もう一度はじめから

JW2世の妻による、JWに関する疑問などのメモ。聖書や教理に関する解釈は、誤解の可能性があるので、鵜呑みにしないでね。

現状

2009-03-15 13:28:44 | Weblog
一身上の都合で、メールチェックやコメント管理ができない状況になっております。更新もままならず、すみません。特にゲハジさんには、せっかくコメントいただいていたのに公開が遅れて申し訳ありませんでした。
まだ一ヶ月くらいはこの状況が続くと思います。
ついでに。
そう言えばさっき、ネットのニュース(共同)で、輸血拒否した親の親権を裁判所が停止して一歳児に輸血を可能にしたというのを見ました。
私は基本的に思想信教の自由に行政が介入すべきではないと思いますが、一歳児のように本人の思想信教と言えない段階で、その生命の保全停止に関する判断を、いかに親と言えど、他者がすることには、やはり疑問があります。
逆の介入(例えば障害のある胎児や乳児の生命を停止させる方向の介入)には、反対なわけですが。
すなわち、この場合、私は、生命の保全という本人にとっての基本的人権をまず尊重するという大原則を第一義としているわけです。

そうなんだよなー、うーん、ホントはちゃんと記事書きたいんですが、だから生命の保全を否定することになりかねない、というかなっている輸血拒否の教義は、やっぱりJWという組織の聖書解釈の真偽に関する大きな問題だと思うし、モラルや他者や自己を尊重し、謙虚さを身に付けるという、人間に幸福をもたらすはずの宗教の意
義と相反するのではないかと思うんですよ。

端的に言えば、教義を守るために死という手段を提示する宗教に、私は非常に強い違和感を感じるということです。
そりゃ、言葉は便利なモノなので、ある程度、説得力のある理屈は、賛否双方について、いくらでも成立すると思いますよ。でも、復活があるにせよ、一旦生を受け、そして人が自分のみならず他人についても重要と見なしている生命を捨てることで忠誠を示す必要があるという発想、教義に感じる「なんとなく、ひっかかる」感じは
、無視してはいけないと思うわけです。

極論ですが、命より大事なモノがあるという考えを組織でするってとこが、イマイチ、信用できないってこと。

って、ここらへん、ちゃんと書きたいのに!
なんか、ついでが、長くなりましたが、ここまで。

ピニャータ

2009-03-03 13:23:32 | Weblog
モラルの話を書くつもりでいたんですが、イマイチ、まとまらないので、先に細かい疑問を。
他のJW系ブログで、2003年9月22日のめざの22pにピニャータという南米の宗教由来の習慣について、肯定的な記述があったことを知って、中身を読んでみた。
で、まあ、書いてあったことを私なりにまとめると、「由来が宗教的なものであっても、現在、特定の日や特定の場所を選んで用いられているものではなく、現代では、宗教的な意味合いは失われているとみなされるので、取り立てて忌避する必要はない」というような趣旨だと感じた。
ブログ主さんは、それならクリスマスもOKなんじゃ、と書いていらっしゃったけれど、現役夫の言葉に常に触れている私からJW的に厳しく見ると、クリスマスは宗教的意味は失っているものの、特定の日だけを扱っているので、ピニャータの例を敷衍するのは、人によっては、ちょっと難しいと感じるかもしれない、と思った。ただ、
これは私の立場からJW寄りで考えてみようと思ったからであって、ブログ主さんの見方、解釈の仕方も十分ありだと思う。
で、一方で、私が思ったのは、むしろ、「乾杯」。
ピニャータがありなら、乾杯もありなんじゃないかと。
乾杯はすでに、特定の日、特定の場を限定していない。会食全般につきものになっていると言っても過言ではないだろう。主に慶事だが、弔事でも「献杯」という言葉もある。
由来は必ずしも宗教的なものだけではなく、諸説あり、このあたり、JWでは正装としてみんな身につけている、ネクタイの起源(飾り説のほかに、魔除け説もあり)などとも似ている。
ピニャータと、何が違うか、というよりむしろ、ピニャータよりも宗教的意味を失っていると思う。ゲハジさんから、禁忌としての重要性は十分教えていただいたので、そうは言っても難しいんだろうなあと思うのですが、疑問としては、やっぱり感じてしまいました。
どうなんでしょうね。