子供もお米も元気に育て!

  田んぼから愛を米て~子育て多忙中 農家のお母さんブログ~

大潟村と父 NO.7

2006年02月21日 00時22分45秒 | 大潟村とさとうこまちの縁
私は、純粋な潟っ子です。42年に入植した父と母のおかげで43年ここに誕生しました。母は、今 住んでいるこの家の中で私を出産しました。土曜日、小学1年の姉と4歳の姉が学校と託児所に行っている間に産まれたんだそうです。お昼 帰って来てびっくりしたとか・・・。私は、自宅で産まれたため、大潟村入植者の子第一号と言われ、小さい頃、何の会だったのか沢山の人前で県知事さんに花束を渡した記憶が残っています。沢山の人前で緊張しているのに、司会の方からマイクを向けられ、『小畑知事さんは好きですか?』と聞かれた私は小畑知事というのが何者なのかわからず、モジモジしていまった自分も記憶に残っている恥ずかしい思い出です。
私は三女でありながら、この大潟村で農業を継ぐと決心した時、いろんな人に『お前は、この大潟村に残るべくして産まれてきたんだ。』と言われました。みんな勝手なこと言うよなーと 若い頃は思っていたけれど、歳とともにちょっとだけそんな気になってきている私です。皇室じゃないけど、昔は農家も男だ女だといろいろあったんですよね。母も苦労したと思います

大潟村と父 NO.5

2006年02月15日 00時16分38秒 | 大潟村とさとうこまちの縁
仲間58人が支えあって生活した1年間。絆はとても強いものです。40年経った今でも、一次入植者の絆は変わりません。一緒に笑ったり泣いたり歌ったり、同じ気持ちを分かち合った1年間だったのだと思います。
30周年記念誌の父の作文より
ある晩のこと、食堂で夕食時に酒があった。少し多く呑んだこともあってか、年配のAさん(参考・・入植者の年齢は20~45歳)が言う。『郷里の田畑は全部手放して大潟村に来た。訓練農場の土壌条件を見ると、入植したのが早かったように思う。家族を呼んで安定した収量を見るまではかなりの年月を要する。大潟村の農業を選んだのは早すぎた。引き返すこともできないし・・・』と、テーブルの上に大粒の涙が流れた。子供の泣きとは違う。40歳を過ぎた大人が命をかけて選んだ道が間違ったとなれば一生の不覚。食堂のみんなが一瞬静まり返るのも当然。
また、同じ記念誌に仲間がこんな事を書いています。

どこの開拓者も大変だったようですが、八郎潟干拓地の入植者もご多聞に漏れず苦難の道でした。一次入植者がみんな同じ条件であり、お互い励まし合い助け合ったのでなんとか切り抜け、今の状態にあるのではないかと思っております。大潟村の営農をやめようかと思ったことも一度や二度ではなかったように思いますが、先祖の田んぼや家を売り払って入植や生活資金に充て、帰るところも、他に生活資金を得る技術もなく、また思い直して圃場に向かったことを思い出します。
入植をする時は、持っている土地は全部処分する条件があったと聞いたことがあります。戻るところがあると、耐えられないということだったのでしょうか・・・・・。
私たちの結婚式にも、父の葬式にも、この58人みんなが出席して下さいました。

大潟村と父 NO.4

2006年02月13日 00時08分33秒 | 大潟村とさとうこまちの縁
大潟村の田んぼは、大部分がヘドロです。今では、随分土壌改良されてきていますが、かつては大変だったようです。機械が田んぼに埋まることをカメとよんでいます。これは大潟村共通語です。機械が田んぼの中で動けなくなっている状態が泥の中で手足をばたばたさせて前に進めないカメににているからだそうです。土壌改良されてきているとはいえ、いまだに田植えの時には、『今年、うちの田んぼにカメ2匹いた』など、友達同士で機械を埋まらせてしまった回数を話したりします。
大潟村が出来たばかりの訓練所時代を語る父の作文です。



田んぼはヘドロの土壌が多く、深いところで30メートルから50メートルもあるという。大潟村ではトラクターやコンバインがヘドロに沈車した状態をカメという。土地は掘れば掘るほど柔らかいヘドロとなり、夜通しでカメ引き上げに頑張ったこともある。(朝まで待っていると、水は溜まるし機械は一層沈む)ある営農グループでは、大型コンバインをブルドーザーで引っ張っていたら二つに切れたという話も聞いている。


私は、大潟村の田んぼの下に、何台かトラクターが埋まったままだと聞いたことがあります。写真をみると、こんな状態の土壌に稲をつくれると信じて頑張りぬいた父たち58名は、改めてすごい!と思います。

大潟村と父 NO.3

2006年02月12日 00時04分11秒 | 大潟村とさとうこまちの縁
この大潟村に夢を追い求めて入植した父。また、そんな父を支えてきた母。ある記念誌に寄せた母の作文をみつけた。

ある日突然、夫は八郎潟に入植したいという。親類、家族、友人、誰一人として賛成してくれるものはいない。私も、八郎潟は何千年何万年もの昔から潟に流れ込んだヘドロという柔らかい土地で稲が作れるとは思えない。不安がいっぱい。実家に遊びに行っても、こんな話しはできそうにない。しかし、夫の意思は堅いものだった。あれやこれやと私を説得する努力はあったが、半分は自分の都合のよい嘘の話としか聞こえない。だが、ついてくるしかなかった。
そして、入植が決まって一年間の訓練所入り。八郎潟干拓農業に関するニュース、テレビ、新聞で不安と夢と重なることばかりが飛び込んでくる。
 一年間の訓練所生活も終わり、いよいよ新居、三角屋根の家に引っ越した。農家産まれの農家育ち。広い大きな茅葺の家で育ったので、これは文化住宅のまねごとかと思った。
 営農グループの付き合い、隣近所の付き合い、全国から集まっているため言葉の違いもある。子供は3人で長女は小学校1年生、学校が建設途中だったので、隣町の小学校に委託入学、次女、三女は、役場一階に間借の託児所。二階の役場事務室も子供が泣くやら騒ぐやらで苦労したと聞いている。子供に友達は誰かと聞くと『○○ちゃんと村長さん』という。
私は、夫の母に子守をしていただいたからだいぶ助かった。他のお母さんの話では、食事の準備中、子供をテーブルの足に帯でつないで準備をした。子犬をつなぐようなことは、田んぼや畑に日陰をつくりよくおこなったことで珍しくないが、現代では大変な子供の虐待でしょう。
田んぼの仕事も一人前、食事の準備も一人前、一日二人分の仕事が女性の仕事。その他に育児もある。入植時の説得の話しとは随分違う・・・と言うと、夫は複雑な顔で何も言わない。
冬になると防風林も植林して間がないので、砂交じりの吹雪。子供たちは、数メートルしか離れていないのに隣の家が消えたと騒ぐ。
時に、郷里に戻った時など、親戚や友人に『大潟村はどうですか?』とよく近況を尋ねられる。弱音の話しなどできない。反対を押して選んだ自分たちの仕事だからである。
あの頃を思うと目頭が熱くもなるが、今、私たちが果たせなかった親の役割を、時の流れの早いことを思いながら、孫の子守をしている昨今である。

大潟村と父 NO.2

2006年02月10日 23時58分57秒 | 大潟村とさとうこまちの縁
大潟村入植に受験した父は、当時 地方公務員でした。そんな父が、なぜ大規模農家を夢みたのか、昔、こんな話をきいたことがあります。

 家は小さな農家で、自分は毎朝 ネクタイをして勤めにでかけるが、妻は、父母と泥のついた作業服を着て農作業をしていた。妻に対して、それがとても申し訳ないことのように感じていた。ある日、勤め先で大潟村入植の募集要項を手にし、同じ格好をして働くには大規模農業しかないと思った。

でも、そんな事を言う父には、実はもう一つ大潟村に夢を持っていたのです。父はスキーが大好きでした。大規模農家であれば出来ること、それは冬休み。きっと冬は思う存分スキーができると思ったんでしょう。
試験では作文があり、作文の中に『夏休みと冬休みのある農業をめざしたい』と書いてしまって試験に落ちたと思った。と、笑い話をしていたことを思い出します。

第一次入植者58人のうち、秋田県内出身者は28人。次に多いのが三重県の5人。北海道の4人。一番遠くて鹿児島から2人。北海道から九州までの1道18県からの入植者が決まり、その中の農業以外の仕事に従事していた人は5人。国家公務員だったという人が一人いました。58人それぞれが、いろんなドラマをつくってこられたのでしょうね。

この写真は、この58名の訓練所入所式です。


寒天ごはん

2006年02月10日 13時03分13秒 | 美味しい話題
TVで寒天が注目を集めてから、寒天を食べ続けている方はどのくらいいらっしゃるのでしょうか?
流行はじめはみんな頑張ってデザートにしたり、お茶に入れて飲んだり・・・
でも食べ続けるには面倒くさい食べ方だと続かないのも事実。もう挫折している人も多いのでは?

ここでおすすめなのが、寒天ごはん
お米を炊くときに粉寒天を入れて炊くだけなので、簡単で毎日続けられます。しかも、寒天を混ぜたごはんはもちもちして見た目もツヤツヤ~~~新米のようです。寒天と一緒に炊き込んだお米は、水分が抜けないので冷めてもパサパサにならずおいしく食べられます。寒天の持つ食物繊維に特性が水分を吸収して乾燥しないからですね。
それに寒天ごはんを雑炊にすると程よいとろみがついてサイコーです。

※ お米3合に対し、粉寒天は2グラムです(水の量は通常の量)
(2006.2.10)


大潟村と父

2006年02月09日 23時51分38秒 | 大潟村とさとうこまちの縁
琵琶湖に次ぐ日本第二の湖 八郎湖を干拓してできたのがここ大潟村。
八郎湖は、周囲82キロメートル、面積22000ヘクタールの半かん湖で、水深は4メートルから5メートルと浅い平坦な湖底でした。この八郎湖の5分の4を干陸し農地を造成する八郎潟干拓工事が、昭和32年から着工、12年の年月と850億円の巨費を投じて干拓地大潟村が誕生しました。
従って、大潟村は52キロメートルの堤防の中にあり、湖面より5メートル低い村ということになります。
また、大潟村の面積は約16000ヘクタールということは、単純に計算して東京ドーム約10000個分になります。
昭和41年8月、この大きな村に夢を求め受験したのが600人。その中で合格し、第一次入植者として大潟村での訓練を受けたのが56人。昭和41年11月から1年間、家族と離れた訓練生活がこの村の始まりでした。そして私の父が、その中の一人でした。計算してみると、その頃、父は31歳。


昭和41年11月10日、運あって八郎潟入植訓練所に入ることが出来た。一生の一大決心である。古い話しだが、農家の長男は生まれた土地で家業を継ぐのがこの上ない幸せであり、定石と思うのが当然の時代である。先祖伝来の田畑を処分し未知の干拓地に入植となると、家族・親戚・友人の誰一人として賛同を得られない不幸な行為であり、本家のおじいさんは『気が狂ったのではないか』と言う
第一次入植30周年記念誌の父の作文はこんな始まりです。31歳で一大決心をし、2代目の私たちに引き継ぐまでの記録を、父が残した資料を基に、今度は私が残していきたいと思っています。
この写真は、家族と別れ、秋田県鳥海山の麓から大潟村へ1年間の入植訓練を受けに向かう父の姿です。