(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 第三十六章 食事 七

2010-09-01 20:32:03 | 新転地はお化け屋敷
「嫌がられないんだったら、まあ話してもいいかなーとは思うんですけどねえ」
「じゃあ、私が嫌がりそうなことなんだ? あと成美ちゃんも」
「うーん、それも正直、微妙なところなんですけど……」
 男同士だからあんな話ができた、というのは確かにあります。ならば逆に、女性同士でもあんな話をしたりするものなんでしょうか? もちろん僕は女性じゃないので、その疑問の答えがこの状況に直接影響するわけではありませんが、しかしともかく女性もそういう話をするというのなら、彼氏である自分とだったら大丈夫だったりするんじゃないかなあ、と。
 ……彼女がいるくせに女性というものの生態について悩むというのも、変な話ではありますが。つまりは女性慣れしていないということですね、今ですら。
「まあ嫌がりそうでも何でも、気になることには変わりないんだけどねー」
「ですよねえ、やっぱり」
 ううむ――うむ、よし。
「じゃあ、話します」
「どうぞどうぞ」
 それなりに重大な決意のもとにその判断を下してはみたのですが、栞さんの反応が軽い軽い。そりゃあこれから話す内容のことを知らないわけですからそうなって当然ではあるんですけど、その軽いところへいきなりこんな話、大丈夫でしょうか?
「えーと、まあ簡単に言っちゃいますと、僕と大吾が初めて栞さん成美さんと一夜を共にした時のことを――」
 なんでまた「一夜を共に」なんて若干洒落た言い回しになっちゃってるんだと思わないでもなかったのですが、しかしあれです、あまり生々しい表現をするのは心が折れそうだったのです。
 そしてそれはあまり重要でなく――と言っても僕自身の中でだけは重要なのですが――ならば何が重要なのかと言いますと、そこはやはり栞さんの反応です。さて?
「……ど、どの辺りまで?」
 栞さん、どもってしまいました。ということは、やはりそうなる程度には衝撃的な話だったのでしょう。
「いや、何をどうしたとか、ああしたらこうだったとか、そこまで赤裸々な話とかじゃないですよ? アバウトにどんな感じだったかっていうか、まあその、お互い初めてだったけどどうだったのよっていう」
「そ……そ、そっか。ああよかった」
 どもりが一度で治まらない栞さん。ともなれば余程の衝撃だったのでしょうが、しかしそこで怒られるでなく「よかった」と返ってきたのには、こちらも詰まりそうだった息がすっきりと抜けていくような気分にさせられました。
「じゃああの、一個だけ訊くけどさ」
「なんですか?」
「胸の……傷跡の話って、した?」
 言われた瞬間、胸がぎくりと疼きました。もちろん僕の胸には疼くような傷跡も何もありはしないわけですが。
 しかし大吾と話している最中の僕だって、その辺りのことを考慮しなかったわけではないのです。
「いえ、してません。『特別な事情があった』とだけ言いはしましたけど、具体的なことは、匂わせるような一言すら言ってません」
「それだったら――まあ、うん、私も大丈夫かな」
 そうは言いながら、しかし栞さんは気後れした表情で、軽く握った拳を胸に当てていました。大丈夫だったと分かってもまだ不安が抜けきらないような、それほど重大な話なのでしょう。確認するまでもなく分かってはいたことですが。
「覚えててくれてた、ってことでいいのかな。前に言った、こうくん以外にこの話はできそうにないって話」
 もし自分が僕以外の男性と付き合うようなことになっても、恐らくその男性にすら胸の傷跡の話はできないだろう。栞さんがいま言ったのは、そんな話でした。
「覚えてます。でも、覚えてなくたって他の誰かに言うような話じゃないってことぐらいは分かってるつもりですけどね」
 というのは何も格好をつけたわけではなく、普通に考えれば誰だってそういう扱い方をする話なのだろうと思います。自分だからこそ打ち明けてもらえた話だというのは充分過ぎるほど分かってますし、そもそもそれ以前に、気軽に出来る話ではないんですし。
「そっか」
 僕でなくとも誰だってそうする。そんなふうに思ってはみたわけですがしかし、こうも嬉しそうに笑い掛けられると、「よく言った僕」なんて思ってしまったりも。
「じゃあこれからは、気兼ねなく大吾くんとそういう話をしてくれていいよ。私からは今ここで許可を出しておくから」
「んー……それはそれで、話がし辛くなりそうな」
 やらしい話をしている時にいちいち栞さんの笑顔が浮かんできそうなというか、そんな感じ。そりゃまあ、許されないよりは格段にマシなわけではあるんですが。
「なんだったら、私がその場に居合わせてても大丈夫だよ?」
「栞さん、さすがにそれは嫌がらせです」
 そういうことができる人もいるんでしょうし、現時点でできなくとも慣れればできてしまうというようなこともあるでしょう。しかし僕は自分について、何がどうなろうとそういうことはできない人間だ、と判断付けてしまうのでした。
「うん、さすがに冗談だけどね」
「ですよねえ」
 こういう話をすることに躊躇いを持ったことへ、女性慣れしていないという理由を付けた僕。しかしそうすると、栞さんも恐らくは同じ条件である筈なのです。栞さんが僕の初めての彼女であるのと同様、僕は栞さんの初めての彼氏なわけでして、ならば僕が女性慣れしていないのと同様、栞さんもまだ男性慣れはしていないんじゃないかな、と。
 いやもちろん、慣れているというならそれに越したことはないんですけどね。例えば今の「私がその場に居合わせて」というのも、男性慣れしていることを踏まえたうえでの判断だというなら、僕としては納得してあげたいと思いますし。
「それで栞さん、ちょっと気になったんですけど」
「ん?」
「今みたいな話って、女の人同士でもしたりします?」
 しないってことはないだろう、と思っているところが正直言ってあるのですが、しかし一応確認しておこうかなと。面と向かって尋ねられる女性は、栞さんしかいないわけですしね。
 すると栞さん、少しだけ考えるような間を置いてから、やや躊躇いがちに言いました。
「まあ、するよ? と言っても、そんなに何度もしたことがあるってわけじゃないけど」
「そうですか……」
「ん? がっかりさせちゃった?」
「いえ、むしろ安心しました。――というか、がっかりするところじゃないでしょう、今の。どう考えても」
 がっかりするということはつまり、女性にはそういう話をして欲しくないと思っている、ということになるのでしょう。さすがにそこまで夢見がちな男子ではありませんとも、そりゃあ。
 というわけでそれはともかく。
「したことがあるっていうのはやっぱり、相手は家守さんですか?」
 女性同士ということになると、相手は家守さんか成美さん。マンデーさんチューズデーさんナタリーさんを含めるべきかどうかは微妙なところですが、まあ含めて考えたところで、どちらにせよそういう話をしそうなのは家守さんだけだよなあ、とも。
「ん? いや、成美ちゃんだよ」
 と思ったら、意外な返事でした。
「前にほら、高次さんのご実家に泊まらせてもらった時に」
 僕と大吾が初めてそういう話をしたのと、同じタイミングだったようです。状況が同じなら考えるようなことも同じ、ということでしょうか。
 さて栞さん、ならばその時の話をするのかと思いきや、そうではありませんでした。
「楓さんが真っ先に出てきちゃうっていうのは、まあ、分かるって言えば分かるけどねえ」
「……失礼しました」
「はい。――あはは、普段はそれっぽいことばっかりだもんね」
 失礼しましたと謝った後ではありますが、本当に失礼だったなと思います。特定の誰かを真っ先に浮かべること自体は仕方ないにしても、それを口に出すというのはやっぱり。
「でも楓さんだからねえ。真面目な時は本当に真面目だから、いやらしいって感じじゃあなくなっちゃうんだよね」
「ああ。言われてみたら、そんな気もします」
 その状況は容易に想像できるのですが、しかし容易に過ぎて、話の内容まで想像できてしまいます。
 話す相手が栞さんとなると、子どもができるできないとか、そういう話にもなるのでしょう。
 今になってそれについてどう思うということもないですし、僕がそう思っているというのは栞さんだって承知してはいるのでしょうが、しかし敢えてそれを口に出すようなことはしないでおきました。
「まあともかくこうくん、女だってそういう話はするわけだよ。そりゃあ大っぴらにそういう話をしてくれ、なんてことは言わないけど、時と場所と状況さえよければ、変に嫌がったりはしないからね? 私は。女同士ってことにはならないけど、相手がこうくんならね」
「承知致しました」
 具体的に説明されて初めて理解するようなことではないような気もしますが、まあ終わり良ければすべて良しというやつです。
「ところでこうくん、もう一つ」
「なんですか?」
 やらしい話の続きですか? と、まあぶっちゃけると卑猥な期待を持ってしまったりしたのですが、
「『今なら話せるのかな?』って訊いた時、見事にこっちの話だけ出てきたねえ。サンデーの話も想定してたんだけどなあ、私としては」
 どういうことなのか、数瞬だけ考えて。
「ぬあっ!」
 変な声を上げる僕なのでした。
「あはは、まあでも、それを責めたりしてるわけじゃないからね? やらしい話だって言っても、捉え方によっては大事な話でもあったんだろうし」
 なんとも広い心を見せつけてくれる栞さんでしたが、そうなると自分の小ささが逆に痛いです。何故そっちを――サンデーと鶏肉の話を思い浮かべられなかったんだ、僕。
 まあしかし、栞さんの言うように大事な話ではあったんでしょう。二人だけの時にそういう話ができるかでいないか、ということにも繋がるわけですから。その収穫に紛れさせて自分の失態なんか忘れちゃいましょう、もう。
「えーと、じゃあ、そっちの話もしましょうか? 大吾もさっき話して大丈夫みたいなこと言ってましたし、僕もそれと似たようなものですし」
 ちなみに大吾がそう言っていたのは、成美さんに担がれてやらしい話を隠していると暴露してしまった時のこと。僕も経ったいま同じような状況に陥ったわけですが、しかし栞さんに担ぐようなつもりがあったのかどうかは、定かではありません。わざわざ確かめる気もないですけど。
「そう? 大丈夫なんだったら、聞かせて欲しいな」
「分かりました」
 そもそも栞さんとは大吾とこの話をする前から同じ話をしていたわけで、ならばそういった面も、事の顛末を知らせる理由にはなるのでしょう。そこまで考えなければならないようなことでもないんでしょうし、それに同じことがサンデーにも言えるんですけども。
「結論からさくっと言っちゃいますと、『そんなに気にするようなことじゃないよね』っていうことになりました」
「ああ、特にこうくんにはよくよく言い聞かせたい言葉だね」
「面目ないです」
 予め想定でもしていたのかというくらい即座に返され、なので即座に返し返してしまいましたが、しかしそう軽く流してしまえる話ではないのでしょう。栞さんからよく言われている「すぐに自分を悪者にするな」というあれにも関わってくることでしょうし、栞さんだってそれを思って今の言葉を発したんでしょう。
「で、それはどっちが出した結論なの? 大吾くん? それとも、こうくんが自分で?」
「うーん、大吾の話をヒントに僕が自分で、ってところでしょうかね。近い話を大吾がしたのは事実です」
 できれば一から十まで自分で出せた結論だったら格好も付けられたんでしょうけど、残念ながらそうではありませんでした。だからといってそんなふうな嘘をついてみても、いいことなんて何一つなさそうですしね。
「そう。でも何にせよ、自分で出せたっていうのは評価するよ。普段からあれだけしつこく言ってる身としては、それくらいしないとね」
「すいません、気苦労ばかりお掛けしまして」
「そりゃあ、気苦労をするに値する人だもん」
 何をどうしつこく言っているのか、というところまでの説明はありませんでしたが、しかしここまでくればもう確実に「自分を悪者にするな」の話でしょう。大吾からのヒントがあって出した結論ですら評価されてしまうというのは歯痒いですが、自分が得ている評価がそれほどに低いということはよくよく分かっていますし、だからこそ「評価する」なんて硬い言い方をされている、というのも納得できるので、あくまでも歯痒いだけです。
「それで、大吾くんの話は聞かせてもらっても?」
「ああ、はい。ここまで言ったら話さないとモヤモヤさせちゃうでしょうし」
 もちろんそれも、大吾の許可があっての話ですけどね。それにもともとそうするつもりがあったから、結論を最初に持ってきたわけですし。
「サンデーの話からは、ちょっと離れるんですけど」
 というわけで、あの時の大吾の話――「いただきます」の意味に始まって、「ならば幽霊には『いただく』権利がないんじゃないか」と繋がるあの話を、栞さんに伝えました。
 大吾がそれを思い浮かべた当時というのは、栞さんも一緒にサンデーの話を聞いていた時のこと。だからという面もあるのでしょう、栞さん、これまでより表情が少しだけ硬くなっていました。
 初めに言った結論よりも格段に長いその話を終え、そして。
「……なんだか、いろいろと凄まじい話だね」
「ですよねえ」
 具体的に話のどこがどうだったというわけではなく、まずはそんな感想を漏らす栞さんでした。そりゃあ食事をする権利がないだなんて、凄まじいと表現して差し支えのない話ではあるでしょう。
「とは言っても僕は幽霊じゃないんで、思うところにはやっぱり差があったりするんでしょうけど」
「先に言っちゃうけど、それはそうなって当たり前だからね?」
「ああ、はい。もちろん」
 とは返しつつ、どこかでまた自分を悪者にしそうになっていたな、とも。ただ今回はそれよりも前に釘を刺されていたので、言われなくとも自分で押し殺せていたとは思いますけど。……即座にその話を接続させられる栞さんには、この件ではもう暫く頭が上がりそうにはありませんけどね。
 さて栞さん、僕への警告を済ませると、硬かった表情を柔らかくさせました。
「食べる理由にはなるけど食べない理由にはならない、かあ。私もどうしてそうなるのかは思い付けないけど――うん、でも私も、そう思うかな」
 というのは、「いただきます」の意味の話。僕と大吾がそうだったように、栞さんも同じ意見のようでした。
「まあ、他に思い付かないからそう考えるしかないってこともあるんだろうけど」
「ああ、でしょうねえ」
 この話題を持ち出し、少々格好の悪いところを晒してしまった身としては、大吾と成美さんが立ち止っているその点から先に進んで格好を付け直しておきたかったりもします。が、なかなかそうはいかないのが現実でして。
「そもそも、あんまり考え込んじゃうっていうのもね。『そんなに気にすることじゃない』って結論を出したこうくんに悪いような気もするし」
「いや、そんなふうには思いませんけど」
「それに、『あんまり気にし過ぎないように』ってこうくんに言ってるのは私だしね。言ってることとやってることが違うっていうのは情けないしさ、やっぱり」
「ううむ、それを言われると」
 というわけで、この話題を続けさせてもらえなくなりました。もちろん文句があるわけじゃないですけどね。「それを言われると弱い」な理由ではありますが、同時に「それには納得せざるを得ない」な理由でもありますし。
 ……とは言え、何も話ができなくなったというわけではありません。この話題を続けられなくなったというのは、厳密に言えば気にするとかしないとか、そういった方面においてのみの話なのです。というわけで、
「恒例の感想だけど、大吾くんは凄いねえ、やっぱり」
 同じ話題の中でも、そういったような方面へ。
「ですねえ」
「私なんか、大吾くんと同じ時に同じ場所でサンデーの話を聞いてたんだよ? だけど、大吾くんみたいなことは考えてなかったもん」
 同じ状況での自分がどうだったか、という対比ができてしまう分、栞さんのほうがその気持ちは強いのでしょう。
「じゃあ栞さんは、どんなこと考えてたんですか?」
「いい気分のする話じゃないなあって、殆どそれだけ。――あはは、情けない話なんだけどね」
 言いつつ、栞さんはゆるゆるとした笑みを浮かべました。それを情けない話だと自分で思うのはまあ分かりますが、しかしやっぱり、それが普通だと思いますよ、とも。
 すると栞さん、こんどはにこりと通常の笑み。
「今くらい頻繁にご飯を食べてたら、また違ったかもしれないけどね」
 はて、と一瞬だけ考えて、
「ああ、そうか。そういうことになりますよね」
 大吾や栞さんがサンデーからその話を聞いた時、僕はまだここに引っ越してきてはいなかった。それは理解していたのですが、だったら栞さんは今ほど食事というものをしてはいなかっただろうなというのは、そこまで思考が及んでいなかったというか。
 ちょっと考えれば当たり前にそこへ辿り着けた筈なんですけどね。なんせ栞さん、料理なんて僕が教えるまで未経験だったんですから。
「そういうところの自意識は欠けてるんだね、こうくん」
 僕としてはそういう展開だったつもりはないのですが、しかしくすくすと笑われてしまいました。宜しくない方向にだけ自意識過剰だというのは……いやまあ、笑われても仕方ないですよね。
「夜ご飯、いつもありがとう。美味しいし楽しいし、だから毎日待ち遠しいくらいだよ」
「僕だけが作ってるわけじゃないんで、一方的にお礼を言われる立場っていうのはどうもしっくりきませんけど……ああ、じゃあ、こちらこそってことで」
 しっくりくる返しをしたところで、しかしはて、もともとしていたのはこんな話だっただろうかと。いやもちろん、こんな話でだっていい気分にはなってるわけですけど。
「えー、じゃあ、もしその頃から今みたいに食事をしていたとしたら、どういうふうに考えてたと思います? サンデーの話」
「そうだなあ。もしかしたら、今日のこうくんみたいになってたかもね。鶏肉を見て躊躇うとか、そんな感じに」
「喜ぶのも変な話なんでしょうけど、ちょっとほっとしました」
「ああでも、もちろんそんな感じってだけで、こうくんほどになるとは思わないよ?」
「……ですよねえ」
 なんせ栞さんは、日頃から僕のそういうところを批判しているわけですから。「ちょっとほっとした」が「ちょっとがっかりした」に転じたのは否めませんが、しかしそう言ってもらえないと、逆に落ち着かなかったことでしょう。
 というわけで僕はそんなことを言われつつも落ち着いているわけですが、すると栞さん、座ったままながら、何やらこちらに体を密着させてきました。
 いや、そりゃまあこういうことになって不都合がある間柄ではないんですけど、
「今の話からこうなります?」
 僕は今、栞さんから釘を刺されるような話をされたわけで、ならばこうして体を寄せるというのは、逆なんじゃないでしょうか。だからといってそのまんま逆にわざとらしく距離をおかれるとなると、胸を傷めてしまいそうですけど。
「んー、嫌な感じのことを言ったからその埋め合わせ、かな」
 涼しい顔でそんな説明をする栞さん。そりゃまあ、喜ばしいか嫌かと言われれば、嫌な感じではあるんでしょうけど――いやしかし、「言ってしまった」ではなく、単に「言った」と。言ったことは嫌な感じだったけど、だからって何もそれが間違いだったと言いたいわけではないと。
 言い切ってしまうには少々無理のある判断材料でしたが、しかし栞さんのことですから、間違いなくそうなのでしょう。
「むしろ、こういう感じだからこそ嫌な感じなことも言えるっていうか」
 加えてなされたその説明。なるほど、そりゃそうなのでしょう。大事に想っている相手だからこそしっかり注意できる、なんて言うと親と子の関係みたいですけど、まあつまりはそういうことです。
「同じことを、私がこうくんからしてもらった覚えもあるし」
「ですね」
 敢えて語るまでもないほど大きな覚えだったので、ならば語りはしないでおきます。そしてそれは栞さんも同じようで、「覚え」の中身を口にしたりはしませんでしたが――。
「……少しだけ、いい? 時間を取らせてもらっても」
 やや不安げな声でそう言ってきた栞さんは、しかしその声とは対照的に、既にしっかりと僕の手を取っていました。
 少しだけじゃなくても別にいいとは思ったのですが、ここは黙って頷くだけにしておきました。栞さんが何をしようとしているかは察せられましたし、ならばその台詞は野暮だろうと思ったのです。
「ありがとう」
 言って、栞さんは手に取っていた僕の手を持ち上げ、自分の胸の中心へ。そしてそのまま、両手でぎゅっと抱き締めるように。そして僕は僕で片手を抱き締められたまま栞さんの後ろ側へ回り込み、同じくぎゅっとその身体を抱き締めました。
 今はもうない、栞さんの胸の傷跡。これはそこにそれがあったことを確認するための行為であって、同時にそれを乗り越えたことを確認するための行為でもあります。それ以上の何かをするわけでもなければお互いに言葉を掛け合うわけでもなく、ただじっと。
 ……僕と栞さん以外の人からすれば、変なことだと思われても仕方ないでしょう。けれど今ここにいるのは僕と栞さんだけなので、そういうことはあまり関係がありません。自分達がしたいと思うがまま、何もしないでいるだけなのです。
「…………」
 鼻先が触れそうな、というか触れてしまっている位置にある、栞さんの後頭部。それを覆っている栞さんの栗色の髪について、僕は「伸び始めてるんじゃないだろうか」という疑いと期待を持っています。ならばそれに関連してこうも思いますし、そしてそれは、さっきの「だからこそ嫌な感じのことも言える」という話にも繋がるのでしょう。
 愛しています、栞さん。
 自分の手が触れている位置にあった胸の傷跡を想い、その自分の手に僅かな心臓の鼓動を感じながら、僕は黙ったまま、そう囁きました。

「ほう、今日はあれですか」
「あれです」
 僕と栞さん、それに家守さんの三人で台所に並び、今日も料理教室のお時間です。本日の献立を聞いた家守さんは興味ありげに微笑んでいましたが、ではその本日の献立が何なのかと言いますと、あれです。僕の好物である、豆腐の肉乗せです。
 献立を決める僕の好物なんですから、他の料理より献立に選ばれる頻度が高くなってもおかしくはないでしょう。そして、家守さんだってそう思っているのでしょう。
 しかし、ほんのちょっとだけ違うところがあります。結局その意見を通したのが僕であることに変わりはないのですが、今日最初に「豆腐の肉乗せにしよう」と言い出したのは、栞さんなのです。
 曰く、「お礼」とのこと。それは胸の傷跡の跡に触れたことを言っていたのですが、しかし僕としては、お礼を言われたりされたりするようなことだとは思っていません。豆腐の肉乗せが食べたかったんで、意見を通しはしましたけど。そしてもちろん、お礼を言われるようなことではないと思いつつも、やっぱりそう言ってもらえるのは嬉しかったりするんですけど。


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