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帯とけの百人一首
(五十四)
藤原定家の撰んだ和歌の余情妖艶なさまを、藤原公任の歌論に基づいて紐解きましょう。
百人一首 (五十四)
儀同三司母
忘れじの行く末まではかたければ 今日を限りの命ともがな
忘れないよが、行く末までは続き難いので、今日を限りの我が命であればなあ……見すてはしないが、ゆく末までも続き難いので、京を限りの命であってほしいわ。
「忘れじ…忘れない…捨てない…見すてない」「行く末…将来…逝く末…逝った後」「けふ…今日…京…山の頂上…絶頂」「けふを限りの命ともがな…できれば今日までの我が命であって欲しい…せめて京までのこの君の命持続して欲しい」「もがな…願望の意を表す」。
新古今和歌集 巻十三恋歌三。詞書は「中関白かよひ初め侍りけるころ」。中関白は藤原道隆。
「時代不同歌合」に撰ばれた他の歌も聞きましょう。
夢とのみ思ひなれにし世の中を なに今更におどろかすらむ
夢だとばかり思い慣れてる世の中を、何で今更に、目をさまさせて現に戻すのでしょうか……夢だとばかり思い熟れたる夜の仲よ、何を今更に、めざめさせるのでしょうか。
「なれ…慣れ…熟れ…熟してる」「世の中…男女の仲…夜の中」「おどろかす…目をさまさせる…気付かせる…目覚めさせる」。
詞書「中納言平惟仲、久しくありてせうそこして侍りける返事にかかせたまひける」。平惟仲は枕草子にも登場するが弟の生昌と共に、誰もが知る大真面目な人、そんな人から久しぶりに来た便りの返事に書き添えた歌。拾遺和歌集 巻十八雑賀。
独りぬる人やしるらむ秋の夜を ながしと誰か君に告げつる
独り寝る人の知ることでしょうよ、秋の夜を長いとは、誰か君に長かったと告げましたか……独り濡れるひとのしることでしょうよ、あきの夜を長いとは、誰か共寝の君に長かったわと告げましたか。
「ぬる…寝る…濡る」「しる…知る…汁」「あき…秋…飽き満ちたり」「ながしと…秋の夜が長いと…飽き満ち足りている間が長いと」「誰が君に告げつる…誰が君に長い満ち足りだったと告げたかわたしではない…誰が君に長いと告げたのよわたしは短い間に思えた」。
後拾遺和歌集巻十六雑二。詞書は「中関白、通いはじめ侍りけるころ、夜がれして侍りけるつとめて、こよひは明かしがたくこそなど言いて侍りければよめる(……道隆、かよい初めたころ、夜離れ(夜涸れ)して朝方、今宵は明け難かったなあ、などと言ったので詠んだ歌)」。
上三首は、後鳥羽院撰「時代不同歌合」にある。これは、百人の歌人の各三首を撰び、歌合形式に並べられてある秀歌撰。「清げな姿」から憶測する程度の歌では無い。個性あふれる高内侍の「心の種」が如何なるものかは、「言の葉」から直接「余情妖艶」なところを感じて欲しい。恐れながら後鳥羽院と同じ、歌の「心におかしきところ」が享受できるでしょう。
高内侍(高階貴子、儀同三司の母)。円融院の御時、典侍。道隆の妻。子息の内大臣伊周は叔父の道長と争って敗れ太宰府に流されるが、紆余曲折あって、大赦により復帰、准大臣(儀同三司)と称された。貴子は漢学の才あり和歌も詠んだが、「大鏡」には、男勝りで一風変わったところがあったとある。
中宮定子の御母でもあるけれど、「枕草子」には、母君と清少納言が言葉や歌を交わした話はない。登場している場面も描写せず、見えにくい所におられたなどと避けてある。道隆の絶頂期の積善寺での法会のとき、妻貴子の装束を見た道隆が、「今日は、人々しかめるは(今日は女房女官みたいだなあ…今日は女らしいなあ)」と、皮肉をあびせる場面は描いてある。長徳二年(996)没。歌は、拾遺集に一首、後拾遺集に二首、新古今集に一首入集。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
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帯とけの百人一首
(百)
藤原定家の撰んだ歌の余情妖艶なところを、藤原公任の歌論に基づいて紐解きましょう。
藤原俊成の云うように、歌は浮言綺語の戯れにも似た歌言葉のうちに余情が顕われる。
百人一首(百)
順徳院
ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり
玉敷き満ちる古き宮、軒端の忍草、偲んでも、なお余りある昔だことよ……百に繁きや、ふるき退き場のしのぶひとにも、汝お余りある武下肢だったなあ。
「ももしき…百敷き…宮殿…宮中…宮柱太敷き・玉敷き満ちてなどと詠まれた万葉集の昔より、このように戯れ、言の心は宮中」「ふるき…古き…久しく時の経った…振る気…降る期」「のきば…軒端…退き場」「しのぶ…忍草…堪え忍ぶ…恋い偲ぶ」「草…女」「なほ…猶…汝お…わがおとこ君」「むかし…昔…武樫…武下肢…強いおとこ」。続後撰集 雑下。
順徳院の、同じ続後撰集雑下にある御歌を聞きましょう。
聞く度にあはれとばかり言ひすてて いく世の人の夢を見つらむ
聞く度に、あわれとばかり言い捨てて行く、世の人の夢をどうして見るのだろう……効く度に、あはれとばかり言い捨てて逝く、夜のひとの夢をどうして見ているのだろう。
「きく…聞く…効く…吟味する」「あはれ…哀れみの詞…感動の詞」「いく…行く…逝く」「よ…世…夜」「人…人々…女」「らむ…原因・理由を推量する意を表す」。続後撰集 雑下。
順徳院の、配流先の佐渡での御歌を聞きましょう。
人ならぬ岩木も更にかなしきは みつの小島の秋の夕暮
人ではない岩や木も、いまさらに、しみじみと心ひかれるのは、美津の小島の秋の夕暮れ……人である女も男も、今更に哀しいものは、満つの来じ間の飽きのはてがた。
「岩…女」「木…男」「かなし…しみじみと心ひかれる…心が痛む…あわれだ…残念だ」「みつのこじま…美津の小島…島の名、名は戯れる。満つの来じ間、満ち足りることのない間」「秋…飽き…ことの果て」「夕暮れ…一日の終わり…ものの果て」。
定家は、佐渡より届いたこの歌を見て、「この三十一文字、また一字毎に、感涙抑え難く候。玄の玄、最上に候」と合点してさしあげたという。「玄…くろ…奥深いさま…深遠なさま」。
順徳天皇。父後鳥羽院のご意向によって兄土御門天皇の譲位をうけ、承元四年(1210)十四歳にして即位。承久三年二十五歳のとき、四歳の皇太子(仲恭天皇)に譲位し、父後鳥羽院と共に、鎌倉方すなわち執権北条氏一派と争い敗北、佐渡に流され、配所にて二十一年間、御年四十六、仁治三年(1242)に崩御。「順徳院御集」がある。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
あとがき
蛇足ながら聞書き人のあとがきを記す。はっきり言って、国文学には和歌と歌物語の解釈は不在である。理性的で、自然科学的な数学的精緻な方法で、歌など解明されているかに見えるが、結局は聞き取った上辺の意味の学者による印象批評が解釈となる。言語の戯れは、縁語とか掛詞という新しく作り上げた概念で克服したのだろうか。貫之や定家の言葉の「色好み」「余情妖艶」といったことは、歌から消えている。歌言葉の戯れを縁語や掛詞と名づけて封じ込めてしまったためである。
われわれの昔の人は言語の戯れをあるがままに受け入れ歌をよんだ、清げな高音と最低音が同時に聞こえるような歌い方になる。綺麗な衣姿に包んで生身の生心を歌うことができる。言葉が複数の意味にたわむれるなら、複数の意味を同時に歌うことができる。玄の又玄などと言われるその中味を、恋しいほどに聞くには、歌の様式を知り、「言の心」を心得えよと貫之は言ったのだった。それは多く「月…壮士…男…尽き」「水…をみな…女」のような非合理で受け入れ難い戯れの意味である。清少納言は男の言葉も女の言葉も聞き耳によって異なるものだといい。藤原俊成は歌の言葉は浮言綺語の戯れに似ていると言う。このような言葉の世界に入らないと、この時代の歌をはじめとする文芸のほんとうの意味は聞こえない。
江戸の国学者たちは、この言語認識を無視し、貫之、公任の歌論を無視した。そして理性的解明が、古今伝授などのなかに埋もれた過去の文芸を解明できると考えたらしい。国文学はそれを継承し、より精緻で合理的解明となった。そして公任のいう「心にをかしきところ」や定家の「余情妖艶」が全く見えなくなった。たいした意味の無い歌がほとんどとなり、和歌などは芸術では無いといいたくなる歌の氾濫となる。歌は調べが命であるといい、無意味に意味があるというほかなくなる。国文学的な歌解釈は、間違った方向へ船出したのだ。すでに、危機的状況にある。大船は大海原で彷徨っているのに、乗っているものも乗せられているものも、ただ一つある正しい意味に近づきつつあると思っている。
和歌の恋しいほどの「心にをかしきところ」を、いちいちの歌について感じ、歌の様に気付いてもらうほかない。清原のおうなは、「百人一首」に次いで、何を紐解いてくれるのだろうか、帯とければ如何なる生心が顕われるのだろうか。伝授はつづく、次の聞書きは近日公開予定。乞御期待。
新たに、伊勢物語の秘儀伝授の聞書きを始めました。
gooブログ タイトル:帯とけの伊勢物語
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帯とけの百人一首
(九十九)
藤原定家の撰んだ歌の余情妖艶なところを、藤原公任の歌論に基づいて紐解きましょう。
藤原俊成の云うように、歌は浮言綺語の戯れにも似た歌言葉のうちに余情が顕われる。
百人一首(九十九)
後鳥羽院
人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆゑにもの思ふ身は
人が愛し、人がうらめしい、つまらなく世を思うが故に、あれこれと悩む我が身は……ひとが愛しい、ひとが恨めしい、味気なく夜を思う故に、もの思うひとの身は。
「人…世の人々…民…后・女御たち…女」「も…並列を表す…意味を強める」「をし…愛し…いとしい」「うらめし…不満に思う…恨めしい」「あじきなく…どうしょうもなく…つまらなく」「世…女と男の仲…夜」「もの思ふ…悩ましく思う…ものを思う」「もの…云い難きこと」「身…我が身…女の身」。
「後鳥羽院御集」の建暦二年十二月二十首御会、述懐の歌。後鳥羽院、御年三十三の御歌。承久の乱の九年前。
新古今和歌集の太上天皇(後鳥羽院)の御歌を聞きましょう。
秋露やたもとにいたく結ぶらん 長き夜あかず宿る月かな
秋露や、袂にひどく結ぶだろう、長き夜明けず、空に宿ってる月だなあ……飽きの白つゆや、たもとにはげしく結ぶだろう、長き夜はてず、宿る月人壮士かな。
「秋…飽き」「露…つゆ…おとこ白つゆ」「たもと…袂…手元…他のもと」「あかず…明かず…夜が明けず…飽かず…果てることなく」「宿…女」「月…月人壮士(万葉集では月よみ壮士とも詠まれている)…男…おとこ」。秋歌上。「秋の歌の中に」。
後鳥羽院が喜禄二年(1226)に、遠島で詠まれた御歌を聞きましょう。
わたつみの波の花をば染めかねて 八十島遠く雲ぞしぐるゝ
わたつみの世の波の花をば、我が色に染められず、八十島隔てて、雲の上の人、しぐれてる……わたつみの、夜の波の花を色に染められず、多きし間遠く、わが心雲、しぐれてる。
「わたつみ…海…綿罪…軽い罪」「海…女」「波…世の荒波…夜の心波…情の波」「染めかね…染めることができない…感化できない…色に染められない」「やそしま遠く…点在する無数の島々隔て…八十し間遠く…多情な肢間には遠く」「島…し間…女」「雲…雲の上…煩わしいばかりに心にわきたつもの…もろもろの欲…広くは煩悩」「しぐれ…初冬の雨…つめたい涙雨…冷えたお雨」。「後鳥羽院御集」、題「海辺時雨」。
この歌を他の一首と共に遠く隠岐より送られ、勝負の判定を求められた家隆卿は、「こころ、ことば、たけ限りなく、秀逸にこそ侍るめれ」、「二首争って涙の時雨が愚老の袖を濡らす」、「持となすべきなり」と申し上げたという。
後鳥羽院。元暦元年(1184)五歳にて即位。十九歳で、四歳の土御門天皇に譲位。順徳、仲恭の御代にも院政をしく。古今集より三百年後、元久二年(1205)に、後鳥羽院の勅撰集「新古今和歌集」成る。鎌倉幕府と対決した承久の乱(1221)に敗れ、隠岐の島におくられた。延応元年(1239)六十歳、その地にて崩御。「後鳥羽院御口傳」「後鳥羽院御集」を遺された。歌は、新古今集に三十四首入首集。明らかに政治的理由により新勅撰集には入集なし。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
帯とけの百人一首
(九十八)
藤原定家の撰んだ歌の余情妖艶なところを、藤原公任の歌論に基づいて紐解きましょう。
父俊成の云うように、歌は浮言綺語の戯れにも似た歌言葉のうちに余情が顕われる。
百人一首(九十八)
従二位家隆
風そよぐならの小川の夕暮は みそぎぞ夏のしるしなりける
風そよぐ楢の小川の夕暮れは、禊の神事が、晩夏の証しだことよ……心風そよぐ寧楽のひとの、ことの果ては、身退きが、暑き夏の証しだなあ。
「風…心に吹く風…ここでは、あきの初風」「そよぐ…(木の葉が)そよそよと揺らぐ…(心が)揺らぐ」「ならのをかは…楢の小川(賀茂の社を流れる小川)…川の名、名は戯れる。寧楽の小川、心やすらかに楽しむ女」「なら…楢…奈良…寧楽(万葉集の表記)」「小…かわいい…細やか…褒め言葉」「川…女」「みそぎ…禊…身を清める…身そぎ…身退き…身を離す」「なつ…夏…暑い…なづむ…しわずらう」「しるし…標し…証し」。
新勅撰集 夏。詞書は「寛喜元年女御入内屏風」。この時(1229年)、家隆、七十二歳。
新古今集の藤原家隆朝臣の秋歌を、二首聞きましょう。
明けぬるか衣手寒し菅原や 伏見の里の秋の初風
夜は明けたかな、袖口寒い、菅原や伏見の里の秋の初風……夜は果てたか、心も身も寒い、清腹や伏身のさ門の飽きの初風。
「衣手…袖…端…心の端…身の端」「衣…心身を包むもの…心身」「さむし…ひんやりとする…情熱のさめる」「菅原や…すがすがしい腹や…清々しい心地や」「や…語調を整える…疑問の意を表わす」「伏見…地名…伏し見…伏し身」「里…女…さ門」「秋の初風…陰暦七月初めに吹く風…飽き満ち足りの心に吹く初風」。
秋歌上、「守覚親王、五十首歌よませ侍りける時」。健久九年(1198)、家隆、四十一歳の作。
露しぐれもる山かげの下もみぢ 濡るとも折らん秋の形見に
露時雨、漏れる山陰の、下葉の紅葉、濡れても折ろう秋の思い出の品として……白つゆのお雨、漏れる山ばの陰の下端の飽きの色、濡れても折ろう飽きを偲ぶよすがに。
「つゆ…露…白つゆ…おとこ白玉」「しぐれ…時雨…その時のおとこ雨」「山…山ば」「陰…陰るところ…衰えたところ」「下もみぢ…下葉の紅葉…下端の飽き色」「折る…枝を折る…身の端折る…逝く」「秋…飽き…厭き」「形見…遺品」。
秋歌下 「千五百番歌合に」。家隆、四十四歳の作。
「後鳥羽院御口傳」に、家隆について次のように記されてある。
家隆卿は、若かりし折りは聞こえざりしが、建久のこころほひより、殊に名誉もいできたりき。歌になりかへりたるさま、かひがひしく秀歌など詠み集めたる多さ、誰にもすぐれまさりたり。たけもあり、心もめづらしく見ゆ。
ほぼ、次のように読める。
家隆は、若かった頃は名声を聞かなかったが、建久の頃(三十数歳)より、殊に名誉もできてきた。歌に身をいれた様子、まじめでそのかいあって、秀歌など詠み集めた多さ、誰にも優れ勝っていた。歌は崇高なところもあり、深い心も心におかしきところも、新鮮に見える。
従二位藤原家隆(1158~1237)。父は中納言光隆、摂関家一門ではない。歌は俊成に学んだ。後鳥羽院の御信頼・評価は定家より高い。「新古今和歌集」の編者の一人。五十歳で宮内卿。従二位。八十歳没。歌は、千載集に四首、新古今集に四十三首、新勅撰集に四十三首入集。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
帯とけの百人一首
(九十七)
藤原定家の歌の余情妖艶なところを、藤原公任の歌論に基づいて紐解きましょう。
歌は、父俊成の云うように、浮言綺語の戯れにも似た歌言葉のうちに余情が顕われる。
百人一首(九十七)
権中納言定家
来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くやもしほの身もこがれつゝ
来ぬ人を待つ、松帆の浦の夕凪時に、焼くのか思火、藻しほのように身も焦がれつつ……来ぬ人を待つ、おのほの心の夕凪に、焼くのか、もの火が、身も焦がれつつ。
「人…男」「松帆の浦…淡路島の浦…所の名、名は戯れる。待つおの心、おを待つ女の心、待つ火の心」「まつ…松…待つ…女」「ほ…帆…お…男…火」「うら…浦…裏…心」「夕凪…夕方波風静まる時…果てた心の凪」「やく…気をもむ…思いこがす…万葉集巻一の歌(あみの浦のあまおとめらが焼く塩の思いぞ焼くるわが下ごころ)の焼く」「や…詠嘆を表し語調を整える…疑いの意を表わす」「もしほの…藻塩草のように…藻し火が」「も…藻…水草…女」「し…強意を表す」「ほ…火…炎」「の…比喩を表わす…主語を示す」「こがれ…待ち焦がれ…恋い焦がれ…乞い焦がれ」「つつ…詠嘆の意をあらわす…反復の意を表わす…筒…おとこ」。新勅撰集 恋歌三。詞書は「健保六年内裏歌合、恋歌」。健保六年(1218)は承久の乱の三年前。
建久九年(1198)の「仁和寺宮五十首」では、次の歌を詠んだ。定家三十七歳の作、聞きましょう。
春の夜の夢の浮橋途絶えして 峰に別るゝ横雲の空
春の夜の夢の浮橋、途中で絶えて峰で別れてる、ただならぬ雲のある空……春の夜の浮天の夢の身の端、途中で絶えて、山ばの峰で別れてる、よこしまな心雲のひと。
「春…季節の春…春情」「橋…ものの峰へ架けられた橋…端…身の端」「峰…ものの山ばの頂き…極まり至ったところ…絶えて別れるところ」「横…よこざま…ふつうではない状態…よこしま」「雲…空の雲…心に湧き立つ煩わしいもの…情欲…広くは煩悩」「空…天…あま…女…空しい」。これらは、俊成の云う浮言綺語のような歌言葉の戯れ。
定家が「百人一首」を撰んだ嘉禎元年(1235)頃、後鳥羽院は承久の乱に敗れ遠島にて十数年経っていた。
「後鳥羽院御口傳」の定家についての批評は、ほぼ次のように読める。
歌の優しくて、もみもみと(ひとが身もだえるように)見える姿は、ほんとうに在り難いものに思える。歌の道に達した様子など、殊に優れていた。歌を見知っている様子、大したものであった。ただし、(他人の)歌の意を汲みとる心になると、鹿をもって馬とするように強引である。傍若無人。理屈も過ぎていた。他人の言葉は聞く様子もなかった。
彼の卿の歌の姿は、殊に優れたものではあるけれども、人が模倣すべきものではない。(深い)心あるようなのを理想とせず、たゞ、詞、姿に艶があって優しいのを本体とするので、歌の骨子の優れていない初心者が模倣すれば、正体もないことになるであろう。定家は生得の上手であるからこそ、(深い)心が何にもないけれども、うつくしく言いつづけてあれば、殊に優れたものなのである。
秋とだに吹きあへぬ風に色変る 生田の森の露の下草
定家自讃の歌、まことに、「秋とだに」と始め、「吹きあへぬ風に色変る」という詞のつづき、「森の下草」と置いた下の句。上下(上の意味と下の意味)相兼ねて、優な歌の本体と見える。此の歌よくよく見るべきである。詞が優しく艶がある他は、(深い)心も姿もたいして無いのである。森の下に少し枯れた草のある他は、景色も理も無いけれども、言い流した詞のつづきは大したものではある。
釈阿(定家の父俊成)・西行などのは、最上の秀歌である。詞も優にやさしい上に、心が殊に深く、理もある。
此の歌を、よく見ましょう。
秋だとばかり、いまだ吹ききれぬ風に、少し色変わる生田の森の露の下草……飽き足りたとは、いまだ吹ききれぬ心風に、少し色変わる幾多の盛りのつゆのひと。
「秋…飽き」「風…季節の風…心に吹く風」「色…色彩…色情」「生田の森…森の名、名は戯れる。幾多の盛り、生き田の盛り」「田…女…多」「つゆ…露…おとこ白つゆ」「下草…木の下の草…女」「木…男」「草…女」。
仰せのように、深い心は無いと見える。言葉だけの清げな姿と、妖艶な「心におかしきところ」はあるけれど、公任のいう優れた歌ではない。
義理は無いけれど、定家を弁護すると、貫之、公任と続く正統派歌論に飽きたりず、貫之以前の「色好みな歌」に学べと定家はいう。色好みで妖艶な余情こそ歌の命である。父俊成の云うように、それは煩悩であり、表現すれば即ち菩提(真理を知って得られる境地)である。人の業を説くものはみな正法であるという。歌の余情妖艶なところは「心におかしきところ」であると共に「深い心」である。
権中納言藤原定家(1162~1241)。「新古今和歌集」編者の一人。承久の乱(1221)のとき六十歳。貞永元年(1232)、後堀河天皇の御時、「新勅撰和歌集」を撰進。此の頃より「伊勢物語」をはじめ平安時代文芸を書写し伝え遺そうと懸命だったように見受けられる。世の中変わり、和歌の真髄が埋れる危機を予感していたに違いない。歌は、千載集(俊成撰)に八首、新古今集に四十六首、新勅撰集(定家撰)に十五首入集。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず