般若心経の最後の部分
羯諦羯諦.....の部分は真言(マントラ)であり、訳す必要性は(少)ないといわれている。
唱えることが意味をもつということだ。
しかし、多くの方が、この部分の訳を試みられている。
今回は、「角川ソフィア文庫」の宮坂宥洪氏著 「真訳 般若心経」から抽出させていただきたい。
著者はサンスクリット語に精通され、その意味を原典から訳されることを試みられている。
最後の部分を除き、般若心経は すべては「空性である」の繰り返しととらえておられるように感じる。そして、これが 般若波羅蜜多の知恵ということだ。
多分私のこの解釈はあまりに大雑把だと思うので、また、後日、読み直してみたい。
さて、今回のテーマ
心経の最後の訳だが、ここの訳は次のパターンがあるそうである。
1.
往けるときに、往けるときに、彼岸に往けるときに、彼岸に完全に往けるときに、さとりあり、スヴァーハー
2.(岩波文庫 中村博士)
往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ
3.(渡邊照宏博士)
至れり、至れり、彼岸に至れり、彼岸に到着せり、悟りに。めでたし。
4.(空海の解釈)
{ 最初の羯諦は声聞の修行の成果、2番目の羯諦は縁覚の修行の成果、3番目の「波羅羯諦」は大乗の修行の成果、「波羅僧羯諦」は真言マンダラの教えの修行の成果、5番目の「菩提娑婆賀」は究極的なさとりに入るという意味を示していると解釈 }
著者はこれを次のように言い換えておられる。
「自分自身の内なる建物の階段を順に昇っていき、昇るごとに見晴らしがよくなっていく成果を一つ一つ自分で味わい、また確かめながら、仏の境地に近づいていくプロセスを称えたマントラということになります。」
最後に.....
5.(著者 宮坂宥洪氏)
母よ、母よ、般若波羅蜜多なる母よ、どうかさとりをもたらしたまえー。
般若心経は「仏母」たる般若波羅蜜多を本尊とする経典であり、これを称えるマントラと解釈する。