長野県の中の町を行ったり来たりの生活が続いている。
アイスバーンでのブレーキの踏み方から、バッテリーが使えなくなった時のエンジンのかけ方、投雪機の動かし方から新雪の上を効率よく歩く方法、物を持ち上げる時に人体が最も力を加えることのできる物の持ち方から1人の力を倍ほどにするロープの使い方まで、雪国で生活をするというのは初めてのことだったが、その気候ならではの知恵や技術を目の当たりにしながら目から鱗をたれ流す毎日を送っている。
職場の一つである志賀高原ではワゴン車やスノーモービルが完全に埋まり、「仕方なく」かまくらを作って掘り出したりしていた。
正直言って、とても楽しかった。
仕事でも遊びでもなんでも、感謝してやる人と、感謝されるためにやる人がいるのだと思う。
感謝しながらやっている人からはプラスのエネルギーが出ていて、感謝されるためにやっている人からはマイナスのエネルギーが出ていることが多いような気がしている。
なにをするにせよ、どうせやるなら感謝しながらやりたい。
そんなことを言っても、やりたくてやっていたことがある時、突如としてやらされることになってしまう状況に遭遇することがある。…ような気がしている。
期待をされて、今までとは別の何かを求められて、なんだか自分もその方がいいような気がしてきて、そうやって少しずつ何かがズレてしまうような気がしている。
まぁ、ズレても別にいいのだけれど、それが感謝されるためだけにやっていることなら黄色信号なんじゃないかと思う。
1人になって考える、いったいなにが自分に感謝されるための行動をさせているのだろうか。
もしかすると他人の期待なのではないか、お前はこういう人間であってほしい、他人のそんな期待に応えるために何かを捻じ曲げている自分がいるのかもしれない、そんなことを思ったりする。
年末にiPhoneを失くした。設定を誤ったのかLINEのアカウントがぶっ飛んだ、その他、連絡先やその他アプリも初期化された。
それがとても気持ちよかった。
連絡先を一から構築しながら、もう出会うことのない自分(その人の前でないと出てこないと思われる自分)を想像する。
辛い気もするのだけれど、どこかで期待に応えていた自分がいた気もしていて、そういうもの(他人の期待にまみれた自分)から抜け出した時、なんていうかもっとそれらしいもの、というか自分が出会いたかったものが勝手に注ぎ込まれてくる気がする。
「何かをしたい」という感情(もしくは「何かをしたいと思うべき」という観念)を捨てたら、なんだか勝手に自分の元に流れ込んでくるものを楽しめる率が上がってきている。
世間的に言えば今日は「お休み」なのだが、
特にやりたいこともなかったのでなにとなしにこのブログを書くことを思い立った。
「仕事をする日」というよりは、
今日はスノーモービルに乗る日で、明日はレンタルショップでコーヒーをすすりながら働く日、明後日は積もった屋根雪を下ろす日で、その次の日は車のバッテリーをなおしてバーでお酒を作る日、さらにその次の日は寮でブログを書きつつなんか寮に設置されているボルダリングの壁で遊んでから夜は焼肉屋で働く日、みたいな感覚で、なんていうのだろうか、その感じがとても良い。
僕は基本的に怠惰な人間と思われるので、誘われるがままにそれを全力で楽しむことができれば、やることを探す手間が省ける。
人生を充実させるにはスケジュールの隙間を埋めろ!
みたいな概念が蔓延している気がしないでもないが、もしかするとなの逆かもしれない。
空白を作りまくれば勝手に人生は充実していくのではないだろうか。
と、カモシカが見守る道をブイブイ言わせながらそんなことを考えていました。