(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 第三十九章 希望と予定 十一

2011-02-18 20:55:12 | 新転地はお化け屋敷
「おかげで楓は、ああして喜坂さんに泣き付けるようになったんだよ。日向くんが喜坂さんを強くしてくれたおかげで」
「…………」
 確かに、少し前までの栞さんだと、誰かに泣き付かれるような強さはなかったかもしれません。それだって別に弱いというわけじゃなく、本来備わっている強さを発揮できない状態にあった、というだけのことですけどね。なんせ僕は、栞さんのその強さに惚れ込んでいるという部分もあるわけですし。
 しかしまあ、今その話はいいとして。
「家守さんにとってもいいことなんでしょうか? あんな、泣いちゃってますけど」
「もちろん。見た目に少々情けないっていうのは、否めないけどね。――あれが良くないことだったら、俺なんてもっと楓にとって良くない存在ってことになっちゃうし。その元締めみたいなもんなんだしさ」
 ……自分で情けないと言った家守さんのあの姿を受け入れ、更にはそこにこそ、夫としての自分の在りようを認めている。同じ男として、というには若輩にも程があるのですが、それでも同じ男として、とても立派だと思いました。もちろん、だからといってそれと逆のことをしている自分が間違っているとも思いませんが。宜しくないところがあれば正す、という。
 そんなことを考えているとほんの少しだけ会話に間が出来たのですが、すると高次さんはその間で僕の顔をじっと見詰め、そしてにこりと笑いました。
「ご両親からすれば何の意味もないだろうけど、俺が太鼓判を押しておくよ。日向くんなら絶対に、喜坂さんを幸せにできるってね」
「――ありがとうございます」
 謙遜をするような場面でないのは間違いなかったので、その言葉は有難く頂戴しておくことにしました。それが今度の土曜、僕の親の説得には何の意味も成さないにしても、心強い後ろ盾ということにはなるでしょう。
 ただし、この一言だけは言っておかなければならないでしょう。
「逆も然りなんですけどね。僕が、栞さんに幸せにされるっていう」
「確かにそれももちろんだね。俺だってそれは同じだし」
 そうして二人で軽く笑い合い、話題の切れ目ということもあって、そろそろ居間に戻ってもいいんじゃないかと襖のほうへ目を向けてみたところ。
「俺が知ってるのは喜坂さんと付き合い始めた後の日向くんだけだから、断言はできないけど――」
 高次さんは、僕から視線を外さないまま言いました。
「成長してるんだろうね、いろいろ。喜坂さんと付き合うことで」
 成長。――そんなことはない、なんてことはもちろん思いませんが、しかしこれが他の誰かの話ならともかく自分のこととなると、「そうですね」とも言い難いような。謙遜とかでなく、自信がないというか。
「まあ、全くないなんてことはないでしょうけど……どっちかというと、自分がどんな奴なのかっていうのを思い知らされたというか、そんな感じのほうが強いような」
 例えば自分で思っていたほど穏やかなばかりではなかったりとか、自分をすぐ悪者にする癖があるだとか。自分で気付いたにせよ栞さんに言われて気付いたにせよ、栞さんと付き合い始めたことがその引き金であることは、間違いないのでしょう。
 と、自分の成長というものに自信がないので、ならばと自信がなりの返事をしてみましたのですが、すると高次さん、いつものように笑ってこう言いました。
「はっは、それだって立派に成長の一つだよ。自分がどういう奴かってのが分かってないと、それを変えることも受け入れることもできないんだしね」
 僕の場合、穏やかなばかりでないという自分は、受け入れています。自分をすぐ悪者にしてしまうという自分は、変えようとしています。……なるほど、高次さんの言う通りでした。
「楓がいい例だね。自分がそういう奴だっていうのをちゃんと知っていて、だからこそそれを変えられないってことにもずっと前から気付けてて――俺を選んだのは、それがあったからだろうし」
「泣かせてくれる、っていう」
「自分で言うのはちょっと照れるけどね。でもまあ、そうあろうとはしてるからさ、これでも」
 つまり、高次さんも、自分がそういう人間だということを理解しているんでしょう。家守さんから求められてそうしている、というわけではなく。
 訊きたいことがありました。
「高次さん、自分がそういう人間だっていうのは、家守さんと付き合って初めてそう思ったんですか?」
「そうだね。それまでは、気付かされるような場面に遭遇してこなかったし」
 気付かされた、と高次さんは言いました。ならばやはり、初めからそういう性格だった、ということなんでしょう。
「良くも悪くも『金持ちの息子』だったからさ。だから、楓には感謝を惜しめないんだよ」
 少しだけ寂しそうな調子で、高次さんはそう付け加えました。
 金持ちの息子。金持ちでも何でもない普通の家庭に育った身としては、あまり聞こえの良い言い回しではありません。けれど高次さんですし、何より家守さんが知り合った時点での高次さんはその「金持ちの息子」だったわけですから、それでお付き合いを始めるようになったということも考えると、別に宜しくない人柄だったということでもないのでしょう。他の方々だっていい人達でしたしね、四方院家にお邪魔した時。
「さて、そろそろ戻ってもいい頃かな。――ああそうそう、最後にもう一つだけ」
 立ち上がり掛けた高次さんは、片方の膝だけを立てた中途半端な姿勢でこう告げてきました。
「喜坂さんが気にするようだったら、今の話、してもらって大丈夫だからね。もしかしたら楓が自分で話してるかもしれないけど」
「あ、はい。分かりました」
 その場面を想像してみたところ、想像の中の僕は確かに、「話していいものかどうか」と悩んでいました。深いところの話ですしたしね、家守さんについての。栞さんならともかく僕が知ってもいいような話だったんだろうか、なんて思ってしまうくらいに。
「ありがとう」
 立ち上がりながら礼を言い、そして僕に先んじて襖を開き、居間へ進み入った高次さん。「礼を言われるような場面だっただろうか?」という淡い疑問が浮かんだりもしたのですが、だからといってその疑問は口にするほどのものでもないように思え、なので僕もそのまま、高次さんに続いて居間へと足を踏み入れます。
「ごめんね、お時間取らせちゃって」
 踏み入れるなり、今度は謝られてしまいました。それはもちろん家守さんの言葉だったのですが、しかしそれとは裏腹に、とてもすっきりした晴れやかな表情なのでした。そしてその隣では、栞さんも同じように。
「いえ、そんな」
 そんな申し訳程度の返事しかできない自分を、少々歯痒く思いました。
 時間を取ってしまって、とのことですが、その時間で僕は高次さんの話を聞いていて、そしてそれは時間の浪費なんてことには断じてならないものでした。なので、飾り付け無しで端的に言ってしまうと、「謝られても困る」なのです。時間を取られるどころか、むしろそのおかげで有意義な時間を過ごせたわけですから。
「もう大丈夫なんですか?」
 それは見れば分かることではありましたが、自分の困り具合を誤魔化すために、わざわざ尋ねてみました。ならばもちろん、家守さんからの返事は「うん」なのですが、
「もし大丈夫じゃなかったとしても、あとは高次さんにお任せするからね。だからどのみち、ここではもう」
「そうですか」
 不必要な質問ではありましたが、それでもその返事には安心させられました。いくら高次さんからあの涙が歓迎すべきものだと聞かされているとはいえ、それでもやっぱり、目の前で人が泣いていていい気分にはなりませんしね。しかもそれが親しい人となれば、尚更です。
「さっきアタシ、しぃいちゃんに『ありがとう』って言ったんだけどさ」
 今思ったこととは真逆の明るい表情をしている家守さん、なにやらもう一言あるようです。
「こーちゃんも、ありがとうね」
「……はい」
 どうして礼を言われたんだろう、とついさっきの高次さんの時と全く同じことを考えてしまいましたが、けれど理屈では分からなくても、なんとなくは分かりました。話が矛盾しているようですが、しかしそれでも確実に。
「うん。――さて高次さん、じゃあそろそろ帰りましょうか」
「そうだな」
 居間へ移ってから座る暇もないまま、高次さんは家守さんのその言葉に従って玄関へ。
 そして去り際、家守さんは僕と栞さんの両方へ向けて言いました。
「今日は不覚にもあんな感じだったけど、仕事のほうはしっかりさせてもらうからね。あんまり説得力ないかもしれないけどさ」
「また抱き付いちゃいますよ、そんなこと言ってると」
 僕が口を開くどころか返事を思い付くよりも早く、栞さんは笑ってそう返しました。
 家守さんの話を聞いているという場面だったので、ならばごく僅かな一瞬ではあったのですが、僕は、笑ってそんな返事が出来る栞さんに心を奪われたんだと思います。
「キシシ、遠慮しておくよ。すっごい魅力的な提案ではあるけどね」
 それに呼応したかのように家守さんも笑い、そして今日もとうとう、お別れの時間です。
「それじゃあ先生、また明日もお世話になります」
「俺は食べるだけだけど、同じくお世話になります」
「はい。作るのも食べるのも、明日もまた頑張ってくださいね」
「一緒に頑張りましょうね、楓さん高次さん」
 栞さんも帰る側っぽくなっちゃってますけど、まあいつも通りにそんなことはなく。
 そうして家守さんと高次さんは、101号室に帰っていきました。経過はどうあれ、こちらもまたいつも通りに。

 栞さんが気にしていたら話しても構わないと高次さんに言われていたので、二人きりになった後は、少しだけ慎重になって栞さんの様子を窺ってみました。
 しかし結局のところ特に何かが気になっているという様子はなく、むしろ随分と機嫌が良さそうでした。ならば、栞さんから不意に尋ねられるようなことがあったならともかく、こちらから話を振るようなことはしなくてもいいでしょう。
 で、心配事にケリを付けたところで。
 ついさっきまで家守さんと高次さんのことですっかり頭から抜け落ちていたのですが、今日は――何と言うか、いつもよりちょっとだけイチャイチャしましょうというか、そういう日なのです。そういう日だった筈なのにむしろいろいろあってあまり二人きりになれていない、という日でもあったりしますけど。
 ともかくそういうことなので、すぐ隣に座っている栞さんの肩に手を回してみようかな、なんて。
「私ね」
 回した手が栞さんの肩に触れる直前になって、栞さんがこちらに話しかけてきました。
「……あ」
 ならば、横に伸びたまま停止している僕の腕にも気付くわけです。となると、ほんのり気まずかったりもするわけです。
 ですがよく考えるまでもなく、それに照れて手を引っ込めるような仲でもありません。気まずいというのは、話を中断させてしまったことに対してであって――ということにしておいて、僕は構わず栞さんの肩を抱き寄せることにしました。
「話、大丈夫ですよ。してもらって」
「あ、うん」
 平気な振りをしてみても、こんな断りを入れてしまう時点でそれが振りだと丸分かりなんですけどね。慣れてないんです、やっぱり。
「私ね、さっき楓さんとああいうふうなって、それですっごく嬉しくて……そういうふうに感じるっていうのはまあ、こうくんになら分かってもらえると思うんだけど、どうかな」
「そうですね、それはもう」
 家守さんにとって栞さんがどれだけ大切な人であるか、という話を高次さんから聞いていた時、僕としてはやっぱり、その逆を考えずにはいられませんでしたしね。栞さんにとって家守さんがどれだけ大切な人であるか、という。
 抵抗することなく僕の腕に抱き寄せられてくれている栞さんは、そこで「えへへ」とくすぐったそうな笑みを溢します。こういう状況でそういう表情というのは、そりゃまあいろいろと掻き立てられるものだってあるわけですが、しかし栞さんの話には続きがありました。
「なんで嬉しいかって考えたら、ちょっと厭らしいことに思い当たっちゃったんだよね」
「厭らしい? 厭らしい――ああいやいや」
「エッチなことではなくね。当然だけど」
「……すいません」
 僕は実に馬鹿なのでした。直前の流れも考えれば不可抗力と言えなくもないかもしれませんが、それにしたって家守さんと栞さんで、ですし。深井に思わせた様子がないのが唯一の救いです。
 しかしそれにしたってまず間違いなく真面目な話なんですから、だったら頭の中身が薄ピンク色なままでは駄目なのでしょう。僕は、栞さんの肩に回した手はそのままながら、思考を切り替えることにしました。
「ふふ、いいんだけどね別に。それで話の続きだけど、『高次さんと同じことをしてもらえた』って、そんなことを喜んでるっていうのが、確実にあったんだよね。自分の中に」
「同じことっていうと……泣き付かれたことですか?」
「うん」
 他に何かをしていたわけではないんですし、そりゃそうですよね。高次さんと私室で話をしていた時に、栞さん達の様子を見ていなかったとはいえ。
「喜ぶところじゃないよね、どう考えても。むしろ『高次さんに任せた方がいいんじゃないか』とか、そんなふうに不安に思うべきところだったんだろうしさ」
「それだけ家守さんのことが好きってことなんでしょうね」
「それはまあ否定できないけどね。でも、好きだったら何を思ってもいいって、そういうことでもないんだしさ」
 分からない話ではありませんでした。しかしこうなってくると、僕から振る必要はないと判断したあの話をしておくべきなのかもしれません。
「高次さんは喜んでましたよ。家守さんが栞さんにああして泣き付いたことも、それが自分がされるのと同じことだっていうのも」
「……あの時、そんな話してたの? 凄いね、私が後でこう言うのを先読みしてたみたいな」
「考えることは皆同じってことでしょうね。皆って言ってもこの場合、栞さんと高次さんだけですけど」
「こうくんは?」
「入ってないです、残念ながら」
「そっか」
 僕としてはちょっぴり寂しい話でしたが、栞さんとしてはちょっぴり嬉しい話のようでした。
 そりゃそうですよね。たった二人に限定されるってことは、それだけ二人が家守さんにとって特別だってことなんですし。
「でも、喜ばれるっていうのもそれはそれでなあ。後ろめたく思ってた自分が馬鹿らしいっていうか」
 そうは言いながらも笑顔が絶えない栞さんでしたが、それはともかくこの話、聞き覚えがありました。いや、聞き覚えどころではないですね。
「誰も悪いって言ってないのに、勝手に自分を悪者扱いしてた」
「あはは、言われちゃった」
 それは、僕がよく栞さんから言われていることでした。けれどそれをよく言ってくる栞さんだからこそ「自分が馬鹿らしい」という言葉が出たんでしょうし、他の誰かから何を言われるまでもなくそういう自己評価が出来るというのが、僕との差なのでしょう。
「高次さんの話があったからそう思うってだけかもしれないですし、そもそもこの話では部外者ってことになるのかもしれませんけど――僕も、悪いだなんて思いませんよ。僕だって家守さんのことは好きですし、だったら栞さんと家守さんの仲が特別だっていうのは、悪く思うどころか嬉しいことですから」
 部外者なりになんとか話に関わりたい、という浅ましい願望がなかったわけではありませんが、しかし間違いなく本心ではありました。
「…………」
 栞さんの返事までには少しの間だけ間がありましたが、しかしそれは返事に困ったというようなものではないようでした。こちらへ向けられる栞さんの眼差しが、それまでより少しだけ――甘ったるいというか、とろんとしていたのです。
「少なくとも私にとっては、部外者なんてことはないよ。だって今、こうくんにそう言われて、すっごく気が楽になったから」
 気が楽になった、ということを強調して伝えたかったのでしょう。栞さんはそう言うと僕の手を取り、それをそのまま、自分の胸の中心にあてがわせるようにしました。
 しかし、その行動が例え「気が楽になった」ということの表現であったとしても、その胸の中心という場所には、どうしても無視はできない別の意味がありました。
「……最終的にこうさせたのは確かに僕ですけど」
 僕は、言いました。
「その下地を作ってくれたのは家守さんなんですよね。ここに今、傷跡が残ってないっていうのは」
「うん」
 家守さん繋がりとはいえ唐突に別の話に飛んでしまいましたが、栞さんは戸惑うようなことなく、そして気分が冷めるようなこともないまま、こくんと頷いてくれました。
「これがなくたって家守さんはいい人ですし、だから好きですけど、これがあるからにはもうただ好きってだけじゃなくて……恩人、というか」
「でもまあ、こうくんに直接関係することじゃないんだけどね」
「少し前ならそんなふうにも言えたかもしれませんけど、今はもう無理です。というか、言っちゃ駄目なんです。一緒に暮らしたいって、家族になりたいって、そう思ってるんですから。……もう、直接関係するんですから。栞さんのことは」
 好きになろうが、付き合うことになろうが、一緒に暮らすことになろうが、僕と栞さんが別の人間であることに変わりはありません。だったら直接関係することじゃないというのも、間違いなく正論ではあるのです。
 ですが、感情論でしかないと分かってはいても、僕はそれを認めるわけにはいきませんでした。僕と栞さん、別の人間同士が何を以って現在の関係を作り、そして保っているかと言われれば、それこそ感情のみで、なのですから。
「そっか。そうだよね、ごめん」
「あ、いや、別に気を悪くしたとかそういう」
「ごめんね」
 こちらの訂正に構うことなく謝り通してきた栞さんは、僕の胸に顔をうずめるようにして、身体全体を預けてきました。
「……はい」
 自分に厳しいんだな、などと感心するのは、贔屓目に見てのものだったりするのかもしれません。けれど僕は間違いなくそう思い、なのでその謝罪を受け入れ、そしてそれと同時に、掛けられた体重も受け入れました。
 胸の位置にある栞さんの頭。ならば僕の眼前には栞さんの栗色の髪の毛が来ていて、そしてそれに強く目と感心を引き付けられた僕は、片方の手でその髪を軽く撫でました。
「割と伸びましたね、髪」
「うん」
 普通の人で言うなら「まだそんなに伸びていない」という範疇ではありましたが、しかしついこの間まで一切髪が伸びなかった栞さんだと、そんなふうに思えるものなのでした。
 手を添える形で撫でてもふわりと柔らかいその髪は、髪の間に指を通してみても、さらさらとしていてまるで抵抗がありません。
 僕は、栞さんの髪がとても好きです。だから栞さんの髪が伸び始めた時、年を取り始めたということ以外に、髪が伸びることそれ自体も嬉しく思いました。家守さんぐらい、いや成美さんぐらいまでの長さに伸びたとしても、きっとこの髪はさらさらで、ずっと綺麗なままなのでしょう。
 ならばあとは、僕がその状態を保たせるだけです。栞さんが年を取り、栞さんの髪が伸びる、今のこの状態を。
「顔、上げてください」
 その言葉に従って胸元からこちらを見上げた栞さんは、しかし何も言ってはきませんでした。僕が何を思って顔を上げさせたか、察していたのでしょう。
 栞さんを強く抱き寄せ、自分は顔を下ろして、僕は栞さんの唇に自分の唇を重ねました。
 栞さんは黙ったまま、しかしさっき撫でた髪と同じくふわりと、僕からの口付けを受け入れてくれました。
 今日一日がどういう日だったかということもあって――いや、それがなくともそう思って当然なのでしょうが――ずっとこうしていたいなと、僕はそう思いました。けれどんな思いは、栞さんが顔を離したことによって、叶わないものとなってしまいました。
「駄目だね」
 話した顔はその頬をほんのりと赤く染めていて、しかしそうでありながら表情を曇らせつつ、栞さんは呟きました。
「優しくされたら甘えちゃうよ。謝りまでしたのに」
「そうやって自分を責められる人だって分かってるからですよ、僕が優しく出来るのは」
 事実、栞さんが今言ったその台詞を、僕は微塵も意外だとは思っていないのです。抱き合ってキスをして、その後にこんなことを言われたら、気分が萎えるとか、そんなふうになってもおかしくはないでしょうに。
 ちなみにここで、自分の行動を「優しい」と評してしまったのが照れ臭くなってしまい、なので言い訳っぽいことをしてみました。
「毎度毎度、どんなことでも怒鳴りつけるってわけにもいきませんしね、さすがに」
 すると栞さん、くすっと笑ってくれました。
「怒る時にちゃんと怒ってくれるっていうのは、普段がそうじゃないから言えるんだろうしね」
「じゃあ、そうじゃなくてもいいですか? 今は」
「……うん」
 喜んで納得する、というよりは反論を諦めてしぶしぶ頷いたという感じでしたが、何はともあれ「優しくしてもいい」という了解を取り付けることができました。
 ここまで尾を引くというのは、さっきも思った自分への厳しさの表れなんだろう。そんなふうに考えてみると、悪い気がするというほどのこともありませんでした。
「あの、私からお願いしてもいいかな」
「何ですか?」
「傷跡の跡を、ね。さっきも触ってもらったけど、もう少しだけ」
 先程は家守さん絡みの話として触った傷跡の跡。ですが今度はそうではなく、いつもと同じく「傷跡の跡に触る」という目的で触って欲しいと、そういうことなのでしょう。
 当たり前ですが、僕にその頼みを断る理由はありません。
「いいですよ、もちろん」
「ありがとう」
 礼を言われるまでもないほど当然なことではあるのですが、しかしやっぱり気分が良くはなります。どこか躊躇いがちなぎこちない笑顔も、多分、そう長くは続かないでしょう。
 これまでは互いに向き合って座っていたところ、栞さんがこちらに背を向け、なので僕は両足の間に隙間を作り、すると栞さんはその隙間に腰を落ち着けます。
 言葉を交わすことなく相手がしようとしていることが分かるというのは、それだけでも嬉しいものなのでした。
 背を向けた栞さんの背後から抱き付くようにして、傷跡の跡に手を触れます。ここは、伸び始めた髪の毛と同じく「僕が変えてしまった箇所」であり、僕と栞さんの関係を象徴するものでもあり、そして、栞さんが幽霊であるということを強く意識させるものでもあります。
 それらの確認のため、というだけではやはりないのですが、しかし主目的としてはあくまでその確認のために、僕と栞さんは時々こうして、傷跡の跡を触り触られしています。
「落ち着いちゃうなあ、やっぱり。これだけはもう、抵抗のしようもないって言うか」
 栞さんは大きく息を吐きながら言いました。しかし今思った通り、この行為で意識するものは、なにも良いことばかりではないのです。栞さんが幽霊だと、既に死んでしまった人間だと、そういうことも頭に浮かんでいる筈なのです。それでも――いや、それだからこそ落ち着くことができる栞さんが、僕は愛しくてたまりませんでした。


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