るるりらタイム

わたしが、ネット詩の中で見つけた宝の置き場です。

万事休すならず

2006-11-24 18:38:52 | Weblog
急須の蓋がどこかに行ってしまった。
万事休すと思いきや よくそのキュウスをのぞいてみると 中には 茶を漉すためのネットがあるではないの。ふふ 私の頭の中には 植物園で見た光景が浮かぶ。

ランなんてね。本来は空中に浮いて咲いてるべきものなのよ。 本来 ジャングルの木の高い木の枝に寄生しているそうだ。植物園で 空中からたれさがっている それはそれはみごとなランの花達をみたことがあるのですよ。あれは みごとだったなあ。

ふとキュウスを見ると、中の茶漉しは なかなかイケル。。キュウスの中で プチジャングルができるではないの。と、いう訳で 
うちの急須は蓋がなくなっても 休むことなく うちのランのジャングルとして働くこととなりました。

おりしも 今日は 資源ごみ回収の日でした。急須は九死に一生を得ました。がしかし バンジージャンプしてしまったティサーバーのガラス部分は、さようなら。
お別れというものはあるものですね。それでも ガラス加工されて どこかでまた働いてねー。チャオ さようなら さいちぇ~ん ティサーバー。


*ちなみに写真は 万事急須のならずもの君です。

山が舌打ちしてた。

2006-11-21 17:28:31 | Weblog
いま テレビをつけたら 石井竜也さんが生出演していた。途中からだから 話はよくわからなかったけれど 石井氏は 広島のアクセサリー職人がつくったアクセサリーをしてして 広島も なかなかすてたもんじゃないなあと思った。そして なにしろそのアクセサリー職人の人の一言が カッコイイと思った。

「表現って 欲望の塊じゃあないっすか」カッコイイ。タウジャンというブランドとして この作り手は創作をしているらしい。

タウというのは 広島弁で「届く」という意味なんは 広島の人なら だれもが知っていることだけど それが石井氏に ほんまに届いているというのも カッコイイ。ミーハーだな。私っ♪

そやっ。私の表現ってなんなん?私の欲望はどこにあるん? 欲望の塊が私の中で 沈殿してドグロをまいて まずまいて 爆発してこないなあ。それはかなり悔しいとも思った。 煩雑な生活の中でそんなものをなくしてしまったのかなあ。


そんなことを家事をしながら考えていら 居ても立ってもいられなくなり、思わず山に入りました。

私の欲望が なんだかわからないけれど とりあえず 季節がら クリスマスツリー を せめて自分の手でつくってみようかなあと思ったのでした。その材料は 山から頂戴したい。そんな欲望が目覚めたのね。

刃物を手に 私は山の方に歩いたよ。切れ味のよい かなり太い枝も切れるブツを手に 山道を行く私。ばさばさという獣の音 くわぁくわぁと急にとびたず 野鳥。頭の中は 表現、欲望、塊の三つの単語の、リフレイン。

刃物を手にうろうろしている私は それだけで かなり凶器嬢かもしれず。わたしの本能は野ざらし状態だった。

でも、ちぃぽけな私なんかより 山の方が よほど毒々しいと気がつきました。なんとも毒々しい色の木の実を見つけたのです。

緑と赤といえば、クリスマスカラーの定番ですけど 腐葉土を踏みつけて 私が見つけた山の色は 獣の心に近い色だと感じたよ。

石井さん。そして、タウジャンのお店の方 どうも ありがとう。なんだか 素敵なエネルギー貰ったわ。あなたがたって たぶん そうとうに獣だ。

切れてないっすよ。

2006-11-16 16:20:30 | Weblog
昨日、だんなが手に火傷を負った。
うちの旦那は ある佃煮メーカーで働いているのだけど
熱湯の中に手を入れてしまったらしい。
防熱の手袋をしていたのだけど その手袋が大きく やぶれていたことに 気がつかずに使っていて 熱湯が手袋の中にはいりこんでしまったという話だ。

佃煮メーカーというけれど、旦那の会社は オセチもとりあつかっているのでこれから正念場。例年 このくらいの季節になると極端に休みの日もすくなくなる。そんなときの事故やった。

私はパン屋兼喫茶の店で働いていて そんなに危険な仕事ではないようだけれど、それでも 熱湯はもちろん扱うことはあるし、パン屋だから釜もあれば パンを切断する機械スライサーなんかは 結構危ない。
スライサーは恐いよ。あれはね。チェーンソーみたいなもんだからね。丸い刃物なんやけど 大抵の物は切れるよ。


以前 ここに勤めていた人に 指がふっとんで しまった人もいたりしたし、私も ほんのすこしだけ 切ってしまったことがあるけど ものごっつい 痛いよ。

気をつけないとね。

私の仕事の相方は このスライサーの扱いが、独創的だ。他の電気商品も同じだと思うけれど、使用した後は 普通の人は電源をオフにしてから コンセントをはずすと思うのだけど、相方さんたら 使い終わったら 電源をオフせずにコンセントをひこぬく癖がある。その後に使うのは大抵 私だから 血がひくよ。この間なんか メモリが見えにくかったからコンセントをプラグにさしこんだとき 刃物に私の顔が近くにあった日にゃあ。ひぃ。

それからなんども 危険なことにだけは敏感になってほしいと注意したのに 直んない人なんだ。どーして直らないのかと 私の方が悩んでしまう。

今日という今日は どう説教したろうかと思い あーでもないこーでもないと散々思案したけど、私ったら旦那の怪我で実はかなり消沈してしまっているらしい。言う気力がないらしい なぁんも言えんかった。

店の奥さんが きっちり言っといてくれるらしいから 任せた。でも ほんとうは 切れてしまいたかった。ない気力をふりしぼって 怒鳴りたかった、お局さまがしたかったなー。我慢我慢。私は もうなんでも注意をお願いした。私の方法で よくなる人ではないのだから 私は我慢や。

もっと初体験

2006-11-14 17:15:01 | Weblog
中学生社会体験


  うちの子供らが通っている中学では 今週一週間ほど こどもらに社会にてで働いている方々とまみえて仕事をしたり見学させてもらったりしている。

  学校側の要請で 父母の中で暇な方がいたら 働いている子どもらの現場を回覧してまわってほしいというプリントをもらったので 店が定休日なので、私も 子どもらが見学しているところを見学してきた。汗
 
 ひとりでいくよりペアがいいだろうということで 私とたまたま組んだ方はとても気さくな女性だった。気さくでありつつ そこはかとなく品が漂う。きくと ピアノの先生をしておられるらしい。そこはかともなく芸術の香り。ひごろの在り様が態度にでるものねーと関心してしまった。汗×2
 その方と 話をしてみたら自分の子が該当してない場所を回覧するように割り当てられているみたい。


私がいってきたところは スイミングスクールと 某大学の付属幼稚園。
私はよくプールにいは行くのだけど公営のプールなので民間のスイミングスクールは まず 美しいよ。たのしいそうだよ。でも、仕事はないのに 他の中学と見学の日がだぶってしまって 仕事を与えるのが大変だと言っておられた。
プール監視などを子どもらにしてもらっているとの話。そのうえにプール監視をしている子どもらを監視する不思議な私達。長居は禁物でしょう。さっさと退散。今週一週間も この取り組みは行われる続けるわけだから 大変かも。

もう一箇所は 某大学の付属幼稚園。大学のキャンパスの遮断機のところで名前を書いて 上り坂気味の広いキャンパスの一番の高台に ゆるゆると車を走らせると 山のきわに ガラス張りの綺麗な建物に幼稚園の文字。綺麗やわ
~。お嬢様の匂いがするう。園庭は全面 芝生も美しいこと。ちょうど 園では お誕生日会の日だったらしく、多くの御母堂様方がおられた。お陰でオープンな空気で居心地がとてもよかった。綺麗な開放的な園庭の そこかしこで 中学生は中学校りジャージを着て 園児さんたちを見守っていた。 えらく衛生的で牧歌的な光景やった。なんだろうか。すごく すこやか。
 
幼稚園の段階で お受験がある学校は うちの子の通った泥だらけ保育園とはかなり様子が違う。園長先生とはすこしお話をうかがったけれど、「昨日の初日では中学生たちは かたくなっていたけれど 今日はすっかりとけこみ。自分達よりおさない頃を思い出しながら 体験学習をされているようですよ」というお話だった。

自分のもともとの姿を 肉体体験を通して顧みるというのは なかなかできることではないよなあ。この体験は人として成長する良いチャンスに違いないよなあと実感した。


で、やっぱり思ったのは
大人は 子どもらに夢を提供できるような生き方がしたいもんだなあと
思ったよ。子どもらの未来は やっぱり明るいものでなくっちゃな。
そう思った。

中学生なんて みんなキラキラしてるよ。なのに なにかの拍子で真っ暗な道を選んでしまうことが多々あることを思ったとき、社会の風とおしの良い場所を 大人はもっともっと教えてあげることができるといいのにと 感じたよ。

世の中 捨てたもんじゃないです。

中学生がはたらくと邪魔かもしれない一面があってもこんなに多くの場所で大人たちは受け入れようとしているのだもの。こーいうシステムが もっとしっかり整ってゆくと いいと思う。学校内だけで こんな大勢の中学生達の精神衛生面の諸問題に決着つけようとしても それは限界があるさ。もっと 社会の中に子どもたちを放っていくシステムが整うと良いなあ。

体験が 不足していたのね。いままでの教育って...。
子どもらに必要なのは情報じゃなくて もっと体験なのかも。

中学生の職場体験

2006-11-13 23:58:28 | Weblog
先日、ペットショップでハムスターに穴掘りをさせながら飼育するための土を購入しようとしたのだけど、店員が 不理解な人で ろくに調べもせず 不誠実な態度だったのだけど、昨日は 誠実に一応はしらべようとしてくれた。

それは たぶん 中学生が職場体験で おなじ狭い店内で仕事する おにいちゃん達のことをみているからだと思った。
すくなくとも がんばっているように見せたいみたい。

このあたりの中学校のうちふたとが今 ちようど時期をおなじくして職場体験をさせている。うちの喫茶店にも 今日から来ている。ふたりの中学生なんだけど ひとりは朝の五時半から店長の仕事を見に来ている。もうひとりは 十時から見学。

私は六時半からの仕事だから 私すらもしらない仕事をみせてもらっているよーだ。店長の説明もわかりやすくを心がけてしゅべっているのか 私が聞いていて 非常に勉強になるので ハスにかまえて 頭の中で 私はひさかに必死にメモをとりながら聞いていたのは 内緒や。真摯で気もちよい ふたりだった。この世の中を回している人たちは もっと年齢が低くあるべきなんじゃないかなあとすら 思った。いっそ そのまま職人にでもなってしまえたら
もっと すばらしいのだけど 学歴社会だから ほとんどの子か高校へは進学するのだろうなあ。

で、明日は定休日。私は こんどは 父兄としてこの中学生の職場体験を応援する約束をしている。子ども達が お世話になっている企業や職場をかるく回覧して 迷惑をかけてないかを大人の立場で聞いて回るというお役目。大人の世界に 子どもたちがはいっていくのは すばらしいことだと思う。大人が自分たちのありようを反省する機会にもなるし、子ども達にとっても すばらしい刺激になるだろうなあ。

若いやわらかな時代を お勉強しかしない時代なんて この調子で どんどん壊れてしまえばいいと私は思う。

東京

2006-11-13 17:24:20 | Weblog
東京タワーとかいうドラマの宣伝で 懐かしい曲を聴いた東京タワーとかいう歌詞の曲。フルコーラスすら知らない。
やく十年前東京駅のちかくにつとめていて 東京駅まで 行き、電車がUタウンして家に向かうと 電車は自動的に始発になるため座れる。だから、毎日 東京駅に行っていた。このころ、すでに懐かし曲のリメイクとして やたら 街でこの曲が流れていたが、この曲は「東京」って 曲名で正解なのかなあ。どなたかごぞんじの方が 居たら教えてくださいまし♪


まいにちまにいち およげたいやきくんもびっっくりなほど毎日、東京駅をUタウンするたびに なんども頭の中で歌ったフレーズ。
そうよ。たしから東京へはもうなんども行きましたね。あの電車の中の揺れた時間を 捜している私は どこか潤う時間です。

あの頃を想って書いた詩でもアップしておこうかしら






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回遊魚
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周遊バスは まるで回遊魚のようじゃないか?
回遊魚は、一瞬でも泳ぐのを止めないんだ
  
 水槽ごとライトアップされた魚を見たことがあるかい?
 闇の中を くたびれた背広が流れるよ
 中吊りの広告が 固まった笑顔で流れるよ
 窓をみている人の目が空を見ているよ
 
ワイパーのリズムが聞こえるよ
シュノーケルのような音だよ
深夜バスは回遊魚だよ

 闇の中を見る者
 中吊り広告を見る者
 孕んだお腹の置き場所確保に必死な者
 たまたま手のあった場所に 誰かの おしりがあるので
 ああ誤解されませんようにと祈る者

   だれもが無口で
   砂をふくアサリ貝のように
   ときより水を撒き散らせながら
   深夜バスが走るよ
   
 深夜2時までは深夜バス早朝4時から 
   もよりバス停発なのは 早朝バスだよ
   
最終の2時の深夜バスは走るよ
速度が滑っていくよ
自分の速度の忘れたよ
とりあえず、住処についたらシャワーを浴びて
お茶漬け食べて
満員列車は死にそうだから、明日も早朝バスに乗ろう

   だれもが無口で
   眠らない街に通い
   回遊魚のように
   泳ぎ続ける

   回遊魚は一瞬でも、泳がなくなると
   生きてられないらしい

なにやら 本の匂い。

2006-11-11 16:02:25 | Weblog
なにやら 本の匂い。
私は夢を見た。ネット上でみるそのまんまのことを夢にまでみてしまった。さまざまなネット詩人達が おのおのの本を作りましたあ。と、いう宣伝を 夢にまでみてしまった。すごいと思うよ。でも私の脳も意地悪だ。なにも 夢に まででてこなくてもいいと思う。ネットよりは  本になった時点で 後に残る可能性が発生したりするかなあ、やっぱり。

世の中 こうやって 本が生まれるけれど、語りがれる力をもった言葉なんて ほんのわずかしたなかのだろうなあと おもったとき もう一度 ちゃんとした詩が読みたくなった。

リンケと入力しようとしたら 林家になってしまうくらい 私は 詩を知らない。
詩らしい詩を読みたくなった。

ピュアとかいう言葉は 恥ずかしい。なんだか洗剤みたいな言葉だ。大抵の大切な言葉は まがまがしくなってしまっていて なにが大切なのか解らなくなってくる。だから 詩らしい詩が読みたくなった。

明日、林家のちがうっ リンケの『マルテの手紙』を 読む事ができたらいいなあと思う。或る本に引用されていたこの箇所が素晴らしかったから この本は お宝の匂いがする。

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以下は
 マルテの日記
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詩は人が思うのとちがって感情ではない。(感情なら、いくら年少でも 持てるだろう。___________詩とは体験なのだ。一行の詩のためにも、たくさんの都市を、さまざまな人や物を観なければならない。獣たちをしらねばならず、鳥の飛行の感情を悟らねばならず、夜あけにひらく小さな開花のそぶりをこころえなければならない。未知の地方の行路のこと、予期しなかった邂逅、遠くから迫るのを見つめていた別離のとき、それらを思い出せねばならぬ。解明されぬままになっている幼い日々。よろこびそうなものをもらったのに、それがわからなくて、つい気もちをきずつけてしまった両親のこと......夜ごとにちがったいとなみをもつ
閏房の闇、分娩にくるしむ女たちのさけびごえ、重荷なおろし、白衣につつまれて眠る、肉体を閉ざした産後の女、詩人はそれを思い出にもたねばならなぬ。瀕死の人の枕べにもいたことがなくてはならないし、窓をあけ放し、ひきつるように間歇するさ゜わめきを聞く部屋で。死体のそばについていた経験もなければならなぬ。だがまた、追憶をもつだけでは十分とはいえぬ。追憶が多くなったら忘れることができねばならぬ。追憶がもいちど返ってくるのを待つ大きな忍耐がいる。なぜなら、追憶さのものは まだ詩ではないのだから。追憶がぼくらのなかで血となり、眼差しや表情となり、名前をなくし、ぼくら自身と区別できなくなったとき、はじめて、ある稀有なひとときに、一行の詩句の最初の言葉が、そんな追憶の中枢に立ち上がり、追憶の内部からあらわれてくる。こういう奇跡が起こるかもしれない。 (生野幸吉 訳


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うぅぅぅぅぅぅぅ」。すばらしい。こんなのごく一部だけど この箇所だけでも
詩の栄養が ずっしり詰まっている。


詩が

いつか

書きたい。

うちの母って人

2006-11-09 17:40:04 | Weblog
うちの母が ストーブが出したいというので、仕事の帰りに
ストーブを出しに行った。重くてひとりくらしの母には 出すことができないらしいので 助っ人に行った。

実家への道は 秋サンサンだった。
カンナの花はどうしてあんなに赤いのか
田んぼの稲刈たとの規則ただしい 稲カブの後も
ひかりが まんべんなくふりそそいでいて
なにもかも あでやかやった。

うん、そういえば 空なんか 真っ青。あんな青は いんちきやと思った。

懐かしい道の途中で 玄関に魔女の置物をかざっている家を見た。きがつくと 谷山浩子さんのメロディに その時折の気持ちをのせて 頭の中で鼻歌を歌いながら道をあるいていた。私は学生の自分から彼女のファンなので。むかしの私がそうであるように 頭の中で彼女の歌を換えて遊んだ。
「魔女は色盲 オレンジは食べない♪」
浩子さんの歌の中では 「猫は色盲 オレンジは食べない♪」という歌詞があるんだ。だからどうしたという歌詞なんだけど、魔女に換えて歌ってみると、魔女だって猫みたいなものだ。


うちの母は たいした人ではないと思う。うちの母は魔法のつかえない魔女みたいな人だ。
うちの母が わたしに与えた最大のことがあるとしたら 色彩やな。母は色盲ではない。ただ 闇ととても仲良く生きてきた人だ。

わたしは幼いころから 母がいつ失明しても不思議はない人とだと教えられて育った。だから、この懐かしい道も ときにはわたしは目をつぶって歩いて 側溝に はまったりした。
闇はとても危険なことだ。闇を想像して恐ろしがる人がいるが、本当に闇の中にいる人は ひたむきに ヒカリを探すしかない気がする。

母は乳飲み子のわたしに たくさんの色を見せたという。
母の目は遺伝するような事情で見えにくいわけではないのだけど、母はいつも光に憧れいている。

母が わたしに与えた最大のモノは
だから ヒカリやと思う。カンナの花がどうして あんなに赤いのかわたしは知らない。空がなんであんなにばかみたいに青いのかもわからない。でも

そのすべてを しらない人も この世には 居て
その人たちは ヒカリを教える力がある。


んな気が今日はした。今日の私は 柄にもなく 良い子だ。

****ちなみに 写真は 母の庭に咲いていた 菊。母の話だと 父と見つけて 父がとても気に入っていた 菊だそうだ。ピカピカしていたよ