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異才が語る現代芸術? ミシェル・ウェルベックの小説『地図と領土』を読む

2017-09-16 13:52:16 | 書評
 先般読んだミシェル・ウエルベックの小説、『服従』に続いて『地図と領土』(2010年邦訳は2013年)を読んだ。この作品は、以前読んだ『素粒子』(1998年)と最新作『服従』(2015年邦訳は2017年)との間に書かれている。
 『服従』と『素粒子』が近未来にまで時間が及ぶSF的な色彩を持っていたのに対し、『領土・・・』は一見リアルタイムのように見える。しかし、読み進むにつれてその最後は2046年であることがわかる。ただし、その近未来に何か突飛なことが起こるわけではなく、先進国においてのポスト産業社会化が淡々と描かれて終末に至る。

             

 この小説の一番面白いところは、作者のミシェル・ウエルベックその人が「登場人物として」でてくることである。作家が登場人物であることなどさほど珍しくはなく、一人称として「私は」と語られる作品は山ほどあるし、日本のいわゆる私小説というのはまさに作家の自己顕示そのものであろう。
 しかしこの小説における作家の登場はそうではない。彼は、重要な役どころではあるが、映画でいったら助演者としての登場で、会話での発言以外に「私は」で語ることはない。ようするに、あくまでも、「登場人物として」出て来るのだ。
 彼についての言及はもっぱら主人公であるアーティスト、ジェド・マルタンによる観察や世間の眼差しでもって描写される。
 
 つまり、ミシェル・ウエルベックは、主人公やその周辺から観察される対象であり、その観察され見られている様子そのものを他ならぬミシェル・ウエルベック自身が書くという一見煩雑な入れ子状をなしている。
 だから、ここに登場するウエルベックは彼の自意識である面もあるとはいえ、たぶんに創作された人物でもある。ただし、彼が、『素粒子』などの作品を書いた著名な作家であるという設定は変わらない。

 彼と、主人公ジェドとの対話はけっこう面白くて、それがこの小説の重要な前半をなしているのだが、なんとそのウエルベックが、後半に至るや、死んでしまうのだ。しかも、猟奇殺人事件として惨殺されてしまうのだ。
 その殺され方たるや凄まじいもので、警察の鑑識課員たちがパニックに陥り、嘔吐するなど仕事にならないくらい凄惨なのだ。
 ウエルベックは、自分がかくも無惨に殺されるさまを、どんなふうに書き進めたのだろう。読者の驚愕を先取りしながらニヤニヤしながらペンを進めたのだろうか。

              

 ここから一変、物語は警察(二人の刑事が面白い)による犯罪追求の推理小説のような趣をもつのだが、実際にはそうならず、突如あっけなく事件は解決し、残されたアーティスト、ジェドの物語へと戻り、そしてその最後2046年にまで至ることとなる。

 こう書くとなんだか波乱万丈にみえるが、内容はシリアスで、現実のアート、あるいは小説をも含めた芸術活動への問題提起を含んだ「美学」ないしは「哲学」的な考察に満ちている。
 主人公は、その点で小説家、ウエルベックと意気投合していて、ジェドのタブロー時代の最後の作品は、ウエルベックの肖像画となる。

 アーティスト、ジェドは、最初、ミシュランの地図の写真や、さまざまな「商品」のカタログ写真風の作品でデビューし、それがある程度評価されるや、それをあっさりと放棄し、ついでタブローを手がける。
 そのシリーズは一貫して現実に活動している人物をその場面において絵描くというもので、例えば、「ビル・ゲイツとスティーヴ・ジョブス、情報科学の将来を語り合う」といったものや、あるいは彼が関わりあった娼婦の肖像であったりで、ようするに実在の人物(著名人については実際に現存する時の人たち)であり、それらのお披露目の個展のカタログにはミシェル・ウエルベックの長い一文が載るという仕掛けになっている。

           
 
 このシリーズはまたまた大成功で、一枚が何百万フランで流通し、彼は一躍、富豪になることとなる。
 しかし、これもまた、最後のウエルベックの肖像をもって筆を折ってしまう。
 そして、ウエルベック殺害事件後は、父祖の代からの田舎に引っ込み、広大な土地を買い、それを「領土」として、ほとんど隠棲のような生活を送る。
 しかし、彼の死後明らかになったのは、彼自身商品化しようとはしなかった作品の制作で、ヴィデオで延々、自分の領土内の自然を撮り続け、それらをオーバラップしたり、さらには産業資本によって生み出された商品群が風化し、色あせ、崩壊していく像と重ね合わせたりしたような作品ならざる作品を残したというのだ。

 ここに至ってこの小説が、「何もかもが市場での成功によって正当化され、認められて」ゆく風潮に抗う姿勢に貫かれていることがわかる。主人公、ジェドはその立場で、かつ、「テーマなどにはなんの重要性もない」「ただ形象化の活動のみに価値がある」といった現代芸術への反発という点でミシェル・ウエルベックと共鳴し合うのだ。
 そういえば、ウエルベックの小説は、どれも極めてアクチュアルなテーマ性に満ちている。

           

 途中で挿入される、ジェドがその老いたる父親と最後のディナーを共にするパリの雪の夜の会話が印象的である。彼の父親は、建築業者としてリゾート建築などキッチュなものを手がけて成功するのだが、いまは引退して老人ホームでわびしく暮らしている。その父が、ジェドとのほとんど最初で最後の会話で、自分は建築業ではなく、建築家になりたくて様々なコンペに応募したことのある青年時代のことを語る。彼のひとつのイメージは、奇想天外な共同体のありようをその実現さるべき建築とともに構想したかの空想社会主義者、シャルル・フーリエにも関連する。
 だから、機能本位のバウハウスやル・コルジェビをも肯定することができない。その彼が、「市場の論理」に敗北してキッチュな建築を余儀なくされ「建築屋」で生涯を送った事実には同情を禁じ得ない。

 「市場の論理」への抵抗といったが、主人公のジェドそのものが、それを超越しようとしながら、その作品が二度、三度と市場に評価され、巨万の富を手にするというのは皮肉というほかなない(実在するミシェル・ウエルベックも巨万のと実を得たかどうかは知らないが「市場」で成功していることは間違いない)。

 ただし、主人公のジェドがそれを目指してきたこともまた間違いない。その作品の系列をみるや、地図を対象としたり、カタログ的なものの写真などは無機的な記録そのものをさらに記録するという超越性を目指しているし、具象的なタブローに描かれているのは情報の生産現場、あるいはそれの残滓や余剰のようでもある。そして最後のヴィデオ作品は産業社会そのものの崩壊を記している。

              
 
 この小説は、現代アートに暗い私にも示唆するところが大きかったのだが、それらに興味をもっている人たちが読んだらより深い対話が成り立つのではないかと思った。
 なお、主人公ジェドの各作品は、ウエルベックの筆によって描かれているのだが、実際にはどんなものであったのかは、私の貧しい想像力でイメージするほかないのはもどかしい。ウエベリックはどんな具体的像として、それを思い描いていたのだろうか。

 

ジェドのどうしても描ききれなくて、結局、自らカンバスを破ってしまった作品に、「ダミアン・ハーストとジェフ・クイーンズ、アート市場を分けあう」というのがしばしば出てくる。
 この二人の固有名詞だが、私もよく知らないので調べた所、前者は、牛の死体をホルマリン漬けにするなどの奇抜な作品で知られるいわゆるコンテンポラリ―・アーティストであり、後者は、アンディ・ウォーホル風のキッチュな素材を使ったアーティストらしい。
 で、彼らを題材とした作品を完成し得ないところに主人公、ジェドのいわゆる現代芸術批判があるようで、それはまた、ウエルベックのそれと重なるようなのだ。


『服従』についての感想は、9月4日付けで掲載している。これも面白かった。

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