六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

正直タロウさんとセーフティネット

2008-11-30 01:53:59 | 社会評論
写真は本文とは関係ありません。近所の「名残の紅葉」です。

 タロウさんはとても正直な人です。
 「何で貧乏人や病人のためにお金持ちの自分が懐を痛めねばならないのか」とおっしゃいます。

 みんなが努力さえすれば、お金持ちになって自己責任で健康管理が出来、保険など必要ないのだというのがその根拠なのでしょう。
 本当にそうなれば、保険の問題とか年金の問題は一挙に解決しますね。
 さすがタロウさん、立派なお考えというほかありません。

 

 しかしなぜか、タロウさんがよって立つブルジョア社会のお仲間たちは、タロウさんとは違う考え方をしていて、タロウさんのご発言に困惑すらしているようです。
 タロウさんのようなボンボンはいざ知らず、ほかの方たちは、資本主義というのは誰かが富めば誰かが貧困のうちにある体制だというリアリティをよくわきまえていらっしゃるからです。

 

 ですから、保険や年金などの福祉によるセーフティネットの必要性を認めていらっしゃいます。
 それは、労働力商品としての私たちの再生産を保障するためでもあり、また、格差社会がもたらす不公平感などを希薄化し、暴動など(あるいは革命などを)を誘発しないための必要不可欠な措置なのです。

 つまり、こうした一見、相互扶助に見える諸制度は、われわれ下々のためのように見えながら、タロウさんたちのお金持ちがそれであり続けるために必要な制度なのです。
 それをわきまえないタロウさんの発言は、天に向かって唾しているようなものなのです。

    

 とても無邪気なタロウさんは、自分が依拠している体制の仕組みがよく分かってはいないようです。いわゆる社会福祉が、タロウさんのお考えのようにお金持ちの憐憫によるものだという考え方は、19世紀末までのものでした。

 ついでながら、その分担金の負荷を庶民にまで強いる現今の福祉制度は、逆に、なぜお金持ちの体制を維持するためにみんなが負担を強いられるかと言ってもいいほどの制度なのです。

 

 要するに、タロウさんの言葉を借りて申し上げるならば、
 「たらたら飲んで、食べて、ブルジョア社会維持のためのシステムをも理解しないタロウさんのために何で私たちが金を払うんだ」
 ということになります。

 タロウさんは、ブルジョア社会の中にありながらその仕組みを全く理解せず、トンチンカンなことをおしゃべりしているのです。

 医師にも、そしてどんな職業の人たちにも、非常識なひとがどれだけかはいます(その比率は政治家ほどは多くはないでしょうが)。
 しかし、彼らとて、それをタロウさんにだけは言われたくないのではないでしょうか。

 

 マンガのお好きなタロウさんは、ついにはご自分がマンガになってしまわれたようです。









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「光あれ!」と叫んでみる。

2008-11-29 01:21:04 | 写真とおしゃべり
 花火は豪華だが一瞬で儚い。
 その点、冬のイルミネーションは、リフレインで何度も同じ像を見せてくれる。

 
          名古屋駅の今年のイルミネーション

 花火は遠花火というのも風情のうちだが、やはり多少近いところで観たいものだ。かといって、打ち上げ地点とは一定以上の距離を余儀なくされる。

 
        上のバリエーション。ツリーが赤くなっている

 その点、冬のイルミネーションは、その全貌が見える地点からも、またその電飾のまっただ中でも楽しむことが出来る。

 
          全体像が現れるまでのプレリュード

 花火を観る人も、イルミネーションの下を行く人も、みんな幸せそうである。私も含め、生きることに伴うお荷物をしばし忘れ、見入ることが出来る。
 苦悩のうちにある人も、係争のうちにある人も、愛憎のくびきに悩む人も、これら光の束のもとではくつろいだ気分になれる。

 
         イルミネーション下のバルコニーの人混み

 そこで愚考ではあるが、世界中で花火を上げ、イルミネーションを輝かせ続けたらどうだろう。
 ミサイルや劣化ウラン弾やクラスター爆弾を撃ち込む代わりにだ。
 あるいは自爆をする代わりにだ。

 
             とにかく楽しげである

 「世界は日の出を待っている」のだが、日の出がなかなかやってこない間のせめてもの慰みになるのではないだろうか。


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オレオレ詐欺も真っ青! 徳山ダムと長良川河口堰

2008-11-27 02:05:46 | 社会評論
 羊のように従順なのだろうか、私たちは?
 目の前でとんでもない倒錯劇が行われているのに・・。
 オレオレ詐欺も仰天の大ペテンが行われているのに・・。
 しかも、私たちの税金を湯水のように使って・・。

 11月26日、各紙の朝刊が伝えるところによると、国交省などが主導して作られた内部資料は、徳山ダムと長良川河口堰の有効利用のため、これを渇水対策用とし、さらに60億円を追加して工事を行う予定だという。
 今さら「有効利用」などとは聞いて呆れる話で、実は、これほどむごい話はないのだ。

 徳山ダムも、河口堰も、巨額の出費で完成させておきながら、その確たる用途が今なお宙に浮いているのが現状なのだ。
 1995年に、あれほどの反対を押し切って完成された河口堰は、毎秒22.5トンの水を産出しながら、実際に使用されているのは3.6トンに過ぎないのだ。それも、ほとんど押しつけに等しい状態での話だ。

      
               長良川河口堰
 
 要するに何の役割をも果たしていない無用の長物なのだ。
 「何の役割をも果たしていない」は言い過ぎかも知れない。
 河口堰は立派に次のような役割を果たしてはいる。
 まず、周辺のシジミをほぼ全滅させ、日本有数のシジミ漁場を壊滅させた。
 次いで、長良川の自慢ともいえる天然鮎の遡上を阻み、五月鱒(アマゴの降海型)を大幅に減少させるなど、降海型の魚類一般の生息条件を奪うという偉大な戦果をを挙げつつある。
 河口付近の汽水域というもっとも微妙な場所を堰き止めてしまうのだから、様々な弊害は当初から指摘されていたのにである。

 
                徳山ダム

 徳山ダムもそうだ。
 総経費3,500億円という日本一巨額な出費によって作られたこのダムは、最初は建設省(現国交省)による多目的ダム、次いで電力会社の発電用ダムとして計画されたが、その後は治水対策と位置づけられ、さらには再び、建設省の多目的ダムということになって現在に至っている。
 「多目的」というと聞こえはいいが、要するに、ただただ迷走するのみで、何のためのダムなのかが未だに定まっていないということなのだ。
 
 要するにこれまた、何の役割をも果たしていない無用の長物なのだ。
 おっと、やはり、「何の役割をも果たしていない」は言い過ぎかも知れない。
 このダムは、そこにあった豊かな自然と、それと共に暮らす山の民たちの住み処を全て奪い取ったのである。全村水没のかつての徳山村の人々は、故郷からひっぺがされ、各地に転居を余儀なくされた。
 また、その補償面でも、当初の約定すらろくに果たされていないのが実情なのだ。

 
          この膨大な水の下に徳山村はあった
 
 目的が定まらぬための悪あがきとして、導水管の建設計画などで新たに890億の税金が注入が既に決まっていて、その上にさらに、冒頭で述べた60億円が渇水対策という名で追加されようとしている。
 私たちにとって無用の長物であるこのダムは、それ故にこそ、その「有効利用」のためと称して追加の税を食らい続け、それにたかる人たちにとっては金のなる木であり続けているのだ。

          
             在りし日の徳山村本郷地区

 これはむごい話でははないか。
 もともと無用なものを、反対を押し切って作り、その活用と称してさらに金を注入する。
 社会保険庁が何十億を投下して作った保養施設などが、わずか10万円で譲渡されるというのもマンガチックな箱物優先のありようだが、この徳山ダムと河口堰では、もともと無用なものを作っておいて、それを逆手にとってさらに税を注ぐという全くもって酷すぎる話が進んでいるのだ。
 半端でない額の税を全く無駄に使っておいて、それを「有効にするため」にさらに税をつぎ込もうというのは、オレオレ詐欺があの手この手で金を巻き上げておきながら、オレオレ詐欺にかからないために暗証番号の確認をと称して、再び金を巻き上げるやり口と同様といっていい。

 
           やせ細った下流 旧藤橋村付近

 普通何か行動を起こすときには、まず目的を定め、その目的をもっとも効率よく実現するための手段が講じられる。しかしここでは、まずその手段と目されるものが作られ、事後的に目的が付与される。
 冒頭に、倒錯劇といった次第である。

 しかし、この倒錯は、それを見せつけられる私たちの側においてのみいえることで、それを演じている連中にとっては決して倒錯でもなんでもない。
 まずは税を特定のところへ落とし、その一部を政治資金や賄いとして還流させるのが目的であるのだから、ちゃんと所期の目的は果たしているわけである。それが倒錯として私たちに明らかになったのは、建て前の目的をくっつける段階で彼らが失敗し、もたついているからなのだ。

 同じ日、国交省の調査機関は、日本の道路交通量は人口減少などのせいで、実はそのピークが2003年であって、その後はドンドン減少していることを明らかにした。
 にもかかわらず、道路族はそれを無視して何が何でも道路々々と息巻いている。この事実は、交通網の整備や交通量の増加に備えると言った表面上の目的とは異なった真の「目的」が厳然として存在していることを如実に物語っている。

 再び自問する。
 羊のように従順なのだろうか、私たちは?

 










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中国の小説? シャン・サとダイ・シージエ

2008-11-25 04:20:09 | 書評
 写真は本文に関係ありません。晩秋の長良川です。

 なぜかこのところ中国の小説を読む機会があり、二人の作家のものを立て続けに4冊読みました。
 ただし、後で述べますように、これを厳密な意味で「中国の小説」といっていいかどうかは多少問題があるのですが。

 

 きっかけは、山颯(シャン・サ Shan Sa)という女性の作家との出会いでした。
 図書館の新規購入コーナーに彼女の作品があったのです。
 『美しき傷』がそのタイトルでした。
 
 パラパラとめくっていたら、登場人物のところに、主人公のアレキサンダーの家庭教師にアリストテレスが登場するとのことで、ちょうどそのアリストテレスについて若い人たちと読書会をしていることもあって、関心ををそそられたというのが発端です。
 今やギリシャを征服し東征の旅に出たアレキサンダー大王と、草原を勇猛に駆けまわるアマゾネスの女王の運命的な出会いのこの物語には、アリストテレスはほとんどちょい出でさしたる役割も果たしていなかったのですが、小説そのものは壮大なスケールで結構面白く読めました。

 

 こうなればというわけで、次いで読んだのが、『碁を打つ女』です。
 これは、1937年当時の満州国の千風(なんだか最近よく聞く文字の組み合わせですが関係ありません)という町の広場で、人々が碁を打ちに集まるのですが、その中にひとりだけ若い女性がいて、それがなかなかの打ち手なのです。
 さらにそこへ若い男が現れ、彼女と対局するのですが、こちらもなかなかの打ち手で、このふたりはそれぞれの背景を持ちながらも、この広場でのひととき、碁盤を挟んで出会うのです。

 この小説は、碁そものが黒と白との交互の打ち合いであるように、二人の主人公の交互の独白という形で進みます。
 これは冒頭から私たち読者には明かされているのですが、女性は抗日運動に連なっていて、また男性は抗日分子の動向を探る日本軍の諜報を担う青年将校なのです。
 二人は、それぞれ相手の素性を知らぬまま惹かれ合って・・・。

 私は小説の評論などは苦手ですが、シャン・サの叙述で感心するのは、30代の女性なのに、日本の旧軍隊や、日本国内での風俗習慣などについてよく勉強しているということです。
 日本の30代の女性は、よほど勉強しないと当時の日本をこれほど自然に描けないでしょう。

 

 さらにもう一作と読んだのが、『天安門』でした。
 これは文字通り、天安門事件で当局から追われる若い女性の物語です。
 これもまた、彼女を追う部隊の責任者である若い中尉がからみます。
 彼は、彼女の家の家宅捜査で手に入れた彼女の日記を読むうちに、彼女をどこかで理解し、許容するようにすらなってゆきます。そして・・。

 これはある意味で作家シャン・サの実体験と重なります。というのは、彼女は天安門事件の折りは高校生だったのですが民主化運動に関わり、弾圧の強化を逃れてスイスに脱出した経歴があるからです。
 その後彼女はフランスに住まいを移し、画家バルテュスのもとでアシスタントとして働き、その折、バルテュスの家族とも親交を結ぶのですが、そのバルテュス夫人は、節子クロソフスカ=ド=ローラ(旧姓・出田)といい、日本出身の女性でした。
 先に見た、『碁を打つ女』の日本に関する叙述の確かさは、この節子さんのレクチャーによるものではないでしょうか。

 最初に述べた、これを厳密な意味で「中国の小説」といっていいかどうかは多少問題があるというのはフランスで書かれたものだということを指しています。さらには、これらの小説は、全てフランス語で書かれています。
 私が読んだ順番は、皮肉にも発表されたのとは逆なのです。
 なお彼女にはもうひとつ翻訳されている作品があり、これは『女帝 わが名は則天武后』というものなのですが、図書館では貸し出し中でまだお目にかかれません。

    

 その代わりといっては作者に失礼なのですが、今度は男性作家、ダイ・シージエの『フロイトの弟子と旅する長椅子』という作品を借りてきました。
 この作家の名前に心当たりのある人はかなりの映画通です。というのは、彼のもうひとつの翻訳されている作品は『バルザックと小さな中国のお針子』といい、これは、『中国の小さなお針子』(2002)という映画の原作なのです。
 というか、この小説のヒットの勢いをかって、作家自らが監督としてメガホンをとったのがこの映画なのです。

 さて、『フロイトの弟子と旅する長椅子』に戻りましょう。
 主人公は中国で最初の精神分析医を名乗る男性ですが、内容はフロイトとはあまり関係がありません。前作の『バルザックと小さな中国のお針子』がそれなりにシリアスであったのに対し、この作品はたいそうコミカルに書かれています。
 ここで笑いの対象とされているのは、文革や天安門事件を経由してもなおはびこる党官僚を中心とした旧態然とした支配の構造であるわけですが、それに止まらず、そうした硬直した体制の外にあるかのようにしてそれを見下しているいわゆる知識人の非力さと非現実的なありようでもあります。

 ようするに、体制そのものと、その批判者とに対する二正面攻撃なのです。
 そしてその批判者の側とは、この小説の主人公の精神分析医・莫(モー)氏であり、作者そのものが属する知識人層そのものなのです。結果としてこの小説は、自嘲ともいえるシニカルなものたらざるを得ません。
 
 実はこの作家、ダイ・シージエも前作の『お針子』が示すように、文革時に農山村に下放(知識人などを再教育として農村村などへ追放した文革時の施策)され、その後フランスへと出国し、これまた、フランス語でこれらの小説を書いているのです。

 

 したがって、私の読んだ四つの作品が厳密な意味で「中国の小説」かどうかという冒頭での疑問符はまたもや残るわけです。
 文学に疎い私には、これが文学なのかエンターティメントなのかは分かりませんし、そんな区分が有効だとも思っていません(麻生氏のように浅薄なキャラやファッションのみを言い立てるのでなければ、マンガもまた、ある種のインパクトを持っているはずです)が、しかし、これらの小説のそれぞれが、現実的な重力または磁力のようなもののうちで書かれているという事実は否めません。

 これらの小説と、私が野次馬根性で覗いてみる、日本でなんとか賞を取ったものと比べてみると、日本のそれは、時代のファッションは散りばめてあるものの、幾分、私小説的なものへと後退しているのではないかと思えてしまうのです。
 もちろんこれは、文学や小説がなんたるかをわきまえない、いささか粗暴な感想に過ぎません。

 私としては、例え身辺の事柄を描いていても、そこに通時的(歴史的)なものや共時的(世界的)なものが現出しているものが好みです。いささか飛躍したいい方をすれば、私の自己同一性を常に揺るがせ、その他性へと誘うものが歴史という時間がもたらす差異であり、世界という空間の広がりがもたらす差異であると思うからです。
 
最近読んだ日本の小説で、そうした広がりを持つものとして面白かったのは、黒川 創の『かもめの日 』( 新潮社)です。初出の『新潮』2008年2月号掲載時に、感想を以下のように書きました。

  http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20080112




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それでも少女たちは輝いている! 映画『女工哀歌』を観て

2008-11-23 13:55:31 | 映画評論
 『女工哀歌(えれじー)』 原題『CHINA BLUE』製作年度: 2005年

    

 予告編も観ましたし、それへの評価を活字で読んだりしていましたが、「ああ、そのてのドキュメンタリーか」とあまり触手が動きませんでした。
 そうした私を翻意させたのは、東アジア映画に詳しくて、それが嵩じて中国へ中国語の勉強に一年間留学してしまったTさんという女性の次のような一言でした。
 「あの映画って、監督のいわんとするところと映像とがしばしばずれてるように思う」

 ならば観ておかねばなるまいと、名古屋シネマティークへ・・。
 完全ドキュメンタリーというより、監督(監督マイケル・ペレド アメリカ人)の編集による物語性の強い作品ですから、その意味では、各シーンの繋がりが明確で分かりやすいとはいえます。

 カメラは、彼女たちの悲惨な労働条件を、その現場や経営者(元警察署長)、それに退職した人たちの証言で、これでもかこれでもかと綴ってゆきます。
 今やワールドな商品となったジーンズをめぐって、そのグローバリゼーション化された製造と流通過程を解明しながら、その最下請けとしての中国の生産現場、その中でいかに利潤を上げるかといろいろ画策する経営者、そして過酷な労働を迫られる少女や工員たち・・。

 労働基準に関する法律は形式的にあるとはいえ、その現実的適用は望めないまま、いわば資本の原始的蓄積段階ともいえる状況のもとで、新興資本家がのし上がるためにあの手この手の搾取強化を行っているというのがよく分かります。

 

 しかし、こうした状況は、歴史的に見れば中国特有のことではなく、ヨーロッパでは19世紀の終半から20世紀の前半にまで続いたことでした。
 というより、こうした資本の原始的蓄積というのはここで終わりという過程ではなくて、かつての粗暴な形は影をひそめたとはいえ、日常的に続いているともいえます。
 原始的蓄積段階というのは、生産手段を保持し、ますますそれを強固にしてしようとする資本家と、自らの肉体を労働力商品として売る以外何も持たない労働者群とが明確に分離される過程のことで、時には暴力や詐欺まがいの行為によっても遂行されます。スタインベックの『怒りの葡萄』はそうした過程を背景にしています。

 この過程は同時に、商品生産とその消費へと人々を駆りたて、早い話が、それまで自給自足を主にしながら若干の交換で補っていたような農村などの第一次生産層にまで「金がなくては生きて行けない」状況を作り出します。
 いわゆる出稼ぎはこうした状況を背景に登場するのです。

 

 日本でも例外ではありませんでした。
 明治以降の富国強兵策の経済強化の中で、まさに数々の「女工哀史」や「女工哀歌」があり、「蟹工船」がありました。
 わが岐阜県でも、かつて飛騨の少女たちは野麦峠を越えて信州は岡谷の製糸工場へと奉公に出たのですが、その労働条件はこの映画と変わるところはなかったし、さらに陰湿な上下関係の中で、少女たちがその労働以外でも傷つけられ泣かされるのはざらでした。しかも彼女たちは、その給与を直接手にすることはなかったのです。
 私は数年前、少女たちが岡谷へ行くときに集合し、また岡谷からまとまって帰ってくる場所(今は旅館となっている)を見学しましたが、給与はその場所で、しかも、迎えに来た親に対して払われるのでした。
 いわば短期間の、それも毎年繰り返される、人身売買に他ならなかったのです。

 日本でのそうした過程の第二の波は、1960年代に発する高度成長の中でやって来ました。
 集団就職の列車は、大勢の少年少女を全国の津々浦々からかき集め、都会や工場地帯に吐き出したものです。
 映画『三丁目の夕日』にはそうした背景があり、その中での自動車工場へ就職のつもりがなんと町の修理屋だったというエピソードは特異なものではなく一般的だったといえます。

 

 渡されたパンフと労働条件や寮などの施設が全く異なることは日常茶飯事で、さらには、劣悪な労働条件はまだまだ生きていました。しかも、いやだからといって簡単に故郷に帰ることが許されない時代でした。
 私にも、卒業時に大都市へ就職した中学での同級生から、仕事はつらいし、始めいわれていたのとは全く違うという嘆きの手紙を、しかも二人から貰った経験があります。
 それぞれが、「だけど、これは親にはいわないでくれ」と付記していたのが今でも胸に迫ります。
 
 それに耐えきれなかった少女たちは、もう少し華やかな世界を夢見て、繁華街へと飛び出しました。
 ひと頃、名古屋や岐阜のグランドキャバレー(今のような陰湿なものではなかったのですが)のホステスさんの間では、九州弁が飛び交っていました。
 それは、この地方の集団就職が、主に九州からの人たちによって占められていたことを示しています。

 この映画に描かれている状況は、現在のグローバルな生産や流通のありようと、資本の原始的蓄積を強力に推し進めつつある中国の現段階とが合流して生じたものといっていいでしょう。
 その特異性があるとすれば、映画の中でも登場する、「共産主義的資本主義」というグロテスクな言葉に代表されるようなあり方ですが、これとて、「挙国一致の富国強兵」の変奏曲のようなものでしょう。

 
 
 以上、延々と述べてきたように、ここで描かれている事態は歴史的スパンの中で見れば、きわめて普遍的なものだということです。
 もちろん、だからこれでいいのだということではありませんが、かつて私たちも通ってきた道であることを棚上げし、それを言いつのるとすればそれは片手落ちであり、単なる反中や嫌中の範囲に止まってしまうことでしょう。
 この映画では、グローバリズムの中での出来事という視点はあるのですが、現在、先進国としておさまりかえっている国が、こうした過程を経てきたという歴史的な事実への批判的視点が希薄なため、中国の特異なありようとしての面が強調されがちです。

 もうひとつ、冒頭で述べたTさんの指摘に戻れば、監督はその悲惨さをしきりに強調しているのですが、そしてそれは私たちから見れば確かに悲惨かも知れないのですが、ここに出てくる少女たちはその悲惨さの被害者という規定に止まることなく、わずかな機会に乗じて自らを表現し、その青春を謳歌するために行動します。
 彼女たちの生き生きとした表情は、悲惨の被害者としての枠を超えてそのエネルギーを発揮し、むしろ、生命の輝きすら感じさせるのです。
 そしてその面から見ると、高みにたって彼女たちに憐憫の視線を浴びせるのとは違った視線が生まれてきます。

 この辺がTさんのいう、「監督の意図とのズレ」ではないでしょうか。
 だいたい、現在の中国において、その悲惨さを恨み辛み(ルサンチマン)として受け止めていたのでは生きてはいけません。年齢を偽ろうが、労働量を誤魔化そうが、規則の裏をかこうが、そうしたものを総動員して生きてゆかねばならないのです。
 そうした逞しさこそが彼女たちのエネルギーなのです。

 もしあの映画が中国で公開されても、彼女たちは、「あ、私たちは悲惨なのね」とは思わないでしょう。
 啓蒙主義者は、彼女たちの権利意識の希薄さを指摘するかも知れません。しかし、抽象的な権利意識では生きては行けないのです。だから、権利意識などとは無縁のところで、給与の遅配には自然発生的なストライキで応じるのです。しかしそれらは、理念を掲げた組織としては形成されません。
 これを権利意識の理念のみが空回りし、自然発生的なストすら全く影をひそめてしまった私たちの国と対比してみることが必要です。

 

 ですから、この映画を反転すると、逆境を逆境としてではなく、それを自然的条件として生き切るという青春の物語ですらあるのだと思います。それが、この映画が監督の意図とは微妙にズレながらも、あるいはそうであるゆえに、魅力的である要因ではないでしょうか。

 確かに、ああした状況は今日の私たちにとっては悲惨に見えるかも知れませんが、しかもそれは、中国特有のものに見えるかも知れませんが、それに対して日本の雇用条件がほんとうに勝っているといえるかは疑問を残すところです
 リストラという横文字で、一方的に首を切られたり、不正規雇用が一般化し、この不況の中で真っ先に職から切り離されている状況下において、われらの方が勝っているとするのは不遜でしかありません。

 繰り返しますが、私はあの映画に描かれた状況を肯定はしません。確かにあってはならないことかも知れません。
 しかし、このグローバル化の構図が一般化しつつある中で、それへの代替案(アルタナティヴ)を持たないままにその末端のみを告発したり、憐憫を与えるのでは出口なしだと思います。
 だとするならば当面は、その状況を逞しく乗り切ろうという少女たちへの応援歌を歌うしかないのではないでしょうか。
 
 加油! ジャスミンたち!


中国でのそうした労働強化のはじまりに、その労賃の安さに目を付けていち早く進出した日本企業が一役買っているという事実も見逃せません。
 私は、そうした中国で工場を持っていた経営者とよく話す機会があったですが、彼は、映画の中の経営者と寸分違わない言葉で中国人労働者のことを話していました。
 「厳しく躾けないと、主人の手を噛む」と。







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小春日和に誘われて・・。

2008-11-22 14:54:05 | よしなしごと
 久々の小春日和の陽気に誘われて、二階のベランダに布団を干しました。

 

 この布団の向こうが私の部屋です。

 

 別の角度からも撮りました。



 この暖かさに、水仙もぐんぐん伸びてきました。干した布団の下辺りです。

 冬への移行の中に、春が名乗りを上げているような光景ともいえます。





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拙日記の削除とそれに伴うお詫び

2008-11-21 00:34:06 | インポート
 昨日の日記に関し、よく考えたら、掲載した写真に顔などはっきりしたものもあり、プライバシーの侵害になる恐れもあると考え、削除いたしました。
 当初は、ネットなどで調べ、

>>弁護士の山口氏によれば、電車や街頭に座っている女性の胸の谷間を直立の姿勢で見るのは条例に抵触しないが、カメラで撮るのは逮捕の危険性ありという。また、街を歩いている女性を撮るとき、頭から足まで入った全身写真なら「美人なので撮った」と切り抜けられるかもしれないが、尻や胸、脚をアップで撮るとアウト。

 の記事に接し、あれならセーフと考えたのですが、例え法に抵触しなくても、プライバシーの侵害という点では同様と考え直し、削除を決めたものです。

 年甲斐もなく、軽率なものを掲載しましたことをお詫びいたします。
 なお、日記削除に伴い、お二方からいただいたコメントも消えることとなりました。
 折角、書き込みいただいたのに申し訳なく、重ねてお詫びいたします。
 とりわけ、やや迷いのあった私に反省のきっかけを与えて下さった、「 N響大好き。」さんに感謝いたします。

 掲載した写真の方々を始め、皆様へのお詫びに、我が家で咲いた遅咲きの菊をお届けいたします。

 
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読めない字当用漢字から外す

2008-11-18 15:37:57 | 川柳日記
 久々の時事川柳です。拙速の感は免れません。

 

  不景気を追い風にして居座る気
  本心は不景気続けいつまでも
  不景気が去れば手柄にするつもり

  ばらまきがばらつきとなる茶番劇
  呉れてやる有り難がれの給付金
  買収も政府がやれば給付金
  くれた分以上に消費税でとる

 

  昼下町夜はホテルのバー視察
  政務より葉巻やバーが似合う人
  読めない字当用漢字から外す

 

  作文が文民の統制笑う
  行間に軍靴の響き潜ませる

  落とし穴自分で掘って落ちるひと
  高名もいつか虚名になる定め
          (小室さん)

 

  乱高下してまた今日も胃酸過多
  株持たぬ身にも迂回をして被害

  惚れられで止められなくて出るくしゃみ
  隣家からくしゃみ聞こえる秋夜長
     類似句があったかも知れません。

 

  病床の母新米をもう研げず
    <昨年の句新米研ぐリズム確かで母達者




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面白うてやがて哀しき玉遊び

2008-11-16 01:01:31 | 写真とおしゃべり
 私の近くに大きな郊外型のパチンコ屋さんがありました。
 この近くをしばしば通るのですが、入ったことはありません。
 もっとも、ここのみならず、もう何十年もパチンコ屋さんへ入ったことはありません。
 あ、正直に言います。トイレを借りに入ったことはあります。

 40年近く前には、時折、今池のパチンコ屋さんに時間つぶしに行きました。
 その頃は、弾をひとつず左手で押し込みながら右手で打つというローテク・パチンコでした。
 あまりというかほとんど負けたことはありませんでした。
 当時はまだタバコを吸っていたのですが、タバコを買ったことはありませんでした。
 それのみか、店の顧客用の買い置きタバコも、それで補っていました。

 
       「パサージュ」の名のごとく栄華は通り過ぎて・・

 秘訣は簡単です。
 私がある台に座って弾き始めると、その店の店員さんが飛んできて、「マスター、その台は今日は出ないからだめ、こっちにしなさい」と別の台を教えてくれるのです。
 言われる通りその台に行くとチンジャラ・チンジャラと出るわけです。
 
 その当時は釘師という人がいて、店の終了後、ひとつひとつの台を点検し、微妙な釘の調整をおこない、出る台と出ない台を構築するわけです。
 優秀な釘師は、経営者の意向を受けて、明日の出玉律は○○%とどんぴしゃり実現することが出来たそうです。
 そういえば、私の店の顧客にもそうした釘師がいて、自分の腕の自慢をよくしていました。
 事実、店員さんたちと飲みに来ても彼は別格で、時には先生と呼ばれていました。

    
     右の塔の上のネオン、人家の屋根越しに花火のように見えた

 で、私が勝ち続けた話に戻るのですが、入る台を教えてくれたのは釘師ではなく幹部クラスの店員さんで、私の店の常連さんであり、私とはとても仲が良かった人です。
 まあ、早い話がインチキで(ゆっくり言ってもインチキですが)、その頃、今池のパチンコ屋で負けていた人には申し訳ないのですが、いずれにしても小遣い程度の範囲に収まる平和なパチンコの時代でした。

 
   ガランとした駐車場、猫が横切っていったがシャッターが間に合わなかった

 その後、ハイテク化と同時にパチンコは急速に賭博性を強め、動く金額も私がやっていた頃と二桁も違うようになりました。
 負け続けながらもやめることが出来ない依存症の人も急増し、女性にも広がりを見せる中で、パチンコ屋の近くの質屋では指輪やネックレスを曲げる(質入れする)女性が目立つようになりました。
 またどのパチンコ屋の近くにも、消費者金融の簡易ポストがあることは周知の通りです。
 私の知り合いの女性にもそうした依存症患者がいて、なけなしの貯金数百万円を全てつぎ込んだ上、毎月の給与も全てつぎ込み、ついにはサラ金地獄で自己破産というおきまりのパターンとなりました。

 では、パチンコ屋さんは儲かっているのかというとそうばかりではないようです。
 冒頭に述べた私の家の近くにあるパチンコ屋さんですが、あまり関心がないので気づかなかったのですが、なんだか最近、様子が変なのです。
 よく見たら、いつの間にか閉店していました。
 一頃は、まあ、こんな時間帯にという時刻にでも駐車場に結構車が入っていたのに、この不況は人々からパチンコで遊ぶ余裕をも奪ったのでしょうね。

 
     これは13日に撮った夕月 丸い玉からの連想  ああ、単純!

 パチンコ屋さんのとなりのお寿司屋さんも閉店していましたが、どっちが先でどう関連があるのかは知りません。いずれにしても、どの商売もなかなか大変なようです。
 
 どうも、博打打ちが支配する金融資本主義が、実質産業の鼻面をもって引き回すような不健全な経済情勢下においてはこうした混乱は避けられないように思います。
 サブプライムがサプライズになったとしても、賭博資本主義下では決して不思議ではないように思うのです。



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仲間が岐阜へおんさった!

2008-11-14 04:09:34 | 写真とおしゃべり
 「朋有来遠方 亦楽乎」
 麻生首相なら、「明るく有るなら来ても遠方 赤楽しく呼ぶ」と読みそうですね。

 毎月一度会って勉強させていただいている仲間の方たちが5人、名古屋から来てくれました。
 もうお一人は北方ですからやや近いのですが、私を含めて総勢7人です。
 しかしもう、名古屋は遠方ではないんですね。
 JRの快速でわずか18分、これでは岐阜が名古屋のベッドタウンになるはずです。

    
         岐阜駅から西を 岐阜一の高層ビル

 まあ、それはともかく、岐阜ならではのところがあればと出かけたのですが、岐阜は岐阜でも南方人の私は北部は苦手と来ています。
 さいわい、一行の中のM・Iさんが先般下見をして置いてくれましたので、相談しながらコースを定め、まずは大仏殿へと。
 この大仏様、大きさでは奈良、鎌倉と遜色なく、日本三大仏のひとつなどといったりするのですが、木材や竹などに経文を貼り付け漆や金箔で仕上げた、いわゆる籠大仏なのであまり珍重されないのだそうです。加えて、年代的にもやや新しいからでしょうね。それでも、13年の年月をかけて1832年に完成したのだそうですよ。

    

 もっとも、この地の名産が和傘や提灯であることからすると、籠大仏と軽く見られようと、それはそれで岐阜らしくていいのではないでしょうか。

    
        遠足の生徒が集合写真を撮る定番の噴水

 すぐ近くの岐阜公園へ移り、折りからの菊花展を見ながら、板垣退助さんの銅像とご対面。
 この銅像、演説の最中、彼がこの地で暴漢に刺されたからとのことですが、その折、彼が言ったという「板垣死すとも自由は死せず」という台詞は有名ですね。
 ただし、これには異説があって、そう語ったことは語ったがそれは後日の演説の中でだというのです。
 まあ、その方が現実的でしょうね。
 刺された瞬間は、「痛い、痛い、助けてくれ!」と、例えば私なら言うことでしょう。

    

 この板垣退助の治療に駆けつけたのは、その頃、名古屋で医師をしていたの後藤新平だと一行の中の物知りが教えてくれました。
 帰って調べるとその通りで、その診察の折り板垣退助は、「かかる人物が政治家にならないのは惜しい」と語ったそうですが、果たせるかな後藤新平は、後日、政府の高官や東京市長(都知事ではない)を歴任したというからこの二人の出会いは面白いですね。
 ちなみに、この後藤新平は、鶴見俊輔氏や鶴見和子さんの祖父に当たるそうです。

 次いで行ったのは、信長館跡の発掘現場です。
 この館、金華山麓の「千畳敷」という辺りにあったということで、イエズス会のフロイスの記述にもかなり詳細に記されているのですが、残念ながらここと断定できる地点は分かっていません。
 ただし周辺で、居住地周囲を示す石組みや庭園跡と思われる箇所が次第に明らかになり、それらしき遺物もちらほら出土しているので、気長に探索すれば、やがて確認できることでしょう。
 ただし、気になるのは、そうした遺跡が確認されない前に、それらの場所にかなりの建造物などが出来てしまっていることです。それが、ロープウエイの駅などですから、今さら壊すことは大変でしょうね。
 いずれにしても、16世紀末、約400年前の歴史の一端がこの足下に埋まっているのかと思うと不思議にこの土地が懐かしく思えるのでした。

 

 続いて、川原町という町屋がかなり密集して残っている一角へ行き、まずは西のはずれに近い「泉屋」というお店で腹ごしらえをしました。
 鮎を始め、桜ばえや味女ドジョウなど淡水魚の加工をする傍ら、食事を提供する店で、店の前は何度か通ったものの中へ入ったことがないので一抹の不安がありましたが、味、ボリュウムとも十分で、やはり海なし県の岐阜ではこうしたものを食すべきだろうと思いました。
 食事の後、一行の中にはお土産で魚の加工品を求める人もいらっしゃったので、まあまあ、満足していただけたのではないかと思います。

 

 さらに川原町筋を散策しました。
 町屋の造りは軟らかな木材の質感をもちながら、同時に歴史の重みを感じさせるものがあります。
 町屋の造りを内部から見ることが出来る「川原町屋」さんを見学させてもらうことにしました。
 高い吹き抜けと明かり取りの天窓、間口の割に奥行きのある建物の途中には趣のある坪庭、そして突き当たりは蔵と、それがこの辺りの町屋の典型であるようです。

 
             「川原町屋」の裏側
    
 この「川原町屋」は、かなり荒れていた町屋に手を入れて、その原形を留めながらそれを生かした店を営んでいることで知られています。
 ならべられた商品の和物の人形や小ものは美しく可愛いものがあります。
 そして突き当たりの蔵は、カフェになっているのですが、同時にギャラリーであり、時にはライブの会場にもなります。
 はじめは見学のみのつもりだったのですが、やはりお茶をしようということになりまたまた話が弾むことに。

 
   メイプルシロップが採れるサトウカエデの紅葉と戯れる童女二人
           右上方に金華山と岐阜城


 その後、町並みを通り抜け、かつての川港、今は鵜飼いの観覧船などの乗り場になっているところへと至りました。
 鵜飼いのシーズンだと午後のその時刻は、観覧船に乗る客やそれを送迎するバスなどで賑わっているのですが、シーズンオフの今はとても静かです。
 河畔にある歌碑などを見た後、岐阜駅に戻りました。

    
         町屋の間から見える金華山と岐阜城

 終日、好天でとても気持ち良く歩けました。
 気心が知れていて、それぞれの分野で活躍し、物知りが多い一行の話は、聞いているだけで随分勉強になりました。
 そして、自分の住む岐阜という街について、改めて知ったこともかなりありました。
 ともすれば名古屋の日陰になりがちな街ですが、それ自身の良さを見出し、生かして行くことが出来れば、いい街になると思います。
 もともと、情が厚くて住みやすい街なのですから。

 未曾有(みぞうゆう)の不況の中ですが、伝統を踏襲(ふしゅう)しながら頑張って欲しいものです。
  ( )内は、麻生氏の実際の読みにならいました。

<解説>表題の「おんさった」は「きんさった」の敬語です。
    後者は「来た」ですが、前者は「いらっしゃった」になります。
    もちろん、れっきとした岐阜の標準語です。

 

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