ラッセルの幸福論を読んでます。被害妄想の章です
※個人的で具体的な考察です※
ドウゾ( ´∀`)つ☕
…*私*は作品を映画制作したいです。*私*は個人的に自分の作品はヒットすると思っております。しかし、なぜだかこの制作にスタッフも監督も誰もついてはくれません。あるいは、ついてくれました、やはり内容も良いはずなのに、上映の回数が少なかったりと納得のいくものではありません。
*私*は考えました。もはや*私*の映画があまりにも凄すぎてスタッフや監督どもがつかないだけなんだ、上映回数が少ないんだ、やつらは嫉妬や恐怖に怯えて私を嫌悪しているのではないか。ふざけた話だ。こうして*私*は納得のいかないまま映画制作を考えなくなりました…
・世の中の人間は、自らが完全であると考えたことは、その考えのプロセス全てがあたかも必然であった、完全であったかの如く述べ、示したがる者がいる。彼が映画制作者であろうが、政治家であろうが、小説家であろうがみな同じくこれに固執することがあるだろう。
すこし踏み込んで考えてみると、「自分が正しいと思ったことは社会に必要であると同時に社会は自分が必要としなければならない」というメッセージにも思えてくる。また、ディオティマのエロースのはじまりとしてあるように「美しい肉体には美しい魂が宿るのであろう」の実践のように思える。自分と社会で肉体を作り、その肉体は自分という魂を求めることを知っているやり口だ。
しかし面白いのは、文章にあるようにスタッフや監督はこれを拒絶しているのである。なぜだろうか?
以上を*私*と*スタッフ*に読ませてみましょう。すると以下のようなドラマになりそうです。
*私*「なぜお前たちは、*私*の映画を手伝わない!?*私*のやり方が気に入らなかったとでもいうのか。お前たちのような奴等がいるから私のような素晴らしい作品をダメにするというのだ」
スタッフ「そんなつもりはありませんでした。無論エロースなんてディオティマなんてなんのことだかさっぱり。でもあなたの作品は確かに素晴らしいし究極的にいえば真理なのかもしれません。でもなぜでしょう、今からあなたの映画を制作するにしても、あなたのような人柄を知ってしまった以上、あなたの映画は素晴らしくも真理らしくも思えないのです」
その後*私*は*スタッフ*を殺したかもしれません。それはそれで*私*という人間が行動した尊いものです。
スタッフ「私は人間です。人間として免許も資格も教養もあります。それは私の真実であり、あなたに変えることができない真実でもあります。残念ながら私は人間ですからあなたの作品に人間としてしか感動することができないのです。申し訳ありませんでした」
悔し涙なのかはわからない、頭を下げているのかもわかりません。
いくら作ったモノが素晴らしくても、作った者が素晴らしくなければなりません。なぜなら、それを見る人は少なくとも人間である前提にあるのです。
また、これが真に意味するのは、作ったモノを見て、作った者を見ることができなければ、その作品は人間が作ったモノであると認識できず、見た人は人間としての認識で真偽や判断ができなかったということです。そして恐ろしく考えるならば、その見た人は己自身の人間としての認識を疑われてもやむを得ないということを立証してしまうのです。
ラッセルに戻ります。
*私*が監督やお偉いさんがたにぺこぺこしてれば、批評家やスタッフの方々にぺこぺこしていればきっと映画は制作できたのだろうとラッセルは書いています。
(以上の内容をラッセルは、*私*のような人を「自分の不幸こそが宇宙の謎を説く鍵を提供している」人だとはっきり指摘しています)
🐙🐙🐙
被害妄想を読んで…
考え当たる面白い指摘がありました。
人間は人間が作ったものを人間的に理解すること、理解していると他者に表示する動作や言動が自分である証明に繋がるのかな、とふと思いました。
素晴らしい映画でも、作者やその周りの人たちが嫌だとなんだか見る気も起きないのはよく感じてました。俗に言う先入観というやつでしょうか。
あ の 作 画 が嫌いなだけで、わざと意地悪で「あのアニメ嫌い」なんて言ってみせたりしてましたね。見てないアニメを批評することは昔よくありました。それでも友人は私の意地悪に「そうかい」と答えてくれました(笑)私にとって、大袈裟ですがこの先を良く考えるにあたって欠かせない友人ですね。
~~~
あと、この被害妄想を読んで、自分がドライなブログの作りをしてたように思えてきて、「うわっ!人間的じゃないブログになってる!!もしかしたら自分は*私*みたいな心持ちでブログ書いてるんじゃないか!?」と勝手に被害妄想し、焦りはじめてます( ̄▽ ̄;)笑
けれど、そんなつもりはなくて「そう考えるのもアリか!」「この無意識な、変な取り組みはこういう意味だったのか!」「お世辞や礼儀作法や敬語はもしかしたら人間としての確認行為なのでは!?」等、意味のわからずやってたふるまいについて振り返り、考えどころににしていただけたらきっと味わい深くなる…気がしてます🐙✨
不器用な私ですが今後ともよろしくおねがいします!💡
長文お読みいただきありがとう御座いました(*´∀`)ノ
※個人的で具体的な考察です※
ドウゾ( ´∀`)つ☕
…*私*は作品を映画制作したいです。*私*は個人的に自分の作品はヒットすると思っております。しかし、なぜだかこの制作にスタッフも監督も誰もついてはくれません。あるいは、ついてくれました、やはり内容も良いはずなのに、上映の回数が少なかったりと納得のいくものではありません。
*私*は考えました。もはや*私*の映画があまりにも凄すぎてスタッフや監督どもがつかないだけなんだ、上映回数が少ないんだ、やつらは嫉妬や恐怖に怯えて私を嫌悪しているのではないか。ふざけた話だ。こうして*私*は納得のいかないまま映画制作を考えなくなりました…
・世の中の人間は、自らが完全であると考えたことは、その考えのプロセス全てがあたかも必然であった、完全であったかの如く述べ、示したがる者がいる。彼が映画制作者であろうが、政治家であろうが、小説家であろうがみな同じくこれに固執することがあるだろう。
すこし踏み込んで考えてみると、「自分が正しいと思ったことは社会に必要であると同時に社会は自分が必要としなければならない」というメッセージにも思えてくる。また、ディオティマのエロースのはじまりとしてあるように「美しい肉体には美しい魂が宿るのであろう」の実践のように思える。自分と社会で肉体を作り、その肉体は自分という魂を求めることを知っているやり口だ。
しかし面白いのは、文章にあるようにスタッフや監督はこれを拒絶しているのである。なぜだろうか?
以上を*私*と*スタッフ*に読ませてみましょう。すると以下のようなドラマになりそうです。
*私*「なぜお前たちは、*私*の映画を手伝わない!?*私*のやり方が気に入らなかったとでもいうのか。お前たちのような奴等がいるから私のような素晴らしい作品をダメにするというのだ」
スタッフ「そんなつもりはありませんでした。無論エロースなんてディオティマなんてなんのことだかさっぱり。でもあなたの作品は確かに素晴らしいし究極的にいえば真理なのかもしれません。でもなぜでしょう、今からあなたの映画を制作するにしても、あなたのような人柄を知ってしまった以上、あなたの映画は素晴らしくも真理らしくも思えないのです」
その後*私*は*スタッフ*を殺したかもしれません。それはそれで*私*という人間が行動した尊いものです。
スタッフ「私は人間です。人間として免許も資格も教養もあります。それは私の真実であり、あなたに変えることができない真実でもあります。残念ながら私は人間ですからあなたの作品に人間としてしか感動することができないのです。申し訳ありませんでした」
悔し涙なのかはわからない、頭を下げているのかもわかりません。
いくら作ったモノが素晴らしくても、作った者が素晴らしくなければなりません。なぜなら、それを見る人は少なくとも人間である前提にあるのです。
また、これが真に意味するのは、作ったモノを見て、作った者を見ることができなければ、その作品は人間が作ったモノであると認識できず、見た人は人間としての認識で真偽や判断ができなかったということです。そして恐ろしく考えるならば、その見た人は己自身の人間としての認識を疑われてもやむを得ないということを立証してしまうのです。
ラッセルに戻ります。
*私*が監督やお偉いさんがたにぺこぺこしてれば、批評家やスタッフの方々にぺこぺこしていればきっと映画は制作できたのだろうとラッセルは書いています。
(以上の内容をラッセルは、*私*のような人を「自分の不幸こそが宇宙の謎を説く鍵を提供している」人だとはっきり指摘しています)
🐙🐙🐙
被害妄想を読んで…
考え当たる面白い指摘がありました。
人間は人間が作ったものを人間的に理解すること、理解していると他者に表示する動作や言動が自分である証明に繋がるのかな、とふと思いました。
素晴らしい映画でも、作者やその周りの人たちが嫌だとなんだか見る気も起きないのはよく感じてました。俗に言う先入観というやつでしょうか。
あ の 作 画 が嫌いなだけで、わざと意地悪で「あのアニメ嫌い」なんて言ってみせたりしてましたね。見てないアニメを批評することは昔よくありました。それでも友人は私の意地悪に「そうかい」と答えてくれました(笑)私にとって、大袈裟ですがこの先を良く考えるにあたって欠かせない友人ですね。
~~~
あと、この被害妄想を読んで、自分がドライなブログの作りをしてたように思えてきて、「うわっ!人間的じゃないブログになってる!!もしかしたら自分は*私*みたいな心持ちでブログ書いてるんじゃないか!?」と勝手に被害妄想し、焦りはじめてます( ̄▽ ̄;)笑
けれど、そんなつもりはなくて「そう考えるのもアリか!」「この無意識な、変な取り組みはこういう意味だったのか!」「お世辞や礼儀作法や敬語はもしかしたら人間としての確認行為なのでは!?」等、意味のわからずやってたふるまいについて振り返り、考えどころににしていただけたらきっと味わい深くなる…気がしてます🐙✨
不器用な私ですが今後ともよろしくおねがいします!💡
長文お読みいただきありがとう御座いました(*´∀`)ノ