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御朱印と参拝のあしあと

参拝した神社・寺院でいただいた御朱印をここに足跡として残しておきます。

【新潟県南魚沼市】天昌寺

2024-07-24 14:10:03 | 越後三十三観音霊場
御縁起:越後三十三観音霊場 公式ホームページより引用
 養老6年(722)天下に悪病流行す。藤原房丸公(鎌足の曾孫)観音菩薩を祈念し、一子を得た前の因縁により、尊像を彫して加護を受けんとて、越の聖者泰澄大師に懇願した。
 長和元年(1012)密教行者恵心僧都、諸州の霊仏巡拝の時、当地魚野川西に紫雲天頂を覆える飯盛の山あり。怪みて窺うに大樹の下に朽たる大古仏一躯在り。礼せば泰澄大師作の正観音の像なり。依って自ら脇侍多聞・持国二天及び薬師像を彫し侍神とした。
 延徳元年(1489)雪洞庵七世禅実和尚を請し開山とし曹洞宗となり、天正元年今の寺号となった。

  

天昌寺(てんしょうじ)
(越後三十三観音霊場 第十二番)
新潟県南魚沼市思川39

【新潟県三条市】宝塔院

2024-06-17 15:07:51 | 越後三十三観音霊場
御縁起:越後三十三観音霊場 公式ホームページより引用
 貞観元年(859)性鑁法師により開創された。
 城主、三条定明公の祈願所として栄え、奥方千坂姫の菩提寺である。
 定明公はここに守護持仏を奉安し、公没後その霊と一子の菩提の為、姫は観世音を念じ生涯をここでおわられた。
 千坂姫の戒名は宝塔院殿普門妙泉大禅尼である。本堂左側、千坂姫宝篋印塔、一子を祀つる千坂地蔵尊、三条地震亡霊塔(市文化財)は本尊と共に参拝者はあとを絶たない。
 8月10日は三条3大まつりの1つで子安観音祭は多くの市民が参詣する。

  

宝塔院(ほうとういん)
(越後三十三観音霊場 第三十二番)
新潟県三条市東裏館1-6-5

【新潟県三条市】最明寺

2024-06-10 08:38:12 | 越後三十三観音霊場
御縁起:越後三十三観音霊場 公式ホームページより引用
 天平年間の開基で法相宗の深じん諦たい法師が行基菩薩御作の千手観世音を安置して開創した寺である。七百年前の康元年中、北条時頼諸国行脚の砌、当寺に立ち寄った因縁に依り、寺号を許され千手院を最明寺と改め、真言宗に改宗した。
正保2年に寺が全焼し、古い記録が焼失したのは残念であるが千手観音像(御丈三尺七寸)は難を免れて現在に至っている。
 仁王門は明治3年建造、本堂と観音堂は明治27年の火災後建立されたものである。
 延宝4年に京都智積院の末寺となり、真言宗智山派に属している。

  

最明寺(さいみょうじ)
(越後三十三観音霊場 第三十三番)
新潟県三条市院内193

【新潟県五泉市】正円寺

2024-06-06 15:22:50 | 越後三十三観音霊場
御縁起:越後三十三観音霊場 公式ホームページより引用
 当寺は延暦15年(796)伝教大師が開基とし、応徳元年(1084)天台宗より真言宗に改宗し、善慶上人を開山とする寺である。
 正保元年(1644)堀家が村松へ移封になると、当寺を祈祷所と定め、元禄5年領主堀左京亮直利公が現在の観音堂を寄進された。
 拝殿は明治維新前に大破したので取りこわされた。観音堂はかつての奥の院で内部は、極彩色の花鳥の彫刻で、元禄の面影をのこしている。
 此のお堂も破損甚しく、昭和59年9月土台の改造、屋根の改修を行い面目を一新した。観音堂は、山門を入った参道左手奥の方に位置している。

  

正円寺(しょうえんじ)
(越後三十三観音霊場 第三十一番)
新潟県五泉市村松甲6335

【新潟県村上市】光浄寺

2024-04-22 13:35:26 | 越後三十三観音霊場
御縁起:越後三十三観音霊場 公式ホームページより引用
 弘治2年玄徹禅師が郷清水の水底から光を発して現れた十一面観世音を本尊として安置したのが、寺の始まりという。
 その後、万治元年この観世音を信仰していた村人が西国巡礼に旅立った。ところが道中持病が起きて大変苦しんだ。そこで、一心に観音の御加護を念じていると、1人の老僧が現われて「汝の信心浅からざるによって、その苦しみを救うべし」と持っていた瓶の水を注いだかと思うと、病はすっかり治ってしまった。そして老僧が、自ら杖を作って与え消え失せた。老僧が杖を作るとき、小指を傷つけたが、今も観音の小指に傷跡が残っている。

  

光浄寺(こうじょうじ)
(越後三十三観音霊場 第二十七番)
新潟県村上市有明713