「ちょっと深道さんに相談と言うか……そんな感じの話があって、それで……できれば少し、二人だけになりたいんですけど……」
「だそうですよ瑠奈さん。俺、頼られちゃってます」
「威張るならきちんと話を聞いてあげてからにしなさいよ」
話の通りがいいと言うか何と言うか、腰に手を当ててニンマリ顔の深道さんに、つんと冷ややかに言い捨てる霧原さん。突然妙な事を言い出した僕への戸惑いなんてものは、微塵も感じていないようです。ううむ、凄い。と思う。
「そういう事で喜坂さん、男だけの話があるそうだから」
「あ、は、はい」
自分から提案したにも関わらずにぽかんとしてしまうくらい、滞りなく場所を移してしまう女性二人。霧原さんに背を押されて退場する栞さんは、僕を振り返って軽く首を傾げていた。
「いや、まさかこっちが相談される側になるとはなあ」
その二人の背中を見送りながら、何やら嬉しそうな深道さん。相談を持ち掛けられて嬉しい、というのはなんとなく理解できなくもないけど、どうにもそれだけではないような。
「前にこっちから相談させてもらって、随分助からせてもらったからね」
なるほど、その礼も含めて良い機会という事か。……まあ、実際に相談を受けたのは僕じゃなくて、家守さんなんだけどね。
「あー、僕が聞きたいのも、そこに似たような感じの話なんですよ」
「お、さっそく。……で、似たような感じと言うと?」
先日。およそ一週間と半前に、深道さんと霧原さんが僕の部屋へやってきて、その場にいた家守さんに持ち掛けた相談。それは、霧原さんの髪が伸び始め、それはどういう事なのか、というものだった。
「特定の女性を愛するっていうのは、つまりどういう事なんでしょう?」
「おお、ストレートだね。……『特定の女性を』って言うからには、具体的な相手が?」
「はい」
ちらりと、少し離れた場所で霧原さんと何やらお喋りをしているらしい栞さんに目を向ける。すると視線に気付いたのか、それとも偶然こちらを向いただけか、目が合ってしまった。特に後ろ暗い事情があるわけでもないのに、なんとなく視線を逸らしてしまう。
「分かりやすいねえ」
楽しそうに言う、深道さん。
「見るからに付き合い始めって感じだなあ。俺らがそうだった頃が懐かしいね」
「いや、普段はこんなのじゃないんですけど……」
ついつい、語尾に陰りが出てしまう。普段なら、目が合ったぐらいでこんな反応はしない。なんせ毎晩、向かい合って食事をしながら雑談に華を咲かせているのだ。そしてその、夕食の後も。
ではどうして今、目を逸らしてしまったんだろうか? やっぱりそれは、相談の内容が原因だろうか。訊きたい、と言うかもう訊いてしまった事とは言え、やっぱりどこか気恥ずかしいような。
深道さんが、ふっと息を吐いた。
「俺にも、はっきりしたところは分からない。でも、誰かから瑠奈さんを愛してるかと訊かれたら、はっきり『愛してる』と答えると思う。照れたりしなきゃ、だけど」
そう言って深道さんは、少し離れた所の霧原さんと栞さんのほうへ目を遣った。さっきの栞さんと同じように、霧原さんがこちらを向いた。目を背けたのは、霧原さんだった。
しかしそれは、僕がそうしたのとは違い、やれやれと面倒そうに視線を外しただけの話。でも、深道さんは言う。
「逆もそうだな。瑠奈さんに愛されてる自信はあるかって訊かれたら、迷いなく頷けるよ俺。これも照れたりしなきゃ、だけど」
「それは、どうしてですか?」
「んー、落ち着きが出てきたって言うのかなあ」
「落ち着き、ですか」
「そう、落ち着き」
答えにくい質問をしているつもりで、返ってくる答えもそれに見合った難解なものになると予想していたので、あっさりと一言――しかも分かりやすい単語で言い表されたその返答に、体から何かが抜けていくような錯覚に陥る。まさに「落ち着かされた」、とそんな感じ。
「日向くん、今までに女の人と付き合ったのって何回目くらい?」
「いえ、しお……向こうの喜坂さんが、初めてです」
まるで同じ質問をされた覚えがある。
いや、覚えがあるというほど時間が経っているわけでもない。ついさっき、別の先輩から言われたばかりだ。しかしこちらの先輩はもう一つ、「じゃあ、女の人を好きになったのは何回目?」と。
「え? えーっと」
それほど頻繁に恋愛感情を抱くほうではない、と自分では思う。更に、一見それっぽくてもよくよく考えるとそうでもないんじゃないか、と疑わしくなってくるものも。そういうものも除いていって、僕の記憶の中に恋愛感情というものがいくつあったか。
「二回……ですかね」
「ん? 随分と少ない――いや、『本気で』って意味かな」
「そのつもりで出した数です」
「そっか。で、喜坂さんはもちろんとして、残りの一人は? やっぱ可愛い人?」
「と言うかですね……えーと、もちろん可愛いといえばそうなんですけど、さっき話に出たじゃないですか。前髪が凄い人。実はあの人と高校の同級生だった事があって」
正直、ここまで暴露する必要はなかったのかもしれない。だけど僕は話を訊いている側。それについて尋ねられた事があるなら、できるだけ正確に答えるのが筋というものだろう。今更、隠すような事でも恥ずかしがるような事でもないしね。
「へえ? いや、顔は全然見えなかったけど……ふーん」
「まあ好きだったってだけで、告白どころか碌に会話した事もなかったんですけどね。最近はそうでもないんですけど」
「ほー。で、元の話に戻るけど」
おや、本当に暴露する必要が無かったようで。それはそれで、ちょっと寂しいような。
「そういうふうに誰かを好きになった直後とか、付き合い始めた直後ってさ、頭ん中そればっかになるでしょ? 事ある毎にって言うか、事がなくたってその人の事考えてる、みたいな。ましてや俺とか日向くんの場合、その相手が幽霊だし」
「はあ、まあ」
「それがだんだん落ち着いてくるのよ。冷めるってわけじゃないんだけど……そうだな、慣れるって感じかな。どんな人でもそうなるとは言わないけど、少なくとも俺と瑠奈さんはそうだった」
その話を聞いて頭に浮かぶのは、もう一組の先輩、口宮さんと異原さん。
『むしろ、なんにも無さ過ぎて自然消滅っつうか。付き合う前も、付き合ってた筈の時も、そんで今も、なんにも変わらなかったんだよな』
『まあさすがに、付き合い初めの頃くらいはそれなりだったけどな』
落ち着いていって尚恋人であり続けた深道さん達と、落ち着いた結果落ち着き過ぎてしまった口宮さん達。一体何が違ってしまったんだろう?
深道さんの話は続く。
「だんだんだんだん、『隣にいて欲しい』が『隣にいるのが当たり前』になるんだよね。当たり前過ぎて頭に浮かびさえしないって言うか。もちろん、本当にずっと隣にいるわけじゃないけど」
「……当たり前、ですか」
「そう。まあ、女性経験豊富な奴だったりすると初めからそんな感じだったりするのかもしれないし、それが悪い事だとも思わないけどね。――でも俺は、瑠奈さん一筋だし」
誇るでもなく、恥ずかしがるでもなく、あくまで自然にこちらへ微笑み掛けながら、深道さんはそう言った。僕だったら多分、こうはいかないんだろう。恥ずかしがるか、開き直って威張るように言うか。どちらかになると思う。
本当に、それが「当たり前」なんだなあ。
「ああ、なんか喋ってるうちに思い付いたんだけど」
「何ですか?」
「恋が育って愛になる、とは思えないのよ俺。恋もしてるし愛してもいるって言うか……まず、恋があって」
言いながら、ボールか何かを掴んでいるような形にした手を、顔の高さに掲げる。続けて、「こう、別の所にじわじわと、愛が現れてくるって感じ?」ともう一方の手をグーの形にして同じく顔の前に掲げ、言葉通りじわじわと広げていく。反応する事すら忘れ、ボールを掴む形で横に並んだその両手を見る。まじまじと。
すると深道さん、手をパッと下ろし、ふいとそっぽを向いてしまった。
「……………やべ。これはいくら何でも恥ずかしいわ。思い付きで喋るもんじゃないな」
「そ、そんな事ないですよ?」
むしろそこ以外の話は何故平気だったんですか、と訊きたくなるくらいだ。訊かないけど。
「そう? まあ、でも、深く考えてみたら結構面白いもんだね。一回瑠奈さんと語らってみようかな?」
あっさりと立ち直り、軽い口調でそんな事を言う。逞しいと言うか何と言うか、取り敢えず僕は、こういうところを見習うべきなのだろうか?
「で、結局何の話だったのよ?」
「瑠奈さん、俺、愛の伝道師とか名乗っちゃうかも」
「はあ?」
合流の挨拶としてそんな短い掛け合いを交わし、本当の事なのに全く信じてもらえていないのが丸分かりな呆れた目を向けられて、それでも深道さんはニカッと口の端を持ち上げていた。
「何の話だったの? 孝一くん」
「いや、その……愛の話、ですかね? やっぱり」
「むー。そりゃあ、言えないからわざわざ二人になったんだろうけどさ」
僕には真似できなかった。
そんなところへ、偉大な先輩からお声が掛かる。
「そうそう、日向くん」
「あ、は、はい?」
「焦る事はないと思うよ。じっくりじっくり時間を掛けて、じわじわとね。俺も三年掛かったし、早けりゃいいってもんじゃないとも思うしさ」
と言いつつ、グーの形で持ち上げた手を、言葉通りじわじわと広げていく。
それを横から見ていた霧原さん、眉を寄せて怪訝な顔に。
「だから何の話よ? あと、微妙にいやらしいその手付きは何?」
「やだなあ、だから愛の話ですって。この手だってそれを表してるんですよ?」
「……うーん、病気かしら……」
「そりゃ大変だ。愛する瑠奈さんに手厚く看病してもらわないと――いてっ」
さすがに頭を小突かれる深道さんなのでした。
「栞さんの方は何を話してたんですか? 霧原さんと。僕と深道さんが二人で話してる間」
「え? うーん、孝一くんがどんな人……とか、かな?」
要は、系統としてならこちらと同じような話だった、という事だろう。
仲良く手を繋いで、と言うよりは「見られると恥ずかしいものを迅速に人前から運び出す」と言うような力強さで、しかしこちらには人の良さそうな爽やかスマイルを向けかつ、ひらひらと手を振りながら深道さんを引きずって去っていった霧原さんと別れ、毎度お馴染み徒歩五分の帰り道。それは当然、僕と栞さんの二人だけなのでした。
「なんて答えたんですか?」
「料理が趣味で、しかも上手いとか。あと、方向音痴だとか」
「いや、方向音痴の方はわざわざ紹介してもらわなくても……」
そんな事を話している間に、そろそろ我が家に到着というところまで進んでしまう。まあ、五分ですから。――するとその直前、あまくに荘正面玄関にて、
『あれ?』
栞さんとハモってしまいました。
何があったかと言うと、庭先に大吾が突っ立っていたのです。外に出るでもなく、中に入るでもなく、ただただ真っ直ぐに。しかも微妙にふてくされたような顔で。
「おう、おけーり」
「大吾、何してるの? そんな誰かの出迎えみたいに」
「出迎えだよ、オマエ等の。そろそろ帰ってくんじゃねえかっつって、オレだけ外に追い出されたんだよ」
「えーと、じゃあ、何かあったって事なのかな。わざわざ栞達を待っててくれたって事は」
大吾は、気だるそうに息を吐いた。
「……まあ、来りゃすぐ分かる。清サンの部屋だ。みんないるから」
「お邪魔してます」
鞄を自分の部屋へ置く暇すらなく清さんの部屋へ上がり込んでみると、ツインテールの女の子がにっこりと首を傾けた。もちろん、清さんと成美さんとジョンとナタリーさんとフライデーさん――相変らず多いな――も、テーブルを囲むようにして勢揃い。清さんが何やらスケッチブックに絵を書いてるようですが、それはまあ。
「ああ、今日は、庄子ちゃん」
庄子ちゃん。本名、怒橋庄子。怒橋大吾の妹にして、幽霊の声が聞こえる中学三年生。仏頂面である事が多い兄には似ても似つかず、面識が数回しかない僕に対してすら、溢れる愛嬌を絶やさない女の子だ。
「栞さんも一緒だよね?」
「一緒だよー」
姿が見えない事なんかまるで構わないように……と言うか、実際構っていないんだろう。自分の兄を含めた幽霊さん達に対しまるで気後れのないその振舞い、そして本人の人柄からか、庄子ちゃんが訪ねてくると場の雰囲気が普段より更に明るくなる。――まあ、ただただ純粋に、良い子だなと。他意も裏も照れもなく。
「えっと、ナタリーの紹介は済んだのかな。会うの、初めてだよね?」
大吾の傍で丸くなっているジョンのそのまた傍で、ジョンより更に丸くなっているナタリーさん。そちらへちらりと目を遣り、空いている場所に座り込みながら、栞さんが問う。
「あ、うん。蛇なんだよね? 今、清さんに絵を書いてもらってるところなんだけど……」
「もう少しお待ちを。んっふっふ」
清さんが庄子ちゃんにいつもの笑みを向け(当然見えてはいないけど)、次いで被写体のナタリーさんに目を向ける。すると普段、動きの少ないナタリーさんが、くねりと身をよじらせた。
「その、な、なんだか緊張しますね。姿を写されるというのは」
その動きが何だか色っぽく感じられてしまったのは、人として間違っていたりするんだろうか。
いや、でも、違う生き物とは言え相手は女性。間違ってはいないはず。……と自分に言い聞かせつつ、
「そう言えば庄子ちゃん、前に来たのも金曜日だったよね? 都合が良かったりとか?」
質問。気を紛らわせるためでもあり、ごく普通に疑問に思った事でもある。
「そのおかげで二週連続、私がお出迎えできたんだよね。もしかして、私が目当てだったりとか?」
ジョンのほうから声が、と思ったら、そのジョンの体毛を掻き分けるようにしてぷかりと浮かび上がってくる金曜日担当のフライデーさん。ノミじゃないんですから。見た目は似てなくもないですけど。
「うーん……いや、そういう気分になりやすいってだけですね。一週間の学校が終わって、明日から休みで」
とまで言ったところ、成美さん(庄子ちゃんが来ているからだろう、猫耳を出して実体化かつ大人化している)が何かを考えるように顎に手を当てたけど、庄子ちゃんは気付かない。
「そうやって気が抜けたところで『ああそうだ寄ってみよう』――みたいな」
「ありゃ。おじさん、そりゃちょっとがっかりだよ」
「あはは、ごめんなさい」
「まあ金曜日に来てくれるという結果としては同じだし、それに、いつ来ても大歓迎なのはもちろんだけどね」
「ありがとーございます」
目の前のテーブルに額が触れるくらいに深くかつ、うやうやしく頭を下げる庄子ちゃん。
そして下がった頭が元の位置へ戻る頃、フライデーさんは、その上空へと移動していた。
「お?」
たとえ見えなくても、触れればもちろん感触はある。セミの抜け殻さんが頭に着陸したその感触に庄子ちゃんが小さく声を上げ、頭から伸びた二本の尻尾を小さく揺らした。すると、
「せっかくだから、ここに居座らせてもらうよ。了解さえしていただけるならね」
「そんな所で良ければ、いくらでもどうぞ」
「では喜んで。……胸は先週、怒られちゃったからね」
そんな事もありましたっけね。なんて記憶を辿っていたところ、「おい怒橋、ちょっと」「何だよ?」との声が。見れば、成美さんが大吾に何やら耳打ちをしていた。成美さんだけが見える庄子ちゃんからだと変な絵なんだろうなあ、なんて思っていると、話を聞き終わった大吾が立ち上がり、こちらへ歩いてきた。
「ちょっと来い」
その時僕と栞さんは並んで座っていたので、どちらが呼ばれているのかはっきりせず、顔を見合わせる。
「どっちもだよ」
……だそうで。
「成美さん、兄ちゃんに何て言ったの?」「まあ、気にするな」なんて会話を背に、僕と栞さんは大吾に連れられ居間を出る。
着いた先は――と言うほどの移動でもなく、居間を出てすぐの場所、つまり台所。二つの部屋を区切るふすまを閉め、声を落として大吾は言う。
「出迎えの時に言い忘れてたけど、明日明後日の話、庄子の前ですんなよ」
「明日明後日……って言うと、お泊まりの?」
栞さんの言葉に、大吾は頷く。
「連れてくわけにゃ行かねえからな。アイツもそんくらい分かるだろうけど、話聞いたら自分も行きたいとは思うだろうし」
「そっか。うん、分かった。……優しいね、さすがお兄ちゃん」
「アホ。成美が先に言い出したんだよ」
「『先に』って事は、自分が後だっただけだよね?」
「うっせえ」
にこにこと攻め立てる栞さんから逃げるようにして、大吾は居間へ戻る。栞さんは一度僕に笑い掛けてから、その後ろに続いた。
やれやれ、なんとも良い兄妹だことで。
この人が今日たまたま部屋にいたのも、明日の予定があるからなんだろう。
「……ふう、完成ですね。急いだのでやや粗いような気もしますが、どうでしょう?」
鉛筆のみで描かれた、ナタリーさんのスケッチ。一体どこが粗いんだと尋ねてみたくなるような出来のそれが、スケッチブックからピリピリ切り離されると、受け取る庄子ちゃんは目を輝かせた。
「大満足です! 本物のナタリーさんを見た事なくても、そっくりだって分かります!」
普通に考えたら在り得なさそうな発言にも、「そりゃそうだ」と思ってしまう。なんせ、遠目に見たらモノクロの写真かと思えるくらいに写実的かつ美麗な絵だ。これにモデルがいると言うなら、似てないほうがおかしい。月を眺めてスッポンを描く絵描きがいるなら、見てみたいものだ。
「あの、じゃあ、もう動いても大丈夫ですか?」
「ええ。お疲れ様でした、ナタリー」
「ありがとう、ナタリーさん」
労いとお礼を受けたナタリーさんは、するすると移動を始める。到着点は、庄子ちゃんの膝の上。
「ひゃわわあっ」
突然蛇に這われるというのはどんな感覚なのか、背筋をびんっと張り、首を上に向けながら、その喉から震える声を。
急に頭の、つまり足場の角度が変わったフライデーさんが「落ちる落ちる!」なんて慌ててたりしますが、あなた、宙に浮けるじゃないですか。
「あ、ごめんなさい。くすぐったかったですか?」
「は、はひ。ちょっと」
庄子ちゃん、天井を見上げながら目をぱちぱち。よっぽどな感触だったらしい。よっぽど「どうだったのか」までは分からないけど、少なくとも「ちょっと」ではないだろう。
ところでナタリーさん、庄子ちゃんの膝に上がったのは清さんが描いた自分の絵を見たかったためらしく、それを覗き込んで「わわ、本当にそっくりですね」と感嘆を漏らす。
「生まれて初めて鏡を見た時も驚きましたけど、人間が手で写したものでもここまでそっくりだなんて……。さすがは、手先の器用さに特化した動物ですよね」
などという感激に近いような感想もしくは分析に対し、その頭上から気を落ち着けた庄子ちゃんが苦笑を浮かべて言葉を挟む。
「あの、それ、思いっきり描く人の能力によると思いますよ」
「あ、そうなんですか? ――という事は、人間全体じゃなくて清さんが凄いって事ですね?」
「いやあ、お恥ずかしい」
凄い人本人は恐縮そうにしてますが、その通り。器用な手先を持っていても、大抵の場合においてそれを使いこなせないのが人間なのです。……そんな大層な話をする場でもないんですけどね、そりゃ。
なんて言ってる間にナタリーさん、体の向きを百八十度捻って庄子ちゃんと向き合う。
「ところであの、清さんの絵の通りに私は蛇なわけですけど、怖くないんですか? くすぐったくはあったみたいですけど」
そう訊かれた本人は「くすぐ……? うーん」と首を傾げ、しかし間を置かずに「まあいいか」とすっぱり切り捨てる。どうやらくすぐったいのとはちょっとニュアンスが違うらしいけど、まあいいか。
「まあ、声だけ聞いて次に絵を見て、でしたから。しかも何て言うか……声聞いたら、『もしかして同年代くらいなんじゃないかな』って事ばっかり気になっちゃって」
「ああ、そう言えばどうなんでしょうね? 人間に直すとどのくらいなんでしょう、私」
確かにナタリーさん、声色から判断する限りは庄子ちゃんと同年代くらいに思える。しかし声質なんてのは個人差があるものだし、それ以前に声から読み取る年齢が判断材料になり得るのかと言われたら――
「な、何故一斉にわたしを見るのだ? お前達」
本人が年寄りだと申告しているのに、実際はこんな若々しい(大吾と同じくらい、と表現するべきなんだろう)方もいる事だし。しかも頭の猫耳を引っ込めたらこれ以上(こちらはどう見ても小学生低学年)になるし。
お昼寝中のジョン以外、部屋内全ての視線を集めた成美さんへ、その隣の大吾が告げる。
「そりゃオマエ、分かりやすい実例だしな。つっても、分からねえってのが分かる実例だけど」
「……ふん、別に文句はないさ」
含むところはありそうながらも、成美さんとしてはそういう事らしい。
「んっふっふ」
「笑うな楽」
「そのおかげで大吾君と並んでも――」
「言うなフライデー!」
「いや、だからオレは気にしねえって――」
「黙れ馬鹿者!」
部屋が、しん、となる。喋る人喋る人の口を全部塞がせたんだから、そりゃまあそうなって当然だろう。そしてその塞がせた人へ視線が集まるのも、また当然。
「……いや、すまん。言い過ぎたな」
その視線全部が自分を責めるものに見えた、とでも言うように、成美さんはしゅんとしながら、さっきのよりも随分と小さい声でそう詫びる。と言ってももちろん、こちらからすれば見慣れた光景。本当に責めている人は一人としていないんだろう。馬鹿者呼ばわりされた大吾は――まあ、それだっていつもの事だしね。
「それで、ナタリーが幾つくらいなのかって話は?」
くすっと笑みを溢してから、栞さんが話題修正。
その微笑みに気付いた成美さんが「むう」と恥ずかしそうに俯いたりしたものの、それを知ってか知らずか、「あ、そうだったそうだった」と庄子ちゃんは栞さんの方を向く。
「うーん、何かいい判断基準はないかなあ?」
「私は、それほど気にする事でもないと思いますがねえ。どちらも若い女の子という事で」
話が戻った途端に腕を組んでしまう庄子ちゃんへ、清さんが顎を触りながら、そのように意見する。「年寄りだ」と申告しつつも、人間としては若々しい成美さんを見るに、それもまた納得に足る結論なのだろう。
しかしその時、ナタリーさんが呟く。いつものように不動のまま。
「女の子……」
小さい声とは言え、部屋内には充分伝わるその呟き。みんな揃ってそちらへ視線を集めると、「そうだ、まずは大人か子どもか、ですよ」とナタリーさん。なるほど、まずは大まかな区分からという事ですね。
でも、ちょっと待った。
「人間以外の動物でも決まりがあったりするんですか? 何歳以上からが大人だとかいうのって」
「人間、っつーか日本の法律だと、二十歳からって事になってっけど……国によってもバラバラだしなあ? アテになんのか? そんなもん」
僕が言い、大吾が続く。そう、同じ人間の中でも「どこまでが子どもでどこからが大人だ」なんてのは差があるわけで、ましてや違う動物と比べるとなると、それはあまり信頼できる基準ではなさそうな気が。
「だそうですよ瑠奈さん。俺、頼られちゃってます」
「威張るならきちんと話を聞いてあげてからにしなさいよ」
話の通りがいいと言うか何と言うか、腰に手を当ててニンマリ顔の深道さんに、つんと冷ややかに言い捨てる霧原さん。突然妙な事を言い出した僕への戸惑いなんてものは、微塵も感じていないようです。ううむ、凄い。と思う。
「そういう事で喜坂さん、男だけの話があるそうだから」
「あ、は、はい」
自分から提案したにも関わらずにぽかんとしてしまうくらい、滞りなく場所を移してしまう女性二人。霧原さんに背を押されて退場する栞さんは、僕を振り返って軽く首を傾げていた。
「いや、まさかこっちが相談される側になるとはなあ」
その二人の背中を見送りながら、何やら嬉しそうな深道さん。相談を持ち掛けられて嬉しい、というのはなんとなく理解できなくもないけど、どうにもそれだけではないような。
「前にこっちから相談させてもらって、随分助からせてもらったからね」
なるほど、その礼も含めて良い機会という事か。……まあ、実際に相談を受けたのは僕じゃなくて、家守さんなんだけどね。
「あー、僕が聞きたいのも、そこに似たような感じの話なんですよ」
「お、さっそく。……で、似たような感じと言うと?」
先日。およそ一週間と半前に、深道さんと霧原さんが僕の部屋へやってきて、その場にいた家守さんに持ち掛けた相談。それは、霧原さんの髪が伸び始め、それはどういう事なのか、というものだった。
「特定の女性を愛するっていうのは、つまりどういう事なんでしょう?」
「おお、ストレートだね。……『特定の女性を』って言うからには、具体的な相手が?」
「はい」
ちらりと、少し離れた場所で霧原さんと何やらお喋りをしているらしい栞さんに目を向ける。すると視線に気付いたのか、それとも偶然こちらを向いただけか、目が合ってしまった。特に後ろ暗い事情があるわけでもないのに、なんとなく視線を逸らしてしまう。
「分かりやすいねえ」
楽しそうに言う、深道さん。
「見るからに付き合い始めって感じだなあ。俺らがそうだった頃が懐かしいね」
「いや、普段はこんなのじゃないんですけど……」
ついつい、語尾に陰りが出てしまう。普段なら、目が合ったぐらいでこんな反応はしない。なんせ毎晩、向かい合って食事をしながら雑談に華を咲かせているのだ。そしてその、夕食の後も。
ではどうして今、目を逸らしてしまったんだろうか? やっぱりそれは、相談の内容が原因だろうか。訊きたい、と言うかもう訊いてしまった事とは言え、やっぱりどこか気恥ずかしいような。
深道さんが、ふっと息を吐いた。
「俺にも、はっきりしたところは分からない。でも、誰かから瑠奈さんを愛してるかと訊かれたら、はっきり『愛してる』と答えると思う。照れたりしなきゃ、だけど」
そう言って深道さんは、少し離れた所の霧原さんと栞さんのほうへ目を遣った。さっきの栞さんと同じように、霧原さんがこちらを向いた。目を背けたのは、霧原さんだった。
しかしそれは、僕がそうしたのとは違い、やれやれと面倒そうに視線を外しただけの話。でも、深道さんは言う。
「逆もそうだな。瑠奈さんに愛されてる自信はあるかって訊かれたら、迷いなく頷けるよ俺。これも照れたりしなきゃ、だけど」
「それは、どうしてですか?」
「んー、落ち着きが出てきたって言うのかなあ」
「落ち着き、ですか」
「そう、落ち着き」
答えにくい質問をしているつもりで、返ってくる答えもそれに見合った難解なものになると予想していたので、あっさりと一言――しかも分かりやすい単語で言い表されたその返答に、体から何かが抜けていくような錯覚に陥る。まさに「落ち着かされた」、とそんな感じ。
「日向くん、今までに女の人と付き合ったのって何回目くらい?」
「いえ、しお……向こうの喜坂さんが、初めてです」
まるで同じ質問をされた覚えがある。
いや、覚えがあるというほど時間が経っているわけでもない。ついさっき、別の先輩から言われたばかりだ。しかしこちらの先輩はもう一つ、「じゃあ、女の人を好きになったのは何回目?」と。
「え? えーっと」
それほど頻繁に恋愛感情を抱くほうではない、と自分では思う。更に、一見それっぽくてもよくよく考えるとそうでもないんじゃないか、と疑わしくなってくるものも。そういうものも除いていって、僕の記憶の中に恋愛感情というものがいくつあったか。
「二回……ですかね」
「ん? 随分と少ない――いや、『本気で』って意味かな」
「そのつもりで出した数です」
「そっか。で、喜坂さんはもちろんとして、残りの一人は? やっぱ可愛い人?」
「と言うかですね……えーと、もちろん可愛いといえばそうなんですけど、さっき話に出たじゃないですか。前髪が凄い人。実はあの人と高校の同級生だった事があって」
正直、ここまで暴露する必要はなかったのかもしれない。だけど僕は話を訊いている側。それについて尋ねられた事があるなら、できるだけ正確に答えるのが筋というものだろう。今更、隠すような事でも恥ずかしがるような事でもないしね。
「へえ? いや、顔は全然見えなかったけど……ふーん」
「まあ好きだったってだけで、告白どころか碌に会話した事もなかったんですけどね。最近はそうでもないんですけど」
「ほー。で、元の話に戻るけど」
おや、本当に暴露する必要が無かったようで。それはそれで、ちょっと寂しいような。
「そういうふうに誰かを好きになった直後とか、付き合い始めた直後ってさ、頭ん中そればっかになるでしょ? 事ある毎にって言うか、事がなくたってその人の事考えてる、みたいな。ましてや俺とか日向くんの場合、その相手が幽霊だし」
「はあ、まあ」
「それがだんだん落ち着いてくるのよ。冷めるってわけじゃないんだけど……そうだな、慣れるって感じかな。どんな人でもそうなるとは言わないけど、少なくとも俺と瑠奈さんはそうだった」
その話を聞いて頭に浮かぶのは、もう一組の先輩、口宮さんと異原さん。
『むしろ、なんにも無さ過ぎて自然消滅っつうか。付き合う前も、付き合ってた筈の時も、そんで今も、なんにも変わらなかったんだよな』
『まあさすがに、付き合い初めの頃くらいはそれなりだったけどな』
落ち着いていって尚恋人であり続けた深道さん達と、落ち着いた結果落ち着き過ぎてしまった口宮さん達。一体何が違ってしまったんだろう?
深道さんの話は続く。
「だんだんだんだん、『隣にいて欲しい』が『隣にいるのが当たり前』になるんだよね。当たり前過ぎて頭に浮かびさえしないって言うか。もちろん、本当にずっと隣にいるわけじゃないけど」
「……当たり前、ですか」
「そう。まあ、女性経験豊富な奴だったりすると初めからそんな感じだったりするのかもしれないし、それが悪い事だとも思わないけどね。――でも俺は、瑠奈さん一筋だし」
誇るでもなく、恥ずかしがるでもなく、あくまで自然にこちらへ微笑み掛けながら、深道さんはそう言った。僕だったら多分、こうはいかないんだろう。恥ずかしがるか、開き直って威張るように言うか。どちらかになると思う。
本当に、それが「当たり前」なんだなあ。
「ああ、なんか喋ってるうちに思い付いたんだけど」
「何ですか?」
「恋が育って愛になる、とは思えないのよ俺。恋もしてるし愛してもいるって言うか……まず、恋があって」
言いながら、ボールか何かを掴んでいるような形にした手を、顔の高さに掲げる。続けて、「こう、別の所にじわじわと、愛が現れてくるって感じ?」ともう一方の手をグーの形にして同じく顔の前に掲げ、言葉通りじわじわと広げていく。反応する事すら忘れ、ボールを掴む形で横に並んだその両手を見る。まじまじと。
すると深道さん、手をパッと下ろし、ふいとそっぽを向いてしまった。
「……………やべ。これはいくら何でも恥ずかしいわ。思い付きで喋るもんじゃないな」
「そ、そんな事ないですよ?」
むしろそこ以外の話は何故平気だったんですか、と訊きたくなるくらいだ。訊かないけど。
「そう? まあ、でも、深く考えてみたら結構面白いもんだね。一回瑠奈さんと語らってみようかな?」
あっさりと立ち直り、軽い口調でそんな事を言う。逞しいと言うか何と言うか、取り敢えず僕は、こういうところを見習うべきなのだろうか?
「で、結局何の話だったのよ?」
「瑠奈さん、俺、愛の伝道師とか名乗っちゃうかも」
「はあ?」
合流の挨拶としてそんな短い掛け合いを交わし、本当の事なのに全く信じてもらえていないのが丸分かりな呆れた目を向けられて、それでも深道さんはニカッと口の端を持ち上げていた。
「何の話だったの? 孝一くん」
「いや、その……愛の話、ですかね? やっぱり」
「むー。そりゃあ、言えないからわざわざ二人になったんだろうけどさ」
僕には真似できなかった。
そんなところへ、偉大な先輩からお声が掛かる。
「そうそう、日向くん」
「あ、は、はい?」
「焦る事はないと思うよ。じっくりじっくり時間を掛けて、じわじわとね。俺も三年掛かったし、早けりゃいいってもんじゃないとも思うしさ」
と言いつつ、グーの形で持ち上げた手を、言葉通りじわじわと広げていく。
それを横から見ていた霧原さん、眉を寄せて怪訝な顔に。
「だから何の話よ? あと、微妙にいやらしいその手付きは何?」
「やだなあ、だから愛の話ですって。この手だってそれを表してるんですよ?」
「……うーん、病気かしら……」
「そりゃ大変だ。愛する瑠奈さんに手厚く看病してもらわないと――いてっ」
さすがに頭を小突かれる深道さんなのでした。
「栞さんの方は何を話してたんですか? 霧原さんと。僕と深道さんが二人で話してる間」
「え? うーん、孝一くんがどんな人……とか、かな?」
要は、系統としてならこちらと同じような話だった、という事だろう。
仲良く手を繋いで、と言うよりは「見られると恥ずかしいものを迅速に人前から運び出す」と言うような力強さで、しかしこちらには人の良さそうな爽やかスマイルを向けかつ、ひらひらと手を振りながら深道さんを引きずって去っていった霧原さんと別れ、毎度お馴染み徒歩五分の帰り道。それは当然、僕と栞さんの二人だけなのでした。
「なんて答えたんですか?」
「料理が趣味で、しかも上手いとか。あと、方向音痴だとか」
「いや、方向音痴の方はわざわざ紹介してもらわなくても……」
そんな事を話している間に、そろそろ我が家に到着というところまで進んでしまう。まあ、五分ですから。――するとその直前、あまくに荘正面玄関にて、
『あれ?』
栞さんとハモってしまいました。
何があったかと言うと、庭先に大吾が突っ立っていたのです。外に出るでもなく、中に入るでもなく、ただただ真っ直ぐに。しかも微妙にふてくされたような顔で。
「おう、おけーり」
「大吾、何してるの? そんな誰かの出迎えみたいに」
「出迎えだよ、オマエ等の。そろそろ帰ってくんじゃねえかっつって、オレだけ外に追い出されたんだよ」
「えーと、じゃあ、何かあったって事なのかな。わざわざ栞達を待っててくれたって事は」
大吾は、気だるそうに息を吐いた。
「……まあ、来りゃすぐ分かる。清サンの部屋だ。みんないるから」
「お邪魔してます」
鞄を自分の部屋へ置く暇すらなく清さんの部屋へ上がり込んでみると、ツインテールの女の子がにっこりと首を傾けた。もちろん、清さんと成美さんとジョンとナタリーさんとフライデーさん――相変らず多いな――も、テーブルを囲むようにして勢揃い。清さんが何やらスケッチブックに絵を書いてるようですが、それはまあ。
「ああ、今日は、庄子ちゃん」
庄子ちゃん。本名、怒橋庄子。怒橋大吾の妹にして、幽霊の声が聞こえる中学三年生。仏頂面である事が多い兄には似ても似つかず、面識が数回しかない僕に対してすら、溢れる愛嬌を絶やさない女の子だ。
「栞さんも一緒だよね?」
「一緒だよー」
姿が見えない事なんかまるで構わないように……と言うか、実際構っていないんだろう。自分の兄を含めた幽霊さん達に対しまるで気後れのないその振舞い、そして本人の人柄からか、庄子ちゃんが訪ねてくると場の雰囲気が普段より更に明るくなる。――まあ、ただただ純粋に、良い子だなと。他意も裏も照れもなく。
「えっと、ナタリーの紹介は済んだのかな。会うの、初めてだよね?」
大吾の傍で丸くなっているジョンのそのまた傍で、ジョンより更に丸くなっているナタリーさん。そちらへちらりと目を遣り、空いている場所に座り込みながら、栞さんが問う。
「あ、うん。蛇なんだよね? 今、清さんに絵を書いてもらってるところなんだけど……」
「もう少しお待ちを。んっふっふ」
清さんが庄子ちゃんにいつもの笑みを向け(当然見えてはいないけど)、次いで被写体のナタリーさんに目を向ける。すると普段、動きの少ないナタリーさんが、くねりと身をよじらせた。
「その、な、なんだか緊張しますね。姿を写されるというのは」
その動きが何だか色っぽく感じられてしまったのは、人として間違っていたりするんだろうか。
いや、でも、違う生き物とは言え相手は女性。間違ってはいないはず。……と自分に言い聞かせつつ、
「そう言えば庄子ちゃん、前に来たのも金曜日だったよね? 都合が良かったりとか?」
質問。気を紛らわせるためでもあり、ごく普通に疑問に思った事でもある。
「そのおかげで二週連続、私がお出迎えできたんだよね。もしかして、私が目当てだったりとか?」
ジョンのほうから声が、と思ったら、そのジョンの体毛を掻き分けるようにしてぷかりと浮かび上がってくる金曜日担当のフライデーさん。ノミじゃないんですから。見た目は似てなくもないですけど。
「うーん……いや、そういう気分になりやすいってだけですね。一週間の学校が終わって、明日から休みで」
とまで言ったところ、成美さん(庄子ちゃんが来ているからだろう、猫耳を出して実体化かつ大人化している)が何かを考えるように顎に手を当てたけど、庄子ちゃんは気付かない。
「そうやって気が抜けたところで『ああそうだ寄ってみよう』――みたいな」
「ありゃ。おじさん、そりゃちょっとがっかりだよ」
「あはは、ごめんなさい」
「まあ金曜日に来てくれるという結果としては同じだし、それに、いつ来ても大歓迎なのはもちろんだけどね」
「ありがとーございます」
目の前のテーブルに額が触れるくらいに深くかつ、うやうやしく頭を下げる庄子ちゃん。
そして下がった頭が元の位置へ戻る頃、フライデーさんは、その上空へと移動していた。
「お?」
たとえ見えなくても、触れればもちろん感触はある。セミの抜け殻さんが頭に着陸したその感触に庄子ちゃんが小さく声を上げ、頭から伸びた二本の尻尾を小さく揺らした。すると、
「せっかくだから、ここに居座らせてもらうよ。了解さえしていただけるならね」
「そんな所で良ければ、いくらでもどうぞ」
「では喜んで。……胸は先週、怒られちゃったからね」
そんな事もありましたっけね。なんて記憶を辿っていたところ、「おい怒橋、ちょっと」「何だよ?」との声が。見れば、成美さんが大吾に何やら耳打ちをしていた。成美さんだけが見える庄子ちゃんからだと変な絵なんだろうなあ、なんて思っていると、話を聞き終わった大吾が立ち上がり、こちらへ歩いてきた。
「ちょっと来い」
その時僕と栞さんは並んで座っていたので、どちらが呼ばれているのかはっきりせず、顔を見合わせる。
「どっちもだよ」
……だそうで。
「成美さん、兄ちゃんに何て言ったの?」「まあ、気にするな」なんて会話を背に、僕と栞さんは大吾に連れられ居間を出る。
着いた先は――と言うほどの移動でもなく、居間を出てすぐの場所、つまり台所。二つの部屋を区切るふすまを閉め、声を落として大吾は言う。
「出迎えの時に言い忘れてたけど、明日明後日の話、庄子の前ですんなよ」
「明日明後日……って言うと、お泊まりの?」
栞さんの言葉に、大吾は頷く。
「連れてくわけにゃ行かねえからな。アイツもそんくらい分かるだろうけど、話聞いたら自分も行きたいとは思うだろうし」
「そっか。うん、分かった。……優しいね、さすがお兄ちゃん」
「アホ。成美が先に言い出したんだよ」
「『先に』って事は、自分が後だっただけだよね?」
「うっせえ」
にこにこと攻め立てる栞さんから逃げるようにして、大吾は居間へ戻る。栞さんは一度僕に笑い掛けてから、その後ろに続いた。
やれやれ、なんとも良い兄妹だことで。
この人が今日たまたま部屋にいたのも、明日の予定があるからなんだろう。
「……ふう、完成ですね。急いだのでやや粗いような気もしますが、どうでしょう?」
鉛筆のみで描かれた、ナタリーさんのスケッチ。一体どこが粗いんだと尋ねてみたくなるような出来のそれが、スケッチブックからピリピリ切り離されると、受け取る庄子ちゃんは目を輝かせた。
「大満足です! 本物のナタリーさんを見た事なくても、そっくりだって分かります!」
普通に考えたら在り得なさそうな発言にも、「そりゃそうだ」と思ってしまう。なんせ、遠目に見たらモノクロの写真かと思えるくらいに写実的かつ美麗な絵だ。これにモデルがいると言うなら、似てないほうがおかしい。月を眺めてスッポンを描く絵描きがいるなら、見てみたいものだ。
「あの、じゃあ、もう動いても大丈夫ですか?」
「ええ。お疲れ様でした、ナタリー」
「ありがとう、ナタリーさん」
労いとお礼を受けたナタリーさんは、するすると移動を始める。到着点は、庄子ちゃんの膝の上。
「ひゃわわあっ」
突然蛇に這われるというのはどんな感覚なのか、背筋をびんっと張り、首を上に向けながら、その喉から震える声を。
急に頭の、つまり足場の角度が変わったフライデーさんが「落ちる落ちる!」なんて慌ててたりしますが、あなた、宙に浮けるじゃないですか。
「あ、ごめんなさい。くすぐったかったですか?」
「は、はひ。ちょっと」
庄子ちゃん、天井を見上げながら目をぱちぱち。よっぽどな感触だったらしい。よっぽど「どうだったのか」までは分からないけど、少なくとも「ちょっと」ではないだろう。
ところでナタリーさん、庄子ちゃんの膝に上がったのは清さんが描いた自分の絵を見たかったためらしく、それを覗き込んで「わわ、本当にそっくりですね」と感嘆を漏らす。
「生まれて初めて鏡を見た時も驚きましたけど、人間が手で写したものでもここまでそっくりだなんて……。さすがは、手先の器用さに特化した動物ですよね」
などという感激に近いような感想もしくは分析に対し、その頭上から気を落ち着けた庄子ちゃんが苦笑を浮かべて言葉を挟む。
「あの、それ、思いっきり描く人の能力によると思いますよ」
「あ、そうなんですか? ――という事は、人間全体じゃなくて清さんが凄いって事ですね?」
「いやあ、お恥ずかしい」
凄い人本人は恐縮そうにしてますが、その通り。器用な手先を持っていても、大抵の場合においてそれを使いこなせないのが人間なのです。……そんな大層な話をする場でもないんですけどね、そりゃ。
なんて言ってる間にナタリーさん、体の向きを百八十度捻って庄子ちゃんと向き合う。
「ところであの、清さんの絵の通りに私は蛇なわけですけど、怖くないんですか? くすぐったくはあったみたいですけど」
そう訊かれた本人は「くすぐ……? うーん」と首を傾げ、しかし間を置かずに「まあいいか」とすっぱり切り捨てる。どうやらくすぐったいのとはちょっとニュアンスが違うらしいけど、まあいいか。
「まあ、声だけ聞いて次に絵を見て、でしたから。しかも何て言うか……声聞いたら、『もしかして同年代くらいなんじゃないかな』って事ばっかり気になっちゃって」
「ああ、そう言えばどうなんでしょうね? 人間に直すとどのくらいなんでしょう、私」
確かにナタリーさん、声色から判断する限りは庄子ちゃんと同年代くらいに思える。しかし声質なんてのは個人差があるものだし、それ以前に声から読み取る年齢が判断材料になり得るのかと言われたら――
「な、何故一斉にわたしを見るのだ? お前達」
本人が年寄りだと申告しているのに、実際はこんな若々しい(大吾と同じくらい、と表現するべきなんだろう)方もいる事だし。しかも頭の猫耳を引っ込めたらこれ以上(こちらはどう見ても小学生低学年)になるし。
お昼寝中のジョン以外、部屋内全ての視線を集めた成美さんへ、その隣の大吾が告げる。
「そりゃオマエ、分かりやすい実例だしな。つっても、分からねえってのが分かる実例だけど」
「……ふん、別に文句はないさ」
含むところはありそうながらも、成美さんとしてはそういう事らしい。
「んっふっふ」
「笑うな楽」
「そのおかげで大吾君と並んでも――」
「言うなフライデー!」
「いや、だからオレは気にしねえって――」
「黙れ馬鹿者!」
部屋が、しん、となる。喋る人喋る人の口を全部塞がせたんだから、そりゃまあそうなって当然だろう。そしてその塞がせた人へ視線が集まるのも、また当然。
「……いや、すまん。言い過ぎたな」
その視線全部が自分を責めるものに見えた、とでも言うように、成美さんはしゅんとしながら、さっきのよりも随分と小さい声でそう詫びる。と言ってももちろん、こちらからすれば見慣れた光景。本当に責めている人は一人としていないんだろう。馬鹿者呼ばわりされた大吾は――まあ、それだっていつもの事だしね。
「それで、ナタリーが幾つくらいなのかって話は?」
くすっと笑みを溢してから、栞さんが話題修正。
その微笑みに気付いた成美さんが「むう」と恥ずかしそうに俯いたりしたものの、それを知ってか知らずか、「あ、そうだったそうだった」と庄子ちゃんは栞さんの方を向く。
「うーん、何かいい判断基準はないかなあ?」
「私は、それほど気にする事でもないと思いますがねえ。どちらも若い女の子という事で」
話が戻った途端に腕を組んでしまう庄子ちゃんへ、清さんが顎を触りながら、そのように意見する。「年寄りだ」と申告しつつも、人間としては若々しい成美さんを見るに、それもまた納得に足る結論なのだろう。
しかしその時、ナタリーさんが呟く。いつものように不動のまま。
「女の子……」
小さい声とは言え、部屋内には充分伝わるその呟き。みんな揃ってそちらへ視線を集めると、「そうだ、まずは大人か子どもか、ですよ」とナタリーさん。なるほど、まずは大まかな区分からという事ですね。
でも、ちょっと待った。
「人間以外の動物でも決まりがあったりするんですか? 何歳以上からが大人だとかいうのって」
「人間、っつーか日本の法律だと、二十歳からって事になってっけど……国によってもバラバラだしなあ? アテになんのか? そんなもん」
僕が言い、大吾が続く。そう、同じ人間の中でも「どこまでが子どもでどこからが大人だ」なんてのは差があるわけで、ましてや違う動物と比べるとなると、それはあまり信頼できる基準ではなさそうな気が。
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