ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

マヤのこと

2017-08-07 | 家族

マヤは狼の四分の一入っているハスキー犬で、三男が高校生の時、後に妻となる人へプレゼントした。最初の半年は彼女が育てたが、大学進学で移転し、息子も伝道に出たので、庭にゆとりがある私達夫婦が引き取った。マヤはぐんぐんと成長し、一般のハスキーよりも大きくなった。その大きさは、グレートピレニーズほどあって、一見怖ろしげな様相だったので、泥棒よけになると思った。しかしその性格は至って穏便で、これを典型的なベータ・フィーメイルと呼ぶのだろうが、他の犬がこの仔の餌を食べようとすると、うなるどころか、まるで、「どうぞ、どうぞ」というように、差し出した。食べ物を手から与える時、非常に気を遣い、人の手指に歯をあてまいと努力しているのが、見て取れた。 体重は100パウンド近くあり、末娘よりもずっと重たかったが、非常に人懐こくて、人がそばにいると、必ず擦り寄って座ったりしていた。

近所の犬が吼えていても、マヤは悠然と座っておとなしく、噛み付くこともしなかった。ただ、問題だったのは、最初の頃、何度も何度も高い塀を越え、逃走した。逃走するたびに、タグを見た発見者が電話してくれた。おそらく十回は逃げ出した。これは私達が虐待しているのではなく、マヤの本性だったらしい。ハスキーはそういう性質があって、脱出の天才フディ二-のように、マヤもまた脱出の天才なのである。 少し年をとったら、この脱出癖はなくなった。

広くてもフェンスが張り巡らされている友人のランチ(牧場)へ連れて行って、リーシュをはずしてやると、一目散に走り回った。このランチには、小さな池があり、そこへマヤが走りこむと、途端に何百匹ものちいさなカエルが、弾ける様に一斉に池から飛び出した。それがマヤにとっては面白く、楽しいらしかった。余談だが、こんな池に、絶滅危惧種の小動物がいると、後日聞いたが、あのカエルじゃないと願う。

ランチには、ダチョウに似たエミュウや、年取った馬や、豚やらが、大概放し飼いになっていて、マヤは何度かエミュウに小突かれたり、追いかけられたことがあるらしく、自分から近づかなかった。豚とて、強いのでマヤは知らん振り。背丈もあるエミュウは、そばで見ると、だんだんと恐竜を連想させるが、柵でへだてられてないと、目を合わせても、走って追いかけてくる。マヤは他の動物を襲うでもなく、むしろ広い牧場をひたすら走り回るのが、本当に好きだった。

その頃私が運転していたChevyのSuburban (フルサイズのSUV)の後ろのドアを開けて、マヤに帰ろうと声をかけたが、遊ぶのに夢中なマヤは聞く耳を持たず。 それならと、エンジンをかけると、マヤは、あたかも置いていかれるのかと不安になったらしい。超特急で後ろのドア目がけて走ってきた。体中どろどろだったが、とても満足そうな顔をしていた。

我家の前庭に大きなスズカケの木がある。秋になるとその大きな葉が風に乗ってマヤの遊ぶ後ろ庭にまで舞ってくる。マヤはその葉が大好きだった。ぽてぽての大きな両手に、はさむように葉を持って寝そべって遊んでいたものだ。うっかり人が見ると、恥ずかしそうにパッと葉を離した。 ほとんど年中だったが、春は特に大量に抜け毛があって、家のあちこちにふわふわとあった。ブラッシングをしてもしてもどっさり毛が抜けたので、少し集めて丸めて庭の藤の枝のからんだところに鳥の巣用においてみた。巣作りの鳥はそんなものでも少しずつ運んでいく。

長い間私達夫婦と一緒だったマヤは、結婚した三男夫婦がアパートではなく、家に移ったのを機会に引き取りたいと申し出た。もともとは息子たちのマヤなので、他州へ移ることになって寂しかったが、無事に引っ越した。しばらくして、孫が産まれ、マヤの反応を心配したが、マヤは何も悪さはせず、孫を見守る番犬のようになった。こことは違って豊富な緑の木々のあるところだったので、散歩をいつも楽しんでいた。

ある日、妻と孫が妻の実家へ遊びに戻っている時、息子はひとりで大学の図書館で勉強をし、午後少し遅くなって帰宅した。マヤはいつものように迎えてくれたが、すぐ自分のベッドへ戻った。キッチンのテーブルで勉強していた息子は、マヤがいつものように、鼻をこすりつけてこないのに、気がつき、マヤ?と呼びながら傍へいってみると、荒い呼吸が聞こえた。マヤは体を起こそうとしたが、尋常でないのに気づいた息子が上体を抱えた。マヤは息子の顔を見て、なにか言いたげだったが、大きな息をついて、そして、息絶えた。

誰もいない家の中で、息子はずっとマヤの冷たくなる体を抱きしめて、ただただ泣いた。気がつけば、夕闇に囲まれている。やっと携帯電話を取り出して、まず妻に知らせた。そして私達に知らせてきた。マヤは僕の帰りをずっと待っていたんだよ、と息子は言った。マヤはそんな仔だった。

十一歳と少し。マヤは獣医に引き取られて荼毘に付された。もうマヤはいないし、あの豪華な毛並みをブラッシングすることはない。マヤのくれた物は思いがけずおおきくて、あれから一年少し経つのに、心のマヤがいた場所は、まだぽっかりと開いている。先週その息子に第二子の娘が産まれた。ドット(孫娘のトラディショナルな名前の略)、マヤは、すごく大きくて、狼のようだったけれど、とっても暖かくて、そしてやさしかったんだよ、と孫息子は話すことだろう。

マヤ、光の中でいつかまた会おうね。

 


 

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2017-08-06 | 系図のこと

系図調査は、いつも順風満帆ではない。壁に突き当ることは往々にしてある。異なる人が異なる眼で書類を探ることも時には、必要だし、新しい見方は大切でもある。壁に突き当たったら、まず深呼吸して、コンピューターから離れて、散歩をしたり、全く別のこと、お掃除などしてみて、気分刷新することだ。それでもすっきりしない時は、他の調査者に助けを求めることもいいかもしれない。

 

例えば、マータの系図を調査した時。かなり遡っている系図を持っているのだが、証拠付けが、なかなか進まず、マータは、私の詰める晩、センターにやってきたのだ。以前他のコンサルタントが助けたようだが、マータが満足する結果ではなかったので、しばらくセンターから遠ざかっていた、と言う。気難しい性格らしいのは、すぐわかったが、適当(!)に相槌を打ちながら、私は、早速コンピューターの前に彼女と隣り合って座り、調査を始めた。

 

1878年生まれの先祖が、死亡したのは、1920年12月で、その間の国勢調査が1880年と1900年しかない、と言う。あって然るべきなのは、1880年、1900年、1910年で、1920年もあるはず。国勢調査は大抵6月ごろで、1月から始めることもあるが、12月には終わっている。1890年のはない。1921年のワシントンD. C.にあるコマースビルデイングの火災により焼失あるいは煙や、消火の際の水によってダメージを受け、さらに当時は、記録再生や修理などの技術もなかったので、結局破壊されている。ほんの一握りの国勢調査は、残されたが、極端に限られた数しかなく、ないものとして、系図調査者は、扱っている。

 

まずマータが持っている1880年と1900年の国勢調査のコピーを見てみる。同じ住所である。親の隣に住んでいたらしい。もう一度先祖の名前をあるデータベースに入れてみると、やはり1880年と1900年の物しか出てこない。マータは、死亡証明書のコピーも持っていたので、それを見てみると、やはり国勢調査の住所と同じだ。ここで私は二つの国勢調査にある隣近所の人々に目を向けた。その二つには共通の隣人が一人いた。エリック・アンダーソン、としておく。

 

エリック・アンダーソンで調べてみると、簡単に1910年が出てきて、ついでに1920年も。オリジナルコピーを見ると、なんとマータの先祖の名前も、どちらの調査紙にも、ちゃんとある。そこでインデックスされているものを見てみた。ああ、やっぱり。この先祖の姓とは全く異なる姓名になっている。Nで始まる姓が、インでクサーがWATSONでインデックスには出してある。これはよくある誤読である。よって常にオリジナルコピーを見ることが非常に大切である。

 

このように、あるべき国勢調査が、欠けている調査年がある。これは隣人が何年も同じであれば、マータの先祖のように、調べ直すこともできる。マータは喜んだが、実は別の眼で見ることも必要な場合があるわけである。隣人の姓名で、という考えも別の視点であるからできることかもしれない。 

 

マータの例はまだいい方の壁である。壁、ではないが、私はある先祖の写真をずっと探し続けていた。詳しくは、夫の先祖。私が夫の家族の歴史を手がけ始めたのは、かなり前だが、その頃から、地図で言えばランドマークのような先祖の写真がどこかに絶対あると、信じて疑わず、いつかどこから出てくる、と思っていた。1822年生まれで、19世紀末に亡くなっている。チャンスがあれば、よく系図のブルテンボード(オンラインの)に探していることを掲示したものだ。そうしたら、十数年後、本当に唐突にどなたかが、その先祖の写真をアップロードしていたのだ。

 

そうなると、彼の妻の写真もあるかもしれない、と期待していると、意外なところで見つけた。他州大学の図書館の特別蒐集の中にあったのだ。その夫婦の教会員記録を調べていた時、その教会のリーダーとも言える人物が、当時の多くの資料・写真を遺し、遺族が大学に寄付をしたのを知ったのである。その大学まで赴いて半日かけて蒐集を探した結果、先祖の妻と娘の写真を見つけた。この時の喜びはどう表現したらいいのか。諦めないでよかった。

 

どんな系図調査でも、言えるのは、諦めずに、時が来るのを待つことである。今なくとも、明日には、来年には、十年後には、と希望を持つことである。



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Part 2 次男のこと

2017-08-05 | 国際恋愛・結婚

Trolleholm(トロールホルム)城はトロール–ボンデイ伯爵が城主であるが、実際には、会社組織の団体が半分を所有している。城自体は堅実な北欧人気質を感じさせ、無駄な装飾や大袈裟な建築物ではない。大きさも圧倒されるようなものではないが、敷地内には昔あった伯爵専用の騎馬隊馬小屋などがあり、それらの建物と城は広大な庭ごと、堀で囲まれている。敷地の近くでは、昔からの自給自足で畜産や菜園もずっと続けている。伯爵は、一年の大半をパリやロンドンで過ごす実業家と聞く。


 


の城の中には一階に小さな図書室と別に、建物中央に、吹き抜け天井の大きな図書室が、まるで城の心臓のように設えてある。ほとんどの部屋には自由に入れ、私達はまず一階の小さな図書室で驚いた。そこには14世紀や15世紀の貴重な古書が書棚にずらりと並んでいたからである。手に取って読むこともできるのだ。おおきな図書室は、二階の廊下を歩いていた夫と私が、偶然二階部分の図書室へのドアを“発見”した。それは数多くあるドアの一つで、向こう側から、誰かが感嘆の声をあげていたのを耳にしたからである。


 


天井までの書棚にぎっしり、それもとても貴重な中世からの本までも収められている。なるほどこう言う生活を王侯貴族はしていたのだ、と思うと、目の当たりにする図書館にも匹敵する膨大な蔵書に感銘を受けた。

 

この城の大広間では親族および近しい友人を招いてのフォーマルな昼食会が開かれた。主賓席の中央に座する新郎新婦は、蝋燭の光を跳ね返すように、幸せに満ちた笑顔をしていた。結婚式の招待状を受け取った方々の中には、息子がヨーロッパのお姫様と結婚するのだと誤解したお人もいた。いえいえ、気高く、輝くような笑みを持つ彼女はお姫様ではなく、父親は実業家で、ドイツ人の母とスエーデン人の父を持ち、母親はフィンランド人で、看護士である。市井の人々である。


 


食事が済むと次はホールに改造した元騎馬兵団の馬小屋での別の披露宴が、カジュアルに催された。これは主に学友や集う教会の人々のためであり、簡単なサンドウィッチやソフトドリンクが用意され、そこでウェディングケーキを切ったのである。そして新婦の父親と友人が、衣装まで着込んで、ミュージカルのInto The Woods からのAgonyを歌ったり、あちらの長男がギターを弾いて姉の幸せを願う歌を歌って、しんみりと心を打たれたり、また、うちの長男がホロリとするスピーチをしたり、多くの人々と共に楽しい宵を過ごした。こうしたことへの準備計画がいかに大変であるか容易に想像がつき、完璧につつがなくこなされたことへの、新婦の両親はじめ家族への賞賛と感謝は絶えなかった。


 


結婚式の前夜、花嫁の父に尋ねた。ナタリーは、うちの次男の一体どこに惹かれて、結婚を承諾したのでしょうか? 彼は、笑って、あの子は気が強く、どんな男の子にも負けない、と肩肘を張っていて、決して簡単にイエスと言う娘ではなかったのに、あなたの息子さんに会ってからは、角が取れたかのように、柔軟で素直になったのですよ。それは彼が穏やかに理路整然と物事を説明するので、圧倒されたんでしょう。私たちは心からこの結婚を喜んでいます。

 

え?そんな息子、私は育てたのだろうか?覚えがないが、とても頑固な息子であったのは知っている。ただ、キリスト教会の宣教師として、十九歳から二年間をブラジル伝道に費やして帰還してからは、かなり成長し、人の痛みの分かる者になった様な気はする。

 

この二人は五年後の昨年の暮れ、初めて親になった。今年の夏至祭で、小さな娘は初花冠をかぶったが、マイストングの周りでダンスをする人々の輪に息子に抱かれて入る前に眠ってしまった。

 

忘れていたが、この城には三人というか、二人と一匹の犬の幽霊が出るので有名である。そういえば。。。地下にある使用人用の、誰もいない食堂を撮影しようとシャッターを切ったら、写ったのは靄だった。もう一度取ると今度は取れたが、その映像、あっという間にカメラから消えてしまった。シャイなのかもしれない。何れにしても悪霊ではないようだ。

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次男のこと

2017-08-05 | 国際恋愛・結婚

夏至のスエーデン・スコーネ地方の小麦畑の上に広がる空は、カリフォルニアの紺碧な空と異なって、遠慮がちな、優しい、優しい薄い青だった。ちろちろと白い小波をたてているエーレスンド海峡が、青い小麦畑の果てに見える。ここ南スエーデンの小さな村に住む家族の一人娘が、村の広場へ、花冠をかぶり、自分で仕立てた木綿の夏らしい、でも控えめなドレスに身を包んで、婚約者と手をつないで村の広場へ歩いて行った。

 

広場の中央には、綺麗に草や葉で飾られたマイストング(メイポール、五月の柱)が立てられ、その周りを村の人々に混じって、婚約者や友人や家族と共に踊った。彼女の笑顔は、ことのほか明るく、その笑い声は陽気に弾けた。ミッドサマー(夏至祭)はクリスマスの次に大事な祝日よ、と夏至祭につきもののストベリーショートケーキを切り分けながら、ナタリーは、アメリカからの彼女の新しい家族になる私たちに、楽しそうに言った。その傍らで、彼女と翌日結婚する息子は、柔らかな微笑みを浮かべていた。

 

翌日コペンハーゲンで彼女と婚約者は、両家族の見守る中、厳かに結婚した。午後には、村から少し離れた城で披露宴があり、せわしなかったが、誰もが高揚とした幸せな気分で、あの長いオーレスン橋を渡って、スエーデン側に戻って行った。あちらもこちらも子供は五人、同じ年頃で、うちはすでに長女と三男が結婚していたが、あっという間に打ち解けあって、ゲームの話などもしていたほどだ。ナタリーには四人の兄弟がいて、生まれた時から彼女は父親の目に入れても痛くないほどのお気に入りであるのは、すぐわかった。

 

ナタリーと次男はハワイの大学で知り合った。三男も彼の妻もその大学へ行っていたので、すでに四人は“仲間”である。同じ教会へ四人は毎日曜日集い、勉学に励み、三男以外は、揃って一緒に卒業した。あの年ナタリーの家族も私の家族も忙しい夏を迎えたものだ。五月にはハワイの卒業式に行き、六月はコペンハーゲン空港でナタリー家族が、私達夫婦と子供五人と義理息子と義理娘、そして日本の親族をも迎えに来てくれたのだ。


遡る一年前、次男は夏休みで大学からスエーデンに帰省しているナタリーにプロポーズする計画で長男とヨーロッパへ発った。長男は応援団な役割で。ナタリーの家族は、非常に親しみやすく、親切で楽しい人たちで、次男のプロポーズは計画通り運んだ。長男は、テキストで、逐一実況中継のように私達に連絡してくれた。彼女の父親は、息子達と意気投合し、母親も包容力のある人で、翌年に決めた結婚式が本当に待ち遠しいものになった。


その年のクリスマス休暇に次男はハワイから、ナタリーを連れてカリフォルニアに帰省した。スエーデン人には珍しく、彼女は小柄で、金髪のピキシーカットがとてもチャーミングで愛らしく、スエーデン人は、英語が達者だが、彼女の英語はアクセントもなく、話してみて、聡明な、気さくな、そんな素敵なお嬢さんと見受けた。彼女を嫌いな人などいるだろうか?

 

この続きはまた明日。


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Part 2 ジョン・ウィルカス・ブース

2017-08-04 | 系図のこと

リンカーン暗殺後、逃亡したジョン・ウィルカス・ブースは、1865年4月26日に、ヴァージニア州ポートローヤルにある納屋で陸軍兵によって射殺された。翌日4月7日、合衆国陸軍によって遺体はひきとられ、軍艦モントークで、ワシントンの海軍造船所に搬送された。十人以上の近親者やブースを古くから知る者によって遺体は、ジョンであることが確認された。ジョン本人である根拠は、彼の左手にあるイニシャルJWBという刺青と致命傷となった首の後ろの傷だった。続いて司法解剖が行われ、その際に弾丸の貫通経路を調べるため、頚椎の三節分の骨と少量の脊髄などが、採取された。それらは現在もメリーランド州シルバースプリングスの国立保健医学博物館に所蔵されている。採取したものについては、こちらのサイトに詳しく説明されている。

司法解剖後、刑務所内の物置に埋葬されたが、1869年に遺族に引き渡すため、再び遺族や知人が遺体確認をして、メリーランド州ボルティモアにあるグリーンマウント墓地に埋葬された。すると1913年ジョン・ウィルカス・ブースを語る者が出現、本まで出版され、七万部も売れた。ただちに、メリーランド歴史学会は、1869年ブースの遺体がボルティモアに着くや、当時のボルティモア市長が、ブースの青年時代を知る一人として遺族と共に確認、ブースに間違いはないと、サインされた宣誓陳述書や遺族の陳述をもとにして、反対意見を発表した。

そうした騒ぎは1938年頃まで続いた。2013年ジョン・ブースの頚椎で、DNAテストの為に、ほんの0.4グラムの骨片が必要であると、メリーランド州の米国下院議員らが請願したが、博物館側は、重要な歴史的な保存物を科学の名の下に損失あるいは破損するのは、遺憾である、と、却下した。又エドウィン・ブースの子孫の家族会が、スミソニアン博物館の協力のもと、エドウィンの墓所を掘り起こし、彼の遺体からDNAサンプルを採取すべく、裁判を起こしたが、1995年に却下されている。2010年にも同様の請願がなされたが、今度は墓所管理事務所が、水害などで遺体の損傷が激しい(であろう)為、許可できない、と、これも却下されている。

つまりジョンもエドウィンもDNAを提供できないでいるのが現状である。メリッサ・ブースとのつながりは現状では判断しにくい。しかしながら、DNAテストがいつか許される日があるかもしれない。私自身は、99%紙上での調査で否定的であるが、絶対ではない。たった1%でも可能性があるならば、いつか道が開け、調査を進められる時が来るのを待つのみである。忍耐は美徳の一つである。その先に美しい夜明けがあるかもしれない。


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