れきしぱうち

日本史を、まんが入りでノートにしました。
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平安中期 13章-2 「藤原兼家の辛抱」

2014-01-02 | 平安時代
(1)藤原師輔の子供達

「藤原忠平」の死後、子の「藤原実頼」から、弟の「藤原師輔」へ
摂関家は移っていった。
師輔が実権を握ったのは、娘の入内、そして皇子の出産による
「外戚」の立場を得た事による。

(拡大)

藤原師輔には、1人の娘と、3人の息子がいた。
長男:伊○(これただ)
次男:兼通(かねみち)
三男:兼家(かねいえ)
長女:安子(村上天皇の皇后、冷泉帝、円融帝の母)


【長男:これただ】
父「藤原師輔」の死後、長男「藤原これただ」が摂政を継いだが、
972年にこれただ死亡し、次男:兼通と、三男:兼家で跡継ぎ争いとなった。

【次男:兼通】
次男:兼通より、三男:兼家の方が位が高く、兼家が有力視されていたが、
兼通は、姉で皇太后である「安子」より「年の順に摂関職に就くように」と
いう言葉を引きだしていた為、これを楯として、次男「兼通」が円融天皇の
摂政に就いた。


5年後、次男:兼通が病死し、いよいよ三男:兼家の番かと思った矢先、
死ぬ前に兼家が、従兄弟の「藤原頼忠」に摂関職を譲る宣言をしていた。
おまけに、兼通により、兼家は右大臣から治部卿へ大幅に官位を落とされ、
子供達の官職も剥奪された。
これより、10年、藤原兼家の辛抱の時代が続く。

【三男:兼家】
花山天皇の皇太子に、兼家の娘詮子が、円融天皇との間に産んだ
「懐仁親王」がたてられたところから、兼家の運が急上昇する。


(2)花山天皇の出家
藤原兼家一家による、花山天皇追い出しの策略

花山天皇が、寵愛していた女御の死に落胆していた時、兼家の次男「道兼」が
花山天皇をそそのかして、山科の元慶寺(花山寺)でこっそりと出家させた。



こうして、なかば強制的に花山天皇に譲位させ、
兼家の孫である「懐仁親王」が「一条天皇」として即位し、
藤原兼家は、10年の辛抱の末に、やっと摂政の地位を手にした。

これが、その後栄華を極める「藤原道長」の父である。





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