放射能から子どもを守ろう!いずのくに

福島第一原発の事故から1年が過ぎました。子どもたちの安全のために学び、できることから行動していける場にしたいと思います!

原爆よる奇形児を取り上げた助産婦の証言

2013-07-16 11:06:43 | 沼津地区
 ネット上で、脱原発派の人たちは福島で奇形が出てる、と騒ぎ、恐怖を煽っているというような意見を目にしました。
 私は放射能が怖いです。 今後、どんな影響が出てくるのか怖い。たくさんの人がこの先も健康で過ごせるのかを考えると怖い。 皆、怖くはないのでしょうか?
原爆が投下された後の広島での、助産婦さんの証言を見つけました。
読んでみて下さいね。
 
 
 
 
 
 
原爆よる奇形児を取り上げた助産婦の証言
 
助産婦としての被爆後 岡村ヒサ (1990年 86歳)
 
 私は昭和20年当時、尾長町で産院を開業していました。41歳でした。その頃はまだ家庭分娩が多うございましたが、だんだん少なくなりまして、昭和30年頃には、皆産院に吸収されました。
 何も記録は持っていませんが、奇形がたくさん出ました。当時はABCCへ、みな報告しなくてはいけないシステムになっていました。奇形が出ましても、報告するのを嫌う人もございましたので、しなかったこともあります。
 
 一番多かったのは兎唇でございました。それも口蓋裂もあって、泣くと喉の奥まで見えるんです。お乳も飲めないような...それから肢指過剰ですね。多指です。それから鎖肛(正常な位置に肛門がなく、直腸が盲端になっており、5千人に1人の確率で発病する)肛門のないのも多うございました。兎唇や多指は数が多うございました。分娩で頭の先がでましたら、今度も兎唇じゃないかしらと思ったら、やはりそうで、そのたんびに憂いたことを覚えています。あーどうしてこんなに兎唇が生まれるんかしらと思いました。
 
 すぐ近所でございましたが、二軒に同じように耳のない子が生まれました。その1人の赤ちゃんのおばあさんは、産婦人科の看護部長をしておられました。奇形が生まれたということで、すぐに病院に電話をされたれしいですが、先生が来られたあくる朝、赤ちゃんは逝きましたからね。もう一軒は可愛い女の子でございましたが、おばあちゃんは「火葬場に持って行くまでは、泣きだしはしませんから。」と言っておられました。これは薬を使ったんだなと私は思いました。もちろん、家族は何も言いませんし、私も聞きもしませんでした。元気な子でしたがね。そのおばあちゃんは生涯悩まれたそうです。可愛い子だったですからね。髪の毛でね、こうやって耳を隠していれば判りはしませんのにね。耳がないんです。ツルッとしておりました、片方だけ。
 
 それから、内蔵露出で、グルグルと腸が出ておりまして、思い出してもひどいヘルニアだったんですね。大学病院で手術をしてもらい、それはどうにか助かりました。
 まだそれから、鎖肛、これはたくさんありました。それから無脳症ですね。終戦直後ではないから、2~3年後だと思います。母親は30代でした。どうしても頭の位置がわかりませんのよ。上の方にあるのは確かに臀部だがと思いましても、頭部に触れませんのよ。おかしいなと、みよりましたら、無脳症でございました。氷を氷袋の中にいれて下げたらザラザラしますように、頭蓋骨がぜんぜん固まっていない子でした。だからそんな子が生まれたら、極秘にしてもらいたくてね。こんな事は当時はとても言われませんでした。
 
広島医療生協原爆被害者の会発行「被爆体験記・ピカに灼かれて」13集より引用
 
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