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よもやま話

「第141回。剛直の信長・秀吉も手を焼く宣教師達の強かさ。Ⅲ」

2010-11-26 22:04:41 | Weblog
 ○九州の戦国大名を虜にした葡萄牙の宣教師の次の狙いは?。
●11月27日、下部に加筆しました。ご覧ください。

 ●11月28日。日本から連れ出された奴隷の後日談を加記、ご覧請う。

 フロイスの「日本史」によると安土城を襲い天守から財宝、茶器、豪華な品々を根
こそぎ奪い、守備の武将を残したが(五畿内編Ⅲ)にこう書いている。“明智光秀
が津の国で惨敗した知らせを聞くと武将は、安土に放火すること無く急遽坂本城
に退却する。雑兵は主人を失なうと捨て置かれたと怒って暴徒と化し掠奪に狂奔
した。しかしデゥスは信長があれほど自慢にしていた建物の思い出を残さぬため、
敵が許したその豪華な建物がその儘建っていることを許し給わず付近にいた信長
の子御本所(信雄)はふつうより知恵が劣っていたので。何らの理由もなく邸と城を
焼き払うように命ずることを嘉し給うた。城の上部がすべて炎に包まれると、彼は
市にも放火したのでその大部分は焼失してしまった”
“秀吉の軍勢は津、美濃、尾張の国に向い明智に加担した者は一人残らず生命を
奪われた。諸説が一致しているところでは、かのわずかの日々に既に一万人以上
が殺されたらしい”。

 殆どの大名は本丸が住居だが天守閣を住居にしたのは信長のみ安土桃山城の
本丸御殿は天皇が住む清涼殿と同平面を持つ、天皇を迎える為に造られたと云う
が標高180m安土山の麓から頂に築城された平城。北側に琵琶湖が眺望出来た。
 曾て。天正八年(1580年)安土城で多数の家臣を同席させ。宣教師のオルガンチーノ
とその弟子ロレンソ(盲目の日本人の琵琶師)3時間にわたり宗教論議をした。
 その後、二人を別室に招き、以前、宣教師が献上した地球儀を前にヨーロッパから
日本に至る道程を示させ「此の如き旅は大いなる勇気と強気心あるものにあらざ
れば実行すること能わず」その後に「汝らが此の如く多数の危険と海洋を超える
は或は盗賊にして何かを得んと欲するか或は説かんとする所重要なるに因るか」

 信長は記録に残るだけでも、永禄12年(1569年)フロイスとの最初の会見以来。他
の宣教師を含めて14年間に31回以上会見した。彼のキリスト教の教義や科学知識に
興味を持ち、彼等と議論を好んだ。しかし帰依することは無かった。オルガンチーノは
「ご尤もである。何故なら我等は盗賊にして、日本人の魂を心の悪魔の手より奪い
て其造主の手に渡さんが為に来れるなり」とのみ答え平伏した。

 スペインは大西洋を横断し西回りにアジアに至ろうとコロンブスの船団を派遣し米大陸
を発見、騎馬隊を送り込み中南米を席巻した。一方、ポルトガルは、当時、地中海か
らペルシャ湾を経てインド洋に至る地域はオスマン=トルコが支配して、インドや東南アジアの交易
独占していたのでアフリカ大陸を迂回しアジアに至る交易ルートを開拓しようと腐心した。
 その特権は1455年。ローマ教皇ニコラウス5世の勅書により認められていた。勅書
は【征服した土地の所有を認め、そこで法律を作り、税金を課し、修道院、教会等
の宗教施設を建てることが出来非キリスト教徒を永久に奴隷状態に置くことが出来る】
植民地支配と教皇の権威により正当化した。東回りのポルトガルと西回りのスペインが 
競合したのでローマ教皇は地球を二分割して両国の支配を許す勅許を与えた。しかし
その解決上の問題で地球の反対の地域で両国勢力圏が重なりあう部分が出来たが
 そこに日本があった、教皇も勝手に他国蹂躙して奴隷にしろとは呆れかえるゾ!
 司馬遼太郎氏「街道をゆく」の“南蛮への道”篇でも地球を分ける話載っている。

 日本に最初に到着したのは。天文十八年(1549年)F・ザビエルである。彼は日本を
強力なキリスト教国家にして葡萄牙の支配下に置こうとした。一方、西班牙は1565年。
フイリッピンのルソンを実力支配し中国、日本に触手を伸ばす。是が非でも早く葡萄牙は
日本を意の儘にする為九州の大物、大村純忠。大友宗麟、有馬晴信を手なずけた。
 ≪切支丹来朝実記≫に信長は心境を語る。
 「破天連方より、便毎に今年は日本人何千人か勤め、今年は何万人勤め入ると
  台帳に記して南蛮に渡すとか。宣教師が貧民病者を慈しみ、尚ほ此れ等の妻子
  眷属に一人前、金一銭ずつ與ふる等、弓矢を不用して日本を随さんと謀事、し
  かるに信長、南蛮寺の取沙汰あやしき宗門の様子及聞心の内には後悔しける」
 さらに≪実記≫に信長は前田徳善院玄以なる仏僧に。
 「自分は彼等の布教組織を破壊し、教会を打ち壊し宣教師を本国に返そうと思う
 がどうか」と諮問した。「もし、そのようなことをすれば忽ち一揆が起こること
 は間違いありません」と答えた。信長は今迄、宣教師を保護してきた政策を、
  「我 一生の不覚なり」と漏らした。
 ポルトガル商人が日本に齎したものは白糸や絹織物であった、贅沢品だが殆ど中国
産品でポルトガル原産品では無く。その役割は日中間の中継貿易だった。16世紀から
17世紀にかけて日本では銀の産出量は世界の30%を占めていて新大陸の銀と共
に重きをなしていた。極東の辺鄙な地を狙ったのもそこである。既にアジアでは明国
とイスラムの二大商業圏があり葡、西、蘭、英、仏が食指を動かしたが教皇の勅許持つ
葡萄牙が布教を先兵にやって来て大名に食い込んだ訳である。英はインド植民地と仏
との対立に神経を殺がれていた。信長は新しいもの好きで服装も南蛮物を好み黒人
を傍に侍らす程で地球儀で世界地図で唐・印度の先の国も宣教師に尋ね理解してた。

 しかし思ったより宣教師がかなりの戦国大名に食い込んでいるのを知り愕然とした
旗振り役は高山右近と大村純忠で、大友義鎮、有馬晴信、小西行長、右近の影響で
牧村正春、蒲生氏郷、黒田考高も信徒となった。細川忠興と前田利家はまだ大丈夫だ
 秀吉はどうか。秀吉は結局、信徒にはならなかった。彼の事をフロイスはこう書く。
“ロレンソ修道士は古参だが、五畿内のすべての諸候に知られており自由闊達に語らった
羽柴秀吉と過日、長時間談話に耽った。その対談中、冗談半分、ロレンソ修道士に対して
「もし、伴天連らが予に多くの女を侍らすことを許可するなら予はキリシタンになるだろう」
修道士はからかい半分に「殿下、私が許して進ぜましょうキリシタンにおなり遊ばすが良い
何故なら殿だけがキリシタンの教えを守らず地獄に行かれることになりましても、殿が信徒
になられることにより、大勢の人がキリシタンになり救われるからでございます」と言った
秀吉は大声を発して笑い満足げであった”(豊臣秀吉篇Ⅰ)註※1。

 信長の死で犯人がイエズス教会黒幕説もある。あの信長はそれ程対策に苦慮してた。
信長の死後。天正十五年(1587年)秀吉はイエズス教会の宣教師コエリュと問答してる。
 日本人を奴隷として葡萄牙人が国外に連れ出している事実を詰問した。それに対し
 その事実をコエリュは認め「葡萄牙が買うのは日本人が売るからである」と答えた。
  フロイスの「日本史」は私の持つのは、10冊であるが≪奴隷≫を本国に齎す事や
中国人を買い北米その他に売りつけることは公然の秘密であり、逃亡した奴隷達が
外地で日本人町、倭冦になり暴れまわる事中国人が華僑に保護されている知ってた
が一言も具合悪いからか、触れて無い、彼等の恥部だったのかも知れぬこの奴隷の
海外での悲惨さは家康もポルトガルを駆逐した後鎖国中であったが本国帰還する手立て
を模索している。この点は、後で機会をみて書きたい。

 秀吉は次第に彼等の動静に警戒心を持ち対策を練り始めた。

 註※1。羽柴秀吉は大阪城に夥しい婦女子をかかえていた。彼女達の約50名は
     織田信長とその息子なる貴公子がかって有していた人達でいずれも武将
     や貴人の娘であり、大いに寵愛され尊敬されていたがこれらの婦人達は
     秀吉夫人おね、北の政所の優位をみとめていた。秀吉の側室は十六人と 
     言われ浅井長政の娘、淀殿。京極高吉の娘、松の丸殿。蒲生賢秀の娘、
     三条殿。前田利家の娘、加賀殿。織田信長の娘、三の丸殿。織田信包の
     娘、姫路殿他であり好色な殿下をフロイスは軽蔑嫌悪し書いている。信長は
     側室名に敢えて、台所用具の名を付けていたというが、省略します。 

  予告。 次回は「三人の列聖」B・スビルーとファティマの3人の牧童、F・ザビィエル師の
     エピソードその次は「秀吉の対葡萄牙戦略」徳川家康「葡国から蘭国への傾
     斜」計3回ブログを書きたいと思ってます、激動の時代に、如何に武士の
     統領達は動いたかを推敲し描写しようと思います。  

 




 

 





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