破李拳竜・日記

ここでは私・破李拳竜が行ってきた仕事やお遊びとかの日記を、つらつらと載せてあります。

大和新発見?!

2006年07月15日 23時48分08秒 | Weblog
以前お知らせした通り、ウチの近所に超巨大「ジャスコ」が出来て大変便利になったのだが、この「ジャスコ」の中に「トイざラス」があるのだが、時流なのだろうがプラモデル・コーナーにはミリタリー物はめっきり減ってしまった。かろうじてタイガー戦車や空母エンタープライズ、戦艦ビスマルク、F-15戦闘機といった程度のものがわずかに残され「ガンプラ」の隅に追いやられ、隠れるように販売されていた。もはや若い世代にとっての「ミリタリー物」とは「ガンダム」の事になってしまった感があるなぁ・・・。
  私はガンプラにはハマらなかったが、大和繋がりの宇宙戦艦ヤマト・シリーズでは、あのシド・ミードがデザインした「YAMATO2505」のプラモまで買っちゃいました~(笑)
  昔は、大和・零戦・タイガーIとくれば、玩具売場の三種の神器だった。私はその玩具売場の三種の神器によって戦艦大和を刷り込まれたクチのガキで(笑)・・・しかしまあ、当時私は装飾の多い大和を初めとする、戦艦プラモは装飾が多く造りずらかったので、単純形状な潜水艦のプラモばかり造っていたが(笑)中学になり大和プラモを造るようになると、大和プラモを河に浮かべ、「坊ノ岬沖海戦の検証だ。」とかの名目で、片舷にいくつもの破孔を開けて傾け、転覆させた事がある(ヒドっ!)・・・今思えばもったいないコトやってたねェ・・・。

 去年の暮れ、映画「男たちの大和」が公開されたのを機に「戦艦大和」関連のプラモデルが多く売られるようになったもののすぐ下火になり、最近まで大和一隻で孤軍奮闘、ミリタリー・コーナーを死守していたが、遂に力尽きたかミリタリー・コーナーは消滅!こないだ行ったら「ビーダマン・コーナー」に代わっていた。あわわ・・・合掌。


 そうこう嘆いていたら、モノホンの大和のニュースが!!!ネットや新聞、TVのニュースで知った方も多いと思うが・・・

◎最後の出撃、直前の大和=対空防衛の機銃座、艦尾に-未公表の写真、米国で発見 (時事通信社 - 07月03日 20:10)

 おおっ、こんなに鮮明な戦艦大和の写真が!沖縄特攻出撃の5時間前に徳山(現周南市)沖で、米軍偵察機によって空撮された記録写真・・・しかし撮影したのは米軍機が約九千三百メートル上空から撮影したという説明だから、真上の頭上を飛ばれても大和自身対空用の三式弾で応戦した様子もなく、主砲も平時の構えのまま。まさにプラモデルよろしくのスタイルだから、防空の弱さが露呈した丸裸の出撃と揶揄されてもしかたがない。
 とはいえ実に貴重な写真である事には変わりない。説明では「攻撃時の火災を防ぐためガソリンなどの揮発油や可燃物を撤去する作業中」とあり、出撃前年一九四四年十月のレイテ沖海戦後に、艦尾部や左右の甲板上などに増設された三連装機銃十二基なども確認でき、出撃直前の装備が分かる貴重な資料という。
  米戦艦「アイオワ級」の写真と比較すると、46サンチ砲全砲門斉射の衝撃にも耐えられるように設計された、その横幅のデカさが良く分かる。
 それに坊ノ岬沖戦の戦闘中の写真では甲板が黒くなっているが、水飛沫を受け濡れて黒く見えると云われていたが、この写真ではレイテ沖海戦時に防火炭を撒いて黒く塗られていたという説を裏付けるものとなっている。

 ・・・と、思ってたら、Mixiの「戦艦大和コミュ二ティ」を観たらぬわんとカラー写真が!大和のカラー写真なんて世界初めての物だぞ!・・・でも、これは甲板の色は武蔵のように、黒塗装じゃないぞ、やはり木目を出したままだったのか?それともCGで補正された物なのだろうか?「軍版」ネット上では大和や武蔵のCGカラー着色補正写真が横行しているので、真実のカラー写真かどうかの判断が難しい。目下写真の詳細を調査中。


詳細・真意の程を「大和ミュージアム」の方々教えて下さい!

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1 コメント

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出撃前の戦艦大和の写真 (ponskp)
2008-01-02 11:04:21
出撃5時間前の大和発見者は徳山高専工藤教授で
01年3月に発見されました。大和ミュージアムは正規ルートから入手したものでなく、突然07年7月に同ミュージアムと市民団体が米国で発見したようにプレス発表しました。
経緯など、愚輩のWebサイトに掲載しています。
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/yamato/imperialfleet/yamato.htm
大和の写真を含め「写真が語る山口県の空襲」に所載されています。販売書店はこちら
http://www1.ocn.ne.jp/~susuma/yamaguchi06.htm
更に詳しくは、空襲通信第3号(2001/811)及び
空襲通信第9号(2007/7/31)に記述されています。
写真偵察機はB-29を改造したF-13と呼ばれた偵察機でした。 この当時(1945/04)に米機は、単独もしくは2機程度で無意味に無害飛行し、日本機は、このような少数機に対して攻撃を仕掛けないようにさせる作戦でした。よって出撃前の大和でも艦内空襲警報発令されたでしょうけど、対空攻撃の措置はとられなかったと思います。
なお、少数機の無害飛行は、原爆投下を確実に成功させるためでした。原爆投下は、観測機1機。投下機1機の2機構成でした。実際原爆と同じ大きさと形状をした爆弾を山口県宇部市に投下しています。詳しくは「写真が語る山口県の空襲」をお読み下さい。
大和ミュージアムの大和発見発のウソは
http://ksa.axisz.jp/021memoKureYamato-3.htm#7
ここに書いてあります。このとおりです。
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