おはなしこんにちは

「物語」のあらすじとか構造とかアウトラインなどを考えてみます
 (更新は月一回程度というブログの常識を越えたのろさ)

「杜子春」あとで膝ががくがくする話

2006年05月07日 | 文学

 今回は芥川龍之介の「杜子春」です。
 青空文庫のここで読めます。

●Wikipediaと「杜子春伝」
 Wikipediaのあらすじでは、この物語のキモというか、肝心なところが書かれていません。これからそれについて語ろうと思います。

 また、「杜子春」は「杜子春伝」という元ネタがあり、そこから翻案されたということです。娯楽グロ話が文学作品に昇華したという点では、森鴎外の「山椒大夫」に通じるところがありますね。


●試練話
 こういう、口を利いてはいけないなどという”試練話”は昔話などでよくあります。他に開けてはいけない箱を開けてしまう、見てはいけない部屋を見てしまう、などというものもお決まりのパターンです。禁止は破られる羽目になることが多いのですが、キリスト教信心譚では、最後まで試練を全うする話も存在し、結末は一つと決めつけない方がいいようです。

 しかし、今回語りたいのは、”試練話”のことではありません。


●子どもの頃の感想
 杜子春を初めて読んだのは、子どもの頃の教科書でした。読み終わった私は、とても恐かったのを覚えています。理屈からいえば、ハッピーエンドというか、平穏なラストなのに、何が怖かったのでしょうか。

 それは地獄の責め苦とかそういうものではなく、ラストの仙人の言葉、
「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ。」
 この言葉に私は恐怖を感じたのです。

 つまり、「ある事実を後で知ることにより膝がガクガクする話」と、私は解釈したのです。杜子春自身は怖がってませんが、読んでる私はガクガクしました。


●「杜子春伝」にこのラストはない
 元ネタには、このようなラストはなかったようです。
 以下、ネット上の論文から引用させていだだくと、

http://www.hum.u-tokai.ac.jp/nichibun/computer2004/tosisyun_yuki.htm

「杜子春」論-「人間らしい、正直な暮らし」について-
2003年2月 東海大学文学部日本文学科 水村由紀

そして仙人(『杜子春』では「鉄冠子」という名前)から出された試練は「何があっても決して声を出してはならない」という非常に苦しいものであった。『杜子春伝』でも『杜子春』でも杜子春はよくその試練に耐えるが、最後の最後、『杜子春伝』では女に生まれ変わった杜子春は子供が無残に殺される様を目の当たりにして声をあげてしまい、『杜子春』では痩せ馬に変えられた両親が地獄の鬼に責められる姿を見て「お母さん」と声を出してしまう。これが原因で『杜子春伝』の仙人は「吾子の心、喜・怒・哀・楽・苦・欲皆能く忘れぬ。未だ至らざる所の者は愛のみ(後略)」といって去ってしまい、ひとり残された杜子春は己を恥じる。しかし芥川の『杜子春』では鉄冠子は決まりを破って声を出してしまった杜子春に対し「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまはうと思っていたのだ。」と言い、これから先は「人間らしい、正直な暮らしえおするつもりです。」と言った杜子春に泰山南麓の家を贈っている。
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 つまり、私が問題にしているキモの部分は、元ネタにはないのであり、芥川のオリジナルということになります。
 のちに太宰治は、「竹青」という作品で、そっくりな構造の話を書いたようですが、こちらはあまり恐くはないですね。


●「妖魔の森の家」
 ディクソン・カーの「妖魔の森の家」を読んだとき、これは杜子春と同じ恐怖だと思いました。ミステリなので詳細は書きませんが、これも物語のラストにおいて、「ある事実」に気がついて膝ががくがくする話なのです。


●なぜ恐いんだろう?
 読んだことはありませんが、このような手法は結構存在すると思います。拙作でも一本あります。→「コロボックル」
 魔夜峰央のマンガで使われるところから、ホラー小説に多いと思われます。
 しかし、なぜ恐いんでしょう?

 プルンヴァンの都市伝説本によると、ベッドの下の犬に手をなめさせながら安眠していた女性が、起きてみると「なめるのは犬だけじゃない」というメッセージが残っており、一晩、泥棒の上で寝ていたことに気がつくというホラー話があるそうです。
 してみるとこれは、普遍的で本質的な恐さなのかもしれません。