「こういうことだよね? 今の話って」
そう言い出して僕の手を取ったのは、その自身の経験のお相手さん。手を取った、ということはつまり手を繋いでいる形になるわけで、なるほどこれでも肌の温もりをどうたらこうたらということにはなるのでしょう。……ああいや、これでも、なんて言っちゃったら駄目なんでしょうけど。
というわけで、恐らくは想像力を豊かにさせ過ぎた庄子ちゃんへのフォローとしてそうしたんであろう栞だったのですが、しかしながら。
「……あ、そういうふうに意識してみたらこれは、思ったより」
繋いだその手にだんだんと力が入ってくる栞でもあるのでした。しかもぎゅっと握るのではなく可能な範囲で指をわさわさ稼働させ、こちらの肌の感触を確かめるように。
「はわわわわ」
となれば、いくら手だけの話だからといって庄子ちゃんへのフォローになんかなるわけもなく。むしろ逆効果であろうことに疑いの余地はないでしょう、なんせ声上げちゃってるわけですし。
「あ、ご、ごめんね庄子ちゃん。困らせるつもりじゃなかったんだけど」
そうなってくると、栞もさすがにそれ以上は自重します。わさわさした指の動きを止めるのはもちろん、繋いだ手それ自体を離しもするのでした。ちょっと残念、とは言いますまい。
「まあ当たり前かそうじゃないかってのはデカいよな、やっぱり。当たり前だからって何とも思わないってわけじゃないにせよ」
一方で遠慮をしない――する必要がない、ということでもあるんでしょうけど――大吾は普通に話を続けます。が、しかしそれが何の話の続きかというと、妙にやらしい今の流れではなくその一つ前、動物としての機能についての話であるようでした。話の中身は同じなのですが、それに対する姿勢というか。
「それ抜きにしてもちょっと体温高いもんね、成美さん。抱っこしててすっごい温かいし」
気を取り直したのか気を取り直そうとしているのか、特殊な状況ではなく普段の状況を想定し始めた庄子ちゃんでした。
抱っこをしている時というのはもちろん服を着ているわけで、だったら肌と肌がというこの話とはちょっと事情が違ってきますが、とはいえそんな些細な突っ込みをしてまたしても庄子ちゃんを困らせるほど、僕は酷い人間ではないつもりです。
「ふふふ、ではそれを抜きにせずに膝を貸してみるというのはどうだ?」
「おおう、是非やってみたいです」
というようなことを考えている間に、成美さんが庄子ちゃんの膝の上に移動。となれば元から庄子ちゃんの膝の上にいた猫さん、今度は大吾の膝の上へ移動するのでした。
「やっぱりあったかい……けど、これが成美さんや旦那さんからすれば当たり前じゃないって話なんですよねえ」
いつも通りに成美さんを迎え入れつつ、けれどいつもとは違って神妙な顔になってみせる庄子ちゃん。普段からよくしていることなのでその度に感想を口にしていたわけではありませんが、とはいえ最低限、気持ち良さそうな顔には毎回なっていたんですけどね。
「より正確にはこうだがな、さっき日向がしていたように」
一方で成美さんは、そう言いながら庄子ちゃんの手を取ります。繰り返しになりますが、服越しではなく肌と肌が触れるという話なんですしね。
「信じられんかもしれんが、初めは気持ち悪いとすら思ったものだったのだぞ? 肌と肌だなんて、ぶよぶよしていて」
「そうなんですか?」
「うむ。大吾の背中を借りているうちに慣れた――というか、むしろ気に入らされることになったのだがな」
だったらその当時から素直に仲良くしていればよかったのに、なんて話はもう笑い話なのでしょう。それはともかく庄子ちゃんですが、こんな話になれば通常は大吾をからかい始めたりしていたであろうところ、しかし今回は驚きが勝ってしまっているのでしょう、繋がっている自分と成美さんの手をじっと見詰めているのでした。
気持ち悪い。
感触がどうこう以前の話として、手を繋ぐという行為にそんな感想を持たれるということ自体、庄子ちゃん、もとい我々としては、想定外としか言いようがないのでした。
しかし一人だけ、大吾だけは、そんなことに頓着しません。こればっかりは真面目な話として、これまで何度も肌と肌を触れ合わせていることでしょうし、だったら今の話だってきっと、その中でとっくに済ませているものなのでしょう。
というわけで、この話に対する引っ掛かりどころも我々とは違っていました。
「気に入らされるってなんだよ、オレが悪いことしたみたいな言い方だな」
「ははは、それは言葉のあやというやつだ。悪い事だなどと言いたいわけではもちろんないぞ。『慣れた』とか『気に入った』とかだと、なんだか自分から歩み寄ったように聞こえると思ってな」
「ああ、はいはい」
照れ臭い話になると踏んだか、如何にも適当な対応を装って話を切り上げる大吾なのでした。
それはいいのですが、しかし。
「成美さんが歩み寄ったわけじゃないってことですか?」
頭に浮かんだからといってそこまでのことを尋ねていいものかと躊躇っていたところ、それと全く同じ内容を庄子ちゃんはずばり尋ねにいくのでした。ここが身内と友人の差というやつなのでしょう。
「なんだか妙な言い回しになるが、惚れたくて惚れたわけではないからな。自分でも気付かないうちに惚れていたというのなら、自分でも気付けていないことに自分から歩み寄ったというのは、可笑しな話だろう?」
大吾の背中に慣れた時点でもう好きになっていた、ということをさらっと表明する成美さんでしたが、それはまあともかくとしておいて。
「あー、うー、分かるような分からないような」
不意に出てきた難問に目を細める庄子ちゃん。が、一方で大吾は先程装った適当な対応然とした表情を崩していません。つまり、その難問をとっくに解いた後だということなのでしょう。
惚れたくて惚れたわけではない。自分がそうなのかどうかはともかくとして、少し考えれば理解はできる話なんでしょうがしかし、大吾と成美さんの場合は特に、ということでもあるのでしょう。惚れたくて惚れる、つまり彼女なり彼氏なりが欲しいという前提を基にして異性に好意を寄せる人でも、まさか自分とは別の動物にそれを向けることはありますまい。
というわけで、成美さんが歩み寄ったんでなければ大吾が歩み寄ったのかというとそういうわけでもなく、双方互いに歩み寄りはしなかったわけです。だったらこの話は、大吾にとっては難問どころか問題ですらないんでしょうね。今それを話している成美さんと、同じ位置に立っているってことなんですから。
「兄ちゃん分かる?」
とここでヒントを得ようとしたのか単なる苦し紛れか、くいっと顔を横に向けて今度は大吾にそう尋ねる庄子ちゃん。しかし大吾、わざとらしいくらいの渋い顔を以って、回答の拒否を表明するのでした。
「ああ、それくらいとっくに分かってるって顔だなあ。いちいち訊くなよ馬鹿って顔だなあ。くそう、普通に悔しい」
「そこまでは思ってねえよ」
「つまりそれにちょっと足りないくらいは思ってたってことじゃんか」
「…………」
なんで負けようがない状況ですら勝てないんでしょうねこの兄は。
「悔しい、か。ふふ、お前に悔しがられるほどの男なのだな、大吾も」
「『はい』って言っちゃったらそれ、兄ちゃんだけじゃなくて自分まで褒めることになっちゃいませんか?」
「む、引っ掛かってはくれなかったか。さすが、お前はしっかり者だな」
引っ掛からなかったのに結局は褒めに掛かる成美さん。となれば庄子ちゃん、自分で褒めたわけではないにせよ、半分喜んで半分困っているような、忙しい表情を浮かべるのでした。
とはいえ成美さんとしてもそこが本題ではなかったようで、
「この肌と肌の話だって、一例でしかないわけだしな。自分の当たり前とわたしの当たり前が違っていることについて、大吾は普段からよくよく気を遣ってくれているぞ」
と庄子ちゃんに続いて今度は大吾を褒めに褒めてみせるのでした。大吾自身はこの話題について逃げの姿勢を取っているようなので、もしかしたら意地悪だったりするのかもしれませんが。
ちなみに成美さん、続けてもう一言「という話はこれまでにも何度かしている気もするがな」と付け加えもするのですが、しかしそう言った成美さん自身がそうであるように、庄子ちゃんもそんなことは気にならないご様子なのでした。
「やるじゃん兄ちゃん」
「いきなり普通に褒めてくんなよ、それはそれで困るぞ。たった今言った悔しいってのはどこ行ったんだよ」
「いやあ、変に絡んでもこっちが痛い目みるだけかなって。成美さんもこんな感じだし」
「ふふふ、済まんな庄子。お前の肩を持ってやりたいのはやまやまだが、なんせ相手が愛する夫となると、どうにもな」
成美さんが大吾の肩を持つと勝ち目がないから、という話ではあるのでしょうがしかし、その割には渋い顔をしているのが大吾だけというのはどういうことなんでしょうねこれ。
「女って怖いですね」
言いながら、膝の上の猫さんを撫で付ける大吾なのでした。もちろんその言葉が猫さんに伝わることはないわけですが、しかし少なくとも、撫でられたことについては気分を良くしていらっしゃるようでした。
「さて」
それから暫くのんびりしたところで、
「そろそろいいか……」
どこか遠くを見詰めながら成美さんが言いました。
「何がですか?」
それに対して最初に反応したのは、今も尚その成美さんを抱いてぬくぬくしている庄子ちゃん。抱いているということは当然最も近くにいるということになるわけで、ならば最初に反応したのが彼女だったのはさもありなんといったところなのでしょうが、しかし。
しかし庄子ちゃん、気付いているのでしょうか。いや、その一切気負うところなさそうな声と顔からして、気付いてはいないのでしょう。その体勢から少なくとも視界には入らず、なので仕方ないことではあるのでしょうが――遠くを見詰める成美さんの顔が、強張ってしまっていることに。
「家守達に会いに行こうか、とな。そいつと話ができるようにしてもらわないと」
「ああ。もうちょっと経ってからって話でしたもんね、そういえば」
教えてもらってもまだ平然としている庄子ちゃん。それをもたらしたのが大吾の気遣いであったことを考えると、平然としていられる、と言ったほうが正しいのかもしれませんけどね。
「ぬうう、どんな顔をして会ったものだか」
頭を抱える成美さんに、事情を知らない、というか知らされていない庄子ちゃんは、不思議そうな顔をするばかり。もちろんそうするだけでなく何のことかと質問もするのですが、しかしそれについては、成美さんに限らず誰も答えようとはしないのでした。
と、いうわけで。
「あらまあ二階の皆さんお揃いで。しょーちゃんも、もう来てたんだね」
「おはようございます、家守さん」
目的の101号室を訪ねたところ、家守さんがお出迎えに現れます。ううむ、話を聞いただけでも結構どういう顔をしたものだか判断に困るところではありますが……。
「と思ったけどあれ? なっちゃんはお留守番?」
え?
「あ、いや、いますいます。オレの後ろ」
最初の言葉通りに全員で来た筈ですけど。なんて思っていたら、大吾が身体を逸らして、後ろに隠れている成美さんを家守さんと対面させるのでした。とはいえ前に引っ張りだしまではしませんでしたし、なので成美さんもすぐにまた後ろに引っ込んでしまったのですが。
どんな顔をして会ったものだか、と部屋ではそう仰っていましたが、どうやら会うこと自体に無理があったようでした。一体どれほどの――いやいや、止めておきますけども。
「どしたの可愛らしい動きしちゃって。と、でもまあ、元旦那さんが一緒ってことは用事はそのことでいいんだよね? どうする? それだけならすぐ終わっちゃうけど、上がってく?」
いつもだったらそのまま「いらっしゃい」となるところですが、しかし今回そうならなかったのは、成美さんの様子を見て、ということなのでしょう。
そして、
「良かったらお邪魔させてくれ」
そうなった原因は自分にあるから、ということなのでしょう。返事をしたのは成美さんなのでした。……とはいえ、立ち位置はそのままだったんですけどね。
「ん。じゃあ、六名様ごあんなーい」
普通なら首を傾げざるを得ない場面ではあるのでしょうが、しかしさすがは家守さん、それについては何も言わずに僕達を部屋に上げてくれるのでした。
お邪魔します。
「毎度済まんな」
「いえいえ」
さっき言っていた通り、かついつも通りに、猫さんの件についてはあっという間に終了。そうして話ができるようにしてもらい、家守さんに一言礼を言った猫さんが向かった先は、部屋で膝を借りていた庄子ちゃんや大吾ではなく、成美さんの膝の上なのでした。
「さっきからどうした、様子が変だぞ」
「ん? はは、お前も人間の表情が読めるようになってきたか」
「空気で大体分かるだろう、それくらいは」
つまり表情が読めるわけではない、ということでもないとは思いますけど、それはともかくご明察なのでした。部屋にまで上がらせてもらうとさすがに大吾の後ろからは出てきた成美さんでしたが、とはいえまだまだその表情は硬く、だったら家守さんも高次さんも、あと庄子ちゃんも、尋ねはせずともどうしたのかと気になってはいることでしょう。
そして一方の成美さんとしても、ずっとこのままでいるつもりはないのでしょう。でもなければ、わざわざ自分から部屋に上げてもらうよう言ったりはしなかったんでしょうしね。
「家守」
「おう」
「それに高次も」
「はい」
決意の表情で立ち上がった成美さんの呼び掛けに、お二人は笑顔でもって応えるのでした。そしてそのまま、成美さんがそう指示した通りに三人で私室へと。
「…………」
「…………」
戻ってきた頃にはその笑顔に他の色――見た目の話に限れば赤色――が混ざっていたわけですが、それにしたって笑顔を保っていられたことには称賛を惜しむべきではないのでしょう。
そうですか、全部話したんですね成美さん。と、三人だけで別の場所に移動した時点でそうなることが分かり切ってはいたにせよ、改めてその事実を反芻せずにはいられない僕なのでした。
「なんだお前そんなことで――」
「のわあああ! あー! あー! あああーっ!」
猫さんがふすまの向こうで為されていた会話をうっかり漏らしそうになったところ、成美さんが大慌てでその口を塞ぎに掛かるのでした。ええ、そりゃあ成美さんと同じ猫であるということは成美さんと同程度、いや中身だけでなく身体も猫であることを考えると、もしかしたらそれ以上に耳がいいかもしれないんですしね。
ちなみにそうして口を塞がれることになった猫さんですが、なんせ幽霊なのでその手をすり抜けようと思えばすり抜けられるわけです。が、そこは大人の対応というか何というか、必死な成美さんを前にそんな行動に出ることはないのでした。
「あっはっは、いやはや」
「なんていうか、その時はこうなることも想定できなかったわけじゃないんだけど、勢い任せみたいにはなっちゃうよねやっぱり」
具体的ではないものの、事情が分かっていれば理解できる言い回しをしてみせる高次さん。どうやら成美さん、僕と栞、あとこちらは当然ながら大吾にも、この話を聞かせたことは説明したようです。……いや、庄子ちゃんや猫さん含め全員が知っていると勘違いしていたら洗いざらい話すのか、と言われればそうではないんでしょうし、なので断定はできないんですけどね?
まあ少なくとも猫さんについてはたった今耳にしてしまったということではありますが――と思ったら、
「あー、えー、いやあの、ここまできたらあたしでも大体何の話か分かっちゃいますよ? そりゃあ。あはは」
庄子ちゃんから衝撃発言が飛び出しました。もっともそれより庄子ちゃんが受けた衝撃の方がよっぽど強いのは間違いないんでしょうけど、なんて考えていたら、
「あははは……」
何かを誤魔化したいかのように力なく笑いながら、スローな動きで成美さんの後ろへ回り始める庄子ちゃんなのでした。――ああそんな、大人な時ならともかく今の成美さんの後ろに隠れるのは無理があるよ。頭隠して尻隠さず、というか頭以外ほぼ全部隠れてないよ。せっかくゴツいんだからこういう時くらいは隣の兄を頼ってあげて。
「すまん」
自分より大きい庄子ちゃんをその背後に匿っている成美さん、しょぼくれた様子でそう謝罪しながら、サッカーのゴールキーパーのように腕を広げ始めるのでした。そうする意図は分かりますが、大して状況に変化がないのが悲しいところです。
「いえいえ大丈夫ですよ成美さん。自分で言うのもなんですけど、これくらいの年になると周りのみんなも割とそういう話してますし――ってああもちろん実体験とかそういうことじゃない、ええ、じゃないですけどね?」
なんでちょっと強調気味だったのかは、訊かない方がいいのでしょう。あと、大丈夫じゃないから今そんな格好なんだろうに、とも。
中学三年生。男子と女子で違うところはもちろんあるのでしょうが、自分のその頃を振り返る分には、確かにそういう話題も多くなってきた頃だったと思います。というか、むしろ絶頂期ですらあったかもしれません。いや、だから何なんだという話ではあるんですけど。
「まあでも、考えようによっちゃあいい話にできんこともないわけだし」
するとここで家守さんから、何やら現状打破に繋がりそうなお言葉が。一体何をどうすればこれがいい話になるのかさっぱり見当もつきませんが、しかしそうなるというのならそうして頂く他ないわけで。
「なんてーのかねえ、どう言葉にしたもんだかってところではあるんだけど……ええと、昨晩のはやらしい感じじゃなくて、綺麗な感じだったわけよ。って、これで察してくれってのはちょっと無理あるかもしんないけど」
「いや分かるぞ、分かる。耳に残ったのは確かだが、こう、やかましい感じではなかったし」
家守さんが弁明を始めると――本来そんなことをする必要はない、というのは大前提として――成美さんがそれに追い縋ります。「やらしいのではなく綺麗な感じ」というそのニュアンスもまあ分からないではないのですが、しかし僕としては、成美さんが言った「やかましい感じではなかった」という点について強く納得させられるところがありました。
というのも、もしそのやかましい感じという点が際立っての今回の話であったのなら、それが耳に届いてしまうのは恐らく成美さんだけでは済まなかっただろうと考えられるからです。いやあんまり考えたくないですけど。
考えたくないですけど、そういう事例が過去にあったりしちゃってるわけです。成美さんの……というだけにしておきますけど。
――で! だというのに、少なくとも昨晩僕には、あとその頃の様子を思い返す限りは栞にも、そんなものが耳に届いたというようなことはなかったわけです。なので今この話が出てくるまで、「それほどだったのかなあ?」という思いがなくはなかったわけです。いや興味があるとかそういう意味ではなく。
などと無駄に細やかな思考を巡らせることで紛らわせるものを紛らわせに掛かる僕だったのですが、
「じゃ、じゃあどんな感じだったんですか?」
やかましい感じではなかった、とそう発言した成美さんに、未だその小さな背中の後ろから出られないでいる庄子ちゃんが、そんな質問を投げ掛けてしまいました。
いや、庄子ちゃんからすればこれは自分のために説明会が開かれているということになるんでしょうし、じゃあ立場的にそうするしかないということではあるんでしょうけども。
成美さん、家守さんへ視線を送ります。
家守さん、無言で頷きます。
成美さん、庄子ちゃんの方を向き直ります。
「耳と脳がとろけそうなほどに愛を囁き合っていた、というか」
「はおおおお」
説明通り、庄子ちゃんがとろけてしまったのでした。
で、さて。そうして庄子ちゃんへの説明に複数の意味で終わりが訪れたところ、家守さんはそれまでより多少落ち付いた様子でこうも仰います。
「その少し前に、この人を旦那に選んだ所以を最大限発揮してもらっちゃってたから、って言えばなっちゃんとしぃちゃんには分かってもらえるんじゃないかねえ」
「あー」
「あー」
どうやらあっさり納得させられたらしいご両名なのでした。そうして納得させた家守さんの隣では、高次さんが困り顔だったりもしたんですけどね。
しかしそれはともかく、納得を得られたところで家守さんが話題を締めに入ります。
「うむ。以上、いい話でしたとさ」
文句があるってほどではないにせよ、それはちょっと強引じゃないですかね家守さん。
が、強引であろうと何であろうとこの場のみんな、特には庄子ちゃんからすれば、ようやく平穏が訪れたということにはなるわけです。となればそりゃあちょっとくらい気が緩むのも仕方がないことでして、
「すごい、それって同じような経験があるってことだよね? ってことは兄ちゃんはともかく日向さんも――」
と、下手をするとさっきまでの展開を繰り返すことになりかねない質問をしてくるのでした。
ちなみに直前までその庄子ちゃんに背中を貸していた成美さんですが、庄子ちゃんがそれを言い終える頃には、自然な流れでその膝の上へ腰を下ろしているのでした。
で、それはともかく質問に対する返事ですが。
「ああ、ええと、あはは、まあ」
さっきまでの展開を繰り返すわけにはもちろんいかないので、察してもらうに任せることにしておきました。
「なんで『ともかく』で済まされるんだよオレは」
悪しように受け取ったらしい大吾。でもそれって、今更確認するまでもないからってことなんじゃないかなあ、と少なくとも僕はそう思うのでした。庄子ちゃんは悪戯っぽく笑ってみせてはいましたけど。
「でも逆に言って、そういうことの一回や二回くらいはないと、ねえ? なかなか、結婚しようってまでには」
とここで助け船を出してくれたのは、他ならぬ栞その人。大吾の話にはやっぱり触れずに、というのは横に置いておくことにしまして、助け舟であることは間違いないのに顔が熱くてたまらないんですがどうしましょうかこれ。
「あー、それもそうかあ。って、あはは、理解した気になっちゃうのも変な話なんだろうけど。いつになるか分からないくらい遠い将来の話なんだしね、そんなの」
「ふふ、心配するな庄子。そこに至るまでの過程だって同様に素晴らしいものなのだ、どうせ先のことばかり考えている余裕もなくなるさ」
「でしょうね」
成美さんの言葉には素直に納得した庄子ちゃん。というのは、既にその「過程の素晴らしさ」をある程度は実感している、ということなんでしょうか? 清明くんの霊障が治まるまでひたすら待ち続けなくてはならない、という庄子ちゃんの現在の立ち位置を思うと、そうであることを願わずにはいられないのでした。
そう言い出して僕の手を取ったのは、その自身の経験のお相手さん。手を取った、ということはつまり手を繋いでいる形になるわけで、なるほどこれでも肌の温もりをどうたらこうたらということにはなるのでしょう。……ああいや、これでも、なんて言っちゃったら駄目なんでしょうけど。
というわけで、恐らくは想像力を豊かにさせ過ぎた庄子ちゃんへのフォローとしてそうしたんであろう栞だったのですが、しかしながら。
「……あ、そういうふうに意識してみたらこれは、思ったより」
繋いだその手にだんだんと力が入ってくる栞でもあるのでした。しかもぎゅっと握るのではなく可能な範囲で指をわさわさ稼働させ、こちらの肌の感触を確かめるように。
「はわわわわ」
となれば、いくら手だけの話だからといって庄子ちゃんへのフォローになんかなるわけもなく。むしろ逆効果であろうことに疑いの余地はないでしょう、なんせ声上げちゃってるわけですし。
「あ、ご、ごめんね庄子ちゃん。困らせるつもりじゃなかったんだけど」
そうなってくると、栞もさすがにそれ以上は自重します。わさわさした指の動きを止めるのはもちろん、繋いだ手それ自体を離しもするのでした。ちょっと残念、とは言いますまい。
「まあ当たり前かそうじゃないかってのはデカいよな、やっぱり。当たり前だからって何とも思わないってわけじゃないにせよ」
一方で遠慮をしない――する必要がない、ということでもあるんでしょうけど――大吾は普通に話を続けます。が、しかしそれが何の話の続きかというと、妙にやらしい今の流れではなくその一つ前、動物としての機能についての話であるようでした。話の中身は同じなのですが、それに対する姿勢というか。
「それ抜きにしてもちょっと体温高いもんね、成美さん。抱っこしててすっごい温かいし」
気を取り直したのか気を取り直そうとしているのか、特殊な状況ではなく普段の状況を想定し始めた庄子ちゃんでした。
抱っこをしている時というのはもちろん服を着ているわけで、だったら肌と肌がというこの話とはちょっと事情が違ってきますが、とはいえそんな些細な突っ込みをしてまたしても庄子ちゃんを困らせるほど、僕は酷い人間ではないつもりです。
「ふふふ、ではそれを抜きにせずに膝を貸してみるというのはどうだ?」
「おおう、是非やってみたいです」
というようなことを考えている間に、成美さんが庄子ちゃんの膝の上に移動。となれば元から庄子ちゃんの膝の上にいた猫さん、今度は大吾の膝の上へ移動するのでした。
「やっぱりあったかい……けど、これが成美さんや旦那さんからすれば当たり前じゃないって話なんですよねえ」
いつも通りに成美さんを迎え入れつつ、けれどいつもとは違って神妙な顔になってみせる庄子ちゃん。普段からよくしていることなのでその度に感想を口にしていたわけではありませんが、とはいえ最低限、気持ち良さそうな顔には毎回なっていたんですけどね。
「より正確にはこうだがな、さっき日向がしていたように」
一方で成美さんは、そう言いながら庄子ちゃんの手を取ります。繰り返しになりますが、服越しではなく肌と肌が触れるという話なんですしね。
「信じられんかもしれんが、初めは気持ち悪いとすら思ったものだったのだぞ? 肌と肌だなんて、ぶよぶよしていて」
「そうなんですか?」
「うむ。大吾の背中を借りているうちに慣れた――というか、むしろ気に入らされることになったのだがな」
だったらその当時から素直に仲良くしていればよかったのに、なんて話はもう笑い話なのでしょう。それはともかく庄子ちゃんですが、こんな話になれば通常は大吾をからかい始めたりしていたであろうところ、しかし今回は驚きが勝ってしまっているのでしょう、繋がっている自分と成美さんの手をじっと見詰めているのでした。
気持ち悪い。
感触がどうこう以前の話として、手を繋ぐという行為にそんな感想を持たれるということ自体、庄子ちゃん、もとい我々としては、想定外としか言いようがないのでした。
しかし一人だけ、大吾だけは、そんなことに頓着しません。こればっかりは真面目な話として、これまで何度も肌と肌を触れ合わせていることでしょうし、だったら今の話だってきっと、その中でとっくに済ませているものなのでしょう。
というわけで、この話に対する引っ掛かりどころも我々とは違っていました。
「気に入らされるってなんだよ、オレが悪いことしたみたいな言い方だな」
「ははは、それは言葉のあやというやつだ。悪い事だなどと言いたいわけではもちろんないぞ。『慣れた』とか『気に入った』とかだと、なんだか自分から歩み寄ったように聞こえると思ってな」
「ああ、はいはい」
照れ臭い話になると踏んだか、如何にも適当な対応を装って話を切り上げる大吾なのでした。
それはいいのですが、しかし。
「成美さんが歩み寄ったわけじゃないってことですか?」
頭に浮かんだからといってそこまでのことを尋ねていいものかと躊躇っていたところ、それと全く同じ内容を庄子ちゃんはずばり尋ねにいくのでした。ここが身内と友人の差というやつなのでしょう。
「なんだか妙な言い回しになるが、惚れたくて惚れたわけではないからな。自分でも気付かないうちに惚れていたというのなら、自分でも気付けていないことに自分から歩み寄ったというのは、可笑しな話だろう?」
大吾の背中に慣れた時点でもう好きになっていた、ということをさらっと表明する成美さんでしたが、それはまあともかくとしておいて。
「あー、うー、分かるような分からないような」
不意に出てきた難問に目を細める庄子ちゃん。が、一方で大吾は先程装った適当な対応然とした表情を崩していません。つまり、その難問をとっくに解いた後だということなのでしょう。
惚れたくて惚れたわけではない。自分がそうなのかどうかはともかくとして、少し考えれば理解はできる話なんでしょうがしかし、大吾と成美さんの場合は特に、ということでもあるのでしょう。惚れたくて惚れる、つまり彼女なり彼氏なりが欲しいという前提を基にして異性に好意を寄せる人でも、まさか自分とは別の動物にそれを向けることはありますまい。
というわけで、成美さんが歩み寄ったんでなければ大吾が歩み寄ったのかというとそういうわけでもなく、双方互いに歩み寄りはしなかったわけです。だったらこの話は、大吾にとっては難問どころか問題ですらないんでしょうね。今それを話している成美さんと、同じ位置に立っているってことなんですから。
「兄ちゃん分かる?」
とここでヒントを得ようとしたのか単なる苦し紛れか、くいっと顔を横に向けて今度は大吾にそう尋ねる庄子ちゃん。しかし大吾、わざとらしいくらいの渋い顔を以って、回答の拒否を表明するのでした。
「ああ、それくらいとっくに分かってるって顔だなあ。いちいち訊くなよ馬鹿って顔だなあ。くそう、普通に悔しい」
「そこまでは思ってねえよ」
「つまりそれにちょっと足りないくらいは思ってたってことじゃんか」
「…………」
なんで負けようがない状況ですら勝てないんでしょうねこの兄は。
「悔しい、か。ふふ、お前に悔しがられるほどの男なのだな、大吾も」
「『はい』って言っちゃったらそれ、兄ちゃんだけじゃなくて自分まで褒めることになっちゃいませんか?」
「む、引っ掛かってはくれなかったか。さすが、お前はしっかり者だな」
引っ掛からなかったのに結局は褒めに掛かる成美さん。となれば庄子ちゃん、自分で褒めたわけではないにせよ、半分喜んで半分困っているような、忙しい表情を浮かべるのでした。
とはいえ成美さんとしてもそこが本題ではなかったようで、
「この肌と肌の話だって、一例でしかないわけだしな。自分の当たり前とわたしの当たり前が違っていることについて、大吾は普段からよくよく気を遣ってくれているぞ」
と庄子ちゃんに続いて今度は大吾を褒めに褒めてみせるのでした。大吾自身はこの話題について逃げの姿勢を取っているようなので、もしかしたら意地悪だったりするのかもしれませんが。
ちなみに成美さん、続けてもう一言「という話はこれまでにも何度かしている気もするがな」と付け加えもするのですが、しかしそう言った成美さん自身がそうであるように、庄子ちゃんもそんなことは気にならないご様子なのでした。
「やるじゃん兄ちゃん」
「いきなり普通に褒めてくんなよ、それはそれで困るぞ。たった今言った悔しいってのはどこ行ったんだよ」
「いやあ、変に絡んでもこっちが痛い目みるだけかなって。成美さんもこんな感じだし」
「ふふふ、済まんな庄子。お前の肩を持ってやりたいのはやまやまだが、なんせ相手が愛する夫となると、どうにもな」
成美さんが大吾の肩を持つと勝ち目がないから、という話ではあるのでしょうがしかし、その割には渋い顔をしているのが大吾だけというのはどういうことなんでしょうねこれ。
「女って怖いですね」
言いながら、膝の上の猫さんを撫で付ける大吾なのでした。もちろんその言葉が猫さんに伝わることはないわけですが、しかし少なくとも、撫でられたことについては気分を良くしていらっしゃるようでした。
「さて」
それから暫くのんびりしたところで、
「そろそろいいか……」
どこか遠くを見詰めながら成美さんが言いました。
「何がですか?」
それに対して最初に反応したのは、今も尚その成美さんを抱いてぬくぬくしている庄子ちゃん。抱いているということは当然最も近くにいるということになるわけで、ならば最初に反応したのが彼女だったのはさもありなんといったところなのでしょうが、しかし。
しかし庄子ちゃん、気付いているのでしょうか。いや、その一切気負うところなさそうな声と顔からして、気付いてはいないのでしょう。その体勢から少なくとも視界には入らず、なので仕方ないことではあるのでしょうが――遠くを見詰める成美さんの顔が、強張ってしまっていることに。
「家守達に会いに行こうか、とな。そいつと話ができるようにしてもらわないと」
「ああ。もうちょっと経ってからって話でしたもんね、そういえば」
教えてもらってもまだ平然としている庄子ちゃん。それをもたらしたのが大吾の気遣いであったことを考えると、平然としていられる、と言ったほうが正しいのかもしれませんけどね。
「ぬうう、どんな顔をして会ったものだか」
頭を抱える成美さんに、事情を知らない、というか知らされていない庄子ちゃんは、不思議そうな顔をするばかり。もちろんそうするだけでなく何のことかと質問もするのですが、しかしそれについては、成美さんに限らず誰も答えようとはしないのでした。
と、いうわけで。
「あらまあ二階の皆さんお揃いで。しょーちゃんも、もう来てたんだね」
「おはようございます、家守さん」
目的の101号室を訪ねたところ、家守さんがお出迎えに現れます。ううむ、話を聞いただけでも結構どういう顔をしたものだか判断に困るところではありますが……。
「と思ったけどあれ? なっちゃんはお留守番?」
え?
「あ、いや、いますいます。オレの後ろ」
最初の言葉通りに全員で来た筈ですけど。なんて思っていたら、大吾が身体を逸らして、後ろに隠れている成美さんを家守さんと対面させるのでした。とはいえ前に引っ張りだしまではしませんでしたし、なので成美さんもすぐにまた後ろに引っ込んでしまったのですが。
どんな顔をして会ったものだか、と部屋ではそう仰っていましたが、どうやら会うこと自体に無理があったようでした。一体どれほどの――いやいや、止めておきますけども。
「どしたの可愛らしい動きしちゃって。と、でもまあ、元旦那さんが一緒ってことは用事はそのことでいいんだよね? どうする? それだけならすぐ終わっちゃうけど、上がってく?」
いつもだったらそのまま「いらっしゃい」となるところですが、しかし今回そうならなかったのは、成美さんの様子を見て、ということなのでしょう。
そして、
「良かったらお邪魔させてくれ」
そうなった原因は自分にあるから、ということなのでしょう。返事をしたのは成美さんなのでした。……とはいえ、立ち位置はそのままだったんですけどね。
「ん。じゃあ、六名様ごあんなーい」
普通なら首を傾げざるを得ない場面ではあるのでしょうが、しかしさすがは家守さん、それについては何も言わずに僕達を部屋に上げてくれるのでした。
お邪魔します。
「毎度済まんな」
「いえいえ」
さっき言っていた通り、かついつも通りに、猫さんの件についてはあっという間に終了。そうして話ができるようにしてもらい、家守さんに一言礼を言った猫さんが向かった先は、部屋で膝を借りていた庄子ちゃんや大吾ではなく、成美さんの膝の上なのでした。
「さっきからどうした、様子が変だぞ」
「ん? はは、お前も人間の表情が読めるようになってきたか」
「空気で大体分かるだろう、それくらいは」
つまり表情が読めるわけではない、ということでもないとは思いますけど、それはともかくご明察なのでした。部屋にまで上がらせてもらうとさすがに大吾の後ろからは出てきた成美さんでしたが、とはいえまだまだその表情は硬く、だったら家守さんも高次さんも、あと庄子ちゃんも、尋ねはせずともどうしたのかと気になってはいることでしょう。
そして一方の成美さんとしても、ずっとこのままでいるつもりはないのでしょう。でもなければ、わざわざ自分から部屋に上げてもらうよう言ったりはしなかったんでしょうしね。
「家守」
「おう」
「それに高次も」
「はい」
決意の表情で立ち上がった成美さんの呼び掛けに、お二人は笑顔でもって応えるのでした。そしてそのまま、成美さんがそう指示した通りに三人で私室へと。
「…………」
「…………」
戻ってきた頃にはその笑顔に他の色――見た目の話に限れば赤色――が混ざっていたわけですが、それにしたって笑顔を保っていられたことには称賛を惜しむべきではないのでしょう。
そうですか、全部話したんですね成美さん。と、三人だけで別の場所に移動した時点でそうなることが分かり切ってはいたにせよ、改めてその事実を反芻せずにはいられない僕なのでした。
「なんだお前そんなことで――」
「のわあああ! あー! あー! あああーっ!」
猫さんがふすまの向こうで為されていた会話をうっかり漏らしそうになったところ、成美さんが大慌てでその口を塞ぎに掛かるのでした。ええ、そりゃあ成美さんと同じ猫であるということは成美さんと同程度、いや中身だけでなく身体も猫であることを考えると、もしかしたらそれ以上に耳がいいかもしれないんですしね。
ちなみにそうして口を塞がれることになった猫さんですが、なんせ幽霊なのでその手をすり抜けようと思えばすり抜けられるわけです。が、そこは大人の対応というか何というか、必死な成美さんを前にそんな行動に出ることはないのでした。
「あっはっは、いやはや」
「なんていうか、その時はこうなることも想定できなかったわけじゃないんだけど、勢い任せみたいにはなっちゃうよねやっぱり」
具体的ではないものの、事情が分かっていれば理解できる言い回しをしてみせる高次さん。どうやら成美さん、僕と栞、あとこちらは当然ながら大吾にも、この話を聞かせたことは説明したようです。……いや、庄子ちゃんや猫さん含め全員が知っていると勘違いしていたら洗いざらい話すのか、と言われればそうではないんでしょうし、なので断定はできないんですけどね?
まあ少なくとも猫さんについてはたった今耳にしてしまったということではありますが――と思ったら、
「あー、えー、いやあの、ここまできたらあたしでも大体何の話か分かっちゃいますよ? そりゃあ。あはは」
庄子ちゃんから衝撃発言が飛び出しました。もっともそれより庄子ちゃんが受けた衝撃の方がよっぽど強いのは間違いないんでしょうけど、なんて考えていたら、
「あははは……」
何かを誤魔化したいかのように力なく笑いながら、スローな動きで成美さんの後ろへ回り始める庄子ちゃんなのでした。――ああそんな、大人な時ならともかく今の成美さんの後ろに隠れるのは無理があるよ。頭隠して尻隠さず、というか頭以外ほぼ全部隠れてないよ。せっかくゴツいんだからこういう時くらいは隣の兄を頼ってあげて。
「すまん」
自分より大きい庄子ちゃんをその背後に匿っている成美さん、しょぼくれた様子でそう謝罪しながら、サッカーのゴールキーパーのように腕を広げ始めるのでした。そうする意図は分かりますが、大して状況に変化がないのが悲しいところです。
「いえいえ大丈夫ですよ成美さん。自分で言うのもなんですけど、これくらいの年になると周りのみんなも割とそういう話してますし――ってああもちろん実体験とかそういうことじゃない、ええ、じゃないですけどね?」
なんでちょっと強調気味だったのかは、訊かない方がいいのでしょう。あと、大丈夫じゃないから今そんな格好なんだろうに、とも。
中学三年生。男子と女子で違うところはもちろんあるのでしょうが、自分のその頃を振り返る分には、確かにそういう話題も多くなってきた頃だったと思います。というか、むしろ絶頂期ですらあったかもしれません。いや、だから何なんだという話ではあるんですけど。
「まあでも、考えようによっちゃあいい話にできんこともないわけだし」
するとここで家守さんから、何やら現状打破に繋がりそうなお言葉が。一体何をどうすればこれがいい話になるのかさっぱり見当もつきませんが、しかしそうなるというのならそうして頂く他ないわけで。
「なんてーのかねえ、どう言葉にしたもんだかってところではあるんだけど……ええと、昨晩のはやらしい感じじゃなくて、綺麗な感じだったわけよ。って、これで察してくれってのはちょっと無理あるかもしんないけど」
「いや分かるぞ、分かる。耳に残ったのは確かだが、こう、やかましい感じではなかったし」
家守さんが弁明を始めると――本来そんなことをする必要はない、というのは大前提として――成美さんがそれに追い縋ります。「やらしいのではなく綺麗な感じ」というそのニュアンスもまあ分からないではないのですが、しかし僕としては、成美さんが言った「やかましい感じではなかった」という点について強く納得させられるところがありました。
というのも、もしそのやかましい感じという点が際立っての今回の話であったのなら、それが耳に届いてしまうのは恐らく成美さんだけでは済まなかっただろうと考えられるからです。いやあんまり考えたくないですけど。
考えたくないですけど、そういう事例が過去にあったりしちゃってるわけです。成美さんの……というだけにしておきますけど。
――で! だというのに、少なくとも昨晩僕には、あとその頃の様子を思い返す限りは栞にも、そんなものが耳に届いたというようなことはなかったわけです。なので今この話が出てくるまで、「それほどだったのかなあ?」という思いがなくはなかったわけです。いや興味があるとかそういう意味ではなく。
などと無駄に細やかな思考を巡らせることで紛らわせるものを紛らわせに掛かる僕だったのですが、
「じゃ、じゃあどんな感じだったんですか?」
やかましい感じではなかった、とそう発言した成美さんに、未だその小さな背中の後ろから出られないでいる庄子ちゃんが、そんな質問を投げ掛けてしまいました。
いや、庄子ちゃんからすればこれは自分のために説明会が開かれているということになるんでしょうし、じゃあ立場的にそうするしかないということではあるんでしょうけども。
成美さん、家守さんへ視線を送ります。
家守さん、無言で頷きます。
成美さん、庄子ちゃんの方を向き直ります。
「耳と脳がとろけそうなほどに愛を囁き合っていた、というか」
「はおおおお」
説明通り、庄子ちゃんがとろけてしまったのでした。
で、さて。そうして庄子ちゃんへの説明に複数の意味で終わりが訪れたところ、家守さんはそれまでより多少落ち付いた様子でこうも仰います。
「その少し前に、この人を旦那に選んだ所以を最大限発揮してもらっちゃってたから、って言えばなっちゃんとしぃちゃんには分かってもらえるんじゃないかねえ」
「あー」
「あー」
どうやらあっさり納得させられたらしいご両名なのでした。そうして納得させた家守さんの隣では、高次さんが困り顔だったりもしたんですけどね。
しかしそれはともかく、納得を得られたところで家守さんが話題を締めに入ります。
「うむ。以上、いい話でしたとさ」
文句があるってほどではないにせよ、それはちょっと強引じゃないですかね家守さん。
が、強引であろうと何であろうとこの場のみんな、特には庄子ちゃんからすれば、ようやく平穏が訪れたということにはなるわけです。となればそりゃあちょっとくらい気が緩むのも仕方がないことでして、
「すごい、それって同じような経験があるってことだよね? ってことは兄ちゃんはともかく日向さんも――」
と、下手をするとさっきまでの展開を繰り返すことになりかねない質問をしてくるのでした。
ちなみに直前までその庄子ちゃんに背中を貸していた成美さんですが、庄子ちゃんがそれを言い終える頃には、自然な流れでその膝の上へ腰を下ろしているのでした。
で、それはともかく質問に対する返事ですが。
「ああ、ええと、あはは、まあ」
さっきまでの展開を繰り返すわけにはもちろんいかないので、察してもらうに任せることにしておきました。
「なんで『ともかく』で済まされるんだよオレは」
悪しように受け取ったらしい大吾。でもそれって、今更確認するまでもないからってことなんじゃないかなあ、と少なくとも僕はそう思うのでした。庄子ちゃんは悪戯っぽく笑ってみせてはいましたけど。
「でも逆に言って、そういうことの一回や二回くらいはないと、ねえ? なかなか、結婚しようってまでには」
とここで助け船を出してくれたのは、他ならぬ栞その人。大吾の話にはやっぱり触れずに、というのは横に置いておくことにしまして、助け舟であることは間違いないのに顔が熱くてたまらないんですがどうしましょうかこれ。
「あー、それもそうかあ。って、あはは、理解した気になっちゃうのも変な話なんだろうけど。いつになるか分からないくらい遠い将来の話なんだしね、そんなの」
「ふふ、心配するな庄子。そこに至るまでの過程だって同様に素晴らしいものなのだ、どうせ先のことばかり考えている余裕もなくなるさ」
「でしょうね」
成美さんの言葉には素直に納得した庄子ちゃん。というのは、既にその「過程の素晴らしさ」をある程度は実感している、ということなんでしょうか? 清明くんの霊障が治まるまでひたすら待ち続けなくてはならない、という庄子ちゃんの現在の立ち位置を思うと、そうであることを願わずにはいられないのでした。
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