(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 第三十六章 食事 八

2010-09-06 20:59:49 | 新転地はお化け屋敷
「まあ作るの簡単だし、こっちとしても気が楽だね。普段そんなに気負ってるってわけでもないけどさ」
「そのうえ僕にとっては好物ですからね。――作るのが楽なものが好物って、なんとなく貧乏くさいような気もしますけど」
「そこまでは言わないけど、これだけ料理上手なこーちゃんの好きな料理が作り易いものだっていうのは確かになんかねえ。もっと手間暇掛けたややこしくて美味しい料理だってあるだろうに、もったいないというか何と言うか」
 そんなふうに考えてみたことは正直言ってなかったわけですが、しかし言われてみればそんな気も。そりゃあ料理に限ってだけは、そこそこ腕に自信もありますんで。
「か、楓さん……。そうなっちゃったら、私が困るっていうか……」
「ん? ああ――キシシ、そっかそっか。しぃちゃんは頻繁に作ることになるだろうしね、こーちゃんの好きな料理となると」
 ああ、それはそうかもしれませんね。凝りようにもよりますが、仕込みから考えると日を跨ぐほど時間が掛かりそうなものだってありますし。僕だって作ったことないですけどね、さすがにそんなのは。
 しかし、とは言いましても。
「栞さんに頼むんだったら、自分の好物よりも味噌汁ですかねえ。美味しいですし」
 味噌汁そのものが好物だというわけではありませんが、しかし「栞さんの味噌汁」となると、それはもう好物に入ってしまうほどの気に入りようです。だったら、豆腐の肉乗せに並ぶ扱いをしても問題はないのではないでしょうか。
「おお、『僕のために毎日味噌汁を作ってくれ』だってよしぃちゃん。プロポーズだよプロポーズ」
「ええっ!?」
「いやいやちょっとちょっと」
 何を言い出すんですか家守さん、と言おうと思ったらそれよりも早く栞さんから真に受けたような反応を見せられてしまいました。そんなわけで突っ込み対象が一人から二人になってしまったわけですが、さてどうしましょうか。
「……まあそれが冗談なのは当たり前としますけど」
「えー、勿体無い」
 勿体無いって何ですか家守さん、勿体ないって。
「これだけいつも一緒に食事をしてると、それ別にプロポーズの言葉にならなくないですか? 今だってそうしてるじゃん、みたいな」
「状況的にはそうかもしんないけどさあ――ああそっか、こーちゃん、もっと洒落た言葉を考えるってことだね? いいのかねえ、自分でハードル上げちゃって」
「上げたつもりはございません」
 ……とは言ってみたものの、しかし僕の思惑がどうあれ、そういうことになってしまうのかもしれません。だってそりゃあ、わざと今のより宜しくない言葉を選ぶようなことはないわけで。もちろん、いざとなったその時に、今のこの話を覚えているってことはないんでしょうけど。
 ともかくまんまと家守さんの意地悪に嵌ってしまった僕ですが、しかし僕が嵌ったところで、栞さんが嵌っていなければ問題ないでしょう。
「栞さん、助け」
 てください。
 と言おうとしてみたのですが、
「ほええ」
 栞さん、虚ろな目を泳がせながら気の抜けた声を発しているのでした。今のは返事……では、なさそうですねこりゃ。
「キシシ、夢見ちゃってるねえこりゃ。色男だねえ、こーちゃん?」
「家守さんが無理に色を塗ったくったんでしょ今のは。――ほら栞さん、台所でぼーっとしちゃ危ないですよ」
「あっ。えっ、あれ? 私」
 さあ、今日も料理開始です。この話題を終わらせるためにも。

『いただきます』
「と言うと、昼間のことを思い出しちゃうんですけど……」
「昼間? 日向くん、何かあったの?」
「いやまあ、話すにしても、それは食べ終わった後にします。『いただきます』ってことで食事の話なんですけど、食事中にはちょっと」
「そう?……いやしかし、さすが日向くんの好きな料理だね。美味い美味い」
「さてこーちゃんにしぃちゃん、もう何度も言ってるから知ってると思うけど、高次さんの『美味しい』は信用しないようにね。この人、何食べてもこう言うから」
「むう、反論はできないけどさ楓、日向くんと喜坂さんの反応を待ってからでも良かったんじゃないかなあ突っ込むのは。いや、美味しいのは本当だけど」
「嘘じゃないのは知ってるし、こーちゃんがそれで喜ぶのも分かってるんだけどねえ。やっぱりちょっと気持ちがざわついちゃうっていうかさ」
「つまり、俺に意地悪をしたくなると」
「まあそういうことかな」
「……いや、それは何か違いませんか二人とも。分かってて言ってるんでしょうけど」
「あはは、まあお互いに笑っちゃってちゃねえ」
「本当に意地悪だったとしても笑える自信があるけどね、俺」
「――ほら高次さん、そんなこと言うからまた家守さんが真っ赤になっちゃったじゃないですか」
「いい嫁さんで助かるよ。ところで日向くん、そっちのほうは何だか初めっから静かだね?」
「ああ、栞さんですか」
「ほあえっ! あっはいっ!?」
「……そこまで驚かなくても大丈夫ですよ栞さん。話聞いてない――というか、心ここにあらずなのは見れば分かりますから、誰だって」

『ごちそうさまでした』
 料理中の会話を引きずって栞さんがぽけーっとしっ放しな夕食でしたが、しかしそんな様子を横から眺めているだけでもなんとなく面白かったので、それはそれで満足です。ならば今すぐそれを話題にするのではなく、こちらのほうを。
「反撃されたら弱いって自分でも分かってるでしょうに、全く懲りませんよね家守さん」
 特に今回なんて、その反撃の元になっている自分の意地悪を受け入れられただけでああだったんですから。それって何だか、照れてしまうようなことだと分かっててやってるようなものなんじゃないですか?
「あはは、まあね。いやほら、実際自分でもそこんとこを楽しんでるって面はあるからさ。そういうもんでしょ? そうでなくともアタシら、まだまだ新婚なんだし。大目に見ておくれよこーちゃん」
 思ったことを肯定されたような返答でした。とは言え確かに新婚さんなんで、だったらそういうものなんでしょうけどね。
「俺としても、反撃したら凹まれるとか腹立てられるとかよりは、そりゃあそっちのほうがいいしね。意地の悪いことを言われるのが楽しい、なんて言っちゃうとただの変態みたいだけどさ」
 だとすると高次さんだけでなく、このあまくに荘の住人全員が変態ということになりかねませんが……まあ、だったらそれでも別にいいんじゃないでしょうか。自分一人だけってことになるとちょっと嫌かもしれませんけど。
「いや高次さん、だったら意地の悪いことを言って楽しんでるアタシなんてもっと変態じゃん」
「人と人との相性って、究極的にはそういうところの相性がいいか悪いかってことなんじゃないか?」
「おお、いきなり真面目っぽいこと言い出した」
 早速と言わんばかりに家守さんが茶々を入れるような素振りをみせましたが、しかし高次さん、気にせず話を続けます。
「その人のいいところを気に入るっていうのは、まあ普通と言えば普通だしさ。他人から気に入られるようなところだから『いいところ』なんだし。だったら残ったいいところ以外を気に入られれば――とまではいかなくても、最低限許容さえできれば、じゃあもうその人自体だって気に入られるだろ?」
 なるほど、分からないでもない話です。
 こういう時に例として挙げるとなればそれはやっぱり自分なのですが、例えば僕が栞さんからよく言われている「すぐに自分を悪者にしてしまう」だって、最低限の許容をされているかいないかと言われれば、されているんでしょうし。
 もちろん、だからといってそれに甘えるようなことはないほうがいいわけですけど。
「アタシの話に関しては『なんとか許容してる』って感じじゃないけどねえ、高次さん」
「はっは、そりゃそうだ。個人的にはいいところだと思ってるからなあ、楓の意地の悪い物言いは。なんせ楽しんでるってもう言っちゃってるんだし」
 個人的には、と高次さんは言いました。ということはつまり、一般的に考えた場合は「いいところ」ではないということで、もしかしたら逆に「悪いところ」だとすら言っているのかもしれません。そりゃあ悪いという単語が含まれている以上、意地が悪いというのは悪いことなんでしょうし、だったらそれはそういうことにもなるんでしょうけど。
 さてそれはともかく家守さん、食事中の時ほどとまではいかずとも、少々照れたような表情に。ならば高次さんにいま言われたことが嬉しかったということなのでしょうが、
「こーちゃんとしぃちゃんのほうではこういうことって――」
 そんな胸中とは裏腹に、話を逸らしに掛かるのでした。
「ほええ?」
 が、この気の抜けた栞さんの反応であります。まだ夢見心地だったんですか栞さん。
「…………」
「…………?」
 気まずそうに黙りこくる家守さんと、何がなんだかよく分かってなさそうな栞さん。こういう状況をこそ、ぐだぐだ、と表現するのでしょう。
「ぐわーっ! 逃げるのに失敗したら余計に恥ずかしいー!」
 家守さん、いきなり大声を上げつつ頭を抱えてしまいます。本気でそういった気分だったのか、それとも自分が作り出したぐだぐだを払拭するために敢えてそうしたのか、さてどっちなんでしょうね。
 ともかく高次さんはそんの家守さんを見て笑い、僕は僕で家守さんに驚いてびくりと身を震わせた栞さんを見て笑いました。まともに会話が成立したというわけではないですが、まあ少なくとも、ぐだぐだした状況からは抜け出せたということになるでしょう。
「もうこうなったら話題そのものを変えよう! えーと……ああほら、こーちゃんあれだよ、『いただきます』の時に何か言ってたでしょ? あの話をどうぞ」
 そう来ますか家守さん。
 ――というわけで、あの話の説明を。
「まあ、気になっちゃう話ではあるよねえ。ここの環境だとさ」
 まずは家守さん、そんな感想。自分でも分かってはいましたが、気になるのは仕方がないと言われると、やっぱりどこかほっとしてしまいます。僕の場合、気にし過ぎるのが問題なんですけどね。
「でも日向くん、そこまで深刻になってるってわけでもないんだよね? その話を後回しにしたのもそうだし、その間に普通にご飯食べてたのもそうだし」
 続いて今度は高次さん。その話について僕の結論がどうなったかはまだ話していませんが、しかしこれはもう、見抜かれてしまったも同然なのでしょう。
「僕一人だったらそうなってたかもしれませんけどね。でもそこは、大吾と栞さんの助けもあってなんとかなったというか」
 という話はなにも大袈裟に言ってみたというわけではなく、自分がそうなっている状況というものがあまりにも簡単に想像できてしまうのです。我ながら情けない話ですが。
 それはともかくこういった話にもなれば、僕を含めたこの場にいる者としては大吾と栞さんの二人が気になるわけですが、しかし大吾は今ここにいないので視線を集めるのは栞さんのみ。
「いや、助けってほどのことじゃあ」
 栞さん、照れたような笑みを浮かべながら手をぱたぱたさせていました。さすがにもう、料理中や食事中にそうだったようにぽけーっとはしていません。
「いいじゃんしぃちゃん、こーちゃんがこうもはっきり『助けてもらった』って言ってるんだから。デレデレしてくれてる時は、こっちからもデレデレさせてあげるもんだよ」
「いや、デレデレってほどのことじゃあ」
 僕、照れたような笑みを浮かべながら手をぱたぱたさせていました。
「――あるんでしょうかね? やっぱり」
 否定しきれませんでしたが。
「はっは、判断に迷ってる時点でしてるの確定だと思うよ日向くん」
「ですかねえ、やっぱり」
「み、認めないでよ孝一くん。恥ずかしいよ。……嫌ってわけじゃ、ないけどさ」
「ああもう、可愛いなあしぃちゃんは」
 ですよねえ家守さん。――と思ったらその家守さん、座ったまますすすと栞さんの傍へ。ならばそこからどうしたかといいますと。
 抱き付きました。唐突に、かつ思いっきり。
「アタシがデレデレしちゃおっか? こーちゃんが駄目ならさ」
「楓さんだったらいいですよ」
 家守さんも家守さんですが、そこでなんでそういう返事ですか栞さん。そりゃあ返事がそうなる程に家守さんのことが好きだっていうことぐらいは理解できますけど、なんだかちょっと寂しいです。
「えーと、じゃあ俺は日向くんにデレデレすればいいのか?」
 なんでそうなるんですか高次さん。
「そっ……そ、そうなるんだったら楓さんも駄目です!」
 栞さん、なにかおぞましいものを想像したかのような勢いで家守さんを引き剥がしました。何を想像したのかは聞きたいとすら思いませんが、ともかくその判断は良しです。
「冗談だよ喜坂さん。楓といちゃいちゃしたいならどうぞどうぞ」
 なぜ好転した事態を元に戻そうとしますかね高次さん。
 ……ああいやいや、事態を元に戻すとかそれ以前にですね、
「話を元に戻してもいいでしょうか?」
 ですよ。なんでこんなことになるんですかあの話から。僕がデレデレしたのが悪いんでしょうけど。
「おお、ごめんねこーちゃん。思いっきり話の腰を折っちゃったねえ」
 なんて言いながら結局家守さんは栞さんに抱き付いたままでしたが、まあもう気にしないことにしましょう。見ていて微笑ましくはあるんですし。……圧迫されて変形している家守さんの胸のあたりに目が行ってしまうと、それどころではなくなってしまうんですけどね。
「とは言ってももう話すことって殆どないんですけど、結論としては、あんまり気にしないでおこうってことになりました。大吾の『いただきます』の話が間違ってたって言いたいわけじゃなくて、本当に何の結論も出さないまま『気にしないでおくことにした』ってだけのことですけど」
 すると栞さんに抱き付いたままの家守さん、それにいて高次さんも、それぞれこう仰いました。
「世の中、そういうこともあるもんだよ。何でもかんでもキッチリした正解があるってわけでもないんだしさ」
「日向くんのはそういう『キッチリしてない正解』の一つってことだね。間違いだってわけじゃないから、それはそれでいいと思うよ」
 ……何なんだろうか? 自分でもそんなふうに思っていた筈なのに、まるでいま初めて知ったかのように感心してしまうのは。
「こういう仕事してると、今みたいな話とわんさか出くわすんだよねえ」
「人の生き死にに直結してるからなあ、やっぱり」
 小さな溜息を吐きながら家守さんが言い、そして高次さんも続けてそう言いました。そういうものだと分かっていて霊能者という仕事に就いてはいるんでしょうけど、やっぱり気落ちぐらいはするようです。いや、僕がこんなこと言うのはおこがましいのかもしれませんけど。
「まあしかし、今回の話とは関係ないから、それについて喋るのは止めとこう。――ただしこーちゃん、一つだけ」
 僕だけをご指名なのでさっきまでの鶏肉関連の話かと思いましたが、しかしこの流れだと、いま家守さんが言った「今みたいな話」なのでしょう。
 僕に、一つだけ。さて何でしょうか。
「しぃちゃんと付き合ってる以上、こーちゃんもアタシらとそう変わらないかもしれないからね? もういろいろ分かってるだろうし、それに大丈夫だとも思うから、言っちゃうけどさ」
 なるほど、そういう話ですか。
「分かってますし、大丈夫です。と、自分では思ってます」
 栞さんの手前、そうでなかったとしてもそう答えざるを得ない状況ではありますが、しかし今の言葉に嘘があるというわけではありません。
「宜しい。いい返事だね、さすがはこーちゃん」
 ……ちなみに家守さん、まだ栞さんに抱き付いた状態なのですが、僕に質問したと同時に、その腕へ力が込められたように見えました。栞さんは家守さんのことが普通以上に好きですが、その腕を見た限り、家守さんからも普通以上に好きなのは同様なのでしょう。この場合、「好き」というよりは「大事に思っている」としたほうが正しいのかもしれませんけど。
 そして栞さんですが、こんな話になれば何か一言あるだろうと思っていたものの、しかし何もないのでした。喜ぶか、それは高望みにしても照れるくらいはしてもらえそうなところ、それどころか物憂げな表情です。
「栞さん?」
 というわけで、声を掛けてみました。予想した反応と違ったことが不満だ、なんて言いたいわけじゃありませんが、やっぱり気にはなりますし。
 栞さんに抱き付いたまま僕の方を向いていた家守さんは、それで初めて栞さんの顔色に気付いたようです。至近距離からその顔色を窺い、そして自身は訝しげな顔に。
「あっ、いや、うん、ありがとう。ごめんね、ちょっとぼーっとしてた」
 ぼーっとしていただけでああいう表情にはならないと思いますが、しかしそれが栞さんの言い分なのでした。何かあるのでしょうが、何があるかまでは当然ながら分かりません。
 するとそこへ、ふっと鼻を鳴らしたような音が。
「よし楓、俺らはそろそろ退散しようか」
「そうだね。じゃあ二人とも、アタシらはそろそろ」
 鼻を鳴らしたのがどちらだったのかは分かりませんでしたが、分からないということは、もしかしたら二人ともだったのかもしれません。そしてそれはともかく、高次さんと家守さんは、本当にさっさと玄関へ向かってしまいました。
 もちろん見送りぐらいはするわけで、僕と栞さんも玄関へ。
「話題だけ振ってすぐ帰るって、なんだか放火魔みたいなことになっちゃったねえ。ごめんね二人とも」
「まあ、帰るって言い出したのは俺なんだけどね」
 二人はそれぞれそんなふうに言っていましたが、しかしどうして帰ると言い出したのかくらいは、察しがつきます。栞さんのあの表情についての話は当事者同士だけでするべきものだと、そういうことなのでしょう。ただ無責任に放り投げるわけがないですしね、この人達なら。
 栞さんも恐らくはそう思う筈で、ならば「同時に二人が帰ることになったのは自分のせいだ」とも思ったのでしょうか。ここへ来ても、まだ少し物憂げな顔をしているのでした。

「なんか、ごめんね」
「さっきのが悪いとは誰も言ってませんけどね」
 というのはもちろん、自分のことを絡めた自虐っぽい冗談ではあるんですけどね。
 冗談なのは間違いないとしても笑える冗談なのかどうかはあまり自信がありませんでしたが、しかし栞さん、小さく吹き出す程度には笑ってくれました。
「家守さんの冗談――プロポーズの話でさ、私、それ聞いてからぼんやりしちゃってたでしょ?」
「でしたねえ」
 その話がさっきのあれにどう関係しているのかは分かりませんが、しかしそれでも関係しているのでしょう。いきなり何の関連性もない話をするというのも変ですし。
「それで、こうくんが私と付き合ってるからっていう話になったから……いま考えるようなことじゃないのは分かってるけど、その、結婚したらとかそういうこと、考えちゃって」
「それで不安そうな顔されちゃいましたか」
 と言ってみると、栞さんはやや慌てたようでした。
「だって、やっぱり楽観的にはなれないしさ。ああ言ってくれたこうくんに悪いのは分かってるけど」
 しかしそれは、僕だって同じなのです。だからあの時「と、自分では思います」なんて付け足したわけで、家守さんからはいい返事だねと褒められはしましたが――いや、もしかしたらそんな意図に気付いたうえで、いい返事だねと言ってくれたのかもしれませんけど。
「僕もそうなんですけどね。楽観的になんてなれませんよ、そりゃあ」
 僕のその言葉に栞さんは安心したようで、ならば安心したなりの穏やかな表情で、こんな話をしてきました。
「でも、プロポーズの話が発端ってわけじゃないんだよ。もう一つ前に、それがあったからプロポーズの話であそこまでになっちゃったっていうことがあって」
「……何かありましたっけ?」
 その答えを問われているものだと思って腕を組んでみましたが、しかしそういうことではなかったようで、間を置くようなこともなく栞さん自身がその答えを。自分の手を、顔の前まで持ち上げながら。
「伸びてるんだよね、爪が。どう見ても」
 …………。
 ……それが誰の話で、どういうことなのかというと。
「あ……いや、なんて言ったらいいのか……」
 当たり前ですが、嬉しいです。当たり前ですが、とてつもなくです。けれどそこにどういう言葉を返せばいいのか即座に思い付くことができず、それでも無理に何か言おうとした結果、こんな無様にもほどがあることになってしまいました。
 けれども――けれども最低限、僕の心中がどういったものかくらいは、表情から察してくれたのでしょう。不満げな様子など一切なく、栞さんは笑顔でいてくれました。
「あはは、大丈夫だよ」
 テーブルを挟んだ反対側に座っていた栞さんは、その声色と共にどこかしっとりした笑みを浮かべつつ立ち上がり、そして僕のすぐ隣に。
「爪が伸びてるってこと自体が、言葉の代わりみたいなものだから」
 そうして栞さんは、僕に抱き付いてきました。
「愛してる。でしょ?」
「……そうですね」
 だから、爪が伸びた。だから、栞さんが年を取り始めた。栞さんの身体と一緒にその事実も纏めて腕の中に収め、そして収め切ったところで、少しだけ腕の力を緩めて栞さんと顔を向かい合わせました。
「愛してます、栞さん」
「うん。愛してくれて、ありがとう」
 夕方、胸の傷跡の跡を触っていた時には頭に浮かべただけの言葉でしたが、しかし今回はしっかりと声に出して伝えました。たとえ「爪が伸びていることがその言葉の代わりになる」と言われた直後であっても、口にしないではいられませんでした。
 ……それにしても、重大も重大な出来事の筈なのにお互いこれだけ穏やかに受け入れられているとは。恐らくそれは、僕も栞さんも、普段からそれをどこかで意識し続けていたということなのでしょう。髪が伸びているんじゃないだろうかとか、そういった「もしかして」を抱くようになる前から。
 どちらからともなく唇を寄せ始め、ならばどちらともないもう一方もそれに応じ、そうして僕と栞さんは、どちらからともなくキスをしました。声を掛けるでもなければ、それらしい目配せをするでもなく。
 そしてその後、唇を離した栞さんは頭の位置を下げ、僕の胸に顔を押し付けてきました。
「ありがとう、本当に。……わたしも愛してる、こうくん」
「はい」
 口が胸に押し当てられているせいでくぐもった声になっていますが、そのせいでそう聞こえたのかはたまた本当にそうだったのか、泣いているように聞こえなくもありませんでした。
 栞さんの頭を撫でました。栞さんの髪を撫でました。栗色で、さらさらで、いい匂いがして、それら全要素をひっくるめて僕がとても気に入っていて、そして爪と一緒に伸び始めた、その髪を。
 手触りがいつもと違うようなことはもちろんありませんが、しかしそれでも、いつも以上に気持ちがいいのでした。


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