小学生の頃、北斗七星の位置をノートに書き記るす宿題が出た。
1時間ごとに二階の窓から顔を出し、夜空を見上げる。
その移動した位置を書き留めていった。
星は動いていた。
じっと見つめていても気づかな程の僅かな天球の動きは、
1時間経って窓を開ければ、そこには違う画家が描いた星が輝いている。
この夜、私には、宇宙が、そして星が「生きている」のだと思えた。
星は見ている。
どこかを見ている。私を見ているかもしれない。
そして考えている。
星はなにかを感じているから。
小学生の私はそう思った。
1個の星は、その全体が目で、その全体が頭脳で、心で体なのだろうと思った。
星が「キラキラしている」というそのことだけで、なぜか人間の力の小ささを思い、星々の大きな力を感じた。
この世界そのものが生きている。
自分の体が吸い上げられて、宇宙のど真ん中に浮いている。
足元にも星、真上にも星。
体に触れるものすべては、宇宙そのもののそれだけ。
赤い運動靴に描かれたアニメの魔法使いの女の子が、真っ暗な空間で笑っている。
目をこらして、星たちのいるその先の闇を見つめる。
ブラックホールも見つめてみる。
未来にも過去にも行けるのだと思った。
自分の存在は、顕微鏡でも見えないほどの小さな小さな点になった。
怖いという感覚すら忘れている。
自分が息を吐く音が、鼓膜の内側から聴こえる。
この一息が、私が生きていることの拠り所だ。
宇宙に浮かぶことを想像すると、私は自分が生きていることが、とてもすごいことなのだと思えた。
「私はこの宇宙に生きている」
宇宙の始まりは、ほんの小さな点から始まったのだと、本で読んだことがある。
「あ、その1点って、私かもしれない」と思った。
なぜなら、その頃の私は宇宙についてちょっとした私だけの考えを持っていたからで、それはそれは果てしのない、私だけに通用する話・・・なんだけど。
宇宙は果てしないのだと父が言った。
果てしない、どこにも壁が無い。
そんなことがあるのだろうか。
私には、なかなか納得いかなかった。
どこまでもどこまでも存在するものなんてあるのだろうか?
宇宙は、今も広がっているそうだけれど、その広がって行くほうの、向こうの世界は、なんだろう?
「ここまでが宇宙」という境があるからこそ、その先へ広がれるのではないだろうかと、小学生の私は思った。
北斗七星を作っている星々は、紙に描けば平面に並ぶ。
けれど、それぞれに地球からの距離は違っていて、宇宙には奥行がある。
ちなみに、ゴッホが描いた「星月夜」とう作品は、うねうねとした星々の渦巻きが描かれていて、星を一つ一つには描いていないが、でもなぜか、無数の星と、宇宙の果てしない広がりと奥行を感じる。
ゴッホも、この宇宙全体が生きているように感じていたのだろうと思う。
さて、私は大きな大きな世界の果てのことを考えてみた。
世界の果て。宇宙の境目。
宇宙が「ここまで」という、どこかで「ドン!」と突き当たるところはある、と思った。
子供の私が考えた宇宙の果てのお話は、こうだ。
「この宇宙は、一人の人間の体の中にある。」
私はそう思った。
その考えは、夜空の星々がこちらを観ている、そう感じた瞬間から、確信に満ちて、おぎゃぁと声を上げて私の心に生まれた。
ちょっと複雑?な話だから、ここから先は、ゆっくりポンと読んでいただけたらと思う。
一人の人間の体を作っている小さな小さな細胞にそれぞれ宇宙が存在する。と私は考えた。
一人の人間のなかにある細胞の数は37兆2000億個くらいだそうだから、私の仮説がもし正しければ、宇宙はそれくらいの数があり、
それが一人の人間の細胞の数なのだから
今生きている全部の人間の数、今の人口で計算すると・・・?
宇宙はたしかに果てしない数あることとなる。でしょ?
さらに考えると
その体の中の細胞のなかにある宇宙のなかに、銀河がある。
1個の細胞の中に、たくさんの銀河があるのだ。
そのたくさんの銀河のどれかに、たった1個の地球がある。
〇〇〇〇〇・・・・?個の宇宙があって、そのそれぞれの中に、たくさん銀河があって、太陽系があって、地球がある。
すごい数の宇宙があって、すごい数の銀河があって、すごい数の地球がある。ことになる。
さて、問題はここからだ。
一人の人間の体内にある細胞のなかにある宇宙のなかにあるたくさんの銀河の、そのどれか1個の銀河のなかにある、たった1個の地球のなかにも、人間は生息している。
そこの人間たち一人一人の体内にも、細胞があって、細胞には銀河があって、銀河のどれかには、地球がある。
おぉ!マトリョーシカ状態。
まだまだ続いて
私たちがいる地球を体内に含んでいるその大きな誰かさんは、やはり地球に住んでいる。
その地球は、銀河なかにあり、その銀河は宇宙のなかにある。
そしてまた、その宇宙は、もっと大きな誰かさんの細胞の一個の中にあるにすぎない。
その大きな誰かさんは、またもっと大きな誰かさんの体内のなかの地球に住んでいる。
やっぱり、ウルトラマトリョーシカ状態!
そんなふうに果てしないけれど、この考えだと、誰かさんの皮膚で、一応、ドンと1回は閉じられて、というか、一応、果てがある。
その果ての先の果て、すべての果てを乗せている地球がどこかにあると小学生の私は思っていた。
今もそうだといいなぁと、思っている。というか「そうなんだ!」と思う。
重たかろうと思う。
こんなにいっぱい乗せていたんじゃ、地球さん、重たかろうと思う。
こんなことを考えるのは私だけかもしれないけれど、重たい原因の一人が自分自身であるということは、申し訳ない気がする。
私はこうも考えた。
一人の人間が死ぬということは、たくさんの宇宙が死んでいくことになると。
一人生まれれば、宇宙は広がり、一人死ねば宇宙は消えていく。
ドードーも、恐竜も、絶滅した。
人間も例外ではなく、いずれは絶滅するだろうと思う。
だとするなら
誰かの細胞のなかにあるこんなに果てない宇宙でも、その入れ物の人間が絶滅することと共に、次から次と絶滅するだろう。
子供の頃の私の考えを延長していけば、そうなる。
子供の頃の私は、ここで考えを打ち止めされた。
一歩も解決策はみつからなかった。
なんとしても世界が消えてしまうようなことにはしたくない。
私は猫を助けたい。
犬も、ゾウリムシも、ミーアキャットも、オオバコもススキも助けたい。
クジラも、イルカもアリンコもモグラも、関東タンポポも助けたい。
ノアの箱舟では、定員数が限らていたけれど、できれば全部助けたいと思ってしまう。
人間は、他の種族を加速して絶滅させてきた。
今も、人間が、人間ではない生き物の絶滅をリニアモーターカー並みに早めているのは事実だ。
いや、そのことは、結局、人間自身の絶滅を早めているとも考えられるけど。
学者さんによれば、種族はいずれは遅かれ早かれ絶滅する運命にあるのだそうだ。
でもやっぱり、それを超加速させていくのは人間だ。
ホッキョクグマは、人間が真綿でくるんで、もうすぐ絶滅させてしまう。
もし、人間がこの地球に生まれていなかったら、と考えることがある。
今のこの時期には、まだ生き延びて絶滅はしていない種は多かろうと思う。日本の狼も、まだ生き延びていたと思ってしまう。
こうも思った。
多くの人間は、地球に良いことなんかぜんぜんしていない。
地球に優しいことなんて、人間はぜんぜんしていないけれど、
この世界に地球という類まれなる星があることを気づくことができたのは、やはり人間だからこそ、なのだろう。
地球が言葉を話せたら、こう言うのではないかな。
「なんて良い子だ、私の子供たち。
どうしてそんなに早く大人になってしまったんだい?
子守唄も歌う時間すらないままに、私はこんなに年老いた」
世界の人間全員が、地球をむさぼり食い尽くせば、地球がいくつあっても足らないというのは、ずいぶん以前から言われている。
すでに私たちの地球は、病気をし、肺を痛め、骨粗鬆症になっているような気がする。
ゲリラ豪雨や干ばつや、竜巻や地震や、地球が認知症になる前のサインかもしれない。
いや、もともと、地球は火の玉だったり氷の玉だったりの、決して生物が生息するには優しい星ではなかったのだから、人間が繁栄できた最近は、地球さんの優しい面が出ていた貴重な僅かな時間だったのかもしれない。
今日、産声を上げた子供たちが大人になる頃、この星は、この宇宙はどうなっているだろう。
人間は、宇宙に散らばって漂う物質と同じものからできているらしい。
たくさんの宇宙が絶滅して、それでも最後の1個の宇宙がぽっかり浮いていて、そこにはやはり宇宙の果ての壁がある。
誰かの皮膚で閉じられているのだ。
最後の一番大きな入れ物ってなんなんだろう・・・。
今の私の体や心を作っていた何某かが、その頃には、宇宙の塵になって、ティンカーベルの鱗粉みたいにきらきら漂っているかもしれない。
そう想像すると、ちょっとうれしい。
破壊し、絶滅させ、殺戮を繰り返した結果にできた宇宙の塵が、宇宙の果ての壁の礎になっている、という最悪のシナリオは避けたい。
宇宙の空間に漂っていた私を作っていた有機物の欠片が、できれば、新たな宇宙の始まりのひとかけらになったら、うれしいと思う。
そのとき、すでに先に逝った父や母の欠片とも出会えるかもしれない。
万華鏡を覗いた世界のように、偶然に、そして奇跡的に生まれる一瞬の煌めき。
そこで隣同士になったり手をつないだり、そんなことが、星を造り、宇宙を創っていく。
これが星のキラキラだ。
私だけではなく、誰でもきっと、なにがしかの生物が生まれる始まりの要素になるのなら、ぜひとも、再び、命を育みいつくしむ宇宙の塵の要素になりたいだろう。
さて、最後に生き残った大きなこの世界の入れ物は、人間なのだろうか?
それとも宇宙なのだろうか?
いや、まったく別のなにかだろうか?
地球もいずれは太陽に飲み込まれる。
人間の時間軸を超えた大きな時間が、ごく平然と、ありのまま、当然に流れて、結果として地球は消える。
太陽も、そのときには、そろそろ末期だろう。
私がこの世界の塵となった瞬間、いくつの細胞が消えて、幾つかの宇宙が消えて、幾つかの地球が消えるのだろう。
そう思うと、こんな私の生は、それなりにとても大事なのだ。
自分を大事にしよう。
そして、自分と同じ時代に偶然生きてくれている皆さんの「生」も大事。
未来に生まれる「生」も大事。
もちろん、先に宇宙のいくつかを閉じて逝った母も、父も、おばあちゃんも、おじいちゃんも、大事な大事な「生」だった。
誰の地球も誰の宇宙も、大事なのだ。
どんどん時間は過ぎている。
いがみ合っている時間はない。
落ち込んだり、自分を粗末にして生きてはいけないし、そんな時間は、やっぱりない。
あぁ、果てしなく果てしなく考えていると、
いつもこんなふうに、「だからなに?」っていうところで、おしまいになる。
ここまでお読みいただき感謝。
さて、今夜、晴れているから北斗七星は輝いてくれているだろう。
北斗七星は大きな柄杓の形をしている。
どんな水をくみ上げて、どこに注ぐのだろうか。
潤いの一杯を飲みたいと思う。
あっという間に小学生からオバサンになってしまった私が、今も小学生の頃と思考に大きな進歩がないのは、それはそれでありがたいことなのかもしれない。
マトリョーシカの一番外側のマトリョーシカは、結局、私の、そしてあなたの手の中にある。のかな?
さて、次はどうしよう?
とりあえず、今夜はこれで、おやすみなさい。
1時間ごとに二階の窓から顔を出し、夜空を見上げる。
その移動した位置を書き留めていった。
星は動いていた。
じっと見つめていても気づかな程の僅かな天球の動きは、
1時間経って窓を開ければ、そこには違う画家が描いた星が輝いている。
この夜、私には、宇宙が、そして星が「生きている」のだと思えた。
星は見ている。
どこかを見ている。私を見ているかもしれない。
そして考えている。
星はなにかを感じているから。
小学生の私はそう思った。
1個の星は、その全体が目で、その全体が頭脳で、心で体なのだろうと思った。
星が「キラキラしている」というそのことだけで、なぜか人間の力の小ささを思い、星々の大きな力を感じた。
この世界そのものが生きている。
自分の体が吸い上げられて、宇宙のど真ん中に浮いている。
足元にも星、真上にも星。
体に触れるものすべては、宇宙そのもののそれだけ。
赤い運動靴に描かれたアニメの魔法使いの女の子が、真っ暗な空間で笑っている。
目をこらして、星たちのいるその先の闇を見つめる。
ブラックホールも見つめてみる。
未来にも過去にも行けるのだと思った。
自分の存在は、顕微鏡でも見えないほどの小さな小さな点になった。
怖いという感覚すら忘れている。
自分が息を吐く音が、鼓膜の内側から聴こえる。
この一息が、私が生きていることの拠り所だ。
宇宙に浮かぶことを想像すると、私は自分が生きていることが、とてもすごいことなのだと思えた。
「私はこの宇宙に生きている」
宇宙の始まりは、ほんの小さな点から始まったのだと、本で読んだことがある。
「あ、その1点って、私かもしれない」と思った。
なぜなら、その頃の私は宇宙についてちょっとした私だけの考えを持っていたからで、それはそれは果てしのない、私だけに通用する話・・・なんだけど。
宇宙は果てしないのだと父が言った。
果てしない、どこにも壁が無い。
そんなことがあるのだろうか。
私には、なかなか納得いかなかった。
どこまでもどこまでも存在するものなんてあるのだろうか?
宇宙は、今も広がっているそうだけれど、その広がって行くほうの、向こうの世界は、なんだろう?
「ここまでが宇宙」という境があるからこそ、その先へ広がれるのではないだろうかと、小学生の私は思った。
北斗七星を作っている星々は、紙に描けば平面に並ぶ。
けれど、それぞれに地球からの距離は違っていて、宇宙には奥行がある。
ちなみに、ゴッホが描いた「星月夜」とう作品は、うねうねとした星々の渦巻きが描かれていて、星を一つ一つには描いていないが、でもなぜか、無数の星と、宇宙の果てしない広がりと奥行を感じる。
ゴッホも、この宇宙全体が生きているように感じていたのだろうと思う。
さて、私は大きな大きな世界の果てのことを考えてみた。
世界の果て。宇宙の境目。
宇宙が「ここまで」という、どこかで「ドン!」と突き当たるところはある、と思った。
子供の私が考えた宇宙の果てのお話は、こうだ。
「この宇宙は、一人の人間の体の中にある。」
私はそう思った。
その考えは、夜空の星々がこちらを観ている、そう感じた瞬間から、確信に満ちて、おぎゃぁと声を上げて私の心に生まれた。
ちょっと複雑?な話だから、ここから先は、ゆっくりポンと読んでいただけたらと思う。
一人の人間の体を作っている小さな小さな細胞にそれぞれ宇宙が存在する。と私は考えた。
一人の人間のなかにある細胞の数は37兆2000億個くらいだそうだから、私の仮説がもし正しければ、宇宙はそれくらいの数があり、
それが一人の人間の細胞の数なのだから
今生きている全部の人間の数、今の人口で計算すると・・・?
宇宙はたしかに果てしない数あることとなる。でしょ?
さらに考えると
その体の中の細胞のなかにある宇宙のなかに、銀河がある。
1個の細胞の中に、たくさんの銀河があるのだ。
そのたくさんの銀河のどれかに、たった1個の地球がある。
〇〇〇〇〇・・・・?個の宇宙があって、そのそれぞれの中に、たくさん銀河があって、太陽系があって、地球がある。
すごい数の宇宙があって、すごい数の銀河があって、すごい数の地球がある。ことになる。
さて、問題はここからだ。
一人の人間の体内にある細胞のなかにある宇宙のなかにあるたくさんの銀河の、そのどれか1個の銀河のなかにある、たった1個の地球のなかにも、人間は生息している。
そこの人間たち一人一人の体内にも、細胞があって、細胞には銀河があって、銀河のどれかには、地球がある。
おぉ!マトリョーシカ状態。
まだまだ続いて
私たちがいる地球を体内に含んでいるその大きな誰かさんは、やはり地球に住んでいる。
その地球は、銀河なかにあり、その銀河は宇宙のなかにある。
そしてまた、その宇宙は、もっと大きな誰かさんの細胞の一個の中にあるにすぎない。
その大きな誰かさんは、またもっと大きな誰かさんの体内のなかの地球に住んでいる。
やっぱり、ウルトラマトリョーシカ状態!
そんなふうに果てしないけれど、この考えだと、誰かさんの皮膚で、一応、ドンと1回は閉じられて、というか、一応、果てがある。
その果ての先の果て、すべての果てを乗せている地球がどこかにあると小学生の私は思っていた。
今もそうだといいなぁと、思っている。というか「そうなんだ!」と思う。
重たかろうと思う。
こんなにいっぱい乗せていたんじゃ、地球さん、重たかろうと思う。
こんなことを考えるのは私だけかもしれないけれど、重たい原因の一人が自分自身であるということは、申し訳ない気がする。
私はこうも考えた。
一人の人間が死ぬということは、たくさんの宇宙が死んでいくことになると。
一人生まれれば、宇宙は広がり、一人死ねば宇宙は消えていく。
ドードーも、恐竜も、絶滅した。
人間も例外ではなく、いずれは絶滅するだろうと思う。
だとするなら
誰かの細胞のなかにあるこんなに果てない宇宙でも、その入れ物の人間が絶滅することと共に、次から次と絶滅するだろう。
子供の頃の私の考えを延長していけば、そうなる。
子供の頃の私は、ここで考えを打ち止めされた。
一歩も解決策はみつからなかった。
なんとしても世界が消えてしまうようなことにはしたくない。
私は猫を助けたい。
犬も、ゾウリムシも、ミーアキャットも、オオバコもススキも助けたい。
クジラも、イルカもアリンコもモグラも、関東タンポポも助けたい。
ノアの箱舟では、定員数が限らていたけれど、できれば全部助けたいと思ってしまう。
人間は、他の種族を加速して絶滅させてきた。
今も、人間が、人間ではない生き物の絶滅をリニアモーターカー並みに早めているのは事実だ。
いや、そのことは、結局、人間自身の絶滅を早めているとも考えられるけど。
学者さんによれば、種族はいずれは遅かれ早かれ絶滅する運命にあるのだそうだ。
でもやっぱり、それを超加速させていくのは人間だ。
ホッキョクグマは、人間が真綿でくるんで、もうすぐ絶滅させてしまう。
もし、人間がこの地球に生まれていなかったら、と考えることがある。
今のこの時期には、まだ生き延びて絶滅はしていない種は多かろうと思う。日本の狼も、まだ生き延びていたと思ってしまう。
こうも思った。
多くの人間は、地球に良いことなんかぜんぜんしていない。
地球に優しいことなんて、人間はぜんぜんしていないけれど、
この世界に地球という類まれなる星があることを気づくことができたのは、やはり人間だからこそ、なのだろう。
地球が言葉を話せたら、こう言うのではないかな。
「なんて良い子だ、私の子供たち。
どうしてそんなに早く大人になってしまったんだい?
子守唄も歌う時間すらないままに、私はこんなに年老いた」
世界の人間全員が、地球をむさぼり食い尽くせば、地球がいくつあっても足らないというのは、ずいぶん以前から言われている。
すでに私たちの地球は、病気をし、肺を痛め、骨粗鬆症になっているような気がする。
ゲリラ豪雨や干ばつや、竜巻や地震や、地球が認知症になる前のサインかもしれない。
いや、もともと、地球は火の玉だったり氷の玉だったりの、決して生物が生息するには優しい星ではなかったのだから、人間が繁栄できた最近は、地球さんの優しい面が出ていた貴重な僅かな時間だったのかもしれない。
今日、産声を上げた子供たちが大人になる頃、この星は、この宇宙はどうなっているだろう。
人間は、宇宙に散らばって漂う物質と同じものからできているらしい。
たくさんの宇宙が絶滅して、それでも最後の1個の宇宙がぽっかり浮いていて、そこにはやはり宇宙の果ての壁がある。
誰かの皮膚で閉じられているのだ。
最後の一番大きな入れ物ってなんなんだろう・・・。
今の私の体や心を作っていた何某かが、その頃には、宇宙の塵になって、ティンカーベルの鱗粉みたいにきらきら漂っているかもしれない。
そう想像すると、ちょっとうれしい。
破壊し、絶滅させ、殺戮を繰り返した結果にできた宇宙の塵が、宇宙の果ての壁の礎になっている、という最悪のシナリオは避けたい。
宇宙の空間に漂っていた私を作っていた有機物の欠片が、できれば、新たな宇宙の始まりのひとかけらになったら、うれしいと思う。
そのとき、すでに先に逝った父や母の欠片とも出会えるかもしれない。
万華鏡を覗いた世界のように、偶然に、そして奇跡的に生まれる一瞬の煌めき。
そこで隣同士になったり手をつないだり、そんなことが、星を造り、宇宙を創っていく。
これが星のキラキラだ。
私だけではなく、誰でもきっと、なにがしかの生物が生まれる始まりの要素になるのなら、ぜひとも、再び、命を育みいつくしむ宇宙の塵の要素になりたいだろう。
さて、最後に生き残った大きなこの世界の入れ物は、人間なのだろうか?
それとも宇宙なのだろうか?
いや、まったく別のなにかだろうか?
地球もいずれは太陽に飲み込まれる。
人間の時間軸を超えた大きな時間が、ごく平然と、ありのまま、当然に流れて、結果として地球は消える。
太陽も、そのときには、そろそろ末期だろう。
私がこの世界の塵となった瞬間、いくつの細胞が消えて、幾つかの宇宙が消えて、幾つかの地球が消えるのだろう。
そう思うと、こんな私の生は、それなりにとても大事なのだ。
自分を大事にしよう。
そして、自分と同じ時代に偶然生きてくれている皆さんの「生」も大事。
未来に生まれる「生」も大事。
もちろん、先に宇宙のいくつかを閉じて逝った母も、父も、おばあちゃんも、おじいちゃんも、大事な大事な「生」だった。
誰の地球も誰の宇宙も、大事なのだ。
どんどん時間は過ぎている。
いがみ合っている時間はない。
落ち込んだり、自分を粗末にして生きてはいけないし、そんな時間は、やっぱりない。
あぁ、果てしなく果てしなく考えていると、
いつもこんなふうに、「だからなに?」っていうところで、おしまいになる。
ここまでお読みいただき感謝。
さて、今夜、晴れているから北斗七星は輝いてくれているだろう。
北斗七星は大きな柄杓の形をしている。
どんな水をくみ上げて、どこに注ぐのだろうか。
潤いの一杯を飲みたいと思う。
あっという間に小学生からオバサンになってしまった私が、今も小学生の頃と思考に大きな進歩がないのは、それはそれでありがたいことなのかもしれない。
マトリョーシカの一番外側のマトリョーシカは、結局、私の、そしてあなたの手の中にある。のかな?
さて、次はどうしよう?
とりあえず、今夜はこれで、おやすみなさい。