恋は盲目、パンチラはガン見〜Ryoji Harada〜

元は旅ブログ、海外行ったり、突然自転車で走り出したり、ちょっと自分でもなにすんのかわかりません。パルプンテ!

ちっぽけな嘘

2024-07-04 21:15:04 | 日記

日中の最高気温が25度を超え始めた。



騒ぐ胸から吹く風が、

夏の日差しで大きくなって

大人のページをめくっていく。

いつしか風は速くなって

瞬く間に僕らの自由時間が終わっていく、

そんなちっぽけな嘘。




久々に時間をかけてさっきまでもくもくと書いていた文章が、ボタン一つで消えていった。

書いた文章が消えて本当の意味でイライラしたことはない、イライラはしないのだが、多少もったいないとは思うので、せめてひと盛り上がりしたい一心でこのことを今書いている。

文章を自分で消去するたびに書いているが、消去直後でも同じ文章を書けることは二度とない。

良くなっているとか悪くなっているとかではない、感情には周期が色々あって、その小さな周期はものの数分で過ぎ去ってしまうから、同じ気持ちでいることがあまりないのだと思う。

鮭の大漁不漁も周期だし、氷期と間氷期も周期だし、帝国主義と共和制の流行りも周期だとおもう、貨幣経済も、情報社会も、個人主義も全体主義も人口増加も少子高齢化も周期だとおもっている。

今がたまたま、そうなだけなのではないか、極端な話、人を殺してはいけない、なんて思想も周期なんじゃないかと思っている。

ちなみに星のめぐりが〜、とか言うつもりは毛頭ない、星のめぐりなんてクソ食らえだ!

…言い過ぎた、星のめぐりについては知らないだけです、良いのかもしれない。(胡散臭いとは思っている)

 

何が言いたいかって、僕の書いた文章をとっとと返しやがれ!!!!!



(イラついてない)





今のくだりを通して消えた記事で何を書いていたのかはほとんど忘れた、人間の記憶なんて曖昧だ。

とはいえ、さしたる話題もないので前回記事の補足でもしておく。



あのとき何にイラついていたかって、きっと端的に、たいして仲良しでもないおっさんたちとキャンプしながら川下りなんてあんまり面白くないんじゃないか?

という簡単であろう予測が一切できなかった自分自身に苛立ったのではないだろうかと思っている。

 

大学生バックパッカーのように、行ったところをただ自慢してくるおじさんといて疲れたというのは事実だし、そのこと自体はあながち間違えていないのだけれど、ひとつ違っていたかもなと思う所が、そいつといるのが疲れたのではなくて、我慢しているのが疲れただけなんだと思う。

改めて僕は人間嫌いなのかなって思ったけれど、その直後の白老町でのイベントは楽しかった。

きっと人間が嫌いなのではない、我慢するのが嫌いなだけなんだと思う。

 

我慢をしなければ良いのだとおもった、「あなたの話は面白くない」とちゃんと言えればよかったのだと思う。

 

いや、それが言えたら苦労はしない、そんな気の強さを持っていたらこんなブログ書いていない気がする。

もっといえば事はそう単純なことではないのだと思う。

 




人間は社会を作る生き物なので、様々なしがらみの中で生きなくてはいけないのが世の常だと思う。

都会の喧騒としがらみに疲れた若者が田舎に癒しを求め引っ越した結果、田舎のほうがしがらみや監視の目が強いわ、噂は瞬く間に広がるわで疲弊しまくって結局街に帰ってきた、なんて話も聞いたことがある。

田舎のしがらみを逃れる為に都会にやってきた若者の子孫が、都会のしがらみに疲れて田舎を目指すのもなんだかおもしろい。

これも周期なのかもしれない。

 

(ちがうかもしれない)



自分で仕事を始めるとたまに仕事のアドバイスみたいなのをもらうことがある。

「これをしたほうが良いよ」

「あれは儲かるよ」

僕が毎日川を下ったり、収益化していないブログを10年以上書いている話をすると以下のようなアドバイスをいただく。

「10年後にはそれがいくらになるの?」

「早く収益化しないと!」

今日は書いた文章が消えて謎のセルフ免罪符モードなので乱暴な言い方をさせてもらう。

 

 

うるせぇ

 

 

僕の周りの環境なのか、世の中なのか、この国なのか、全世界なのかは不明だが、なんだかよくわからないけれどやってしまうこと、「そんなこといつまでやってるんだ?」と言われてしまうこと、に世間が厳しすぎるように思う。 

いや、でも少しは優しくなってきているような気もするけれど。

 

とかく、謎のアドバイスが蔓延する傾向にある、それがうまいこと行く場合もあるが、それがありがた迷惑となる場合も少なくない、「そんなの無視すればいいじゃない」に関してはこのタイトルを最初から読み直してほしい、こちとらそんなことできたら最初から悩んでなんかいない。

 

アドバイスと当事者の不適合に関しては、おそらくゴールに違いにある。

アドバイス勢のゴールは大抵「収入の増加」である。

それに対するものが抽象的になるが「なんか、この方がいい感じになる気がする」である。

前者は言語化が可能で、後者は言語化ができない、社会的に市民権を得るのは前者となる場合が多い。

 

だが、この「なんかこの方がいい感じになる気がする」を侮ってはいけないような気がしている。

 

勘違いされそうなので書いておくのだけれど、収入の増加は大歓迎だし、利益を求め続けることを否定するつもりは一切ない。

僕だってなれるものならお金持ちになりたい。

ただ、稼げるからという理由で「なんかこの方がいい感じになる気がする」を潰して良いわけではない。

 

そんな気がするけれど、どうなんだろう。

 

わからないな。












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悪くない人生は、悪くない

2024-06-28 05:46:06 | 日記

北海道三笠市の道の駅にいる

カナディアンカヌーの練習をしたいから貸して欲しいと言われ、

言われるがままにしていたら天塩川という川で一泊二日のキャンプ旅みたいなことをオッサン達とやることになった。

結論から言うと、二日間ひたすらキャンプ道具を運び、間にはおっさんの自慢話に付き合わされ、さらに終わる頃にはカヌーをボコボコにされて終わったのだが、ここでイライラしていては男が廃る。ということで、最高の反面教師を見つけたな、ということで自分を抑えることに成功した。

 

そもそもこれは僕の書き方が悪い、これでは完全に被害者ではないか。

被害者は端的にダサい、相手に期待をしている証拠だ。

期待は自分に寄せるものであって他人に寄せるものではない、

誰かに期待をした瞬間にそれは甘えになるのだと思う。気をつけようと思った。

 

人間の行動原理は大きく分けると、愛か恐怖だけなのではないかと思う。

愛を原動力にして動いている人は騙されたとかやられたとか絶対に言わない。

だいたいいつでもニコニコしているし、ニコニコできない場所からはそっと離れる傾向にある。

 

一方で恐れをベースに行動すると、他人を疑いの目で見るようになり、

打算が増え、お金の勘定にシビアになり、少しでも期待を裏切られると、騙されたとか言って騒ぎ始める。

多くの人が得をしようと動くこの世界において、いつ騙されるかわからない恐怖と共に日々を過ごすのはあまりにも酷だ、彼らは結局のところ「愛してちょーだい、愛してちょーだい!」と叫んでいるのだと思う。

叫びまくった結果愛してくれなかった人を人は憎んでしまう傾向にある。

しかし、憎しみで憎しみを洗うことはできない。

憎しみを抱えている人は孤立している。「どうして俺だけ」「なんで」「どうして」が止まらなくなる。

その逆は「全体に溶け出している」だと思う。

山を歩いている時、1人で川を下っている時に「俺が俺が」となることはほとんどない。少しオカルトな言い方になるが、自分が世界と一体となっている時に憎しみの感情は生まれない。

憎しみも浮き彫りにしてしまえば、あとは愛情なりなんなりで包み込んで仕舞えばいいのだと思う。

気をつけようと思った。(2回目)

そんなわけでここからは出来るだけ憎しみを取っ払って書いていきたい。

天塩川に同行したのは同業のオッサン2人だったのだけれど「これをやったら稼げるとか」「同じことをやっていたら飽きちゃうよ、そんな人生つまんないんだよ」みたいな講義と、あとなんか酒を飲んで政治の話をしていた気がする。

 

お金の稼ぎ方や守り方を語る人は多いが、お金の使い方に言及する人は少ない。

健康を維持する方法に詳しい人は多いが、健康な身体の使い方を語る人は少ない。

命も健康も守るためにあるんじゃなくて使うためにあるんだと思った。

健康を守るのが悪いことなのではなく、順番が逆なのだと思う。

使うが先にあって、守るが後のような気がしている。

 

同じことを繰り返す毎日を否定する人はHUNTER×HUNTERのネテロ会長の正拳突きの所を読んでほしい。漫画なのでフィクションだが、同じことを毎日するパワーは半端じゃない。

一つのところに留まる相手をリスペクトができない人は、移動した先で親切にされる意味を理解していないのだと思う。

そのオッサンガイドは「僕は地元じゃないから、何か言われそうになったら離れるんだよ」みたいな事を言っていた。これでは地元へのリスペクトが皆無だ。上手いこと地元の皆さんとバランスをとって大切に事業にしてきた人たちへの冒涜と取られてもおかしくない。

同じことを続けることで掃き溜めの汚いところが見えてくる、汚いところをさらによく観察すると、それは汚いではなくて、栄養がたくさん詰まって微生物がたくさんいるところでした。なんてことがたくさんある。

上辺の綺麗なところだけを掬って見せるだけの人間にはなりたくない、もっと深く潜ろう、汚いものの先を見に行こう、それが本当に汚かったとしても、そこの解像度の違いはいつか自分を救ってくれると信じている。

と、ここまで書いてからの違和感がすごい。

批判は良くないと書いてからの謎の批判パートを挟んでいる。

あとで読んで恥ずかしくなるやつだが、後学のために残すことにした。

ここから内省に向かいたい。

 

批判の多くは嫉妬が原因で、特に多いのは「自分は〇〇してるのに〜」という類の嫉妬がとても多い。

自分の方が詳しいのに、自分の方が勉強しているのに、自分の方が長い時間をかけているのに、相手の方が得をしているように見える。

これをなんとか否定したくて批判をする。

しかしこんな生き方は猛烈にダサい、ダサいとわかっていてもやっている自分はもっとダサい。ただ、これを辞めようとは思わない、おそらく人間という種としてこの機能はある程度実装されているのだと思う、どうしてもやってしまうダサいこと、ダサい直後の動きが大事だ。

他人を批判して、誰かが得をすることはほとんどない。選挙のニュースを見ていても本当にそうだなとおもう。速い話が他人の不幸を望んでいるのだ、しかし、他人の不幸なんてものを望んだ時点で、精神的に下劣な存在に成り下がる。

そんなことよりも自分に集中しよう、自分で自分の価値を下げる必要はないのだと思う。

 

朝の水気を含んだ重たい空気が、朝日に温められて生ぬるい。

朝からいろいろ胸くそ悪いことも書いてしまったかも知れない。

なんだかんだ言っても自分のドロドロしたものを吐き出すことは大事だと信じている、ハイセツアイサツヨリタイセツの精神で行きたい。

あらゆる欲望を抱えながら今日も一定数の人が最高の人生を歩みたいと願っているんだと思う。

ただ、よく考えると最高の人生がどんなものなのか知っている人はいないのではないだろうか、人生の二周目みたいなのがあるのかは知らないが、基本的にはみんな人生のアマチュアだ、自分にとって最高な物をみつけるのと同じくらい、自分にとってどうでもいいことを知ることも大切なことなんじゃないかと思う。

つまるところ最高の人生ってよくわからないから歩めるかわからないな、と思っているのだけれど、悪くない人生なら歩める気がしている。

そして悪くない人生は、悪くない。

悪くないの中にいろいろ入っているのだ。

昨日と一昨日のあの出来事を、僕は、悪くない人生の箱に大事にしまっておこうと思う。

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背に腹を変える

2024-06-24 10:18:13 | 日記





雨雲レーダーの通知アラームで目が冷めた。

窓際の水滴が賑やかなのにさびしい、

起き上がってお茶を淹れる

戸棚を漁ると少し前にもらった羊羹が出てきたので包装を剥いてかじる。

何も予定がない日は甘いものと煎茶でやめられないことをやろう。

 

上記を要約すると「苫小牧の自宅で羊羹を片手にこの文章を書いている」となる。

なんなんだこの回りくどい言い回しは、と思った方は正解だ。

僕もそう思っている、しかし、要約なんてクソ食らえだ!と思っている自分もいる。

どっちかではない、どっちもだ。自分で書いておいて上の詩は結構好きだ。でもそれはどっちでもいい!





前回の更新は5月だったと思う、何人かの方にブログ読んだよ!とか、続けてほしいよ!と言っていただいて、正直めちゃくちゃやる気になる。

ただ、それで書ける書けないは別の話だったりもする。

想いを文字に書き起こすことはつまるところ、溢れ出た感情を供養するみたいな所があって、嬉しいとか、悲しいとか、イラつくとか、不思議だとか、そんな溢れ出す言葉未満の感情を一つ一つ拾って、届ける先をなんとなく想定しながら文字にしていく作業のような気がしている。

特に悲しいとか苦しい、さびしいは文章にしやすい。

きっと負の感情のほうが寄り添いやすいのだ。

救いを求めて文章にすがろうとする人が、アゲアゲホイホイな文章に心を動かされることは少ない。

もっと言えばアゲアゲホイホイな言葉たちは軽く見られがちだ。

「お前は幸せそうだから寄り添う必要はない」とでも言うかのように、人は元気そうに見える人をみると、その人は放っておいても大丈夫、とおもうようになり手を差し伸べられることは少ない。

しかしどうだろう、明るく振る舞っている人、少しのことでは傷つかなそうな人ほど、過去にはいろいろあったのではないかと勘ぐってしまう、美しいものは大抵終わりが伺える、美しいものは常に悲しみを内包しているのだと思う。

もちろん底抜けに明るい人もいると思う。そもそも明るいとか暗いとか、2極構造でモノを考えるからややこしいのかもしれない。どっちかじゃない、どっちもだ。

書いているうちに、全然違うんじゃないかって気がしてきた、そもそもアゲアゲホイホイってなんだよ。

意味分かんないよ、アゲアゲホイホイ。





今でもほとんど毎日川を下っている。

こういうことをしているとたまに「あなたは何を目指しているの?」というようなことを言われたりする。

何を目指すとかではない、こういうことを真顔で言えちゃう人が子供や若者の将来を微妙にするのだと思う、子供たちは嬉々としてアリの巣に手を突っ込み、思いっきり水たまりを踏んづけ、今日下ろした服を泥々にして家に帰る。こうやって免疫を手に入れ、アリの巣が果てしなく続いていることを知り、砂は水で固まることを覚え、20年後あの頃洋服を洗ってくれた親に感謝をするのだ。



最近人様の犬と歩くことが多い、犬と歩くこともそれに近い。犬と歩いていると彼らは急に立ち止まる、そんな時に急かしたりリードを引っ張るまえに立ち止まりたい、犬には犬しか見えていない世界があるのだ、我々が止まらないのに犬が立ち止まったときは、彼らにだけ何かがみえているときだ、彼らにしか見えていない世界を少しでも想像させてもらいたい。

どんどん画一化される世界でセンス・オブ・ワンダーを磨く方法は、子供や犬、野生の動物がよく知っているような気がする。彼らから学ぶことは本当に多い。






毎日川を下って、毎日最高!という時期など、正直とっくに過ぎている、それでも新しいものに出会えたり、いつもの動物や植物に出会える、同じ川を下っても同じ一本などありえない。

一人で寂しいなと思うことがあっても、何かしらの音は必ず聞こえてくる、音があるうちは大丈夫だ、寂しくない、ないものではなく、あるものを意識できているうちは楽しい。一人で生きるのではなく、世界を生きているのかもしれない。



調子が悪い時に、「調子が悪い」と言える人は強い、調子が悪いを客観視すると、いつか終わることがわかる。物理的に落ちている時も視野が狭くなるが、精神的に落ちている時も同じように視野が狭くなる。そういう時に視野を広くする訓練は、何回も落ちる以外の方法を僕は知らない。





なんだか強い言葉を使いすぎてしまった。今はもっと楽しい話をしたい。

最近は面白い人たちとたくさん知り合った。

面白い人たちの共通点は、自分を追いかけていないところだと思う。

もっと正確に言うと、自分以外のものを追いかけているところだと思う。

愛されたいとか、注目を集めたいとか、家庭環境とか、コンプレックスとか、そんなことはどうでもいい人たちが面白い。

野生動物とか、美しい詩とか、黒潮とか、ヒグマとか、苔とか、虫とか、異性とか、そういうものを追いかけている人たちはいつでも元気そうだ、極端な話、ヨガとかアロマテラピーとかを妄信的にやっている人はそれをやっている理想の自分を追いかけているように思う、これは似ているようで全く違う、クレイジーなやつとクレイジーになりたいやつが全く違うのとおなじだ。

対象物をちゃんと追いかけている人は子どもたちが聞いてもワクワクする言い方ができる、つまるところどんな人にも伝えられる熱量がある。






いくつになっても人には大人な部分と子供の部分があるのだと思う、子供が早く大人になりたいと思っている横で大人は子供に戻りたいと思っていたりする、どちらが良いとかではない、どちらも良いのだ。

あらゆるものは円形運動をしているのだと思う、最高だと思うものの多くは通俗と脱俗の狭間を漂っている。

極端にどちらかに振れてしまうと瞬間最大風速は出るが滅ぶ、もしくは全く靡かない。

どっちが良いとかではないのかもしれないが、どうせならできるだけたくさんの最高と最低を味わっていきたい。

 

背に腹は変えられないとか言っている場合ではないのだ、清濁含めて全部取りに行くのだ。

これからもバンバン背に腹を変えていきたい。












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どうしても許せない本

2024-05-17 17:53:53 | 日記

北海道苫小牧市にいる。




いつから書いてなかったのだろうかと前の記事を読んだら昨年末でアゴが外れかけた。

半年近くご無沙汰しているからか、何を書けばいいのかなかなか思いつかない。

 

今年のはじめはセネガルで兄の和食屋の内装を作っていた。

気がついたら色んなところで大工仕事をするようになっていたが、未だにまともにお金をもらって大工仕事をしたのは9年くらい前に長野県の斑尾高原で立ち上げるバーの内装工事を手伝った時だけで、それ以来大工仕事で給料を頂いたことは一度もない。かく言うこの時がうまれて初めて大工仕事をした時なので、一番腕が悪いときにお金をもらうのもなんだか不思議なものだなと思う。

くれるものは貰うし、くれないのなら別に構わないと、終わってからとやかくは言わないようにしている。

それが原因で疎遠になることはあったかもしれないけれど…

前回の記事でミミズについて調べた、なんてことを書いたが、今回自分で仕事を始めるにあたってつけた屋号がミミズ(厳密にはミミズを意味するアイヌ語)であったことに何故か自分で驚いている。

屋号は「トイモク」といいます、漢字では「問木」と書きます、子供の頃によくつぶやいていた謎の単語、問いと木が好きなこと、アイヌ語で「ミミズ」であることなどが由来です。どうぞよろしくおねがいします。(急に…)

3月に日本へ帰ってきてからは、物件探しと、職場探しに明け暮れていたように思う。

お陰で手頃な物件と、良い川(職場)が見つかったと思う。偉いぞ自分。

空いた時間は小説と抒情詩を読みふけっていた。

世に出ている良い作品の多くは、これでもかというほどに自身を掘り下げては広げ、別のところからまた掘り下げては広げ、それを何度も繰り返しようやく爪の先が触れるようなかすかな感触を見つけて、慎重に手繰り寄せて、丁寧に洗練してようやく完成するような、こんな陳腐な表現では到底物足りないような境地から書かれているように思う。

なんて卑屈になっても何も起こらないのだけれど、それほどまでに圧倒されてしまう作品が多いのは確かだ。

中には「どうしても受け入れられない作品」のようなものもあるのだけれど、受け入れられる作品とそうでない作品の境界線がよくわからない。

どうしても受け入れられないのなら、どうしても受け入れられないまま行くしかないとは思うのだが、人間欲張りなもんで、どうしても受け入れたくなってくる。なのでその本をもう一度読む、ダメだ、受け入れられない。

そんなことを悶々と繰り返しながら、気がつけばゴールデンウィークが終わっていた。

 

一人でいるのはさみしい、

さみしいは必要な感情だ

一人だと何にもありつけない、

だから探しに行く

一人にならない方法を、

さみしいのは嫌だから

 

群れから追い出されたオオカミは遠吠えをする

群れのオオカミはそれに誰も応えない

それでもオオカミは遠吠えをやめない

さびしいのは嫌だから

ある晩、同じく群れを追い出された別のオオカミから遠吠えが返ってきた

オオカミたちはさみしいがあるから出会えた

 

こんなことを深夜のテンションで勢いまかせに書くからあとで「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」となるのだ。

こんなの勢いで投稿するしかない。


いっけぇ!!
























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悟ってない僕ら

2023-12-29 08:05:00 | 日記
セネガルのダカールにいる。



人間をやめてミミズになりたいと言う人がいたので、ミミズについて調べたことを発表した。

ミミズの語源は諸説あるが目が見えないことからくる「目見えず」か、ずっと土の中にいることから「日不見(ヒミズ)」から来るらしいとか、一つの個体にオスの機能とメスの機能を持つ両性具有だとか、4億年前から地球上にいるとか、ミミズの色が変わっているところを環帯と呼び、そこに生きるための全ての臓器が詰まっているとか、環帯以外は切られても増殖するとか、地球上のほとんどの土を作るのがミミズだ。

アスファルトの上でミミズの死体を見たことがある人はたくさんいると思うが、地中でミミズの死体を見た人はほとんどいない、地中から出てくるミミズはほぼその全部が生きている。生涯を通して土を作りまた、死してもなお、その身体を一瞬で土に変える、僕は思う、そこの上に木がわんさか生えればいいのに。

アスファルトの上で干からびたミミズにどうして柔らかい落ち葉の上にいないのかと問うたら、長生きするために生きているのではないのですと答えた、とある詩が日の目を見ることはないのかもしれない、それでもその詩はちゃんとそこに存在して僕らの地面を作っているのだから、本当にミミズらしいというか。

ミミズの少ない地域にミミズを連れてくると、瞬く間にそこの生態系が変わり、森の元々の姿がなくなってしまったという話もある。

ミミズが少なければ少ないなりのバランスの取り方がある。



人間の歴史は悟ってない者たちが作ってきたのでは、という話がとても腹に落ちた。

悟るという表現が正しいかはわからないが悟った人間は「俺が俺が」とはならないのではないか、悟った人間はその時点でそこにあるだけなので、歴史に名を残すことが少ないのではないか、キリストやシッダールタやムハンマドは民衆が神輿に乗せただけで本人たちが「俺が俺が」していた可能性は低いのではないか。
最近はそんな話にもわくわくしている。


美味しいものが一万個あるように、楽しいこともきっと一万個くらいある。
美味しいが一万個あったら不味いが一万個あるのかはわからないので、楽しいが一万個あったら楽しくないが一万個あるのかもわからない。

一万個あるかはわからないが嫌いなものは確かに存在する。

嫌いなものからは距離を置こう、好きな人と生きよう、好きなところに行こう、好きなことをしよう、最近のトレンドだ、大いに結構だと思う。

ただ、嫌いなものが育ててくれる感性もある。嫌な感情と向き合う時は当然嫌な気持ちになるが、嫌な気持ちにになる道は新しい道が多いので新しい発見も増える。体調次第だけれど。

そのままでいいよ、いい調子だよ、ありのままでいこうよ。耳障りのいい言葉は人間関係を構築するのにとても便利だ、こういう言葉を使うと敵が減る、あと本当のことを言わないでおだてるとお金がもらえるらしい。自己啓発セミナーも占いも、みんなが本当のことを言わなくなった世界に思える、そういう世界はなんだか怖いなと思う。

悟ってない僕らの悟ったフリ。



















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