暫く二人でそうしていて、しかしずっとそうし続けているというわけにもいかず、「暫く」が過ぎれば離れます。たとえ抱き合っているのがどんなに心地よくとも、です。
座ったまま抱き合っていたということで、もし腰を落ちつけられるようなもの――例えば成美さんが持っている座椅子のようなものがあれば、また違ってくるのかもしれませんが。買ってみましょうかね、ああいうの。
それはともかく。
「ご飯の話をしてた時にさ、楓さんが言ってたでしょ? キッチリとした答えなんかない話だって」
「言ってましたね」
「それで、霊能者をやってると、そういう話によく出会う、とも言ってたでしょ?」
「はい」
「そこからだったでしょ? 私とこうくんの話になったの」
「ですね」
僕の胸から顔を離し、抱き締める腕からも離れた栞さんは、しかし僕に寄り添うような格好で、そんな話をしてきました。十分ほど前を振り返るだけの話題だったので僕の返事は短く、なので話はテンポよく進んでいきます。
「ということは、こうくんが私と付き合ってて『そういう問題』にぶつかるかもしれないっていうのも、キッチリした答えがでないことだってことだよね?」
「そうなりますね」
そういう問題。つまり、栞さんが幽霊であるが故の問題。その全てが全てキッチリした答えを持たないものだということはないのでしょうが、殆どはそうなのだろうと思います。
「一番取り乱してた私から言うのも変だけど、だから、あんまり不安にならないでね? キッチリした正解がないならこうくんらしい正解を出してくれればいいんだし、それなら、キッチリした正解よりは楽に思い付けるんだろうから」
「前にもしたような気がしますね、そういう話」
今より先にある不安について考えるのはいいけど、それで本当に不安にはならないように、と。高次さんでしたっけ、この話をしてくれたのって。
「えーと、高次さんだったっけ? いつのことだったかは、ちょっと思い出せないけど」
「ああ、はい。それです」
どうやら栞さんも覚えていたようですが、しかしこの反応を見る限り、どうやら高次さんのその話を下敷きにして言ったというわけではなさそうです。たったいま自分の考えのみで思い付いた言葉、ということなのでしょう。
「……あはは、まあ、自分がそういう心配をされるようなやつだっていうのは分かってるんですけどね」
考え過ぎるな。これまでのいろいろな経緯から考えて、僕にとってそれは苦手なことになるのでしょう。ここに引っ越してきて、栞さんと知り合って、好きになって付き合い始めるまでは、全くそんな自覚はありませんでしたけど。
「こうくんじゃなかったら、ここまで心配なんてしてあげないけどね」
「それも分かってます」
なんせ、自覚させてくれたのが栞さんなのですから。心配してくれたからこそ自覚できたんですし、だったらそのことだって同時に自覚するべきなんでしょうし。むしろ自覚できないでいる方が難しいというか。
――少しだけ、間。けれど今この場で、それは何も気まずいというものではありません。何もしないでただ寄り添っているだけのことが何かをしていることになるというか、まあともかく、それですらいい気分になれるのです、今の僕は。栞さんも。
「ねえ、こうくん」
再び栞さんが口を開きました。それはどこか悪戯っぽい口調なようで、しかしそれだけではないような。
「私、少し前までは『私以外の女の人を好きになってもいいよ』って言ってて、でも最近、『私だけを好きでいて欲しい』って言い直したけどさ」
確かに、そう言っていました。「自分は幽霊だから」と前者のようなことを言っていた栞さんが、最近になって「それでも」と後者のようなことを。どちらにせよ栞さん以外の女性を好きになるなんて考えもしなかった僕ですが、そんなふうに栞さんの意見が変わった時は、やっぱり嬉しかったものです。
「こうなっちゃったらもう、言い直す必要もなくそうなっちゃうっていうか……えーと」
そこで小さく咳払い。どうやら多少、緊張している様子でした。
しかし、今の状況でなにを緊張することがあるのかと思わないでもなかったのですが――。
「私が年を取るようにさせた責任、とってくれますか?」
――――。
いや、緊張もしますよねそりゃ。
そりゃそうですよね。身体の仕組みを変えてしまったなんて、並大抵のことじゃないですもんね。いくらそれが合意の下でのことであるにせよ、じゃあ「僕には責任なんかない」なんて、言える筈もありませんよね。
「よ、よ――喜んで」
なぜ噛んだ僕!
「ふふ、やっぱりいきなり過ぎたかな」
「ご、ご不満ならやり直しますけど……」
という台詞すら噛んでしまうほどの緊張。だってそりゃそうでしょう、今の、それこそプロポーズみたいなものじゃないですか。僕が栞さんからされるっていうのは逆のような気もしますけど、でも別に、男からしなきゃならないってルールがあるわけでもないでしょうし。
「ないよ、不満なんて。あるわけない」
それでも栞さんはそう言って、それまでよりもう少しだけ、僕に掛ける体重を大きくさせるのでした。
「初めはそんなふうに慌てさせるのが目的だったんだけど――えへへ、別のところで満足しちゃった」
ああ、悪戯っぽい口調はそれでしたか。
それはそれで変なのでしょうが、緊張が一気にほぐれてしまいました。
「でも、後になって今の言葉を持ち出して『あの時ああ言ったよね』、なんてことは言わないから安心してね? あくまで私がちょっと意地悪してみただけのことだから」
「いや、僕としてはそんなふうに言ってもらってもいいんですけど……」
でも、まあ。そういうことならそういうことにしておいてもらいましょう。今のが一世一代のプロポーズの言葉だったというのも、なかなかキツい話ですし。
言葉にはせず笑った表情だけでそれを伝えてみたところ、分かってもらえたのなら、ということなのでしょう。栞さんの話は続きます。
「だからこれは、今の時点ではあくまでも例えばの話なんだけど――もし将来、私とこうくんが本当に一緒になったらさ、お料理をするのってどっちの仕事になるのかな。やっぱり私?」
「あくまでも例えばの話」というのは、「確定した話」である場合と比べてしまうと、少々物足りないというか残念というか、まあそういった感想を持ってしまうところです。本当に少々ですが、それでもやっぱり。
しかし栞さんは、そんな「例えばの話」をとても楽しそうに話していました。それどころか、むしろ「例えばの話」だからこそ楽しんでいる、というようにすら見えました。対照的な感情を持っていた僕がそれに対してどう思ったかというと――呑まれてしまうわけです。見事にすっぽりと、しかも自分から望んで。
「うーん、多分そうなるんだろうなとは思いますけど。でもまあ要相談というか、その時の都合次第でどうとでもなるとは思います」
なんせ趣味にも含まれる話ですから、逆に自分から「料理は任せてください」なんてすら言い出すかもしれません。もちろん、断言できるわけじゃあありませんけど。
「ああ、嫌だなあって言ってるわけじゃないからね? こうくんほどじゃないだろうけど、私もお料理は好きだしね、もう」
「抱き締めていいですか」
すると栞さん、息を詰まらせたような顔。
「――そ、そうなっちゃうほど嬉しいことなんだ? しかもかなり反応早かったよね、今」
もちろんですとも。いやそりゃあ、今のこの状況があってということでもあるんでしょうけど。
「そうだよね、こうくんだもんね」
さて。驚かれてはしまったようでしたが、しかし栞さんは可笑しそうにそう言うと、足の間に座り込んできました。となるとこれは、大吾と成美さんがよくやってる体勢ですね。まああちらの場合、正確には足の間じゃなくて足の上に座ってるんですけど。
「……話の続き、いい?」
「あ、すいません。どうぞどうぞ」
そんなつもりがあったわけではないにせよ、すっかり話の腰を折ってしまったようです。
「私とこうくんのどっちがお料理をするかっていうのはまあ、あんまり関係ないんだけど――今日のサンデーとの話ってさ、答えがないまま気にしないことにしたってだけだったでしょ? だったらこれから先、ふとした拍子にまた同じことが気になるってこと、あるかもしれないよね?」
「あー、かもしれませんね」
というこの話は「栞さんと一緒になる」ことを前提としたものなので、ならばその頃には恐らく、僕はこのあまくに荘を離れているのでしょうが――しかしそれでも、気になることはあるのでしょう。たとえサンデーと離れ離れになっていたとしても。
「そういう時にこうくんが傍にいてくれるっていうのは嬉しいし、心強いだろうなって……えっと、まあ、それだけの話なんだけどね」
意外な話でした。というのも、「ふとした拍子に同じことを気にする」というのは、自分のことを言われているんだと思い込んでいたのです。
しかし嬉しいとか、それどころか心強いとまで言われたということは、栞さんの中では同じことを気にするのは栞さんだったということになります。僕と栞さんのお互いのことを言っていたのかもしれませんが、少なくとも栞さん自身については確実に含まれている言い方でした。
「それだけってことでも、ないと思いますけどね」
むしろ、一緒になるというのはそれが本質なのではないかとすら。
「僕も頼りにしてますよ、栞さんのこと。僕のほうが頼り具合が大きいってことすらあるかもしれませんよ? 下手したら」
「あはは、構わないよ全然。そういう関係になってるのに大きい小さいを気にするって、なんだか変な感じだし」
同棲をして、幽霊だから正式な手続きとかはないにしても、結婚をして。ともなればなるほど、栞さんの言ったことは正しいのかもしれません。そういうことを気にしなきゃならない相手と一緒に暮らすっていうのは、なんだか大変そうですしね。
「……すっごい、幸せそうな話だね」
ぽつり、と呟くように栞さんは言いました。あくまでもこれは仮定の話なのです。
「まだちょっと、信じられないかも。私、本当にそんなに幸せになれるのかな。なっても、いいのかな」
後ろ向きな発言でした。けれどその割には、明るい声色でした。つまりそれは、目の前まで迫った幸福を前に少したじろいだ、という程度のことなのでしょう。幸せを感じると泣きだしてしまっていた頃の栞さんを思い出しもしましたが、それとはまるで別のものだと、僕は断言できます。なんせ、どちらの栞さんも知っているんですから。
「栞さんがどんなふうに思ってたって、無理矢理にでもさせますよ。幸せに」
「ふふ、こうくんらしい」
誰でもそう言わざるを得ないんじゃないと僕自身は思うのですが、しかしこの返事は、僕らしいんだそうです。だったら、そうなのでしょう。
「一番初めにもらった幸せは、やっぱりあれなのかな」
別の話を持ってきたのか、それともまだ同じ話題なのか。ともかく栞さん、ぽつりと呟くようだったさっきの話し始めよりははっきりと、こう言いました。
「楓さんと一緒に料理を教えてもらったこと」
「ささやか過ぎませんか? 今の話と比べるには」
家守さんも一緒という時点で、僕と栞さんだけの話でもないわけですし。
「うん。だから、すごいなって。あそこから始まって、そこまでになっちゃうなんて」
でもそれは自然なことなんじゃあ、とは言いません。僕からすれば自然なことではあるのですが、栞さんは一度、それを諦めざるを得ない立場に立ったことがあるからです。
栞さんが特殊だというのは分かっています。けれど今ここにいるのは僕と栞さんだけで、ならば今この場では、僕の意見と栞さんの意見で一対一。どちらが普通でどちらが特殊かなんて話は、関係ないのです。
何事もなくこれまで過ごしてきた僕と、長い長い間、病院から出られなかった栞さん。それらはどうあっても、一対一なのです。
「栞さん」
「ん?」
「一緒になるっていうのはまだ仮定でしかないですけど、今はどうですか? ちゃんと幸せにしてあげられてますか?」
「うん」
質問を聞いている段階から返事を思い浮かべていたかのような即答でした。
「でもこうくん、今の、私がそう答えるって分かってて訊いたんじゃない?」
「まあ、そうなんですけどね」
でも栞さん、即答してもらえたというのは、やっぱり分かっていた以上に嬉しかったですよ。栞さんからすればそれだって当たり前かもしれませんし、そうだとすると恥ずかしいことになるような気がするので、言わないではおきますけど。
「こうくんはどう?」
「……女の人に後ろから抱き付いてるのに『いいえ』なんて言ったら、失礼どころじゃない気がするんですけど」
「まあまあ、そう固いこと言わずに。私だって分かってて訊いてるんだから」
それもそうですね、と。
一対一の意見。僕と栞さんでは、その言葉が持つ重みに違いはあるんでしょうけど――。
「幸せにしてもらってますよ、僕も」
それだけは、間違いありません。
「良かった」と呟きながら、栞さんは微笑んでくれました。そして、
「一番幸せを感じるのって、やっぱり料理をしてる時? それとも、ご飯を食べてる時なのかな」
にこにことした笑顔のまま、そんな質問。二つほど例が挙がったわけですがしかし――ううむ、そのどちらかなような、そのどちらでもないような。
いやその、やっぱり、その二つ以外で思い当たるものがあるわけです。具体的に思い起こすのはちょっと今の体勢もあってどうかと思うんですが、まあつまり、食事のこととはまた別に大吾と話したアレというか。
けれどなにも、栞さんの挙げた例が間違っているというわけでもなく。要するに僕は、栞さんが挙げたその二つと自分で思い浮かべた一つとで、迷ってしまったのでした。
「あはは、そこで困っちゃうんだ」
「あ、……や、すいません」
「何を考えてるか、大体分かっちゃうけどね」
それまでの微笑みとはまた別の意味で笑われてしまい、そしてそんなことまで言われてしまいました。しかしさて、栞さんの「大体分かっちゃう」は、どこまで正しいものを想い描けているのでしょうか?
一番幸せを感じる時。憚られて然るべき話なのですが、正直、栞さんも僕と同じことを想像したんじゃないでしょうか? だってそりゃあ、幸せなのは幸せなんですし。
となるともしかして「大体分かっちゃう」とは、そのことについてだけを言っていたりしないでしょうか? 料理や食事と比べて迷っているのでなく、間違いなくそれが一番だと思った、ということになってしまってるんじゃないでしょうか?
「いや――」
というわけで訂正させてもらおうとしたところ、
「本っ当に料理と食事が好きなんだね、こうくん」
……どうやら、全て分かられてしまっていたようでした。
「一緒に居させてね、私もそこに」
「はい」
こんなにも僕のことを分かってくれる人だったら、むしろこっちからお願いしたいくらいです。そしてプロポーズというのは、その気持ちを言葉として表したものなのでしょう。
今ではないいつか。しかしその「いつか」に必ず、僕は栞さんにその言葉を贈ることになるんだと思います。
これからも一緒に食事をしてください――は、さすがに変ですけどね。
座ったまま抱き合っていたということで、もし腰を落ちつけられるようなもの――例えば成美さんが持っている座椅子のようなものがあれば、また違ってくるのかもしれませんが。買ってみましょうかね、ああいうの。
それはともかく。
「ご飯の話をしてた時にさ、楓さんが言ってたでしょ? キッチリとした答えなんかない話だって」
「言ってましたね」
「それで、霊能者をやってると、そういう話によく出会う、とも言ってたでしょ?」
「はい」
「そこからだったでしょ? 私とこうくんの話になったの」
「ですね」
僕の胸から顔を離し、抱き締める腕からも離れた栞さんは、しかし僕に寄り添うような格好で、そんな話をしてきました。十分ほど前を振り返るだけの話題だったので僕の返事は短く、なので話はテンポよく進んでいきます。
「ということは、こうくんが私と付き合ってて『そういう問題』にぶつかるかもしれないっていうのも、キッチリした答えがでないことだってことだよね?」
「そうなりますね」
そういう問題。つまり、栞さんが幽霊であるが故の問題。その全てが全てキッチリした答えを持たないものだということはないのでしょうが、殆どはそうなのだろうと思います。
「一番取り乱してた私から言うのも変だけど、だから、あんまり不安にならないでね? キッチリした正解がないならこうくんらしい正解を出してくれればいいんだし、それなら、キッチリした正解よりは楽に思い付けるんだろうから」
「前にもしたような気がしますね、そういう話」
今より先にある不安について考えるのはいいけど、それで本当に不安にはならないように、と。高次さんでしたっけ、この話をしてくれたのって。
「えーと、高次さんだったっけ? いつのことだったかは、ちょっと思い出せないけど」
「ああ、はい。それです」
どうやら栞さんも覚えていたようですが、しかしこの反応を見る限り、どうやら高次さんのその話を下敷きにして言ったというわけではなさそうです。たったいま自分の考えのみで思い付いた言葉、ということなのでしょう。
「……あはは、まあ、自分がそういう心配をされるようなやつだっていうのは分かってるんですけどね」
考え過ぎるな。これまでのいろいろな経緯から考えて、僕にとってそれは苦手なことになるのでしょう。ここに引っ越してきて、栞さんと知り合って、好きになって付き合い始めるまでは、全くそんな自覚はありませんでしたけど。
「こうくんじゃなかったら、ここまで心配なんてしてあげないけどね」
「それも分かってます」
なんせ、自覚させてくれたのが栞さんなのですから。心配してくれたからこそ自覚できたんですし、だったらそのことだって同時に自覚するべきなんでしょうし。むしろ自覚できないでいる方が難しいというか。
――少しだけ、間。けれど今この場で、それは何も気まずいというものではありません。何もしないでただ寄り添っているだけのことが何かをしていることになるというか、まあともかく、それですらいい気分になれるのです、今の僕は。栞さんも。
「ねえ、こうくん」
再び栞さんが口を開きました。それはどこか悪戯っぽい口調なようで、しかしそれだけではないような。
「私、少し前までは『私以外の女の人を好きになってもいいよ』って言ってて、でも最近、『私だけを好きでいて欲しい』って言い直したけどさ」
確かに、そう言っていました。「自分は幽霊だから」と前者のようなことを言っていた栞さんが、最近になって「それでも」と後者のようなことを。どちらにせよ栞さん以外の女性を好きになるなんて考えもしなかった僕ですが、そんなふうに栞さんの意見が変わった時は、やっぱり嬉しかったものです。
「こうなっちゃったらもう、言い直す必要もなくそうなっちゃうっていうか……えーと」
そこで小さく咳払い。どうやら多少、緊張している様子でした。
しかし、今の状況でなにを緊張することがあるのかと思わないでもなかったのですが――。
「私が年を取るようにさせた責任、とってくれますか?」
――――。
いや、緊張もしますよねそりゃ。
そりゃそうですよね。身体の仕組みを変えてしまったなんて、並大抵のことじゃないですもんね。いくらそれが合意の下でのことであるにせよ、じゃあ「僕には責任なんかない」なんて、言える筈もありませんよね。
「よ、よ――喜んで」
なぜ噛んだ僕!
「ふふ、やっぱりいきなり過ぎたかな」
「ご、ご不満ならやり直しますけど……」
という台詞すら噛んでしまうほどの緊張。だってそりゃそうでしょう、今の、それこそプロポーズみたいなものじゃないですか。僕が栞さんからされるっていうのは逆のような気もしますけど、でも別に、男からしなきゃならないってルールがあるわけでもないでしょうし。
「ないよ、不満なんて。あるわけない」
それでも栞さんはそう言って、それまでよりもう少しだけ、僕に掛ける体重を大きくさせるのでした。
「初めはそんなふうに慌てさせるのが目的だったんだけど――えへへ、別のところで満足しちゃった」
ああ、悪戯っぽい口調はそれでしたか。
それはそれで変なのでしょうが、緊張が一気にほぐれてしまいました。
「でも、後になって今の言葉を持ち出して『あの時ああ言ったよね』、なんてことは言わないから安心してね? あくまで私がちょっと意地悪してみただけのことだから」
「いや、僕としてはそんなふうに言ってもらってもいいんですけど……」
でも、まあ。そういうことならそういうことにしておいてもらいましょう。今のが一世一代のプロポーズの言葉だったというのも、なかなかキツい話ですし。
言葉にはせず笑った表情だけでそれを伝えてみたところ、分かってもらえたのなら、ということなのでしょう。栞さんの話は続きます。
「だからこれは、今の時点ではあくまでも例えばの話なんだけど――もし将来、私とこうくんが本当に一緒になったらさ、お料理をするのってどっちの仕事になるのかな。やっぱり私?」
「あくまでも例えばの話」というのは、「確定した話」である場合と比べてしまうと、少々物足りないというか残念というか、まあそういった感想を持ってしまうところです。本当に少々ですが、それでもやっぱり。
しかし栞さんは、そんな「例えばの話」をとても楽しそうに話していました。それどころか、むしろ「例えばの話」だからこそ楽しんでいる、というようにすら見えました。対照的な感情を持っていた僕がそれに対してどう思ったかというと――呑まれてしまうわけです。見事にすっぽりと、しかも自分から望んで。
「うーん、多分そうなるんだろうなとは思いますけど。でもまあ要相談というか、その時の都合次第でどうとでもなるとは思います」
なんせ趣味にも含まれる話ですから、逆に自分から「料理は任せてください」なんてすら言い出すかもしれません。もちろん、断言できるわけじゃあありませんけど。
「ああ、嫌だなあって言ってるわけじゃないからね? こうくんほどじゃないだろうけど、私もお料理は好きだしね、もう」
「抱き締めていいですか」
すると栞さん、息を詰まらせたような顔。
「――そ、そうなっちゃうほど嬉しいことなんだ? しかもかなり反応早かったよね、今」
もちろんですとも。いやそりゃあ、今のこの状況があってということでもあるんでしょうけど。
「そうだよね、こうくんだもんね」
さて。驚かれてはしまったようでしたが、しかし栞さんは可笑しそうにそう言うと、足の間に座り込んできました。となるとこれは、大吾と成美さんがよくやってる体勢ですね。まああちらの場合、正確には足の間じゃなくて足の上に座ってるんですけど。
「……話の続き、いい?」
「あ、すいません。どうぞどうぞ」
そんなつもりがあったわけではないにせよ、すっかり話の腰を折ってしまったようです。
「私とこうくんのどっちがお料理をするかっていうのはまあ、あんまり関係ないんだけど――今日のサンデーとの話ってさ、答えがないまま気にしないことにしたってだけだったでしょ? だったらこれから先、ふとした拍子にまた同じことが気になるってこと、あるかもしれないよね?」
「あー、かもしれませんね」
というこの話は「栞さんと一緒になる」ことを前提としたものなので、ならばその頃には恐らく、僕はこのあまくに荘を離れているのでしょうが――しかしそれでも、気になることはあるのでしょう。たとえサンデーと離れ離れになっていたとしても。
「そういう時にこうくんが傍にいてくれるっていうのは嬉しいし、心強いだろうなって……えっと、まあ、それだけの話なんだけどね」
意外な話でした。というのも、「ふとした拍子に同じことを気にする」というのは、自分のことを言われているんだと思い込んでいたのです。
しかし嬉しいとか、それどころか心強いとまで言われたということは、栞さんの中では同じことを気にするのは栞さんだったということになります。僕と栞さんのお互いのことを言っていたのかもしれませんが、少なくとも栞さん自身については確実に含まれている言い方でした。
「それだけってことでも、ないと思いますけどね」
むしろ、一緒になるというのはそれが本質なのではないかとすら。
「僕も頼りにしてますよ、栞さんのこと。僕のほうが頼り具合が大きいってことすらあるかもしれませんよ? 下手したら」
「あはは、構わないよ全然。そういう関係になってるのに大きい小さいを気にするって、なんだか変な感じだし」
同棲をして、幽霊だから正式な手続きとかはないにしても、結婚をして。ともなればなるほど、栞さんの言ったことは正しいのかもしれません。そういうことを気にしなきゃならない相手と一緒に暮らすっていうのは、なんだか大変そうですしね。
「……すっごい、幸せそうな話だね」
ぽつり、と呟くように栞さんは言いました。あくまでもこれは仮定の話なのです。
「まだちょっと、信じられないかも。私、本当にそんなに幸せになれるのかな。なっても、いいのかな」
後ろ向きな発言でした。けれどその割には、明るい声色でした。つまりそれは、目の前まで迫った幸福を前に少したじろいだ、という程度のことなのでしょう。幸せを感じると泣きだしてしまっていた頃の栞さんを思い出しもしましたが、それとはまるで別のものだと、僕は断言できます。なんせ、どちらの栞さんも知っているんですから。
「栞さんがどんなふうに思ってたって、無理矢理にでもさせますよ。幸せに」
「ふふ、こうくんらしい」
誰でもそう言わざるを得ないんじゃないと僕自身は思うのですが、しかしこの返事は、僕らしいんだそうです。だったら、そうなのでしょう。
「一番初めにもらった幸せは、やっぱりあれなのかな」
別の話を持ってきたのか、それともまだ同じ話題なのか。ともかく栞さん、ぽつりと呟くようだったさっきの話し始めよりははっきりと、こう言いました。
「楓さんと一緒に料理を教えてもらったこと」
「ささやか過ぎませんか? 今の話と比べるには」
家守さんも一緒という時点で、僕と栞さんだけの話でもないわけですし。
「うん。だから、すごいなって。あそこから始まって、そこまでになっちゃうなんて」
でもそれは自然なことなんじゃあ、とは言いません。僕からすれば自然なことではあるのですが、栞さんは一度、それを諦めざるを得ない立場に立ったことがあるからです。
栞さんが特殊だというのは分かっています。けれど今ここにいるのは僕と栞さんだけで、ならば今この場では、僕の意見と栞さんの意見で一対一。どちらが普通でどちらが特殊かなんて話は、関係ないのです。
何事もなくこれまで過ごしてきた僕と、長い長い間、病院から出られなかった栞さん。それらはどうあっても、一対一なのです。
「栞さん」
「ん?」
「一緒になるっていうのはまだ仮定でしかないですけど、今はどうですか? ちゃんと幸せにしてあげられてますか?」
「うん」
質問を聞いている段階から返事を思い浮かべていたかのような即答でした。
「でもこうくん、今の、私がそう答えるって分かってて訊いたんじゃない?」
「まあ、そうなんですけどね」
でも栞さん、即答してもらえたというのは、やっぱり分かっていた以上に嬉しかったですよ。栞さんからすればそれだって当たり前かもしれませんし、そうだとすると恥ずかしいことになるような気がするので、言わないではおきますけど。
「こうくんはどう?」
「……女の人に後ろから抱き付いてるのに『いいえ』なんて言ったら、失礼どころじゃない気がするんですけど」
「まあまあ、そう固いこと言わずに。私だって分かってて訊いてるんだから」
それもそうですね、と。
一対一の意見。僕と栞さんでは、その言葉が持つ重みに違いはあるんでしょうけど――。
「幸せにしてもらってますよ、僕も」
それだけは、間違いありません。
「良かった」と呟きながら、栞さんは微笑んでくれました。そして、
「一番幸せを感じるのって、やっぱり料理をしてる時? それとも、ご飯を食べてる時なのかな」
にこにことした笑顔のまま、そんな質問。二つほど例が挙がったわけですがしかし――ううむ、そのどちらかなような、そのどちらでもないような。
いやその、やっぱり、その二つ以外で思い当たるものがあるわけです。具体的に思い起こすのはちょっと今の体勢もあってどうかと思うんですが、まあつまり、食事のこととはまた別に大吾と話したアレというか。
けれどなにも、栞さんの挙げた例が間違っているというわけでもなく。要するに僕は、栞さんが挙げたその二つと自分で思い浮かべた一つとで、迷ってしまったのでした。
「あはは、そこで困っちゃうんだ」
「あ、……や、すいません」
「何を考えてるか、大体分かっちゃうけどね」
それまでの微笑みとはまた別の意味で笑われてしまい、そしてそんなことまで言われてしまいました。しかしさて、栞さんの「大体分かっちゃう」は、どこまで正しいものを想い描けているのでしょうか?
一番幸せを感じる時。憚られて然るべき話なのですが、正直、栞さんも僕と同じことを想像したんじゃないでしょうか? だってそりゃあ、幸せなのは幸せなんですし。
となるともしかして「大体分かっちゃう」とは、そのことについてだけを言っていたりしないでしょうか? 料理や食事と比べて迷っているのでなく、間違いなくそれが一番だと思った、ということになってしまってるんじゃないでしょうか?
「いや――」
というわけで訂正させてもらおうとしたところ、
「本っ当に料理と食事が好きなんだね、こうくん」
……どうやら、全て分かられてしまっていたようでした。
「一緒に居させてね、私もそこに」
「はい」
こんなにも僕のことを分かってくれる人だったら、むしろこっちからお願いしたいくらいです。そしてプロポーズというのは、その気持ちを言葉として表したものなのでしょう。
今ではないいつか。しかしその「いつか」に必ず、僕は栞さんにその言葉を贈ることになるんだと思います。
これからも一緒に食事をしてください――は、さすがに変ですけどね。
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