すいませんけどそろそろ時間が、というちょっとだけ言い難い言葉を言い難いが故に特定の誰かへ向けてではなく誰にともない感じで呟き、すると栞さんが「あ、うん」と返事をし、ならばそこからは僕の言葉に従った流れに。
「それじゃあ、お邪魔しました。みんなを呼んだ自分が真っ先に帰っちゃうっていうのも変なんだけど」
「お邪魔しました」
このまま直接大学へ向うというわけではありませんが、そういうわけで僕と栞さんの二人は退室することに。僕と栞さんが出た以上は大吾と成美さんもこの部屋にいる必要はなくなったのですが、しかし暫くここに残るつもりのようでした。残る必要がないとは言っても、それと同じく出る必要だってないわけですしね。
「楽さんが帰ってきたら伝えておきますわ、『喜坂さんと日向さんから話がある』って。自分でお伝えしたいでしょう? やっぱり」
「あはは、そうだね。ありがとうマンデー、お願いするよ」
僕達と清さんのどちらが先に帰ってくるかといえば僕達なのでしょうが、しかし弱いとはいえ雨が降っているので、もしかしたらということもあるでしょう。
というわけで、「もしかしたら僕達より清さんが先に帰ってくるかもしれない」といった楽しみを新たに持ちつつ、いったん204号室へ。大学へ行く準備というのはそこまで時間が掛かるものではないのですが、しかし、朝食がまだなのです。
続けて102号室に行くことになるなら101号室へ行く前に済ませておけばよかった、とまで思うわけではないんですけど……しかし料理に取れる時間がもうそれほどないので、食パンを焼く程度になるかもしれません。
『いただきます』
「すいません、手抜きっぽくて」
「食べさせてもらってる側なんだし、そこに文句なんか言わないよ。時間だってそんなにないんだし――それに、今日は私、朝からすっごく気分がいいし」
「よかったですね、喜んでもらえて」
「うん。……でも私がそういう話をすると、気分を良くするためにみんなを呼んだ、みたいに聞こえちゃうけどね」
「僕としては正直、そういうのもなくはなかったですけどね」
「私もまあ、そうなんだけどね。でも口にはしにくいかな、やっぱり」
「あと栞さん、細かいことですけど」
「ん?」
「私が、じゃなくて私達が、ですよ。今朝のことについては」
「あっ。――うん、分かった。そうだよね、そうなるよね」
「もちろんメインがどっちだって話になったら、僕よりは栞さんなんですけどね」
「でもそれだって、言ってみればこうくんのおかげなんだけどね」
「だとしたら、尚更いい気分です」
「うん」
『ごちそうさまでした』
単なる手抜きで朝食が食パン一枚ということもあるにはあるのですが、今回そうなったのは時間の都合。というわけで食事だけでなく、その後の行動もそれなりにてきぱきと。
「じゃ、行きましょうか」
「うん」
弱々しいながらまだ雨は降り続けていましたが、まあ外に出るのが躊躇われるほどではありません。なんせ今日は既に外へ出たりしていたわけですし。
自分の分とは別に栞さんへ傘を渡し、さあ三日ぶりに大学へ出発です。
「相合傘でもよかったんだけどね、このくらいの雨だったら」
「ああ、まあその、考えなくはなかったんですけどね」
相合傘。つまり、一つの傘に二人で入るというアレです。一人用の傘に二人で入るわけですから、雨が強かったり風が吹いていたりすると簡単に濡れてしまうわけですが、今日は雨の強さも風もないので、やろうと思えば問題なくできてしまうでしょう。
ではなぜ、考えすらしておいてそれを提案しなかったのかと言いますと、恥ずかしかったからです。実に単純ですね。
「まあでもあれだよ、あんまりベッタリしないようにってね」
なるほど、その逃げ道がありましたか。
などと思いながら、階段を下りはじめたところ。
「あはは、でもそれも、言えた立場じゃないかな。二日続けてお泊まりさせてもらっちゃったりとかさ」
言われた途端、足を滑らせそうになってしまいました。階段ゆえに滑っていたら大変ではありましたが、まあそれはともかく、どうやら雨で床が濡れていたようです。きっとそうです。
「そういうこともありますよ。なにも、理由もなくそうなったってわけじゃないんですし」
「こ、転びそうになったことはいいの? 危なかったよね? 今」
「いいんです」
格好悪いじゃないですか動揺したなんて。
僕がそう断言してしまうと栞さんとしては何も言えないのでしょう。気にはなっているのでしょうが、転びそうになったことについてはここまで。階段を降り切ったところで傘を開きつつ、会話は続行されます。
「理由かあ。でも、うーん」
「どうかしましたか?」
「『あんまりベッタリしないようにしよう』に反するみたいだけどさ、特に理由もなくそうなったって、それは別におかしなことじゃないよね? そういう関係なんだし」
「それはまあ、そうですね。理由になるようなことが頻繁に起こり過ぎるからそうなってるようなもので」
例えば一般的なカップルを取り上げてみるとして、僕達のように毎日毎日、それなりに真剣になるような話題が浮かんでくるようなものでしょうか? ただなんとなくぼけーっと一緒にいるだけ、みたいな日はそこそこになるんじゃないでしょうか?
もちろん僕からすればそれは想像でしかないんですけど、しかし「彼女が幽霊である」ということが特別であると自覚はしている身なわけです。ならばそれに関する話題が無くなった場合、取って代わるような話題がそうぽこぽこ出てくるものかなあ、と。
「一月でこうなったのが早いっていうのは、そういうことなのかもね」
栞さんは、僕とはまた別の考えを持ったようでした。
「別にしょっちゅうじゃなくてもいいような話を、殆ど毎日してたからさ。だから私、たった一月で……」
僕と付き合い始めてから一月で、年を取るようになった栞さん。そしてその一月という期間は、家守さんをして「短い」と言わしめたものでした。同時に、それについては良いことでも悪いことでもないと。
「無理させちゃったってことだよね。普通の場合と比べたら」
それが全てではないのでしょうが、毎日の話し合いは確かに、こうなった要因の一つではあるのでしょう。そして、要因全体の大部分を占めてもいるのでしょう。無理をしたのかしていないのか。無論、努力はしました。何の気なしにこれまでのことを行っていたなんて、想像すらできません。できませんけど、
「無理ってほどのことじゃないですよ」
栞さんのためなら無理の一つや二つ。そんなふうに考えていたのは確かですが、しかし結局のところ、無理などなかったのです。栞さんに怒鳴り散らしていた時でさえ、栞さんに怒鳴り散らされていた時でさえ、「無理かもしれない」なんてことは毛ほども思ったことがないのですから。
「ふふ、そう言われるだろうとは思ってたけどね。普通の場合と比べた時の話だよ、あくまでも」
「でもその結果は良いとも悪いとも言えない、なんですけどね」
卑屈な物言いではありますが、しかしもちろんそれは冗談で、ならば口調も冗談らしいものに。というわけで、それに対する栞さんの表情にも陰りはありませんでした。
「私は嬉しいよ、それでも」
僕は笑い返すだけでしたが、しかし言葉にはせずとも「だったらそれで充分だ」と。良いとも悪いともいえない結果に結び付いたとしても、栞さんに喜んでもらえたなら。
さて、そんなことを話している間に大学までの道のりは三分の一ほど進み終えてしまいました。残り三分も掛からない程度だったら、ただ黙って歩くというのも良かったのでしょうが――。
「これから先が大事で、これから先が大変、だったよね」
それは少し前、高次さんから言われた言葉でした。確認のように、呟くようにそう言うと、栞さんは手を繋いできました。僕と栞さんの距離が少しだけ縮まり、傘と傘がぶつかって、しかしそれでも躊躇うことなく。
「何があるかは分からないけど……」
「頼ってくださいね」
繋がれた手を持ち上げて見せ付けるようにしながら、栞さんの言葉へ被せるように言いました。
大事で、大変で、しかもそれがどんな問題かは分からないのですが、それでも僕がすることはそれだけなのです。
「うん」
にこりと微笑んだ栞さん。この天気のせいか「虹でも掛かりそうなくらい明るいなあ」なんて思ってしまったのは、まあいいとして――その後、「こうくんも頼ってね、私のこと」と付け加えてきました。
返事は、言うまでもないでしょう。これまで通りなんですから。
月曜日の一、二限は、栞さんと一緒に受けられる教室での講義です。しかし「あんまりベッタリしないようにしよう」という約束の下に敢えてそうしないことも多く、特に今回は二日続けて僕の部屋に泊まったからというのもあるのでしょう、栞さん、何を言うでもなく自然と僕と別行動を取ったのでした。
しかし無論、それについてああだこうだ思ったりするわけではありません。ならばさあさあ、今日も今日とて学生の本分を全う致しましょう。
チャイムが鳴って、つまりは講義開始から九十分後。先生が「ここまで」と言った瞬間に席を立ち上がる人が散見される中、僕はと言いますと。
……眠い。明くんじゃなくて僕が。まあそもそも、月曜日は明くんと会う機会がないわけですが。
それでもなんとか眠りに落ちることなく九十分を耐えきった自分を褒めつつ、しかし十分の休憩を挟んで再びやってくる次の九十分はもう無理だろうな、とも。ただでさえ筆記量が少なくて暇が多い講義だというのに。
このまま立ち上がることなく机に突っ伏してしまいそうなのを何とか堪え、ずるずると二限の教室への移動を開始した僕は、ふらふらの頭で考え事をすることにしました。そうでもしないと意識が途切れてしまいそうだったのです。歩きながらでも。
まず頭に浮かんだのは明くん。どうしてかと言われたら、自分がこんな状態だからなのでしょう。講義の度にこうなるというのは、ちょっと僕には大き過ぎる負担かもしれません。なんとか目が覚める方法が見付かるといいね、明くん。
さて次に考えたのは、栞さん。こちらはどうしてかと言いますと――いや、どうもしないまま考えたって別にいいんでしょうけど、次の講義、できれば一緒にいてもらえないかなあと。それは何もイチャイチャしたいとかそういう意味での話ではなく、傍に誰かいれば少しは目が覚めるんじゃないだろうかと思ったからです。
……ああ、教室遠いなあもう。
さて、栞さんのことが頭に浮かんだところで連鎖的に思い至るのは、やはり今朝の話。まあこんなぼけた頭であれこれと考えても仕方がないっていうか、それ以前に情報を処理しきれないというか。そんな状態なので小難しい話は置いときまして、清さん、昼に帰った時に帰ってきてくれてたらいいなあ、と。でも放課後ならともかくそれはさすがにないだろうなあ、とも。
――思い付いたことがあります。どうして清さんに会いたいと思っているかといえば、それは「年を取る幽霊の先人」だからです。ですがしかし、そういう先人は一人だけではありません。今朝にも清さんと並べてその顔を思い浮かべたのですが、この大学内における先輩であるところの深道さん、その彼女である霧原さんが、同じく年を取る幽霊なのです。
ならば清さんと同じく会いたいなあとも思うわけですが、しかしそれほど面識は多くなく、更には会うとしても連絡を取れるのは明くん。先程にも思い浮かべた通り、明くんとは月曜日に会う機会がないのです。その明くんと連絡を取ることは可能ですが……はて、連絡を取ってもらうために連絡を取るというのは、何とも回りくどい。眠気と合わせて異常とも言える倦怠感にも苛まれている僕には、結構な重労働に思えて仕方がありません。どうしましょうか。
……ああ、ようやく教室だ。休み時間の残り時間、少しだけなら眠れる……。
起きたら全部終わってました。何がって、二限の講義がです。
「おはよう」
「おはようございます」
講義が終わったことを悟れる程度には現状が把握できているわけで、ならば隣に栞さんが座っていたことにも、もちろん気付きました。
目覚めの挨拶だけはしゃっきりとしたものです。なんせ、バッチリ睡眠がとれた以上はもう眠気も消え失せてますし。……情けないことには変わりありませんが。
「これ」
栞さん、何かをそっと差し出してきました。
「ノート? ってそれ、僕の」
「写しといたよ、全部」
えーと、つまりえーと、どういうことになるのかといいますと、
「……ありがとうございます」
「うん。まあ、書く量が少なくて楽だったけどね。色ペンの使い分けとか、そこまではちょっと分からなかったけど。それにもしかしたらそのノート、別の講義に使ってるものかもしれないけど」
いやそんな恐れ多い。
一瞬、栞さんがノートをとっているところを他の人に見られていたらと背筋がひやりとしましたが、しかしそもそもノートもペンも、栞さんが触れている間は他の人から見えなかったことでしょう。見えていたらこんなに平和に講義が終了しているわけがありませんし。
それにしたってあの眠気の中、一番隅っこの席に座ったのはファインプレーだったかもしれませんけどね。ど真ん中の席だったら、こうして栞さんと会話をすること自体躊躇われますし。まあ今だって小声ではあるんですけど。
「ノートもこれで合ってますし、助かりました。でも栞さん、なんでこの教室に?」
「んー、特に理由はないかな。来たかったから来ただけだよ」
「そうですか」
それはそれでありだ、というのは登校中に話したばかりです。ならば、それはそれで。
「……栞さん、字、綺麗ですね」
何も書き取ってもらったことを疑うわけではありませんが、しかし確かめもしないでノートを仕舞うというのも、それはそれで失礼なのではないかと。そういうわけで栞さんに写してもらった分を眺めてみたのですが、出てきたのはそんな感想でした。何も栞さんの字を今この場で初めて見たというわけではありませんが、しかしこれだけの量となるとどうも。
「意外?」
「ああいえ、そういうわけじゃないですけど」
そういうわけではないですけど、そういうことを尋ねる背景は分かるような気がします。なんせ栞さん、字を書く機会は人よりずっと少なかったでしょうから。
考え過ぎかもしれませんけどね。
「じゃあ、帰ろっか」
「ですね」
三限がなくて、四限がある。月曜日の時間割はそんな感じなので、昼休みの間だけと言わず家で長々とゆっくりできるのです。なので、一、二、三と連続であるよりは幾分か気が楽だったりも。
まあ、人によってはそっちのほうがよかったりするのかもしれませんけどね。僕がこんなことを言ってられるのは、一度帰れるほど家が近いからということもあってのことでしょうし。
やっぱりまだ降り続けている弱々しい雨の中、短い帰路を経てあまくに荘に到着。まず確認すべきは清さんが帰ってきているか否かですが、102号室へ立ち寄ってみたところ、そうではないようでした。少々残念ですが、しかし予想はしていたことです。
ではさて、お昼時。これから栞さんは庭掃除を始め、一方で僕は昼食を作ることになります。雨が降っているのに庭掃除をするということには、わざわざ突っ込みを入れる必要もないでしょう。栞さんですし、更にはこれだけ弱い雨ならば。
というわけでそれはともかく、栞さんは今回、昼食を遠慮するそうです。ならば僕が作る料理は一人前だけですし、食べる時も一人だけということになるのですが、恐らくそれは二日続けてここに泊まったことへの埋め合わせなのでしょう。特に理由もなく一緒にいることが「それはそれであり」ならば、こちらもまた「それはそれであり」なのです。栞さんと一緒に食事をしたいとも、掃除をしている栞さんの傍にいたいとも、そりゃあ思わないわけではないですけどね。
さあ、料理を始めましょう。それが終わったら……ああそうそう、それが終わったら栞さんに取ってもらったノートを見返しておかないと。
自分の手だけで作った味噌汁はやっぱり栞さんが作ったものには届かないなあ。いや、もちろん真似をしようと思えばできないことはないんだけど。
というようなことを考えつつ、食事が終了。さあさあ今度はお勉強です。とは言ってももともと筆記量が少ない講義ですから、見直すだけならそこまで時間は掛からないでしょうけどね。
…………。
……。
そこにあるのが頼みもしなかったのに写してもらった栞さんの字だというだけで勉強に身が入っている僕は、恐らく気持ち悪いんでしょう。でもいいじゃないですか、他の誰かどころか栞さんすらこの場にはいないんですから。
さて、もともと時間の掛かりそうにない勉強を、そのうえ身を入れて行ったということで、勉強時間は十分にもなりませんでした。これを覚えるために九十分の講義を受けなければならないというのは――いや、さすがにちゃんと講義を受けたほうが効果はあるんでしょうし、勉強内容もこれよりは多くなるんでしょうけどね。
あまり気にしないことにして、さあ今度はどうしましょうか。大吾の仕事であるいつもの散歩は、月曜日はジョンとマンデーさんが二人だけで出掛けることになってますし、そもそも雨が降ってるからにはそれすら中止でしょう。
となればこれはもう、完璧に暇な時間が訪れた、ということになりましょう。ならばさあさあ、いよいよもってどうしましょうか。買い物……は、今のところそうする必要はなさそうですし、それを気にせず暇にかまけて行ってしまうというのも、雨が降っている中というのは暇にかまけ過ぎですし。
ならばこの部屋の中でできることで何か、ということになりますが、生憎とそういった設備が不足しているのがこの部屋です。テレビを点けるか昼寝をするか、くらいしか選択肢が浮かびません。
――あ、そうだ。
と思い付いた時には既に枕を引っ張り出して床に寝転んでいましたが、まあともかく思い付きました。目が覚めたら講義が終わっていてしかも栞さんが隣にいたという驚きですっかり忘れていましたが、明くんです。明くんに連絡をしようかどうかと、眠りに落ちる直前だった僕は考えていたのです。
あの時は眠気と倦怠感に頭をやられて決断ができませんでしたが、今は違います。昼寝をする直前でしたが眠気があるわけではありません。栞さんはまだだろうか。いやそれは今いいとして。
大学にいるとしても今はまだ昼休みの時間ですし、ならば躊躇うことはないでしょう。明くんに電話です。深道さんと霧原さんに会えないだろうか、という用件で。
では早速。
『あいよ。電話って珍しいな。ていうかもしかして初めてだっけか?』
「かもねえ。それで明くん、今大学?」
『ああ、飯食ったとこ。そっちは?』
「こっちもご飯食べたところ。とは言っても大学じゃなくて、家にいるんだけど……ええと、明くん、ちょっと頼みたいことがあるんだけど」
『頼む? って、何をだよ?』
「前にほら、ちょっとだけ会ったことがある――深道さんと霧原さん、に、会いたいんだけど……」
『深道先輩と霧原先輩? 別に問題ないだろうけど、なんでまた』
「いや、特別に用事があるってわけじゃないんだけどね? ただちょっと、話をしたいことがあって」
『話なあ。もしかしてあれか、喜坂さんに関係するようなことか』
「――よく分かったね」
『ん? いやむしろそれ以外にないだろ。世間話とかならともかく、こんなふうに畏まって話すようなことなんて』
「ああ、ま、まあそうなるのかな。……申し訳ないです、面識も多くないのにこんな話ばっかりで」
『いやー、特に問題にゃならんと思うぞ。少なくとも深道先輩のほうは、むしろお前とそんな話ししたのを喜んでたし』
「そうなの?」
『言っちゃ悪いが――はは、普段霧原先輩の尻に敷かれっぱなしだからなあ。その分ってことなんじゃないか? 後輩の面倒見がいいってのは』
「あ、そういう人なんだ。確かに面倒は見てもらったけど」
『おう。霧原さんのほうも大丈夫だろ、キツいのは深道先輩にだけだし』
「うん、そっちのほうは既に把握してる」
『まあそうだろうな。そこばっかり目立っちゃって可哀想にな、深道先輩』
「その返し自体が可哀想だよ」
『まあともかく、お前が会いたがってるってのは伝えとくよ。時間とか決まったらまた連絡する。そっちは確か、あと四限だけなんだよな?』
「うん。ありがとう明くん、宜しくお願いします」
『んでさ、孝一』
「ん?」
おや、ここで一旦通話は切れるかなと思ったのですが。
『先輩達としたい話ってのは、何なんだ?』
「えっと……」
『ああ、言い難いようなことだったら別にいいけど』
「いやいや、そういうわけじゃないんだけどね? どこから説明したもんかなあと」
霧原さんが年を取る幽霊であり、しかもそのことで家守さんに相談を持ち掛けに来たこともある以上、当然深道さんと霧原さんは何がどうなってそうなったかを知っています。しかし明くんはそうではなく、何がどうなって年を取り始めたか以前に、年を取る幽霊というものが存在すること自体をもしかしたら知らないかもしれません。更に言えば、通常なら幽霊は年を取らないということすら、ということも充分に在り得ます。
そしてもう一つ。言い難い話だというわけではないと今言ったばかりですが、しかしそれは僕がそう思っているだけの話であって、深道さんと霧原さんがどう思っているかまでは当たり前ながら分かりません。栞さんが年を取り始めたということだけを伝えたとしても、それについての相談を深道さんと霧原さんに持ち掛けようとしているわけですから、それを聞いたら普通は「じゃあ霧原さんもそうなんだろうか」と考えるでしょう。
自分が特に問題だと思わないとしても、さすがにそれはちょっと。
「さ」
『さ?』
けれども「話せないようなことじゃない」と言ってしまった手前どうしたもんかと追い詰められた僕は、こんな問い掛けを。
「最近、何か言ってたりした? 深道さん、霧原さんの――例えば、髪のことでとか」
微妙に、というかかなり不自然な気もしますが、まあ仕方ありますまい。
『髪? 伸びたってことか? それとも、伸び始めたからって切ろうとしたら切り過ぎたことか?』
あれ。……あれ?
「――ああ、そういえば明くんも一緒だったんだっけ。あの話をした時」
『そうだけど、何なんだよ?』
すっかり忘れてました。もともと長髪だった霧原さんが「髪が伸び始めたから」と自分で髪を切り、それで失敗して想定以上に短くなってしまったという話を聞いた時、僕は明くんと一緒だったのです。ならばもちろん、明くんは霧原さんの髪が伸び始めたということを知っているわけで。
「ああいや、その――ごめん、忘れて貰えると助かる」
『気苦労しそうなタイプだな、お前』
というのは明くん、僕の考えを幾らかは察しているんでしょうか。多分、そうなんでしょうね。
「自覚はまあ、なくもないかな」
『ないよりゃマシだな』
「だといいんだけどねえ」
すると明くん、割と大きな声で笑いました。ううむ、何を思われたのやら。
「それじゃあ、お邪魔しました。みんなを呼んだ自分が真っ先に帰っちゃうっていうのも変なんだけど」
「お邪魔しました」
このまま直接大学へ向うというわけではありませんが、そういうわけで僕と栞さんの二人は退室することに。僕と栞さんが出た以上は大吾と成美さんもこの部屋にいる必要はなくなったのですが、しかし暫くここに残るつもりのようでした。残る必要がないとは言っても、それと同じく出る必要だってないわけですしね。
「楽さんが帰ってきたら伝えておきますわ、『喜坂さんと日向さんから話がある』って。自分でお伝えしたいでしょう? やっぱり」
「あはは、そうだね。ありがとうマンデー、お願いするよ」
僕達と清さんのどちらが先に帰ってくるかといえば僕達なのでしょうが、しかし弱いとはいえ雨が降っているので、もしかしたらということもあるでしょう。
というわけで、「もしかしたら僕達より清さんが先に帰ってくるかもしれない」といった楽しみを新たに持ちつつ、いったん204号室へ。大学へ行く準備というのはそこまで時間が掛かるものではないのですが、しかし、朝食がまだなのです。
続けて102号室に行くことになるなら101号室へ行く前に済ませておけばよかった、とまで思うわけではないんですけど……しかし料理に取れる時間がもうそれほどないので、食パンを焼く程度になるかもしれません。
『いただきます』
「すいません、手抜きっぽくて」
「食べさせてもらってる側なんだし、そこに文句なんか言わないよ。時間だってそんなにないんだし――それに、今日は私、朝からすっごく気分がいいし」
「よかったですね、喜んでもらえて」
「うん。……でも私がそういう話をすると、気分を良くするためにみんなを呼んだ、みたいに聞こえちゃうけどね」
「僕としては正直、そういうのもなくはなかったですけどね」
「私もまあ、そうなんだけどね。でも口にはしにくいかな、やっぱり」
「あと栞さん、細かいことですけど」
「ん?」
「私が、じゃなくて私達が、ですよ。今朝のことについては」
「あっ。――うん、分かった。そうだよね、そうなるよね」
「もちろんメインがどっちだって話になったら、僕よりは栞さんなんですけどね」
「でもそれだって、言ってみればこうくんのおかげなんだけどね」
「だとしたら、尚更いい気分です」
「うん」
『ごちそうさまでした』
単なる手抜きで朝食が食パン一枚ということもあるにはあるのですが、今回そうなったのは時間の都合。というわけで食事だけでなく、その後の行動もそれなりにてきぱきと。
「じゃ、行きましょうか」
「うん」
弱々しいながらまだ雨は降り続けていましたが、まあ外に出るのが躊躇われるほどではありません。なんせ今日は既に外へ出たりしていたわけですし。
自分の分とは別に栞さんへ傘を渡し、さあ三日ぶりに大学へ出発です。
「相合傘でもよかったんだけどね、このくらいの雨だったら」
「ああ、まあその、考えなくはなかったんですけどね」
相合傘。つまり、一つの傘に二人で入るというアレです。一人用の傘に二人で入るわけですから、雨が強かったり風が吹いていたりすると簡単に濡れてしまうわけですが、今日は雨の強さも風もないので、やろうと思えば問題なくできてしまうでしょう。
ではなぜ、考えすらしておいてそれを提案しなかったのかと言いますと、恥ずかしかったからです。実に単純ですね。
「まあでもあれだよ、あんまりベッタリしないようにってね」
なるほど、その逃げ道がありましたか。
などと思いながら、階段を下りはじめたところ。
「あはは、でもそれも、言えた立場じゃないかな。二日続けてお泊まりさせてもらっちゃったりとかさ」
言われた途端、足を滑らせそうになってしまいました。階段ゆえに滑っていたら大変ではありましたが、まあそれはともかく、どうやら雨で床が濡れていたようです。きっとそうです。
「そういうこともありますよ。なにも、理由もなくそうなったってわけじゃないんですし」
「こ、転びそうになったことはいいの? 危なかったよね? 今」
「いいんです」
格好悪いじゃないですか動揺したなんて。
僕がそう断言してしまうと栞さんとしては何も言えないのでしょう。気にはなっているのでしょうが、転びそうになったことについてはここまで。階段を降り切ったところで傘を開きつつ、会話は続行されます。
「理由かあ。でも、うーん」
「どうかしましたか?」
「『あんまりベッタリしないようにしよう』に反するみたいだけどさ、特に理由もなくそうなったって、それは別におかしなことじゃないよね? そういう関係なんだし」
「それはまあ、そうですね。理由になるようなことが頻繁に起こり過ぎるからそうなってるようなもので」
例えば一般的なカップルを取り上げてみるとして、僕達のように毎日毎日、それなりに真剣になるような話題が浮かんでくるようなものでしょうか? ただなんとなくぼけーっと一緒にいるだけ、みたいな日はそこそこになるんじゃないでしょうか?
もちろん僕からすればそれは想像でしかないんですけど、しかし「彼女が幽霊である」ということが特別であると自覚はしている身なわけです。ならばそれに関する話題が無くなった場合、取って代わるような話題がそうぽこぽこ出てくるものかなあ、と。
「一月でこうなったのが早いっていうのは、そういうことなのかもね」
栞さんは、僕とはまた別の考えを持ったようでした。
「別にしょっちゅうじゃなくてもいいような話を、殆ど毎日してたからさ。だから私、たった一月で……」
僕と付き合い始めてから一月で、年を取るようになった栞さん。そしてその一月という期間は、家守さんをして「短い」と言わしめたものでした。同時に、それについては良いことでも悪いことでもないと。
「無理させちゃったってことだよね。普通の場合と比べたら」
それが全てではないのでしょうが、毎日の話し合いは確かに、こうなった要因の一つではあるのでしょう。そして、要因全体の大部分を占めてもいるのでしょう。無理をしたのかしていないのか。無論、努力はしました。何の気なしにこれまでのことを行っていたなんて、想像すらできません。できませんけど、
「無理ってほどのことじゃないですよ」
栞さんのためなら無理の一つや二つ。そんなふうに考えていたのは確かですが、しかし結局のところ、無理などなかったのです。栞さんに怒鳴り散らしていた時でさえ、栞さんに怒鳴り散らされていた時でさえ、「無理かもしれない」なんてことは毛ほども思ったことがないのですから。
「ふふ、そう言われるだろうとは思ってたけどね。普通の場合と比べた時の話だよ、あくまでも」
「でもその結果は良いとも悪いとも言えない、なんですけどね」
卑屈な物言いではありますが、しかしもちろんそれは冗談で、ならば口調も冗談らしいものに。というわけで、それに対する栞さんの表情にも陰りはありませんでした。
「私は嬉しいよ、それでも」
僕は笑い返すだけでしたが、しかし言葉にはせずとも「だったらそれで充分だ」と。良いとも悪いともいえない結果に結び付いたとしても、栞さんに喜んでもらえたなら。
さて、そんなことを話している間に大学までの道のりは三分の一ほど進み終えてしまいました。残り三分も掛からない程度だったら、ただ黙って歩くというのも良かったのでしょうが――。
「これから先が大事で、これから先が大変、だったよね」
それは少し前、高次さんから言われた言葉でした。確認のように、呟くようにそう言うと、栞さんは手を繋いできました。僕と栞さんの距離が少しだけ縮まり、傘と傘がぶつかって、しかしそれでも躊躇うことなく。
「何があるかは分からないけど……」
「頼ってくださいね」
繋がれた手を持ち上げて見せ付けるようにしながら、栞さんの言葉へ被せるように言いました。
大事で、大変で、しかもそれがどんな問題かは分からないのですが、それでも僕がすることはそれだけなのです。
「うん」
にこりと微笑んだ栞さん。この天気のせいか「虹でも掛かりそうなくらい明るいなあ」なんて思ってしまったのは、まあいいとして――その後、「こうくんも頼ってね、私のこと」と付け加えてきました。
返事は、言うまでもないでしょう。これまで通りなんですから。
月曜日の一、二限は、栞さんと一緒に受けられる教室での講義です。しかし「あんまりベッタリしないようにしよう」という約束の下に敢えてそうしないことも多く、特に今回は二日続けて僕の部屋に泊まったからというのもあるのでしょう、栞さん、何を言うでもなく自然と僕と別行動を取ったのでした。
しかし無論、それについてああだこうだ思ったりするわけではありません。ならばさあさあ、今日も今日とて学生の本分を全う致しましょう。
チャイムが鳴って、つまりは講義開始から九十分後。先生が「ここまで」と言った瞬間に席を立ち上がる人が散見される中、僕はと言いますと。
……眠い。明くんじゃなくて僕が。まあそもそも、月曜日は明くんと会う機会がないわけですが。
それでもなんとか眠りに落ちることなく九十分を耐えきった自分を褒めつつ、しかし十分の休憩を挟んで再びやってくる次の九十分はもう無理だろうな、とも。ただでさえ筆記量が少なくて暇が多い講義だというのに。
このまま立ち上がることなく机に突っ伏してしまいそうなのを何とか堪え、ずるずると二限の教室への移動を開始した僕は、ふらふらの頭で考え事をすることにしました。そうでもしないと意識が途切れてしまいそうだったのです。歩きながらでも。
まず頭に浮かんだのは明くん。どうしてかと言われたら、自分がこんな状態だからなのでしょう。講義の度にこうなるというのは、ちょっと僕には大き過ぎる負担かもしれません。なんとか目が覚める方法が見付かるといいね、明くん。
さて次に考えたのは、栞さん。こちらはどうしてかと言いますと――いや、どうもしないまま考えたって別にいいんでしょうけど、次の講義、できれば一緒にいてもらえないかなあと。それは何もイチャイチャしたいとかそういう意味での話ではなく、傍に誰かいれば少しは目が覚めるんじゃないだろうかと思ったからです。
……ああ、教室遠いなあもう。
さて、栞さんのことが頭に浮かんだところで連鎖的に思い至るのは、やはり今朝の話。まあこんなぼけた頭であれこれと考えても仕方がないっていうか、それ以前に情報を処理しきれないというか。そんな状態なので小難しい話は置いときまして、清さん、昼に帰った時に帰ってきてくれてたらいいなあ、と。でも放課後ならともかくそれはさすがにないだろうなあ、とも。
――思い付いたことがあります。どうして清さんに会いたいと思っているかといえば、それは「年を取る幽霊の先人」だからです。ですがしかし、そういう先人は一人だけではありません。今朝にも清さんと並べてその顔を思い浮かべたのですが、この大学内における先輩であるところの深道さん、その彼女である霧原さんが、同じく年を取る幽霊なのです。
ならば清さんと同じく会いたいなあとも思うわけですが、しかしそれほど面識は多くなく、更には会うとしても連絡を取れるのは明くん。先程にも思い浮かべた通り、明くんとは月曜日に会う機会がないのです。その明くんと連絡を取ることは可能ですが……はて、連絡を取ってもらうために連絡を取るというのは、何とも回りくどい。眠気と合わせて異常とも言える倦怠感にも苛まれている僕には、結構な重労働に思えて仕方がありません。どうしましょうか。
……ああ、ようやく教室だ。休み時間の残り時間、少しだけなら眠れる……。
起きたら全部終わってました。何がって、二限の講義がです。
「おはよう」
「おはようございます」
講義が終わったことを悟れる程度には現状が把握できているわけで、ならば隣に栞さんが座っていたことにも、もちろん気付きました。
目覚めの挨拶だけはしゃっきりとしたものです。なんせ、バッチリ睡眠がとれた以上はもう眠気も消え失せてますし。……情けないことには変わりありませんが。
「これ」
栞さん、何かをそっと差し出してきました。
「ノート? ってそれ、僕の」
「写しといたよ、全部」
えーと、つまりえーと、どういうことになるのかといいますと、
「……ありがとうございます」
「うん。まあ、書く量が少なくて楽だったけどね。色ペンの使い分けとか、そこまではちょっと分からなかったけど。それにもしかしたらそのノート、別の講義に使ってるものかもしれないけど」
いやそんな恐れ多い。
一瞬、栞さんがノートをとっているところを他の人に見られていたらと背筋がひやりとしましたが、しかしそもそもノートもペンも、栞さんが触れている間は他の人から見えなかったことでしょう。見えていたらこんなに平和に講義が終了しているわけがありませんし。
それにしたってあの眠気の中、一番隅っこの席に座ったのはファインプレーだったかもしれませんけどね。ど真ん中の席だったら、こうして栞さんと会話をすること自体躊躇われますし。まあ今だって小声ではあるんですけど。
「ノートもこれで合ってますし、助かりました。でも栞さん、なんでこの教室に?」
「んー、特に理由はないかな。来たかったから来ただけだよ」
「そうですか」
それはそれでありだ、というのは登校中に話したばかりです。ならば、それはそれで。
「……栞さん、字、綺麗ですね」
何も書き取ってもらったことを疑うわけではありませんが、しかし確かめもしないでノートを仕舞うというのも、それはそれで失礼なのではないかと。そういうわけで栞さんに写してもらった分を眺めてみたのですが、出てきたのはそんな感想でした。何も栞さんの字を今この場で初めて見たというわけではありませんが、しかしこれだけの量となるとどうも。
「意外?」
「ああいえ、そういうわけじゃないですけど」
そういうわけではないですけど、そういうことを尋ねる背景は分かるような気がします。なんせ栞さん、字を書く機会は人よりずっと少なかったでしょうから。
考え過ぎかもしれませんけどね。
「じゃあ、帰ろっか」
「ですね」
三限がなくて、四限がある。月曜日の時間割はそんな感じなので、昼休みの間だけと言わず家で長々とゆっくりできるのです。なので、一、二、三と連続であるよりは幾分か気が楽だったりも。
まあ、人によってはそっちのほうがよかったりするのかもしれませんけどね。僕がこんなことを言ってられるのは、一度帰れるほど家が近いからということもあってのことでしょうし。
やっぱりまだ降り続けている弱々しい雨の中、短い帰路を経てあまくに荘に到着。まず確認すべきは清さんが帰ってきているか否かですが、102号室へ立ち寄ってみたところ、そうではないようでした。少々残念ですが、しかし予想はしていたことです。
ではさて、お昼時。これから栞さんは庭掃除を始め、一方で僕は昼食を作ることになります。雨が降っているのに庭掃除をするということには、わざわざ突っ込みを入れる必要もないでしょう。栞さんですし、更にはこれだけ弱い雨ならば。
というわけでそれはともかく、栞さんは今回、昼食を遠慮するそうです。ならば僕が作る料理は一人前だけですし、食べる時も一人だけということになるのですが、恐らくそれは二日続けてここに泊まったことへの埋め合わせなのでしょう。特に理由もなく一緒にいることが「それはそれであり」ならば、こちらもまた「それはそれであり」なのです。栞さんと一緒に食事をしたいとも、掃除をしている栞さんの傍にいたいとも、そりゃあ思わないわけではないですけどね。
さあ、料理を始めましょう。それが終わったら……ああそうそう、それが終わったら栞さんに取ってもらったノートを見返しておかないと。
自分の手だけで作った味噌汁はやっぱり栞さんが作ったものには届かないなあ。いや、もちろん真似をしようと思えばできないことはないんだけど。
というようなことを考えつつ、食事が終了。さあさあ今度はお勉強です。とは言ってももともと筆記量が少ない講義ですから、見直すだけならそこまで時間は掛からないでしょうけどね。
…………。
……。
そこにあるのが頼みもしなかったのに写してもらった栞さんの字だというだけで勉強に身が入っている僕は、恐らく気持ち悪いんでしょう。でもいいじゃないですか、他の誰かどころか栞さんすらこの場にはいないんですから。
さて、もともと時間の掛かりそうにない勉強を、そのうえ身を入れて行ったということで、勉強時間は十分にもなりませんでした。これを覚えるために九十分の講義を受けなければならないというのは――いや、さすがにちゃんと講義を受けたほうが効果はあるんでしょうし、勉強内容もこれよりは多くなるんでしょうけどね。
あまり気にしないことにして、さあ今度はどうしましょうか。大吾の仕事であるいつもの散歩は、月曜日はジョンとマンデーさんが二人だけで出掛けることになってますし、そもそも雨が降ってるからにはそれすら中止でしょう。
となればこれはもう、完璧に暇な時間が訪れた、ということになりましょう。ならばさあさあ、いよいよもってどうしましょうか。買い物……は、今のところそうする必要はなさそうですし、それを気にせず暇にかまけて行ってしまうというのも、雨が降っている中というのは暇にかまけ過ぎですし。
ならばこの部屋の中でできることで何か、ということになりますが、生憎とそういった設備が不足しているのがこの部屋です。テレビを点けるか昼寝をするか、くらいしか選択肢が浮かびません。
――あ、そうだ。
と思い付いた時には既に枕を引っ張り出して床に寝転んでいましたが、まあともかく思い付きました。目が覚めたら講義が終わっていてしかも栞さんが隣にいたという驚きですっかり忘れていましたが、明くんです。明くんに連絡をしようかどうかと、眠りに落ちる直前だった僕は考えていたのです。
あの時は眠気と倦怠感に頭をやられて決断ができませんでしたが、今は違います。昼寝をする直前でしたが眠気があるわけではありません。栞さんはまだだろうか。いやそれは今いいとして。
大学にいるとしても今はまだ昼休みの時間ですし、ならば躊躇うことはないでしょう。明くんに電話です。深道さんと霧原さんに会えないだろうか、という用件で。
では早速。
『あいよ。電話って珍しいな。ていうかもしかして初めてだっけか?』
「かもねえ。それで明くん、今大学?」
『ああ、飯食ったとこ。そっちは?』
「こっちもご飯食べたところ。とは言っても大学じゃなくて、家にいるんだけど……ええと、明くん、ちょっと頼みたいことがあるんだけど」
『頼む? って、何をだよ?』
「前にほら、ちょっとだけ会ったことがある――深道さんと霧原さん、に、会いたいんだけど……」
『深道先輩と霧原先輩? 別に問題ないだろうけど、なんでまた』
「いや、特別に用事があるってわけじゃないんだけどね? ただちょっと、話をしたいことがあって」
『話なあ。もしかしてあれか、喜坂さんに関係するようなことか』
「――よく分かったね」
『ん? いやむしろそれ以外にないだろ。世間話とかならともかく、こんなふうに畏まって話すようなことなんて』
「ああ、ま、まあそうなるのかな。……申し訳ないです、面識も多くないのにこんな話ばっかりで」
『いやー、特に問題にゃならんと思うぞ。少なくとも深道先輩のほうは、むしろお前とそんな話ししたのを喜んでたし』
「そうなの?」
『言っちゃ悪いが――はは、普段霧原先輩の尻に敷かれっぱなしだからなあ。その分ってことなんじゃないか? 後輩の面倒見がいいってのは』
「あ、そういう人なんだ。確かに面倒は見てもらったけど」
『おう。霧原さんのほうも大丈夫だろ、キツいのは深道先輩にだけだし』
「うん、そっちのほうは既に把握してる」
『まあそうだろうな。そこばっかり目立っちゃって可哀想にな、深道先輩』
「その返し自体が可哀想だよ」
『まあともかく、お前が会いたがってるってのは伝えとくよ。時間とか決まったらまた連絡する。そっちは確か、あと四限だけなんだよな?』
「うん。ありがとう明くん、宜しくお願いします」
『んでさ、孝一』
「ん?」
おや、ここで一旦通話は切れるかなと思ったのですが。
『先輩達としたい話ってのは、何なんだ?』
「えっと……」
『ああ、言い難いようなことだったら別にいいけど』
「いやいや、そういうわけじゃないんだけどね? どこから説明したもんかなあと」
霧原さんが年を取る幽霊であり、しかもそのことで家守さんに相談を持ち掛けに来たこともある以上、当然深道さんと霧原さんは何がどうなってそうなったかを知っています。しかし明くんはそうではなく、何がどうなって年を取り始めたか以前に、年を取る幽霊というものが存在すること自体をもしかしたら知らないかもしれません。更に言えば、通常なら幽霊は年を取らないということすら、ということも充分に在り得ます。
そしてもう一つ。言い難い話だというわけではないと今言ったばかりですが、しかしそれは僕がそう思っているだけの話であって、深道さんと霧原さんがどう思っているかまでは当たり前ながら分かりません。栞さんが年を取り始めたということだけを伝えたとしても、それについての相談を深道さんと霧原さんに持ち掛けようとしているわけですから、それを聞いたら普通は「じゃあ霧原さんもそうなんだろうか」と考えるでしょう。
自分が特に問題だと思わないとしても、さすがにそれはちょっと。
「さ」
『さ?』
けれども「話せないようなことじゃない」と言ってしまった手前どうしたもんかと追い詰められた僕は、こんな問い掛けを。
「最近、何か言ってたりした? 深道さん、霧原さんの――例えば、髪のことでとか」
微妙に、というかかなり不自然な気もしますが、まあ仕方ありますまい。
『髪? 伸びたってことか? それとも、伸び始めたからって切ろうとしたら切り過ぎたことか?』
あれ。……あれ?
「――ああ、そういえば明くんも一緒だったんだっけ。あの話をした時」
『そうだけど、何なんだよ?』
すっかり忘れてました。もともと長髪だった霧原さんが「髪が伸び始めたから」と自分で髪を切り、それで失敗して想定以上に短くなってしまったという話を聞いた時、僕は明くんと一緒だったのです。ならばもちろん、明くんは霧原さんの髪が伸び始めたということを知っているわけで。
「ああいや、その――ごめん、忘れて貰えると助かる」
『気苦労しそうなタイプだな、お前』
というのは明くん、僕の考えを幾らかは察しているんでしょうか。多分、そうなんでしょうね。
「自覚はまあ、なくもないかな」
『ないよりゃマシだな』
「だといいんだけどねえ」
すると明くん、割と大きな声で笑いました。ううむ、何を思われたのやら。
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