おはなしこんにちは

「物語」のあらすじとか構造とかアウトラインなどを考えてみます
 (更新は月一回程度というブログの常識を越えたのろさ)

「貝の火」”残酷”について考えてみます(再録)

2008年12月14日 | 文学
※これは、2004/01/03に書いた文章の再録です。


 今回は、「残酷」ということについて考えてみます。
 新年早々縁起でもないですが、とり上げる作品は「貝の火」「少年の日の思い出」「マテオ・ファルコーネ」です。

●「貝の火」について
 宮沢賢治「貝の火」のあらすじはこうです。
 ある日ひばりの命を助けたウサギの子どもは”貝の火”という宝物をもらう。貝の火は権力を生み出し、ウサギの子は無邪気に力をもてあそぶ。しかし貝の火はますます美しく輝いていく(ここがスリリングです)。しかしある日、きつねにだまされた子ウサギは無邪気に悪事の手伝いをしてしまい、ついに貝の火は光を失ってしまう。事の次第を知ったウサギの父親はきつねの悪事を失敗させる。が、貝の火ははじけて子ウサギの目をつぶしてしまう。

●「少年の日の思い出」
 ヘルマン・ヘッセ「少年の日の思い出」です。わたしは「やままゆが」というタイトルだと勘違いしてました。教科書にも載っていたので有名な話です。
 主人公の少年は隣の少年エーミールと昆虫標本を見せあっていた。主人公は自分の標本を相手にこき下ろされ、復讐のためなのか単なる出来心なのか、友だちの見事な”やままゆが”の標本を盗んでしまう。しかし後悔して返そうと思ったとき、蛾の標本はバラバラにこわれていた。そのまま返したが、良心の呵責に耐え切れず母親に打ち明ける(このあたり私の記憶はあいまいです)。母親は謝ってくるように命じる。少年はエーミールに告白し謝るが決して許されない。

●「マテオ・ファルコーネ」
 メリメの小説です。これはタイトルも作者も忘れていたので、苦労して検索しました。やはり教科書で読んだような気がします。
 マテオ・ファルコーネはコルシカに生きる男の名前である。その幼い息子が警察に追われる男(反体制活動家?)と出会う。子どもは怪我をしているその男をいったんはかくまうが、追ってきた警官は、子どもに対し懐中時計を餌にして、男のありかを探り出し逮捕する。そのことを知った、父親マテオは、息子を射殺する。

●「残酷」はエンタテイメントである。
 これらの話に共通するものはなんでしょう? それは、「残酷」な話であるということです。これらに共通した話の物語構造は、

 誰でもやるような小さな罪で、大きな大きな罰を受ける(肉体的OR精神的)。

 ということです。そして、

 釈明できない。取り返しがつかない。
 釈明しても許されない。悪化する。
 誰も判ってくれない

 となります。これらが残酷の要素として考えられますが、もとより不幸には無数のバリエーションがあり、不幸の一形態である残酷もまたさまざまです。

 不条理な不幸、無実の罪とか……もあれば、
 改心した直後に報いを受ける……なんてパターン、
 誰でも先の見えるような愚かな行動をする、飛んで火にいる夏の虫……これも残酷。

 とまあ、いろいろあるわけですが、先にあげた物語構造が強力なインパクトを持っていることも事実で、三つの実例が長年にわたり、多くの人々に愛されて(?)いるのがその証拠です。ひょっとして私が知らないだけで「貝の火」も教科書に載ってたりするのでしょうか? だとしたら、国語の教科書はかなりの残酷好きだと言えます。

 さて、残酷はエンタテイメントだと書きました。反発を買いそうな言い方ですが、例えば、人間とは感動しようとして映画館で金を払って泣きに行く生き物です。感動とは心が動くことですから、「残酷」もまた、感動する話なのです。それは読者を傷つけるでしょうが、人間は自ら進んで傷つきたいと思うものではないでしょうか。それならば、やはりエンタテイメントと呼んでもいいでしょう。