ぴよさんから、調査の過程で、市役所の方からアドバイスがあったという報告がありました。いきなり調査票を送るのではなく、ひとこと電話で、「よろしくお願いします」とあったほうが、やる気になるし、それがマナーではないかという、ご指摘です。
調査の事前の段階で、実は話題になっていました。「あわせて電話したほうがいいのではないか」というものです。そのときの結論は、丁寧にメールを書けばいいのではないかというところに落ち着きました。
私自身にも、たくさんの依頼がありますが、そのほとんどはメールです。まれに電話をいただきますが、「4回も5回も電話して、ようやくつかまりました」という体験が何度もあります。また、私自身、お役所の仕組みがよく分かりますが、電話では、組織全体に趣旨が伝わらないと考えたためです。私自身にも、慣れや緊張感が不足していたかもしれません。
何かにぶつかったとき、3つの選択肢があります。①逃げる(無視する)、②つぶす、③向かい合うです。
最近の風潮は、①と②の間を大きく揺れ動きます。マスコミの論調を見るとよく分かりますが、権威には追従し、それが一旦、池に落ちると、みんなで叩くというものだからです。
今回は、どういう展開になるかと、ひそかに気をもんでいましたが、ぴよさんは③を選択しました。その意味を考えて見たいと思います。
私たちは、今、民主制という仕組みのなかで、暮らしています。この民主制とは、実は過去の歴史を見ても、成功例が乏しい政治形態です。元祖のアテネは、あっという間に自壊し、フランス革命では、直後に、市民が市民の虐殺を始めます。ワイマール憲法では、ドイツ人は国民を上げて、ヒトラーの登場に喝采をおくりました。
この制度がうまくいく前提は、私たち市民自身が、①自律性を持っていること、②共同体の事柄を、我がことのように感じられることが必要です。なぜならば、民主制はみんなで決める仕組みなので、自分勝手を言っていては、まとまらないからです(市民自身が、この重みに耐え切れないと、行政を頼り(要求)、強いリーダーを市民自らが求めるようになります。それがヒトラーです)。
大学で、学生が学ぶ意味は、「こうした市民になるには」であり、私たち教員の任務は、「こうした市民として学生を育てる」ことです。大学の実学化で、ついつい忘れられてしまいますが、これが本来、大学で学ぶということの意味です。
図らずも、今回は、共同研究が、この学びの場になりました。ぴよさんは、「相手の貴重なお時間を頂戴するんだ」という気持ちの大切さを報告していますが、「相手のことを我がことのように感じる」ことを本の上ではなく、実体験として学んだということです。
今回、相手の方から、私あてに丁寧なメールをいただきました。そこには、「ぴよさんから心をこめたメールをいただき感動した」と書かれていました。そのぴよさんのメールを私は読んでいませんが、おそらく「相手のことを我がことのように感じる」思いが記述されていたのだと思います。
このぴよさんのメールに対する相手の方のメールは、ぴよさんにとって、「とても暖かいもので、読んでて思わず涙がでてしまった」というものだったということです。
今年の締めくくりに、ふさわしい、とてもいい話だと思います。ぴよさんには、「大学生らしい、いい体験をしましたね」とメールを打ちましたが、それは、以上のような意味からです。
長い記事になりました