生を破壊するに違いないことを、君に少しでも感じさせることが出来るだろうか。君がもしここに僕と一緒にいるのだったら、君は――いやしかし、手短に言ってしまおう。
僕の身に降りかかった恐ろしいことというのは数日前、つまり十月三十日の正午十二時に一人の晴雨計売りが僕の部屋に入ってきて、品物を売りつけようとしたのだ。僕は何も買わずに、その男をたたき出してしまったが――。
君はきっと予想しているだろう。この事件を僕がこんなに重大視するのには、僕自身の過去の生活に根本的な関係があるのだ。それでなければその行商人が僕に敵意を抱かせるはずがないわけだ。僕は今全身の力と落ち着きとを集めて、出来るだけ秩序立てて僕の少年時代の経験を話そうと思う。そうしたら、君の敏感な魂はすべてを明白に見知ってしまうことが出来るだろう。

僕たち、――というのは僕と弟妹たち――は子供の時分、昼食の時意外には父親とあまり会うことがなかった。父は非常に多忙だったに相違ない。しかし、夕食がすむと僕たちはみな母と一緒に、昔からの習慣に従って父の書斎へ集まり、そこで丸い卓を囲んで座った。父は煙草を吸って、大きなコップでビールを飲んだ。父はよく僕達にいろいろな不思議な話を聞かせてくれたが、よくその話に夢中になって、パイプの火を消してしまった。そしてそのパイプに紙を燃やしてあてがってまた点火するのがその時分の僕には実に面白かったものだ。けれど、時には父は僕達に絵本を渡して、自分は黙り込んで身動きもせずに安楽いすに腰掛けて濛々と煙の雲を吐いていることもあった 僕達はまるで霧の中を泳いでいるようだった。こういうふうな晩、母はいつも悲しんでいるらしかった。そして九時を打つか打たないかに言い出した。
――「さあ、子供達!もうお寝み!砂男が来るよ。」
 そういう時いつも僕は本当に重いゆっくりした足取りが階段を上って来るのを耳にした。それがきっと砂男なのに違いない。僕はあるとき、書斎を出ながら母に訊ねたことがある。
――「ねえ、母さん、いつも父さんの所から僕達を追い出す悪い砂男っていったい誰なの。どんな顔をしているの。」
――「砂男なんていやしないのだよ。坊や。わたしがおまえに、砂男が来るよ、というのは、ただ、おまえがもう眠くなって眼を明けていられない、ちょうど誰かがお前の目の前に砂を撒いているようだ、という意味なのですよ。」
 しかし、母の答えは僕を満足させなかった。僕の子供らしい心の中には、母が砂男を否定するのはただ僕達に恐怖を起こさせないためだという明白な考えが生じてきた。何しろ僕らはいつも階段を登って来る跫音を耳にしていたのだから。そこで僕はある時、一番下の妹を世話している乳母にそっと訊ねたものだ。乳母の答えはこうだった。
――「はい、ナタナエル様、まだ御存知ありませんのかね。砂男というのはね、恐ろしい奴で、早く寝床へ就かない子供衆の所へやって来ましてね、大きな手の平一杯の砂を目の中に投げ込みますのですよ。すると眼は血だらけになって顔から飛び出してしまいましょう。そこでそれを袋にいれて、三日月様の中へ運んで、子供に食べさせるのでございますよ。」
 僕はその残忍な砂男の姿をさまざまと心の中に描いて、恐れと愕きとで慄えながら、一晩中寝室で苦しんだ。
 もちろんそのうちに僕はだんだん成長してきて、三日月の中に子供の巣を作るという砂男についての乳母はまったくのでたらめであることを理解するようにはなった。それでもやはり僕にとっては砂男という恐ろしい幽霊が存在した。さらに彼がいつも階段を上って来て、しかも父の書斎に入って行く跫音を耳にするときは体中に戦慄が走って行った。もっとも彼の訪問はしばらく杜絶えることもあったがその後には以前にもましてしげしげと続いた。彼と父の遊行は間断なく僕の心を悩まし募っていったが、なぜか僕はそのことについて父に直接質問して来る勇気はもてなかったのだ。そしていつかきっとこの自分の目で砂男の正体を見とどけてやろうと堅く決心した。その時分からすでに僕の中に巣喰っていた冒険癖や猟奇趣味は僕をかりたてて、小鬼や魔女や小人の物語を耽読させたけれども、この砂男はいつもそれらのすべての上に立っていた。
 僕は十歳になった。そして母は僕を今までの子供部屋から出して、小さいながらも自分の部屋に住まわせてくれた。その部屋は二階の廊下に沿っていて、父の書斎からあまり隔たってはいない。今でも僕達はあいかわらず九時になって不思議な訪問客の跫音が聞こえ出すと、それぞれ自分の部屋へ引き取らされているのだ。けれども僕は自分の部屋の中で耳をすませば、彼が父の室に入っていく跫音をはっきりと聞き分けることが出来る。そして、その瞬間から異様な臭気を持った煙が家中を充たすようにさえ思われるのだ。
 僕はたびたび、もう母が引き取ってしまってから、一人でこっそりと廊下に出て聴き耳を立てたが、砂男はいつもぴったりと扉を閉めているので、その姿を見ることはおろか、室内の物音さえ聞き取れたことはない。最後に僕はもう抵抗し切れない欲望にかられて、自分で父の室に潜んで、砂男の来るのを待つ決心をした。
 父の沈黙と母の悲しげな様子で、あの晩僕は砂男の来ることを予感した。僕はまだ九時前に父の書斎を出て、扉のすぐ傍の物陰にかくれていた。玄関の扉が軋み、重いゆっくりした跫音が床を踏んで階段へ近寄り、母は子供達を連れて急いで僕の前を通りすぎて行った。ぼくは静かに、実に静かに父の室の扉を開けた。父は例の通り扉に背を向けてじっと黙り込んでいた。僕はすばやく扉のすぐ傍にタッテイル衣装戸棚の背後に身をかくした。跫音はいよいよ間近く迫って来る。扉の外で奇妙な唸り声が聞こえる。
 僕の心臓は心配と期待とでひどく震えた。跫音は扉の前でピタリととまった。把手が烈しく廻され、扉はすさまじい音を立てて開いた。
 僕は全身の落ち着きを集めて注意深くその方を覗いた。
 砂男が室の中央に、父と向き合って立っている。火の光が彼の顔にまともに当たっている。砂男!その恐ろしい砂男というのは、家でよく昼食を共にする、老人の弁護士のコッペリウスだった。
 しかし、このときのコッペリウス程厭わしい姿はまず他にない。――首の不釣り合いに太い、肩幅の馬鹿に広い、大男を想像して見給え。まるで草むらのように生え揃った灰色の睫毛。その奥にある一対の猫の目、大きな上唇まで垂れ下がった太い鼻。歪んだ口はいつも悪魔の笑いを洩らしていて、頬には暗褐色の斑点が一杯で、歯の間からは絶えずシューシューと音を立てて息が洩れている。要するに彼の全身が不快で兇悪であったのだ。そして殊に僕達子供にとって恐ろしかったのは彼の節くれ立った毛むくじゃらな拳であった。僕達は彼の手で触れたものはもうどうしても触れることが出来なかった。彼自身のそれに気づいて、母が親切に分けてくれた菓子や果物に、何らかの口実を設けては、触ってみるのを楽しみにしていた。僕達はもう眼に一杯涙をためて、彼が触りさえしなければ美味しかったに違いない菓子を、恨めしく見つめるより他に仕方なかった。
 母もコッペリウスを嫌っているに相違なかった。彼がやって来ると、それまでどんなに喜ばしい上機嫌であっても、母はきっと沈み込んで悲しむように見えたから。
 父だけが彼を妄信して、彼の不作法を天才的な人間に付き物だとして許していたばかりでなく、出来る限りのことをして彼のご機嫌をとっていた。彼が何かちょっとした暗示を与えれば、高価な料理と珍しい酒がたちどころにととのえられた。
 そのコッペリウスを今眼の前に見たとき、何か恐ろしい冷たさが僕の魂の中を通り抜けた。僕はそして砂男が彼以外の誰でもないのだということを固く信じて疑わなかった。僕はまるで魔術に縛られたようになり、見つかって罰を喰うのが怖さに息を凝らして、戸棚の後ろから首だけ突き出して立っていた。
 父はコッペリウスを仰々しく出迎えた。コッペリウスは、
――「さあ仕事だ!」
 と、嗄れた鼻声で厳かに叫び、上着を脱ぎ棄てた。すると、父の静かなくらい顔つきで室内用ガウンを投げ、二人とも長い黒いどてらを身につけた。それから父は室の隅の戸棚の扉を開けたが、今までただの戸棚と思っていたその奥は暗い穴蔵になっていて、そこには小さな炉さえ据え付けてあった。コッペリウスがそこに近づくと、その炉から青い焔がメラメラと上がった。その辺にはあらゆる種類の奇妙な器具が立っていた。おお神様、その焔に向かって腰を屈めた時、年老った父の顔がどんなに変って見えたことでしょう。彼は悪魔のように、コッペリウスにさえ似てさえ見えたのだ。コッペリウスは灼熱した火箸を振って、どろどろした火焔の中から明るく輝いている物質を取り出して、それを一心になって槌打ち始めた。僕はその時に、その辺に人間の顔が見えるような気がした。しかもそれにはまったく眼というものがなくて、その代わりには唯暗い二つの穴だけがあるのだ。
――「眼玉を寄越せ。眼玉を寄越せ!」
 とコッペリウスは鈍い、よく響く声で怒鳴った。僕はもう前後もわからない恐怖に駆られて、大声で泣きながら、隠れ場所から床の上に倒れてしまった。コッペリウスはすると僕を引き抱えて歯を喰いしばりながら、
――「小さな獣《けだもの》め!この小さな・・・・・・」
 と僕を炉の上に投げた。ぼくの髪の毛は焦げ始めた。
――「さあ、眼球《めだま》が見つかった。子供の眼球が二つ見つかった。」
 こう呟きながらコッペリウスは、手掴みで焔の中から灼け切った粒をつかみ出して、ぼくの目の中に撒き散らそうとするのだった。その時ようやく、ぼくの父が両手を上げて懇願した。
――「先生、先生!私のナタナエルの眼は許してやって下さい。」
 僕のまわりですべてが暗く黒くなった。そして僕の神経と四肢とを刺すような痙攣が過ぎた。――僕はもうなにも知覚しなかった。
 優しい温かい息吹《いき》が顔の上を滑っていったので、死の眠りから目覚めた。母が僕の上に屈んでいたのだった。
――「まだ、砂男はいるの?」
 僕はやっとそれだけを訊いた。
――「いいえ、坊や、もう、夙《と》うの、夙うの昔に行ってしまったよ。もう誰もお前に悪いことはしないよ。」
 そうして母は蘇生した愛児を心から接吻して胸に押しあてた。

 僕の心からの友ロタールよ。
 僕は何のためにこれ以上君を退屈させ、労《つか》らせる必要があろう。もう沢山ではないか。
 僕は君にただ僕の少年時代の最も恐ろしい瞬間について語れば充分なのだ。そうすれば、恐らく君は理解してくれることだろう。僕にとってこの世のすべてがまるで色褪せたものであろうとも、それはあながち僕の眼の弱さからではなく、暗い宿命が僕の一生に濁った影を落としているからなのだ、ということを――。
 コッペリウスはもう姿を見せなかった。彼は町を立ち去ったという人の噂だった。
 それから一年ばかし過ぎていたろう。僕達は皆、昔のままの習慣に従って、晩餐の後例の丸い卓子《テーブル》に坐っていた。父はひどくはしゃいで、若い時分にした旅行談から道化た物語をいくつも聞かせてくれた。その時、九時が鳴った途端に、玄関の扉の蝶番が軋って、ゆっくりした、重い、鉄のような跫音が控の間から階段を上ってきた。母は蒼くなって呟いた。
――「コッペリウス!」
――「コッペリウス!」
と、父は血の気のない破れた声で繰返した。
 母の眼からは涙が流れた。
――「ですけれど、お父さん、本当にどうにかならないのですか。」
――「もうこれで最後だ、今日で最後だ、それは約束してもよい。さあ、もうお行き、子供達を連れてお行き、――じゃあ、皆お寝《やす》み!」
僕は冷たい石の間にはさまれたような気がした。母は僕の腕をとって云った。
――「おいで、ナタナエル、おいで!」
 僕は言われたままに床に入ったが、不安で目を閉じることさえ出来なかった。厭らしいコッペリウスが僕の前に立って、眼に火花を散らせて、無気味に笑う。その姿がどうしても眼前《めのまえ》を去らないのだ。
 ちょうど真夜中と覚しい頃、大砲を発射したかのようなすさまじい物音が起こった。家中全体が振動した。僕の扉の前を人のざわめく気配がした。玄関の扉までがギーギー云って開閉された。
――「コッペリウス!」
 僕はそう思って、飛び起きた。その時、なんとも言えない悲しさのこもった、なにかを裂くような叫び声が聞こえて来た。僕は父の書斎に駆け込んだ。扉は開け放したままになっており、窒息させるような煙が僕に向かって渦巻いて来た。下女が泣いていた。
――「ああ、旦那様が、旦那様が!」
 煙を濛々と吐いている炉の前に、黒く焼け焦げて歪んだ顔で、父が横になっている。そのまわりには兄弟達が泣きじゃくっていて、母はもう失神してその間に倒れていた。
――「コッペリウス奴《め》呪われた悪魔め、貴様が父を殺したのだ。」
 二日経って棺の中に納めた時、父の顔はようやく柔和に生きている時と同じ相好になった。悪魔のコッペリウスとの交わりも父を決して永遠の破滅に陥れることが出来なかった。そう思って僕は安心した。
 心からの友よ。
 僕が今君に、あの晴雨計売りがコッペリウスの畜生だと言ったならば、その不快な姿が僕に重大な不吉の暗示を与えたことを、君は不思議とは思わないだろう。もちろん彼の衣服は変っていた。が、コッペリウスの顔や姿は、忘れたりするにはあまりにも深く僕の心に刻みつけられているのだ。その上に彼は名前さえもとのままだ。彼はここではピエモンテ生まれの機械屋でジューゼッペ・コッポラと称している。
 僕は今、きっと彼を捕まえて仇を討つことに決心している。その結果がどうなろうと、それはかまわない。
 けれどこのことについては、母に話さないでくれ。――そして、可愛い可愛いクララによろしく。僕は彼女にはもっと落ち着いた気持の時に書く。ではさようなら。

クララからナタナエルへの手紙


 随分御手紙を下さりませんのね。でも私、あなたが私をいつも心の中で想っていらっしやることを信じております。なぜって、兄のロタールへ宛てた最近のお手紙の表書を私の名前に書き違えたりなさるくらいなのですもの。
 私は本当に嬉しく封を破りました。「ああ、心からの友ロタ―ルよ! 」という言葉で、初めて間違いを覚りました。私、もうそこで読むのをやめて、手紙を兄に渡してしまえばよろしかったのでしょう。それなのに、私はそうは致しませんでしたの。あなたの書き出しが私を大へんに感動させてしまいました。私はもう息も出来ません、眼の前がピカピ力光ったりしたのです。
 ああ、私の心から愛しているナタナエル!
 どうしてそんな怖ろしいことがあなたの生涯に起つて来たのでしょう。私は読みました。読みつづけました。私は初めて、あなたのやさしいお父様がそんなに怖ろしい死に方をなさったことを知りました。兄のロタールは私を慰めてくれました。でも、晴雨計売りのジューゼッペ・コッポラが私を一歩一歩追跡して来て、その日は夢の中にまではいり込んで来たりしました。しかし、どうぞ御安心下さい。今ではもうすっかり元気でもとの通りに快活ですから。
 そして、私、率直に申し上げてしまえば、あなたのお話しになった恐ろしい不思議な事件はきっとただあなたの心の中でだけ起ったので、実際にあったこととはあまり関係がないのだ、そう思っております。そのコッペリウス老人はまったく嫌《いや》らしい人だったのでしょう。けれど、その人が子供を憎んでいたために、子供のあなたに心からの嫌悪を感じさせたというだけだったのではありませんでしょうか。そして、あなたのお父さんと一緒に夜更けてなさるお仕事というのは、ただ二人で錬金術の実験をゃっていらっしゃったのでは。もちろんお母さんはそんなことで無駄なお金を使うことを満足にお思いになるはずはありません。お父さんがお亡くなりになったのは、御自分の不注意からだったので、コッペリウスはたぶん罪はないのです。
 あなたはあなたのクララにお怒りになるかもしれませんね。「こんなに冷たい人間には、我々をしばしば見えざる腕で抱くあの神秘の光は啓示されない。彼等はこの世の表面の美しさのみに心を奪われ、金色の果実の内に人を殺す毒の潜んでいるのを知らないのだ。」とおっしゃるのでしょう。
 けれど、私、どうしてもあなたにお願いせずにはおられないのです。どうぞ、弁護士のコッペリウスや、晴雨計売りのコッポラのことなどは忘れて下さい。こんな怪しげな人達があなたに何をしかけることも出来ないのだということを確信していて下さい。彼らの凶悪な力に対するあなたの信仰が、彼らをあなたの大敵に仕立てあげてしまうのです。明るく快活におなりなさい。私はあなたの守り神になって上げます。私はコッポラの拳《こぶし》などを少しも恐れは致しません。彼は弁護士として私のお菓子を台無しにすることも、砂男として私の眼を潰《つぶ》してしまうことも出来はしないのです。
 永久に私の恋人であるナタナエル様。

ナタナエルからロタールへの手紙


 この前の君に宛てた手紙を、もちろんもとはと言えば僕の迂潤《うかつ》から出たことだが、クララに見られたことは大変に困る。彼女は僕にひどく哲学的な手紙を寄越して、コッペリウスもコッポラも要するに僕の精神の中にだけ存在しているので、いわば僕の自我の幽霊だと証明した。実際彼女のように子供らしい眼付をした女がそんなに理智的な議論を吐くのは不思議だ。
 だが、それはどうでもいい。それに例の晴雨計売りのジューゼッペ・コッポラが断然昔の弁護士コッペリウスではあり得ないことが判ったのだ。
 僕は最近伊太利《イタリー》から来た物理学の教授でスパランツアーニという人の講義に出席している。教授はもう数年前からコッポラとは知己で、これにコッポラの言葉の訛りから判断しても、生粋のピエモンテ人に違いない。コッペリウスはどうも猶太系らしいが、とにかく独逸人だった。
 それにもかかわらず僕はまだまったく安心してはいないらしい。君のクララがどんなに僕を陰気な夢想家扱いにしようと、コッペリウスの顔が僕に与えた不快な印象をどうしても忘れることが出来ない。
 スパランツァーニ教授は不思議な爺さんだ。小柄な丸々とした男で、頬骨が突出して、細い鼻をして、唇がまくれ上がつて、-だが、こんな文句を読むより君は伯林の懐中暦の中にあるカリオストロの軸を思い出せばよい。スパランツアーニはあれにそっくりなのだ。この間、僕が彼の家を訪れた時、ふとした拍子にある硝子《ガラス》の屏を透して見た。すると、向うの窓に背丈の高い、さらりとして、立派に衣裳をつけた女が小さな卓の前に坐っていた。彼女は扉に向って坐っていたので、僕は彼女の天使《エンゼル》のように美しい、顔を隈なく観察した。彼女は僕に気づかないらしかった。その上彼女の眼が何だか硬い感じがして、言って見れば視力を持っていないようだった。彼女は眼を開いたまま寝ているというふうなのだ。僕は気味が悪くなって、すぐに隣の講堂へ逃げ込んだ。これは後になって開き知ったことだが、その時の女というのは、スパランツァーニの娘のオリンピアで、なぜだか判らないが厳重に監禁されていて、何人をも傍《わき》へ近づかせないのだ。噂によると彼女は白痴で、その上、――しかし、君に今こんなことを書く必要はない。すべて直接会って話をするに越したことはない。というのは、僕は二週間程したらば君達の所ヘ帰って行くのだ。僕は甘美な天使《エンゼル》のようなクララの姿をふたたび見なければならない。だから今日も彼女には書かないことにする。
 千度の挨拶。

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