揺れる視界、一本橋のブロック塀をバランスもあやふやにそれでも出来るだけ慎重に足を進めて行く。
ミニスカートにハイソックス、ローファーという出で立ちは心もとない気もしたが、一度帰って着替えでもするなら日も暮れてしまうからまた日を改めなければならないということになる。
少しでも早く、今日でなきゃ駄目だという直感だけで完全には拭いきれない不安を抑えながら進む。
足元は少しずつ深い草叢に覆われていく。昨日の夜中に降った雨で濡れた草に足を取られる。
多分世の中には感じる人間とそうでない人間がいるのではないかという気がする。
そしてそれはすべての人間がすべてに於いてそうだというわけではなく、そこだけに特別に感じるということだ。
それはアンテナという言葉よりも触角という言葉が合うように思う。
ふと行き先付近に生き物の気配を感じる。
足を止めそこら辺りを凝視する。
すでに夜風が混じり始めた緩やかな風が吹いているとしてもそこだけ草がざわめいていて何か温度が違うことがわかる。
草を揺らし、唐突に顔を現したのは一匹の黒猫。
あぁ、なんだ、と体半分で安堵のため息をつく。
猫は少し離れた場所からじっとこちらを擬視している。
深い緑のビー玉のような縁取りに漆黒の真ん丸い目をしている。
うわぁ...綺麗...そう感じた瞬間殆んど反射的に体が動く。
一本橋から落ちないように右手はフェンスに絡ませゆっくり屈んで左手を伸ばして呼んでみる。
「ねこちゃん」
反応はない。
黒猫はそこに立ち止まりこちらを身動ぎもせず凝視している。
なんて綺麗な目だろう。
「おいで、おいでねこちゃん」
出来るだけ優しい声で口元だけの笑顔を作ってもう一度言ってみる。
一瞬の間を置いて、
え...?
猫がため息をついた?
呆気に取られていると猫は草叢の中で鮮やかに身を翻し(その瞬間体の全像が一瞬見えそれはかなり大きな猫であることがわかる)
そして草叢の中をサワサワと遠退いて行くのがわかった。
「なによ...猫は好きだし動物には好かれるタチなんだけどな」
不安とさっきのビビりに硬直した体と頭を解放するようにわざと声に出して言ってみる。
まぁいいやとゆっくり体制を元に戻す。
キーンコーンカーンコーン。
学校のチャイムが耳に入る。
その音でハッと我に帰る。
気付けば空は夜の色に近く、薄い紫色で遠く離れた住宅街の黒い影の上には白くて人差し指でそっと押すだけでパキンと折れてしまいそうな細い月が出ている。
急がなくちゃ。
草叢に足を取られながら進む。
やがてその全貌が徐々に姿を現す。
近付けば近付くほど、見た目はなんてことのない、例えば小学校の校庭の外れに鎮座する屋外プールの機械操作室だとか、田舎町の外れにありそうな使われているんだかとっくの昔に役目を終えていて放置されているんだかわからなく、また誰の目にも取り立てて留まらないような変電所、的な?変哲もないコンクリートで塗り固められた灰色の小屋だ。
だけど一歩ずつ近付く度に確実に感じるこの気配は、そこに生命の存在を証明する明らかな温度の違いだ。
ただ、それがどんなものであるのかが厚い灰色の壁に完全に遮断されているからなのかどうしてもわからない。
ーーー夢の中であたしは真っ暗な空間に一人でいた。
浮いているのかどこかに立っているのかもわからない、ただ360度の真っ黒な空間だ。
怖い夢なのかなにか楽しい夢なのかもわからない。
ただそこでなにかの叫び声を聞いた。
ケモノ?
人間?
判別はつかなかったがとにかくその声のする方向へ走り出そうとした。
その時に足元でパキン、と小さな何かが壊れる音がして目が覚めるとそこは自分の部屋でいつものベッドで、夢なんだと気付いた。
そしてそれがただの夢で終らせていいものではないということを同時に直感する。
胸がチリチリと身体の中にしか響かないほど微かに小さく、だけどそこ一点だけが真っ赤な石炭の粒でも置かれたみたいに焼けるように熱く、痛かった。
それがあたしのみた夢の話だ。ーーー
小屋に着く。
小屋の周りはさらに背の高い雑草で覆われている。
壁に手が届くまで腕の長さ×2が必要な距離にいて自分の背の丈程もある雑草に阻まれこれまでかと思いながら、その距離を保ち小屋の周りを一周してみる。
ちょうど太陽からは影になる、住宅街や学校の方向を表とするならば、真後ろの方向に小さな子供なら身を縮めず出入りできるんじゃないかというくらいの大きさのドアを発見する。
草に覆われて、屋根からの長年と思しき赤サビの流れに染まって最低でもこれくらいの至近距離でないとそれがドアだとはわからないだろうっていうくらい馴染んでしまっている。
念のため更にもう一周してみるも、出入り口と思しきものはどうやらそれしかないようだ。
しばしドアを前に突っ立って考察...
うーん。
農機具なんかをしまっておく小屋としても出入り口は人が通る訳だからどう考えても不自然なのである。
というか考えれば考えるほどそれは不自然なのである。
物置にしても、自転車置き場にしても...
それに足元は見えないのだから横幅のサイズから推測するならばドアは地面から浮いていることになる。
今更になってまた別の恐怖心が襲ってくる。
なんでナンデなんで?
と言っていても日は暮れる一方だ、えぇい!と勢いと瞬発力だけを武器に一気に草を掻き分けついにドアに触れた。冷たい。
草に指を何カ所か切られた。
ドアはやはり地面から浮いていた。
ゾワッ...
そしてその不自然に小さなドアは何重にも錆びた鎖で封鎖され大きないかにも硬そうな南京錠がひとつ、かけられていた。
もはやここまでか?
一刻と迫る日暮れに心細さや恐怖もあってや、やめちゃおっかなぁ、なんて思ってみたりして、えーえー、あたしはスーパーマンでもなけりゃあ超能力者でもない、ちょっと感覚が、あるもの限定で働くというか、そんなのスイーツ好きの女子がおいしいスイーツのお店を知ってるようなことと大差ないようなことで...
コンコン、とまずは遠慮がちに人差し指でドアを鳴らしてみる。
反応無し。
ゴンゴン、今度はコブシでいってみる。
反応無し。
うーん。
アルジは留守ってかー
ハル。
え?
ハル。
頭に音が響く。
ハル?
ハルなの?
あなたはハルなの?
気が付くとあたしは真っ黒闇の中でドアを力の限り叩きながらハル、ハル!と叫んでいた。
微かな鼓動が伝わる。
明らかにそこだけ温度が違う。
「ハル、ハル、あたしだよ、あたしなの!出てきてよハル!」
叫びながらドアを叩き続けいつの間にかあたしは泣いていた。
ハルなんて友達はあたしにはいない。
ただ頭に響いた声はとても親密なもので、それがあたしには一番近くにあるものだということだけがはっきりとわかったのだ。
...かれたんだ...
何?聞こえないよ、お願い、応えて!
中から微かに伝わる鼓動というべきか呼吸というべきか、とにかく生命そのものが、堕ちていくように、少しずつゆっくりだけど確実に遠退いて行くのがわかる。
ハル...
あたしはその場にへたり込む。
泣き崩れて。
ここまで辿り着いたのに、これ以上何も出来ないというの?
ハルが何なのか、人間なのか、生命に似た何かを持つ他の存在なのかもわからない。
それでも微かに堕ちていく鼓動に耳を研ぎ澄ませながら泣き声のまま呼び続けてみる。
その時突然パッと大きな光があたしを照らす。
たまたま通りかかった車のライトだった。
草叢に埋もれてるあたしになんか気付くはずもなく車はただ通り過ぎて行った。
そして意識をドアの内部に注いでみたけれどそれきり中から伝わる鼓動はパタリと消えてしまった。
あたしは成す術もなく、ただ泣きながら家路に着いた。
悲しいのかなんなのか、この涙の意味はわからないけれど、どうしてか涙はいつまでも止まらなかった。
ただ溢れた。
今まで生きてきた中でそれは初めての感覚だった。
どこをどう歩いたのかもわからず、家に着いて重い玄関をガチャリと開けると妹の弥生(みう)が玄関まですっ飛んで来た。
「ちょっとおねーちゃん夕食当番サボってこんな時間まで何して...」
あたしを見る弥生の目が爪先から頭のてっぺんまで注がれ、弥生は言葉を失った。
汚れた制服にコートに髪もぐちゃぐちゃ、頬や手には無数の切り傷が生々しくズキズキとしていた。
「おねーちゃん...?」
うちに両親はいない。
ベッドタウンと言えど都心に近いそこそこ立派なマンションは母親が遺したもので、あたしと弥生はもう3年二人でそこに暮らしている。
父はあたしが小学生の時に病死しているし、女手ひとつで娘二人を育てて海外出張も多くほとんど家に居なかった母は去年出張先のロンドンで倒れ、過労死ということでそれは会社も認めざるを得ずその保険金やら遺族年金で今までの生活はなんとか成り立ってきた。
「おねーちゃん...何があったの?」
「うーん。てかケンカ?」
とっさに笑ってみせる。
「イッコ上の女でさ、前からあたしが気に食わないだとか、陰険な女がいるって言ってたじゃん。花村のことがずっと好き過ぎてあたしと花村の仲を疑ってる、そいつに絡まれて、メンドーくせーから成敗!」
弥生の顔が少し緩む。
「あたしの方が勿論優勢だったんだけどね、突き飛ばされた時に植え込みに倒れちゃって、これ」
「もー...」
弥生はそれを信じたか安心したように「おねーちゃんのヤンチャには慣れてますけどお年頃の女子なんだからもうちょっと考えてよねー。夕食は弥生特製きのこカレー。貸しひとつ!」
と言ってキッチンへ戻って行った。
とりあえず弥生には真実を悟られる様相はなく済んだ。ホッ。
帰り道はひとしきり泣いたので急にお腹が空いてきた。
キッチンへ小走りで行きカレーを温め直している弥生に後ろから抱きつく。
カレーのくつくつ煮える音と暖かい匂い、弥生が待っていてくれたこの家、思い切り愛しいと思った。
「弥生、ありがと」
「うわ、気色ワル!てかおねーちゃん、服汚い。お風呂入ってからじゃないとご飯食べさせないよ!」
はいはーい、と自室へ向かう。
背中越しに弥生が続ける。
「おねーちゃんに何かあったら弥生だって困るんだからね。笑いごとじゃ済まされない事もあるでしょ」
幼い時に次々と両親を亡くしているせいか、時々この子は世の中の母親が言いそうな(ドラマとかの受け売りだけど)ことをサラリと言う。
うん。と心の中で頷きながら自室へ入り背中でパタリとドアを閉める。
平和な日常に戻ってこれた気はするけど、あたしの中を占拠しているのはハル、と言った存在の事だった。
人間なのか、人間なら男なのか女なのか、それともあんな窓もない密室に閉じ込められているッてことは人工知能付きのアンドロイド?
フランケンシュタインみたいに失敗作で秘密結社とかに監禁されてて研究材料にされているとか?
今日一日のことがもしかして夢だったんじゃないかと思うくらい、いつもの自分の部屋は平凡な「日常」にあふれていた。
ベッドに倒れ込み、そんなことを考えているうちにあたしはうつらうつらしていつの間にか眠ってしまった。
遠くから弥生の声が聞こえる。
お風呂とかご飯とか多分言っているのだろうけど、弥生...さすがに今日は無理みたい。
デスクの上の写真立てのお母さんは笑っている。
春に向けて新しいプロジェクトが立ち上がりそれのチーフを任されていた母親は弥生の入学式には出られないと、真夏に母親が日本に帰ってきた時に代わりに、と3人で写真館を訪れ撮った物だ。
悲しいことにバックには母親の注文なのか、写真館の人が気をきかせたのか、桜の模様のスクリーン。
夢うつつに真夏の炎天下の下を3人で日陰ひとつない真っ白な坂道をのぼり、拭いても拭いても吹きだしてくる汗を拭いながら写真館を訪れた日の事をなんとなくあたしは思い出していた。
(続く)