ROCKS LOUNGE

It's only ROCK n' ROLL, but you got me ROCKING now

ダイバーシティ

2010-06-17 | diary
先日ダイバーシティ研修を受講した。障がいのある方の気持ちを理解するため、アイマスクをして白杖を手に屋外で歩き回る演習を体験。

人は五感のうち、視覚から80%の情報を得て判断するのだという。介助者の腕を頼りに歩くのだが、下り階段やちょっとした段差、路面の変化の不安なことと言ったらこの上ない。

改めて介助してくれる人の有り難みを痛感した。今まで前提としてきた考え方をひっくり返すような強烈な体験となった。

ダイバーシティ。異なる価値観や立場の享受、異文化理解とでも言おうか。

その根本は受容の精神と思いやりの気持ちなんだと思う。そこにこそ、四季折々の自然溢れる風土で自然と共生することで育まれた自然を畏怖、敬う精神性と、農耕民族としての集団生活で培った協調性を持つ、日本人の強みがある。

グローバル化の時代。それを支えるのは人の語学力とダイバーシティの両輪。そして、異文化を理解する受容の精神とともに、日本の価値観を発信し推し進めていくことも必要だ。

グローバル化とは、明治初期の欧化政策のような海外流を取り入れることではなく、ローカル化とも表裏一体なのだと思う。

祝日本代表勝利

2010-06-15 | diary

ようやく勝てた、今日のカメルーン戦

守備的勝利で冷や汗ものだったが、とにかくまずは1勝

今日の試合でも思ったことだが、

“個”の力では、あの体格と高さ、スピードやパワーにはかなうはずもなく。。。

この小さなアジア人には、

団体戦ならではの戦術、チームプレイが要、ということなのだろう

一方で、同じ小さなアジア人である、お隣の韓国は

もはやライバルと呼ぶにはおこがましくなるほどの地力をつけて

ワールドカップで成果を見せつけている

残された、この違いは何なのだろうか

サッカーの解説者ではないので良く分からないのだが、

ここまで来ると、もはや技術やテクニックではないと思う

一言で言えば、

戦闘心?

国を背負うという他に類を見ないプレッシャーに耐え、

それでもなお、絶対に負けない、という強い信念を持つ心のような気がするのだ

その薄皮1枚のような根性の差が結果に現れるような気がする

サムライJapanと武士(もののふ)の心を売りにする日本だが

国民への徴兵制を課し

死を恐れず国を守る精神力が鍛えられた韓国人に

武士(もののふ)の心は果たして勝っているだろうか?

ふじ組BBQ

2010-06-08 | diary



いつものふじ組オヤジーズが久しぶりに集合。

昨日、家族+うちの娘のお友達を加えて、総勢30名の大BBQを小金井公園で敢行した。

前日までの打ち合わせ(と称した飲み会)、前日の買い出し・仕込みと準備も余念なく、オヤジ達の段取りで当日の快晴を迎えることができた。

焼肉は言わずもがな、カレー、焼きそば、じゃがバターにヤキイモ、更には鮭のハラスと盛り沢山のメニュー。それを喰らう、そして語る。

しかし、やっぱり30名は大規模過ぎて読めません。かなりの肉を余らせての終了。

一日食っちゃ寝ては、子供と芝生で暴れ、翌日は筋肉痛。何とも寝起きの悪い月曜の朝だった。

こうして、新しい仲間と集うと、縁もゆかりもなかったはずのこの土地に、しっかりと根を張ってきたなと実感できる。いわゆる地縁というやつだ。

美しい国づくりは、まずは家族、そして地域から。実体のある郷土愛があってはじめて、真の愛国心が生まれる。愛国心という呼び名が嫌ならば、教育基本法の趣旨に沿って、国土・郷土を思う気持ちと読み変えて良い。いずれにせよ、この国に生まれ育ち世に役立つべき者として、大切にせねばならない心だと思う。

子供達の成長を傍目に、成長せぬ、いつまでたっても子供のようなオヤジ達として、地縁は大切にしたい。

しかし、一日楽しく遊んだなぁ。また皆で、グデグデの会でも開いて集まりませう!

満たされない雑草のように

2010-06-04 | essay
子供の頃から貧乏だった。

親父は中小企業を転々とする勤め人。学はないが体一つで米軍キャンプに出入りし、いつしか貿易の仕事をするようになった苦労人だ。その会社も、僕が大学の頃には倒産の憂き目にあい、一家全員で明日の食いぶちの心配をせねばならなくなった。その状態で、よくぞ大学を卒業させてくれたものだと感謝している。

母親は趣味だったのかもしれないが、様々な内職に手をつけてきた。ネックレス作りやアニメのセル画のペイント。記憶に残っているところでは“じゃりん子チエ”や“コブラ”など。母親が塗ったチエちゃんがテレビで放映されるといっては、皆でテレビの前に集まったものだ。

まだ週休2日になる前のことだ。たまの日曜に皆で出掛けた記憶も、あまりない。日曜は、親父お手製のステレオから大音量のカーペンターズが流れる一日だった。要は質素で地味な暮らしを送ってきたように思う。

3人の男兄弟の次男坊。流行りのファミコンなど与えられるはずもなく、兄弟でお金のかからない遊びを編み出していた。そして僕はというと、いつも兄のお下がりの服を着ていた。次男というのは、えてして兄と弟に親の目が行きがちで日の当たらない存在。兄弟の間でも兄は末弟の世話に手を焼くものだ。皆に手取り足取り面倒を見て貰い、気にかけて貰うということもない。

そうした立場は、僕の性格形成に多分に影響を与えたと思う。目立たないからこそ、伸び伸びと興味の赴くまま好きなように行動できたし、はなから気にかけて貰うことは期待していないので、我が儘になることもなく、不本意なことにも堪えて忍ぶ穏やかな精神も得た。一方では、いつも目立たないが故に、類い稀なる負けず嫌いにも育ったと思う。

雑草のようにお金も手もかけずに育てられたおかげで、今の自分はあるんだろうな。

それを苦労というかどうかは分からないけれど、満たされない日々の中で物質的な豊かさとは程遠いが、代わりに精神的な成長が得られたように思う。

とかく若者が弱くなったと叫ばれる時代だ。世の中や社会というものには自らの意思や希望と相入れない納得できないことも多い。むしろ思い通りになることの方が少ないはずだ。公と私のギャップを埋めていくことが社会人になるということだろう。しかし、現実にはそれができずに悩み立ち止まってしまう人が多い。子供の頃からの満たされた生活が、そのギャップへの耐性と自律心を奪ったのだと思う。

やはり人間成長の原点は親の子育てにある。小学校に入る前には人格はほぼ出来上がると聞く。

あなたなら、無菌室で隔離しますか?それても雑草のように放置しますか?

懐かしい風景

2010-06-02 | essay
少し前に田坂広志さんの講演を聞く機会があった。

修正資本主義とでも言うべき、彼の主張の紹介は書物に場を譲るとして、不覚にも時に目頭を押さえてしまうような熱く、日本人の琴線に触れる講演だった。

時前後して、私も、勤務先の新入社員達や内々定者達に演説をぶる機会を得た。演目は、“我が社の歴史”、とした。

まだ仕事もしていない彼等に伝える内容として時期尚早とは分かっていたが、仕事感、否、人が人として生きる意味の何たるかを伝えたくて、敢えて挑戦したテーマだった。

明確に伝えたこと。それは、

企業、そして人として、利潤の追求は究極の目的ではない。それはツールに過ぎない。誤解を怖れずに言えば、企業と人の究極の存在意義は、社会貢献である、と。

教科書で習ったことではないため、彼らも面喰らったのだろう。アイスブレイクで用いたクイズが面白かったという反応以外にさしたるレスポンスは得られなかった。

しかし、唯一、中国籍の新入社員が、私の語る内容に感動し、自らの就職が正しかった、と意を新たにしてくれたのは、国民性というか、今の日本の憂うべき現状を如実に現していると感じる。

人がこの世に生を受けたのは、この世の役に立つためだ、と信じている。そして、未来の我々の子孫達に、この志を引き継いでいくためだ。自らの足跡は、目に映るものが全てではなく、人の心に残るものなのであろう。

利潤とは企業が社会貢献した証。更なる社会貢献をせよ、との世の声である、とは、松下幸之助の言だが、まさに、この混迷の時代にあって、我々は自らの足元を見つめ直す必要に迫られている。

社会を支え、世の中を良くし、未来の役に立つ。それこそが、人の生きがい、なのではないだろうか。

命を使う、と書いて使命という。古来より、我が日本人は、義務感の押し付けではなく、脈々と受け継がれてきた使命感をもって生きてきた。それは、世のため人のため。自然を畏怖し、思いやりをもって和を尊び、よき苦労をさせて頂いたとお蔭様の精神で、世の中と人を見つめてきた。貨幣価値では計れない、目に見えない文化なのだ。

この時代は産業革命後、欧米諸国が創り上げてきた、所詮、数百年の歴史しかないもの。社会が混迷を極め、金と利己主義が蔓延る時代。本当に必要とされていることに思いを致せば、日本のあるべき姿に自ずと気付くだろう。我々の子孫達が果たすべき使命を、我々は伝えていかねばなるまい。

グローバルな時代だからこそ、見つめ直さねばならない“日本、日本人らしさ”。

言葉を愚弄し国民を弄んだ、世界に恥ずべき一国の最高責任者の辞任の日に、私はこう思う。