おはようございます。204号室住人、日向孝一です。
昨晩はなんと、栞さんが年を取り始めていたことが判明しました。前々から「髪が伸びてるんじゃないだろうか」と思っていたせいか衝撃はそれほど大きくありませんでしたが、しかしやはり嬉しいものは嬉しいもので、それから一晩が明けた今ですら、胸の内がほっこりとしています。
それもあってかとても気持ちのいい目覚めを迎えることができ、ならばこの気分のまま朝日を拝もうとカーテンを開け放ってみたのですが――。
生憎の雨天なのでした。
そりゃまあ薄暗いですから、開ける前から分かってはいたんですけど。
しかしまあそれほど強い雨だというわけでもないようなので、二日前のあの大雨よりは、と。それに雨にだって、それはそれで風情があったりするわけですし。そんなことを語れるほどの美的センスは持ち合わせていないような気もしますけど。
「ん、雨降ってるの?」
窓の外を眺める、その背後から声。
「あ、おはようございます」
「おはよう、こうくん」
一昨日から昨日に掛けてこの部屋に泊まった栞さんなのですが、まあその、昨日から今日に掛けても続けて、です。
そりゃあそうもなりましょう、昨晩ああいった嬉しい話題が持ち上がれば。――などと、「そうなるのが普通だ」なんてことをついつい自分に言い聞かせたりしてしまいますが、別に恥じることじゃないですよね。よく考えるまでもなく。
「そんなに酷くはなさそうですけどね」
「そう? よかった。近いって言っても歩きだしね、大学まで」
歩いて五分の、大学までの道のり。しかし短いが故に「雨が降っているから」と交通機関を利用するようなこともできず、なので雨が強かったりすると、それなりに濡れてしまったりする恐れがあるのです。
「それで――えっと、もう起きたほうがいいような時間?」
「あ、まだ暫く大丈夫ですよ。僕はなんとなく目が覚めただけですから」
大学の一限は九時から。朝食も含めていろいろと準備を始めるのは八時頃でも大丈夫ですし、だというのに現在の時刻は、まだ六時。余裕を持って二度寝できる時間でしょう。
「今、何時?」
「六時です」
なのでどうぞ気兼ねなく横になってもらって、と思ったのですが、
「楓さんと高次さんにね、私の年のこと、伝えようと思うんだけど……」
ここで意外な話。しかしそれは、納得できる話でもありました。
「ああ、そうですね。僕も賛成です。じゃあえっと、それは七時半くらい――が、いいですかね?」
あまり早過ぎるというのはもちろん迷惑ですし、かといって遅過ぎると、家守さんと高次さんは仕事に出発してしまいます。
なにも朝に伝えなくても、それこそ確実に二人がここを訪ねてくる夕飯の時でも――というのは、栞さんの立場になってみれば、冷静に過ぎてむしろ宜しくない意見なのでしょう。
「そうだね、それくらいで」
そうして時間も決まったところで栞さんは枕に頭を横たえ、もう一度眠る態勢に。
再び視線を窓の外へと向けつつ、さて、ならば僕のほうはどうしましょうか? 目はすっかり覚めちゃってるんで、栞さんのように二度寝をしようという気分ではないんですけど。
――と、思ったら。
「冷えちゃうよ? せっかく温かいのに」
その呼び掛けに振り返ってみたところ、栞さん、片腕で掛け布団を持ち上げていました。
そうですよね、他にやることがないならそこに戻るしかないですよね。何もせずに突っ立ってるっていうのも変な話ですし。
まあそんなこともありまして、予定していた七時半。僕と栞さんは、その予定通りに101号室を訪ねていました。
そしてその部屋の住人である家守さんと高次さんに、栞さんが年を取り始めていたという話を伝えました。栞さん自身の話であるうえ手短に済む話でもあるので、僕が何かを言う暇はありませんでしたけど。
「…………」
話を聞いた家守さん、なんというかこう、複雑な表情に。話の内容も合わせて考えるに、驚きたいけど驚き切れない、という感じでしょうか。頬がピクピクしているように見えました。
「……なんで高次さん、そんなリアクション薄いの?」
隣の夫にそんな質問。なるほど、そこが気になったんですか。
「ん? んー、ふっふっふ」
夫はというと、何を言い返すでもなくただ笑ってみせるのでした。笑って誤魔化していることを誤魔化していないというか、そんななんともストレートな誤魔化し方です。
ならば誤魔化さなければならないようなことがあるわけなのですが、しかし僕は、それに心当たりがあります。
「あ、高次さんには前に話してたんです。栞さんの髪が伸びてるような気がするって」
「……あー、少し前、高次さんとだけ話してたことがあったっけ。あの時?」
「その時ですね」
具体的にいついつだと言ってないのに「その時」もなにもないような気はしますが、それはともかく二日前、土曜日のこと。僕は栞さんと家守さんの目の前で、高次さんにだけ相談を持ち掛けたのです。
あれは、髪が伸びた「ような気がする」という不確かな話を栞さんの耳に入れるわけにはいかない、と思ってのことでした。しかし昨晩爪が伸びたと打ち明けてきた栞さんは、後になって話を聞いてみれば、それ以前から「伸びているような気がすると思っていた」とのこと。ならば不確かな段階で栞さんの耳に入れまいとした僕の行動は、割と無駄なことだったのでしょう。後悔をするわけではありませんが。
「そっか。おめでとう、でいいよね? これまでの二人を見てた感じだと」
あの時の高次さんも、出だしはそんな話し方でした。
「はい。ありがとうございます、楓さん」
嬉しそうな返事とともに栞さんが頷き、ならばと僕もそれに倣います。単に「おめでとう」「ありがとう」というだけの遣り取りではなく、これまで何度もお世話になりましたしね、家守さんには。
「にしてもまあ、えらい早いねえ。まだ付き合い始めてから一月ってところでしょ?」
「そうですけど――えーと、早いんですか? 一月って」
僕が知っている「年を取る幽霊」の例は、自分達を除いて二つのみ。清さんと、大学の先輩である深道さんの彼女、霧原さんだけなのです。
清さんはどれくらい掛かったのか聞いたことがない――というか年を取る条件を満たしたのは幽霊になる前から夫婦だった明美さんなので、そもそも僕達とは状況が違います。
霧原さんのほうは、確か数年掛かったとか、そんなふうに聞いたような気がしますけど……でもその一例のみを基準にするというのは、あまり賢い判断とは言えなさそうですし。
「早いよ。びっくりするくらい早い。だってさあ、幽霊なしぃちゃんとそうじゃないこーちゃんだよ? 一月って言ったら、その辺りの調整なんかがまだ続いててもおかしくないくらいだよ?」
なんせそれは専門家であるところの家守さんの言葉なので、適当な想像で言っている、ということはないのでしょう。ふと視線を栞さんのほうへ向けてみると、あちらも驚いているようでした。
「ただ二人とも、これだけは言っとくけど」
張り詰めたようなものが感じられる声に、視線は再び家守さんへ。
「今の、褒めたわけじゃないからね? だからって貶したわけでもなくて、良いとか悪いとか、そういう話じゃないんだよね。ただ早かったってだけのことで」
というその言葉。気持ちが静まってしまったという部分は確かにあるのですが、しかし「早ければいいってもんじゃない」という話はこれまでにも何度かされていましたし、その都度納得してもいました。ならばここは「気持ちが静まってしまった」ではなく、「気持ちを静めてもらった」ということになるのでしょう。
「ただし」
すると家守さん、ふっと鼻を鳴らし、かつ声も表情も緩ませつつ、
「しぃちゃんが年を取るようになったことそれ自体は、ベタを通り越してベッタベタなくらい褒めちゃうからね? なんだったら言葉だけじゃなく、ボディランゲージのほうでも」
「ボディランゲージって――」
栞さんがうろたえるような笑みを浮かべたその途端でした。
「うわっ」
家守さん、ぐわばっと勢い良く栞さんに抱き付いたのです。
「まあ、昨日もしたんだけどねこんなこと」
声を上げはしつつも、しかし抵抗の様子はまるで見られない栞さん。そんな栞さんを男らしくすらある力強さで抱き締めている家守さんは、なのにのんびりとそんな感想を漏らすのでした。そうですね、昨日も抱き付いてましたね。
「でも、しぃちゃんだけじゃ物足りないなあ。こういう話だし、やっぱり二人ともじゃないと」
「……今日だったら、孝一くんもいいですよ?」
「おっ、本当に?」
こらこら二人とも、何をまた性質の悪い冗談を。
と思ったら家守さん、栞さんを抱き締めている腕の一方を解き、僕へ向けて差し出すように。
「そういうわけでこーちゃん、もしよかったら」
誘い文句はいつも通り冗談ぽいものでしたが、しかし冗談だけなら本当に誘うことまではしないのでしょう。高次さんへ目配せをしてみたところ、あちらの目はどうも僕がその誘いを受け入れることを望んでいるように見えたので、ならば。
……栞さんと二人纏めて家守さんに抱かれると、しかし家守さんは何を言うでもなく、僕と栞さんの肩の間に顔をうずめてきました。
暫くそうしているうち、なんとはなしにぼんやりと、頭に浮かんできます。ベッタベタに褒めると言いながら僕達に抱き付いた家守さんは、でも実際は褒めているのではなく、自分のことのように喜んでくれているんだろう、と。
「早かったけど、長かったなあ」
僕と栞さんが付き合い始めてから、一月。栞さんがここに住み始めてから、四年余り。
恐らく家守さんは一月でなく、四年余りも待ち続けていたのでしょう。栞さんが幸せになることを。
もちろんそれは「僕とのことで年を取るようになった」ということだけを指してはいないのでしょうが、しかし少なくとも、そのうちの一つではある筈です。栞さんがどんなふうに思っているかは――家守さん以上に、と思いたいところですが――僕は、よく分かっているつもりですから。
「えへへ、お待たせしちゃいましたね楓さん。ありがとうございます、今までのこと」
栞さんは笑っていましたが、声が少しだけ、上ずっているようでした。
栞さんが幸せになるのをずっと待っていた家守さん。ですが栞さんは、これまでだって幸せだった筈なのです。他のみんなはもちろん、特にはその家守さんのおかげで。
……そうでもなければ栞さんは、押し潰されていたでしょうから。胸の傷跡、そこに込めていた暗い思いに。それを打ち明けられたあの時にどんなことをどんな声で言われ、それを否定した時にどんな顔をされたかは、忘れようもありません。
「ありがとうございます、家守さん」
栞さんに続いて礼を言ったところ、口を開く直前で初めて気付いたことが一つ。礼の言葉は、「ありがとうございました」ではなかったのです。
ということはつまり、まだ続くと。まだ、家守さんから幸せを貰い続けると。そうですよね、一緒にいるだけでそうなっちゃうんですから。
「お互い様だよ。アタシだって、見返りを求めてそうしてたわけだしさ」
というのは、今初めて聞いた話ではありません。家守さんが見返りを求めて僕達と付き合っていることも、求めた見返りが栞さんや僕と同じものだということも、既に知っています。そしてそのことだけでなく、自然な付き合いでなしに「見返り」としてそれを求めなければならないような事情が家守さんにはある、ということも。
ただ、その事情そのもののお世話をするのはもちろん僕達でなく、高次さんの役目なんですけどね。
「さて。うん、ありがとうね二人とも。満足させてもらいました」
言いながら家守さんは軽く肩を叩くと、僕と栞さんをその腕から解放しました。
そうなって初めて「こっちからも抱き返せばよかったかな」なんて思ってしまいますが、高次さんと栞さんの手前、それはなかなか。いや、どちらも許してくれそうな気はしますけど。
「もし二人のほうがまだ満足してなかったりしたら、それは二人で補い合って頂戴な」
「そういうことは言っちゃうんだなあ、やっぱり。それさえなけりゃあ格好良かったのに」
家守さんらしい、いつもの展開。こんな時でも出てくるからこそ「いつもの」なのでしょう。むしろホッとしてしまうのは――慣れ過ぎですかね? さすがに。
「キシシ、まあどう足掻いたって格好良くはないからねえアタシ。これくらいが分相応ってことだよ、高次さん。言わなくたって分かってるだろうけどさ」
「はっは、まあな」
納得しちゃいますか高次さん。……格好良くはない、ですかねえ?
「喜坂さん、それに日向くんも」
笑った流れということか、入れ替わるようにして高次さんが話を。
「今回のことはおめでたいし、喜んで然るべきだけど――でも、これで終わりじゃあないからね? むしろこれからが大事だし、これからが大変だと考えるべき。だと思うよ」
「はい」
……と、歯切れ良く返事をしてはみたものの、でも実際に何がどう大事でどう大変なのかというのは、思い付くことができませんでした。そういう気概で臨むべきだというのは、何となく分かるんですけど。
「頭で決めただけじゃなくて、身体がそうなっちゃったんですもんね。孝一くんと一緒に生きるって」
栞さんはそんな返事。そうか、そりゃそうだ。
「おやしぃちゃん、こーちゃんはそのことにいま気付いたって顔だけど?」
うぐっ。
「大丈夫です。気付いてもらえさえすれば、あとはもう安心して任せられますから」
それはそれでうぐっ。
「それに初めから全部知っていて欲しいっていうのは、我儘でしかないですしね」
…………。
「そっか、そりゃそうだね。アタシも肝に銘じさせてもらおうかな、それ」
初めから全部知っていて欲しいというのは我儘でしかない。そんな話には聞き覚えがありました。あれは確か、高校時代に音無さんに恋をしていたことに関連して、栞さんに激怒された時でしたっけ。知らなかったこととはいえ、「殆どの人の中には思い出としてしか残れない」という、幽霊である人達の存在そのものの大部分を否定してしまったことについて。
怒られた以上は苦い思い出なのですが、しかしそれが今ここで出てきたことには、どうしてだか嬉しい気持ちになってしまうのでした。
「ああいう言葉がポンと出てくるってことは、いい付き合い方が出来てるんだねえ。まあ、だからこそ一月でこうなったんだろうけどさ」
「あはは、おかげさまで」
僕だけの頑張りだ、とは言えないでしょう。栞さんからはもちろん、他のみんなからも良くしてもらえたからこそ、なんでしょうし。
「ああいう言葉の後に茶化しを入れちゃうからねえ、うちのは」
「そこがいいんじゃないんですか?」
「はっは、まあね」
だったらお互い様だと思いますよ高次さん。いい付き合い方が出来てるっていうのは。
「ほら男子、変なこと言ってないで」
「へ、変だったか今の?」
少々頬が赤い家守さんからそう言われ、高次さんは上機嫌そうだった表情を情けない感じに崩してしまうのでした。でもまあ、どうしてそう言われたのかはさすがに分かってるんでしょうけど。赤いですし。
「二人ともありがとね、わざわざ教えに来てくれて。で、アタシらそろそろ仕事に行く時間だからさ」
「あ、はい。朝からお邪魔しました」
というわけで、僕と栞さんはあまり時間がないところを無理して会ってもらっているのです。名残惜しくはありますが、用が済んだのならさっさと退散すべきでしょう。
でも、その前に高次さんからこんな一言。
「このこと、他のみんなにも伝えるの? やっぱり」
栞さんと顔を見合わせてみました。
考えてなかった。
あちらの顔にはそう書いてありました。こちらの顔にもそう書いてあったことでしょう。
「せーさんなんて特に、先人からありがたい言葉を頂けたりするかもしれないよ? まあ、今日もいないんだろうけどさ」
先人。そうですよね、清さん、ずっと前から「年を取る幽霊」なわけですし。
「楽さんですか? こんな天気ですけど、今日もお出掛けですわ。すみません、せっかく来て下さいましたのに」
「ああ、いえいえ」
101号室を出たその足で、家守さんの勧めに応じて102号室へ。応対に現れたマンデーさんに清さんがご在宅なのかどうかを尋ねてみたところ、あえなくそんな返事が返ってくるのでした。まあ応対に出てきたのがマンデーさんだったという時点で、分かってはいたんですけど。
「どうします?」
「うーん、でもまあ、清さんだけに用があったってわけじゃないし」
ですよね。特には清さんに、というだけの話ですし。
「それは、みんなに用があるということですか? いつものように」
「あ、はい。用というほどのことでもないんですけど、ちょっと話しておきたいことがありまして」
いつものように、と言いながらのマンデーさんのその推測は、見事に正解。しかしその「いつもの」というのはそれこそ用でも何でもなく、ただの雑談を指しているのでしょう。
「なら、他の皆さんにも来てもらいましょうか。楓さんと高次さんには先程会っていたようですから、残るのは大吾さんと哀沢さんだけですけど」
「あ、聞こえてた?」
「話の内容までは聞き取れませんでしたが――でも声だけなら、隔てるものが壁一枚くらいだと嫌でも聞こえてしまいますわ、この耳は。うふふ」
笑い返せばいいのか、それとも「気を付けよう」と思っておくべきなのか。一瞬判断に迷ってしまいましたが、しかし迷っていること自体が少々気恥ずかしくも。
というわけでこの場は笑い返しておき、
「じゃあ僕、大吾と成美さん呼んできます」
「行ってらっしゃいませ。お話、楽しみにしていますわ」
そうそう長く待たせるようなことでもなければ、そこまで楽しみにされるようなことでもないんですけどね。というわけで踵を返し、二階への階段へ向かおうとしたところ。
「わざわざこんな天気の日の朝早くから楓さん高次さんに、しかもお二人で会いに行ったということは、なかなかに重要な話なんでしょうしね」
……ちょっとだけ緊張。いや、101号室で同じ話をしておいて今更何をってなもんですけど。
「別にいいけど、オマエ大学は?」
「いや、もちろん行かなきゃなんだけどね。その前にちょっとだけ」
ごめんね朝早くから。
というわけで大吾と、そして成美さんにもおいでいただいて、再び102号室へ。玄関でマンデーさんと話し、そこからそのまま202号室へ向った僕はこれで今日初めて102号室の中まで入ったのですが、ナタリーさんはもちろんながら、ジョンももうそこにいたのでした。まあ少しとはいえ雨が降っているわけですし、そしてそのこと以上に今日は月曜日、つまりマンデーさんの日ですもんね。
「ワフッ」
「うふふ、そうですわねジョンさん。朝から皆さんに来て頂けるなんて」
尻尾をぶんぶんと振って見るからに喜んでいるジョンの一言に対し、マンデーさんはそんな返事。翻訳して頂かずともジョンが何を言ったか分かろうというものです。
「別に珍しいことじゃねえと思うけどな」
「あら大吾さん、珍しいか珍しくないかはそんなに重要ですか?」
「いや、そうは言わねえけど」
もしも大吾にジョンと同じ尻尾が付いていたなら、口から出た言葉がどうあれジョンのそれと同じ動きをしていたのではないだろうか。――などという馬鹿らしい想像がつい頭に浮かんでしまいましたが、まあそれはいいでしょう。こうしてみんなを集めさせたのは僕と栞さんなんですから、茶々を入れるよりは本題です。
「えーと、それで話っていうのが」
「あ、私のことなんだけど」
話し始めてみたところ、栞さんが上から言葉を被せてきました。そういうことなら、と僕はそこで口を閉じます。
「本当に、その、たった一言で終わっちゃう話なんだけど……私、年を取るようになりました」
躊躇いがちながら、けれどはっきりと。
この話にはどういう反応が返ってくるのだろうと思っていたところはあったのですが――しかし実際のところ、どんな反応も返ってきませんでした。いや、正確には「反応がないという反応を返された」ということになるでしょうか。
けれどその反応がないというのも、頭に「即座には」と付くことだったようで。
「驚いた」
驚いた、というよりは驚いている最中のような浮ついた声色で、成美さんが呟くように言いました。
「いや、驚くよりも前に祝福すべきことではあるんだろうがな? すまん、言葉に詰まってしまった」
「ふふ、いいよいいよ」
ということで、恐らくは他のみんなもそんな感じではあるのでしょう。祝福される側の人間がそんなふうに考えるのはどうかと思いますが。いや、僕じゃなくて栞さんの話ではあるんですけどね?
「だから――うむ、おめでとう喜坂」
「うん」
その短い、けれどそれに対する気持ちは言葉以上に声色や表情に表れている遣り取りの後、成美さんが栞さんへ歩み寄ります。それからどうなったのかと言いますと、まあ、ついさっきの101号室で家守さんがしたのと同じように。
「よかったな」
「うん。ありがとう、成美ちゃん」
小さな体で力いっぱい栞さんを抱き締めた成美さんは、そのまま栞さんの膝の上に腰を落ち着けるのでした。もちろん栞さんも、そんな成美さんをふんわりと受け入れます。
そうして成美さんからの祝福が終えられると、続いてマンデーさんとナタリーさんも「おめでとう」と。更には、栞さんの腕の中へも。
「さすがにちょっと狭いな、三人いっぺんは」
「そうですわね。後から入り込んでおいてなんですけれど」
「あ、私はそうでもないですけど……」
さすがに細い身体だけあって、ナタリーさんだけは余裕そうでした。ならばつまり、三人いっぺんというよりは実質的に二人いっぺんということになるのでしょうが、まあそんな細かいことはいいとして。
「……オレとジョン、どうすりゃいいんだろうな」
「ワウ」
男二名、どうしていいのやら分からない様子でした。いや、もちろんジョンは除外すべきなんでしょうけど。
「ふふ、大吾くんとジョンもありがとう」
「まだ何も言ってねえし、やってねえよ」
「言ってくれたようなものだし、やってくれたようなものだよ」
まあ、そうじゃなかったら「どうすりゃいいんだろうな」なんて言葉がまず出てきませんしねえ。
「だからっつって、こっちから何かする前に礼を言われるってのはなあ。つーわけでまあ、なんだ、おめでとう喜坂」
「ワフッ」
男子二名からも、お祝いの言葉。よくよく考えてみれば大吾、「どうすりゃいいんだろうな」の発言以前に昨日、栞さんには幸せになって欲しい、という話をしてましたしね。
……むしろ僕から大吾へお礼を言いたいような気分になりましたが、しかしそうやって昨日の話を持ち出すこともないでしょう。あれは、男二人だけでという前提あっての会話だったんですし。
「ありがとう」
二度目のお礼の言葉となりましたが、しかし一度目よりもむしろ嬉しそうな栞さんなのでした。
さて。喜ぶだけ喜んだところで、初めから短い話だと言っていたこの話はあっという間に終わりです。もちろん話が終わったとは言えこのままぐだぐだのんびりしてもいいのでしょうが、しかし生憎とこの後には予定があるのです。なんせ僕、学生ですから。
昨晩はなんと、栞さんが年を取り始めていたことが判明しました。前々から「髪が伸びてるんじゃないだろうか」と思っていたせいか衝撃はそれほど大きくありませんでしたが、しかしやはり嬉しいものは嬉しいもので、それから一晩が明けた今ですら、胸の内がほっこりとしています。
それもあってかとても気持ちのいい目覚めを迎えることができ、ならばこの気分のまま朝日を拝もうとカーテンを開け放ってみたのですが――。
生憎の雨天なのでした。
そりゃまあ薄暗いですから、開ける前から分かってはいたんですけど。
しかしまあそれほど強い雨だというわけでもないようなので、二日前のあの大雨よりは、と。それに雨にだって、それはそれで風情があったりするわけですし。そんなことを語れるほどの美的センスは持ち合わせていないような気もしますけど。
「ん、雨降ってるの?」
窓の外を眺める、その背後から声。
「あ、おはようございます」
「おはよう、こうくん」
一昨日から昨日に掛けてこの部屋に泊まった栞さんなのですが、まあその、昨日から今日に掛けても続けて、です。
そりゃあそうもなりましょう、昨晩ああいった嬉しい話題が持ち上がれば。――などと、「そうなるのが普通だ」なんてことをついつい自分に言い聞かせたりしてしまいますが、別に恥じることじゃないですよね。よく考えるまでもなく。
「そんなに酷くはなさそうですけどね」
「そう? よかった。近いって言っても歩きだしね、大学まで」
歩いて五分の、大学までの道のり。しかし短いが故に「雨が降っているから」と交通機関を利用するようなこともできず、なので雨が強かったりすると、それなりに濡れてしまったりする恐れがあるのです。
「それで――えっと、もう起きたほうがいいような時間?」
「あ、まだ暫く大丈夫ですよ。僕はなんとなく目が覚めただけですから」
大学の一限は九時から。朝食も含めていろいろと準備を始めるのは八時頃でも大丈夫ですし、だというのに現在の時刻は、まだ六時。余裕を持って二度寝できる時間でしょう。
「今、何時?」
「六時です」
なのでどうぞ気兼ねなく横になってもらって、と思ったのですが、
「楓さんと高次さんにね、私の年のこと、伝えようと思うんだけど……」
ここで意外な話。しかしそれは、納得できる話でもありました。
「ああ、そうですね。僕も賛成です。じゃあえっと、それは七時半くらい――が、いいですかね?」
あまり早過ぎるというのはもちろん迷惑ですし、かといって遅過ぎると、家守さんと高次さんは仕事に出発してしまいます。
なにも朝に伝えなくても、それこそ確実に二人がここを訪ねてくる夕飯の時でも――というのは、栞さんの立場になってみれば、冷静に過ぎてむしろ宜しくない意見なのでしょう。
「そうだね、それくらいで」
そうして時間も決まったところで栞さんは枕に頭を横たえ、もう一度眠る態勢に。
再び視線を窓の外へと向けつつ、さて、ならば僕のほうはどうしましょうか? 目はすっかり覚めちゃってるんで、栞さんのように二度寝をしようという気分ではないんですけど。
――と、思ったら。
「冷えちゃうよ? せっかく温かいのに」
その呼び掛けに振り返ってみたところ、栞さん、片腕で掛け布団を持ち上げていました。
そうですよね、他にやることがないならそこに戻るしかないですよね。何もせずに突っ立ってるっていうのも変な話ですし。
まあそんなこともありまして、予定していた七時半。僕と栞さんは、その予定通りに101号室を訪ねていました。
そしてその部屋の住人である家守さんと高次さんに、栞さんが年を取り始めていたという話を伝えました。栞さん自身の話であるうえ手短に済む話でもあるので、僕が何かを言う暇はありませんでしたけど。
「…………」
話を聞いた家守さん、なんというかこう、複雑な表情に。話の内容も合わせて考えるに、驚きたいけど驚き切れない、という感じでしょうか。頬がピクピクしているように見えました。
「……なんで高次さん、そんなリアクション薄いの?」
隣の夫にそんな質問。なるほど、そこが気になったんですか。
「ん? んー、ふっふっふ」
夫はというと、何を言い返すでもなくただ笑ってみせるのでした。笑って誤魔化していることを誤魔化していないというか、そんななんともストレートな誤魔化し方です。
ならば誤魔化さなければならないようなことがあるわけなのですが、しかし僕は、それに心当たりがあります。
「あ、高次さんには前に話してたんです。栞さんの髪が伸びてるような気がするって」
「……あー、少し前、高次さんとだけ話してたことがあったっけ。あの時?」
「その時ですね」
具体的にいついつだと言ってないのに「その時」もなにもないような気はしますが、それはともかく二日前、土曜日のこと。僕は栞さんと家守さんの目の前で、高次さんにだけ相談を持ち掛けたのです。
あれは、髪が伸びた「ような気がする」という不確かな話を栞さんの耳に入れるわけにはいかない、と思ってのことでした。しかし昨晩爪が伸びたと打ち明けてきた栞さんは、後になって話を聞いてみれば、それ以前から「伸びているような気がすると思っていた」とのこと。ならば不確かな段階で栞さんの耳に入れまいとした僕の行動は、割と無駄なことだったのでしょう。後悔をするわけではありませんが。
「そっか。おめでとう、でいいよね? これまでの二人を見てた感じだと」
あの時の高次さんも、出だしはそんな話し方でした。
「はい。ありがとうございます、楓さん」
嬉しそうな返事とともに栞さんが頷き、ならばと僕もそれに倣います。単に「おめでとう」「ありがとう」というだけの遣り取りではなく、これまで何度もお世話になりましたしね、家守さんには。
「にしてもまあ、えらい早いねえ。まだ付き合い始めてから一月ってところでしょ?」
「そうですけど――えーと、早いんですか? 一月って」
僕が知っている「年を取る幽霊」の例は、自分達を除いて二つのみ。清さんと、大学の先輩である深道さんの彼女、霧原さんだけなのです。
清さんはどれくらい掛かったのか聞いたことがない――というか年を取る条件を満たしたのは幽霊になる前から夫婦だった明美さんなので、そもそも僕達とは状況が違います。
霧原さんのほうは、確か数年掛かったとか、そんなふうに聞いたような気がしますけど……でもその一例のみを基準にするというのは、あまり賢い判断とは言えなさそうですし。
「早いよ。びっくりするくらい早い。だってさあ、幽霊なしぃちゃんとそうじゃないこーちゃんだよ? 一月って言ったら、その辺りの調整なんかがまだ続いててもおかしくないくらいだよ?」
なんせそれは専門家であるところの家守さんの言葉なので、適当な想像で言っている、ということはないのでしょう。ふと視線を栞さんのほうへ向けてみると、あちらも驚いているようでした。
「ただ二人とも、これだけは言っとくけど」
張り詰めたようなものが感じられる声に、視線は再び家守さんへ。
「今の、褒めたわけじゃないからね? だからって貶したわけでもなくて、良いとか悪いとか、そういう話じゃないんだよね。ただ早かったってだけのことで」
というその言葉。気持ちが静まってしまったという部分は確かにあるのですが、しかし「早ければいいってもんじゃない」という話はこれまでにも何度かされていましたし、その都度納得してもいました。ならばここは「気持ちが静まってしまった」ではなく、「気持ちを静めてもらった」ということになるのでしょう。
「ただし」
すると家守さん、ふっと鼻を鳴らし、かつ声も表情も緩ませつつ、
「しぃちゃんが年を取るようになったことそれ自体は、ベタを通り越してベッタベタなくらい褒めちゃうからね? なんだったら言葉だけじゃなく、ボディランゲージのほうでも」
「ボディランゲージって――」
栞さんがうろたえるような笑みを浮かべたその途端でした。
「うわっ」
家守さん、ぐわばっと勢い良く栞さんに抱き付いたのです。
「まあ、昨日もしたんだけどねこんなこと」
声を上げはしつつも、しかし抵抗の様子はまるで見られない栞さん。そんな栞さんを男らしくすらある力強さで抱き締めている家守さんは、なのにのんびりとそんな感想を漏らすのでした。そうですね、昨日も抱き付いてましたね。
「でも、しぃちゃんだけじゃ物足りないなあ。こういう話だし、やっぱり二人ともじゃないと」
「……今日だったら、孝一くんもいいですよ?」
「おっ、本当に?」
こらこら二人とも、何をまた性質の悪い冗談を。
と思ったら家守さん、栞さんを抱き締めている腕の一方を解き、僕へ向けて差し出すように。
「そういうわけでこーちゃん、もしよかったら」
誘い文句はいつも通り冗談ぽいものでしたが、しかし冗談だけなら本当に誘うことまではしないのでしょう。高次さんへ目配せをしてみたところ、あちらの目はどうも僕がその誘いを受け入れることを望んでいるように見えたので、ならば。
……栞さんと二人纏めて家守さんに抱かれると、しかし家守さんは何を言うでもなく、僕と栞さんの肩の間に顔をうずめてきました。
暫くそうしているうち、なんとはなしにぼんやりと、頭に浮かんできます。ベッタベタに褒めると言いながら僕達に抱き付いた家守さんは、でも実際は褒めているのではなく、自分のことのように喜んでくれているんだろう、と。
「早かったけど、長かったなあ」
僕と栞さんが付き合い始めてから、一月。栞さんがここに住み始めてから、四年余り。
恐らく家守さんは一月でなく、四年余りも待ち続けていたのでしょう。栞さんが幸せになることを。
もちろんそれは「僕とのことで年を取るようになった」ということだけを指してはいないのでしょうが、しかし少なくとも、そのうちの一つではある筈です。栞さんがどんなふうに思っているかは――家守さん以上に、と思いたいところですが――僕は、よく分かっているつもりですから。
「えへへ、お待たせしちゃいましたね楓さん。ありがとうございます、今までのこと」
栞さんは笑っていましたが、声が少しだけ、上ずっているようでした。
栞さんが幸せになるのをずっと待っていた家守さん。ですが栞さんは、これまでだって幸せだった筈なのです。他のみんなはもちろん、特にはその家守さんのおかげで。
……そうでもなければ栞さんは、押し潰されていたでしょうから。胸の傷跡、そこに込めていた暗い思いに。それを打ち明けられたあの時にどんなことをどんな声で言われ、それを否定した時にどんな顔をされたかは、忘れようもありません。
「ありがとうございます、家守さん」
栞さんに続いて礼を言ったところ、口を開く直前で初めて気付いたことが一つ。礼の言葉は、「ありがとうございました」ではなかったのです。
ということはつまり、まだ続くと。まだ、家守さんから幸せを貰い続けると。そうですよね、一緒にいるだけでそうなっちゃうんですから。
「お互い様だよ。アタシだって、見返りを求めてそうしてたわけだしさ」
というのは、今初めて聞いた話ではありません。家守さんが見返りを求めて僕達と付き合っていることも、求めた見返りが栞さんや僕と同じものだということも、既に知っています。そしてそのことだけでなく、自然な付き合いでなしに「見返り」としてそれを求めなければならないような事情が家守さんにはある、ということも。
ただ、その事情そのもののお世話をするのはもちろん僕達でなく、高次さんの役目なんですけどね。
「さて。うん、ありがとうね二人とも。満足させてもらいました」
言いながら家守さんは軽く肩を叩くと、僕と栞さんをその腕から解放しました。
そうなって初めて「こっちからも抱き返せばよかったかな」なんて思ってしまいますが、高次さんと栞さんの手前、それはなかなか。いや、どちらも許してくれそうな気はしますけど。
「もし二人のほうがまだ満足してなかったりしたら、それは二人で補い合って頂戴な」
「そういうことは言っちゃうんだなあ、やっぱり。それさえなけりゃあ格好良かったのに」
家守さんらしい、いつもの展開。こんな時でも出てくるからこそ「いつもの」なのでしょう。むしろホッとしてしまうのは――慣れ過ぎですかね? さすがに。
「キシシ、まあどう足掻いたって格好良くはないからねえアタシ。これくらいが分相応ってことだよ、高次さん。言わなくたって分かってるだろうけどさ」
「はっは、まあな」
納得しちゃいますか高次さん。……格好良くはない、ですかねえ?
「喜坂さん、それに日向くんも」
笑った流れということか、入れ替わるようにして高次さんが話を。
「今回のことはおめでたいし、喜んで然るべきだけど――でも、これで終わりじゃあないからね? むしろこれからが大事だし、これからが大変だと考えるべき。だと思うよ」
「はい」
……と、歯切れ良く返事をしてはみたものの、でも実際に何がどう大事でどう大変なのかというのは、思い付くことができませんでした。そういう気概で臨むべきだというのは、何となく分かるんですけど。
「頭で決めただけじゃなくて、身体がそうなっちゃったんですもんね。孝一くんと一緒に生きるって」
栞さんはそんな返事。そうか、そりゃそうだ。
「おやしぃちゃん、こーちゃんはそのことにいま気付いたって顔だけど?」
うぐっ。
「大丈夫です。気付いてもらえさえすれば、あとはもう安心して任せられますから」
それはそれでうぐっ。
「それに初めから全部知っていて欲しいっていうのは、我儘でしかないですしね」
…………。
「そっか、そりゃそうだね。アタシも肝に銘じさせてもらおうかな、それ」
初めから全部知っていて欲しいというのは我儘でしかない。そんな話には聞き覚えがありました。あれは確か、高校時代に音無さんに恋をしていたことに関連して、栞さんに激怒された時でしたっけ。知らなかったこととはいえ、「殆どの人の中には思い出としてしか残れない」という、幽霊である人達の存在そのものの大部分を否定してしまったことについて。
怒られた以上は苦い思い出なのですが、しかしそれが今ここで出てきたことには、どうしてだか嬉しい気持ちになってしまうのでした。
「ああいう言葉がポンと出てくるってことは、いい付き合い方が出来てるんだねえ。まあ、だからこそ一月でこうなったんだろうけどさ」
「あはは、おかげさまで」
僕だけの頑張りだ、とは言えないでしょう。栞さんからはもちろん、他のみんなからも良くしてもらえたからこそ、なんでしょうし。
「ああいう言葉の後に茶化しを入れちゃうからねえ、うちのは」
「そこがいいんじゃないんですか?」
「はっは、まあね」
だったらお互い様だと思いますよ高次さん。いい付き合い方が出来てるっていうのは。
「ほら男子、変なこと言ってないで」
「へ、変だったか今の?」
少々頬が赤い家守さんからそう言われ、高次さんは上機嫌そうだった表情を情けない感じに崩してしまうのでした。でもまあ、どうしてそう言われたのかはさすがに分かってるんでしょうけど。赤いですし。
「二人ともありがとね、わざわざ教えに来てくれて。で、アタシらそろそろ仕事に行く時間だからさ」
「あ、はい。朝からお邪魔しました」
というわけで、僕と栞さんはあまり時間がないところを無理して会ってもらっているのです。名残惜しくはありますが、用が済んだのならさっさと退散すべきでしょう。
でも、その前に高次さんからこんな一言。
「このこと、他のみんなにも伝えるの? やっぱり」
栞さんと顔を見合わせてみました。
考えてなかった。
あちらの顔にはそう書いてありました。こちらの顔にもそう書いてあったことでしょう。
「せーさんなんて特に、先人からありがたい言葉を頂けたりするかもしれないよ? まあ、今日もいないんだろうけどさ」
先人。そうですよね、清さん、ずっと前から「年を取る幽霊」なわけですし。
「楽さんですか? こんな天気ですけど、今日もお出掛けですわ。すみません、せっかく来て下さいましたのに」
「ああ、いえいえ」
101号室を出たその足で、家守さんの勧めに応じて102号室へ。応対に現れたマンデーさんに清さんがご在宅なのかどうかを尋ねてみたところ、あえなくそんな返事が返ってくるのでした。まあ応対に出てきたのがマンデーさんだったという時点で、分かってはいたんですけど。
「どうします?」
「うーん、でもまあ、清さんだけに用があったってわけじゃないし」
ですよね。特には清さんに、というだけの話ですし。
「それは、みんなに用があるということですか? いつものように」
「あ、はい。用というほどのことでもないんですけど、ちょっと話しておきたいことがありまして」
いつものように、と言いながらのマンデーさんのその推測は、見事に正解。しかしその「いつもの」というのはそれこそ用でも何でもなく、ただの雑談を指しているのでしょう。
「なら、他の皆さんにも来てもらいましょうか。楓さんと高次さんには先程会っていたようですから、残るのは大吾さんと哀沢さんだけですけど」
「あ、聞こえてた?」
「話の内容までは聞き取れませんでしたが――でも声だけなら、隔てるものが壁一枚くらいだと嫌でも聞こえてしまいますわ、この耳は。うふふ」
笑い返せばいいのか、それとも「気を付けよう」と思っておくべきなのか。一瞬判断に迷ってしまいましたが、しかし迷っていること自体が少々気恥ずかしくも。
というわけでこの場は笑い返しておき、
「じゃあ僕、大吾と成美さん呼んできます」
「行ってらっしゃいませ。お話、楽しみにしていますわ」
そうそう長く待たせるようなことでもなければ、そこまで楽しみにされるようなことでもないんですけどね。というわけで踵を返し、二階への階段へ向かおうとしたところ。
「わざわざこんな天気の日の朝早くから楓さん高次さんに、しかもお二人で会いに行ったということは、なかなかに重要な話なんでしょうしね」
……ちょっとだけ緊張。いや、101号室で同じ話をしておいて今更何をってなもんですけど。
「別にいいけど、オマエ大学は?」
「いや、もちろん行かなきゃなんだけどね。その前にちょっとだけ」
ごめんね朝早くから。
というわけで大吾と、そして成美さんにもおいでいただいて、再び102号室へ。玄関でマンデーさんと話し、そこからそのまま202号室へ向った僕はこれで今日初めて102号室の中まで入ったのですが、ナタリーさんはもちろんながら、ジョンももうそこにいたのでした。まあ少しとはいえ雨が降っているわけですし、そしてそのこと以上に今日は月曜日、つまりマンデーさんの日ですもんね。
「ワフッ」
「うふふ、そうですわねジョンさん。朝から皆さんに来て頂けるなんて」
尻尾をぶんぶんと振って見るからに喜んでいるジョンの一言に対し、マンデーさんはそんな返事。翻訳して頂かずともジョンが何を言ったか分かろうというものです。
「別に珍しいことじゃねえと思うけどな」
「あら大吾さん、珍しいか珍しくないかはそんなに重要ですか?」
「いや、そうは言わねえけど」
もしも大吾にジョンと同じ尻尾が付いていたなら、口から出た言葉がどうあれジョンのそれと同じ動きをしていたのではないだろうか。――などという馬鹿らしい想像がつい頭に浮かんでしまいましたが、まあそれはいいでしょう。こうしてみんなを集めさせたのは僕と栞さんなんですから、茶々を入れるよりは本題です。
「えーと、それで話っていうのが」
「あ、私のことなんだけど」
話し始めてみたところ、栞さんが上から言葉を被せてきました。そういうことなら、と僕はそこで口を閉じます。
「本当に、その、たった一言で終わっちゃう話なんだけど……私、年を取るようになりました」
躊躇いがちながら、けれどはっきりと。
この話にはどういう反応が返ってくるのだろうと思っていたところはあったのですが――しかし実際のところ、どんな反応も返ってきませんでした。いや、正確には「反応がないという反応を返された」ということになるでしょうか。
けれどその反応がないというのも、頭に「即座には」と付くことだったようで。
「驚いた」
驚いた、というよりは驚いている最中のような浮ついた声色で、成美さんが呟くように言いました。
「いや、驚くよりも前に祝福すべきことではあるんだろうがな? すまん、言葉に詰まってしまった」
「ふふ、いいよいいよ」
ということで、恐らくは他のみんなもそんな感じではあるのでしょう。祝福される側の人間がそんなふうに考えるのはどうかと思いますが。いや、僕じゃなくて栞さんの話ではあるんですけどね?
「だから――うむ、おめでとう喜坂」
「うん」
その短い、けれどそれに対する気持ちは言葉以上に声色や表情に表れている遣り取りの後、成美さんが栞さんへ歩み寄ります。それからどうなったのかと言いますと、まあ、ついさっきの101号室で家守さんがしたのと同じように。
「よかったな」
「うん。ありがとう、成美ちゃん」
小さな体で力いっぱい栞さんを抱き締めた成美さんは、そのまま栞さんの膝の上に腰を落ち着けるのでした。もちろん栞さんも、そんな成美さんをふんわりと受け入れます。
そうして成美さんからの祝福が終えられると、続いてマンデーさんとナタリーさんも「おめでとう」と。更には、栞さんの腕の中へも。
「さすがにちょっと狭いな、三人いっぺんは」
「そうですわね。後から入り込んでおいてなんですけれど」
「あ、私はそうでもないですけど……」
さすがに細い身体だけあって、ナタリーさんだけは余裕そうでした。ならばつまり、三人いっぺんというよりは実質的に二人いっぺんということになるのでしょうが、まあそんな細かいことはいいとして。
「……オレとジョン、どうすりゃいいんだろうな」
「ワウ」
男二名、どうしていいのやら分からない様子でした。いや、もちろんジョンは除外すべきなんでしょうけど。
「ふふ、大吾くんとジョンもありがとう」
「まだ何も言ってねえし、やってねえよ」
「言ってくれたようなものだし、やってくれたようなものだよ」
まあ、そうじゃなかったら「どうすりゃいいんだろうな」なんて言葉がまず出てきませんしねえ。
「だからっつって、こっちから何かする前に礼を言われるってのはなあ。つーわけでまあ、なんだ、おめでとう喜坂」
「ワフッ」
男子二名からも、お祝いの言葉。よくよく考えてみれば大吾、「どうすりゃいいんだろうな」の発言以前に昨日、栞さんには幸せになって欲しい、という話をしてましたしね。
……むしろ僕から大吾へお礼を言いたいような気分になりましたが、しかしそうやって昨日の話を持ち出すこともないでしょう。あれは、男二人だけでという前提あっての会話だったんですし。
「ありがとう」
二度目のお礼の言葉となりましたが、しかし一度目よりもむしろ嬉しそうな栞さんなのでした。
さて。喜ぶだけ喜んだところで、初めから短い話だと言っていたこの話はあっという間に終わりです。もちろん話が終わったとは言えこのままぐだぐだのんびりしてもいいのでしょうが、しかし生憎とこの後には予定があるのです。なんせ僕、学生ですから。
最初に更新された部分の途中に以降の更新分が入っているようです
確認してみてください
本当にすいません、またしてもおかしなミスをやらかしてしまいました。
なんでしょう、最近疲れてるんでしょうか。どう考えてもそんなことはないと思うんですが、だとしたら単に気が抜けてるだけなので余計に性質が悪いですね。
重ねて申し訳ありませんが、本日はこの修正だけで本編の更新は明日からになります。
ミスしたまま数日放置とかかなりアレですが、本当に申し訳ありませんでした。
連載を長く楽しく続けて頂くためにも気楽にいきましょう
あと今更ですが前話はかなりほっこりしました
というわけで、本日から連載再開になります。
ごゆっくりどうぞ。