「違いますよ。交際中の男性もいるそうですし」
交際中の男性と言うより婚約者なんだけど、まあそこまでひけらかす事もないだろう。家守さんとここのみんなが知り合いっていうならともかく。で、それはそれとしても。
そうか、あの格好はやっぱり「大胆」に分類されるのか。毎晩会ってるとそんな感覚、とっくに麻痺しちゃってるなあ。じゃあもし栞さんがあの格好だったら……………やっぱり完全には麻痺してないか。
あ、でも待てよ。そうは言っても栞さんだって上着は結構。袖無しだから手を挙げたりしたら脇が見えるし。いや別に、そういうのが趣味だとかじゃないんですけど。
「そんな事より、元々は音無さんの話でしたよね?」
「ああ、そう言えばそうだったわね」
この話を続けているとなんだか自分が悲しくなってくるので、ここいらで修正を入れてみる。……と言って、行き着く先が音無さんのあんな話じゃあ、あんまり変わらないのかもしれないけど。
そして当の黒コートさんは「ひうっ」と小さな悲鳴を上げ、あまつさえ足に乗せた手から腕にかけてをピンと張り、身を強張らせる。そこまで嫌がっているのが切っても切り離せない自分の体についての話というのは、なんとも気の毒になるでした。
「どうしよっか静音。さっきも言ったけど、ずっとそのままってわけにはいかないわよ?」
「そうですけど……でも……」
「ぱっぱと脱いじまえばいいだろーがよ。お前みてえなのなんて他にもわんさかいんだぞ? 主にはエロ雑誌とかに」
「しゃっ!」
「どうぶっ!」
罵りの言葉すらなく振り上げる拳に合わせる掛け声のみを口にする異原さん。口宮さんの軽口(なのかどうかは本人次第なんだけど)が度を越えていたという事なのか、それとも回数的な意味でもううんざりしているという事なのか。……まあ、それでも例の如く口宮さんは懲りないんだろうなあ。
女の人が躊躇なく男の人をぶん殴る、なんていきなり見たら何事かと思って然るべき事態も、僕ですらそうなんだから同森さんと音無さんにとってはいつもの光景でしかない。
「……あ……」
という事で、なんとも気の抜けてしまう音無さんの声。
「あの……そろそろ大学に戻ったほうが……」
壁時計を見上げるその姿を見て、その言葉を聞いて、「いやもしかしたら話題を逸らすために努めてそう振舞っているのかもしれない」と思ったりなんだり。でもまあ、話題が逸れても僕は一向に構わないんですけどね。そりゃあ男ですから「そういった意味」での興味が無いとは言いませんけど。
「そう? ……そうみたいね。じゃあ行きましょうか」
現在時刻、十二時四十分ちょっと過ぎ。チキンレースをしているわけでもなし、ギリギリまで粘る事もない。……まあ、考えようによっては今の時点でギリギリと言えなくもないけど。
「そう言えば、全員三限あるんですか?」
文句が挙がる筈も無く各々がもそもそと。そんな立ち上がり際に尋ねてみたらば、真っ先に「はい」と答えたのは音無さん。
「えっと、哲郎さん達三人は……同じ講義なんでしたよね……?」
「ああ、そうじゃ。口宮がサボりさえしなけりゃ全員参加じゃな」
「出るっつの。つーか出ねえんだったらとっくに家に帰ってるわ俺」
「かはは、まあお前ならそうくるわな」
「人の家に上がらせてもらっといて失礼な奴だわねえ」
まあ、ともかく出発です。
――あ。そう言えばこの状況じゃあ、栞さんに声が掛けられないな。……仕方ないか。
「お邪魔しました」とお客さん達が(口宮さんだけ無言だったけど)口を揃える中、僕だけ「行ってきます」と言って部屋を出、ちょっと強めにドアを閉じてみる。もしかしたらその音が届いて栞さんが気付くんじゃないかな、と。
「ワウ?」
「おい、孝一達出たんじゃねえか? ドアの音したぞ」
「みたいだな。帰ってきたばかりなのにすぐまたとは、ご苦労様な事だ」
「こくこく」
「え? すぐまたって、一回帰ってきたのにまた行くって事ですか? 大学……でしたっけ」
「そうだよ。お昼ご飯を食べに帰ってきただけだからね。普通は大学の中にある食堂とかで済ませるんだろうけど、孝一くんの場合は家がここだしね。近いから帰ってこれるんだよ」
「へえ」
「それで喜坂、ついて行かなくていいのか? いつもなら午後も一緒だっただろう」
「うーん、でもまだ庭掃除が途中だし。取り敢えずそれを終わらせて、その後で行くよ」
「そうか。お前もご苦労様だな」
聞こえなかったのか聞こえたけど取り込み中なのか、栞さんは出てこない。まあ、ジョンが203号室にいるという事は大吾もいるんだろうし、大吾がいるという事は成美さんもいるんだろうし、清さんは留守だからサーズデイさんとナタリーさんももしかしたら一緒にいたりするのかもしれない。それだけの人数が揃っているなら、無理にお呼び立てする事もないだろう。
「にしても兄ちゃん、全部空き部屋だってのになんで一番奥の部屋なんだ?」
203、202号室とそのドアの前を通り過ぎた辺りで、自分達が出てきたドアを振り返った口宮さんがそう尋ねてきた。
「あ、えーと」
考える。まさか本当は空き部屋じゃないだなんて言える筈も無く、真っ先に思い付いた「窓からの景色が云々」という言い訳も、「どう見たってどの部屋でも同じ」という事実に阻まれて口から出せない。結果、
「す、隅っこって良いと思いませんか? なんとなく」
正直これは苦しいんじゃないかと思わざるを得ない誤魔化し方しか出てこず。
「隅がいいっつうんなら、そこの部屋でいいじゃねえか」
言ってる間に階段を下り始めていた僕達から見て「そこ」、つまりやや上方にある201号室へ親指を向ける口宮さん。隅があるならその反対側も隅なわけで、はい、ごもっともです。
「あ……でも、分かるような気がします……」
するとなんと僕の一つ後ろ、言い換えるなら最後列に位置している音無さんから、助け舟が。
「その部屋だとまだ通路の途中って感じで……隅っこっぽくないと言うか……」
「そうです、そんな感じで一番奥のあの部屋に」
溺れてるところに船が通り掛かったらそりゃあしがみ付くわけで、しかもその船が泥舟でも何でもなく造りのしっかりした船だっていうんだからしがみ付きやすさもかなりのものです。何なら本当に音無さんにしがみ付いて……いや、それはさすがにちょっと。
階段を降りている最中なのでちょいと足元が危険ですが、本人さんを数段下から見上げながらそんな事を考えたり。すると、
「わたしも……隅っことか、結構好きですよ」
口元だけの「にっこり」を向けられた。その瞬間、唐突に高校時代のこの人に抱いていたくすぐったい感情がぶり返してきて、
「ほあっ?」
足の裏から伝わる「ずるん」という感覚。そしてそれに対する妙な声。もちろん僕の。
――声を上げる暇すらなかった、としか。妙な声の後に何も付け加えられないまま僕は階段を、尻で滑り落ちる事になったのでした。
痛む尻をさすりながらよろよろと立ち上がる僕へ、後ろから声。
「ひ、日向くん、大丈夫?」
前のめりで転ばない限りはドラマの階段落ちみたいにゴロゴロいかないんだなあ、と、この時初めて知る。いやまあ、残り数段だったんで大した事もなかったんですけど。
「危ねえ……巻き込まれるとこだったぞ今」
「むしろ三人全員が見事に避けたのは凄かったの。――かはは、日向君からすれば酷い話なんじゃろうが」
一人で落ちたから良かったものの、もし他の人を巻き込んで落ちていたら変にもつれて意外と危なかったかもしれない。それを考えたらとても酷い話とは言えないんだけど……でもやっぱりなんだかちょと悲しい。そして尻が痛い。
「ご……ごめんなさい、わたしが……後ろから話し掛けたから……」
「いや、今のくらいでそんな」
と言うか話し掛けられた事自体は問題無い事なんですよ。それくらいで足踏み外すんだったら階段は凶器ですよ。そうじゃなくて、薄く笑ってたんですよ音無さん。それが問題なんですよ。まあそれで足を踏み外すっていうのは……僕のほうに問題があるとも、言えるんですけど。
「ま、大した事はなさそうじゃな。ほれほれ、あんまり時間取られてると遅刻になるぞ」
「家から近いからって言って余裕こいてたらむしろ遅刻になっちゃうって話ね。なんでそうなるのか不思議だったけど、なるほどこういう事があるからなのねえ」
いや、そう滅多にこんな事はないと思いますけど。
――まあいいや。行きましょう行きましょう、階段から落ちて尻を打った話なんて引きずってもこっ恥ずかしいだけですし。
「それじゃあ、掃除の続きに行こうかな」
「ん、それじゃあわたし達も退散するか」
「ああ、いいよいいよ、ここにいてくれてても。別に栞は構わないし、それに……ほら」
「おや、いつの間にか寝ていたのか。――寝ている時は普通のマリモだな、いつもながら」
「移動の時に起こしちゃったら悪いしねー」
「それくらいで起きるとは思えねえけどな」
「ワウ」
「え? サーズデイさん、顔がどこにもないと思ったら寝てるんですかこれ?」
「おう。どこにもないっつっても下向いてるだけだから、ビンの底からなら見えるぞ。ほれ」
「本当ですね。ふふ、気持ち良さそう。……サーズデイさん、お昼寝が好きだったりするんですか?」
「好きっつーか、コイツは基本的に寝てばっかなんだよな。オマエがいるから頑張って起きてたとかじゃねえのか?」
「え、そんな。なんだか、悪かったですかね?」
「ふ。悪い事なら無理してまで起きたりしないだろうさ。そう思うくらいなら目が覚めた時に礼の一つでも言ってやるといい。きっと喜ぶぞ」
「……はい!」
「ワンッ!」
「それじゃあ喜坂、お言葉に甘えてこのまま居させてもらうぞ」
「うん。じゃあ、行ってくるね」
で、階段落ちの話なんてものがそうそう長続きする筈も無く、あまくに荘から出る頃にはもう別の話題へ。さてそれが何の話題かと言いますと、
「取り敢えず脱いでみれば意外と平気だったりするかもしれんじゃろ? まずやってみん事にはじゃな」
「うう……」
この話題。音無さんからすれば、僕の尻が痛む話を続けていたほうが良かったんだろう。残念ながら僕にも他の人にもそんなつもりはなく、それでこんな残念な展開なんだけど。
「あ、あの……じゃあ、明日から頑張るって事で……今はもう、勘弁してください……」
「ほう、言ったな? かはは、明日が楽しみじゃの」
どう見てもその場凌ぎの口約束とは言え、約束は約束。その言葉を待っていたと言わんばかりに機嫌を良くした同森さんは、歩きながらでありながらも腰に手を当て一笑い。そしてそれを横目に異原さん、汚いものでも見るように目を細め、
「スケベ」
一言。
「何を言うか、悩みを抱える幼馴染に救いの手を差し伸べてるだけじゃろが。それともお前はこのままでいいと?」
「あーあー男ねえ男だわねえ実に男らしい言い分だわねえ。日向くーん、駄目よこんな目で女の子を見るようになっちゃあ」
「え、あ、はあ……」
忠告、と言うよりは同森さんへの当て付けに使われたってとこだろう。男である以上それを完全に無くすのはそりゃ無理ってもんですけど、だからと言ってここで「無理です」と男らしく言い放つのはもっと無理でしょう。そんな事したら音無さん、泣き出すんじゃないでしょうか。
……音無さんが泣き出す? そう言えば、もう一つそんな感じの話が。でもこの話、果たしてこんな所でさらっと訊いちゃっていいものなのか、そもそも場所がどうあれ訊いていいものなのか。
「異原よ、それは日向君に男を捨てろと言ってるようなもんじゃぞ? それが全てとは言わんが、どうあっても気になるじゃろう、そこは」
「ほらやっぱりそういう目で見てるんじゃない。公言するなって話なのよあたしが言ってるのは」
口宮さんが相手の時ほど勢いがないとは言え、口喧嘩モードな異原さん。そして、
「あ、あの……勘弁してくださいってばぁ……」
このままでは本当に泣いてしまうか音無さん。
うーん、そうだな。それを防ぐためにも。
「あの、ちょっといいですか?」
瞬間、それまでの賑やかさが治まり、視線がこちらに集中する。という事で、まずは第一の目標である「音無さんの救出」は達成。まあそれは正直言ってついでみたいなものだけど。
「な……何ですか……?」
しかし僕の意図など知りもしない音無さんは、僕がただ話に混ざろうとしているだけだと思ったんだろう、不安感たっぷりの声色でこちらに合の手。
心配しないでください。そんな話じゃないですから。
「あまくに荘に来てもらったという事でちょっと意見調査なんかを、と思いまして」
「と言われても、何の意見かしら?」
――大丈夫。訊いてみたって疑われやしないさ。
「もしあそこに噂通り幽霊が出るとして、そしたら皆さんはどう思うかな、と。やっぱり怖いですか?」
あそこに本物の幽霊が出るというのは、隠すべき事実だ、だから本来ならこんな質問は不味いんだろう。だけどその事実が特殊な立場、つまり「話としては存在しているけど実際には存在していない」という通念の上に存在しているものだから、
「そうねえ、そりゃあ本物が出てきたら怖いわねえ」
「じゃなきゃ遊園地なんかのお化け屋敷は儲からんしの」
だれもそれが現実の話だとは考えない。紛う事なき現実なのに。
「ですよね……やっぱり怖いですよね……」
ちなみに、話を聞いただけで怖がるのと「本当に出てきたら」という前提があって怖がるのとじゃあまた違う話だと思いますよ音無さん。異原さんと同森さんの意見にほっとしているようですが。
怖がりつつも半分微笑んでいるといった音無さんの声にそんな事を考え、そしてその時。
「でもまあ、美人な女だったら出てきてくれてもいいかもな。幽霊でも」
口宮さんのそんな発言。
「あんたはまたそんな話を……」
異原さんがいつも通りに釘を刺そうと呆れ口調を合わせ始める。が、そこへ更に僕が言葉を重ねる。
「いえ、僕が訊きたかったのはそういう話なんです」
……さすがに「口宮さんの言ったそのままの意味ではないですけど」と付け加えたほうが良かったか、異原さんの視線が痛い。その、下心がどうとかじゃなくてですね。
「えーとですね、だから、幽霊がいたとしてなんで怖いのかな、と。見た目は普通の人と同じですし……じゃなくて、同じだとした場合に」
危ない危ない、つい本音が。
「そりゃあだって、幽霊って事は一度死んじゃった人なんでしょ? それだと……ねえ? 静音」
「え、あ……は、はい……」
考える様子などなく、予め答えを考えていたかのような早さで理由を告げてくる異原さん。そして、動揺しながらではあるものの、しっかりと頷く音無さん。
そういうものなんだろうか。一度死んでしまって、それでもまだこの世にいるという事は、そんなにおかしい事なんだろうか。人間以外の動物には幽霊が普通に見えていて、つまりは幽霊がこの世に存在するという事実こそが、世界の通常であるというのに。
一度死んでしまったからと言って突然おどろおどろしい姿になったり、誰かを呪うだとか言った物騒なものの考え方をするようになるわけじゃあ、ないのに。
「まあでも、もし見た目が普通の人間じゃったらそもそもどうやって幽霊かどうか見分けるかって話じゃの」
同森さんがおどけた口調で言う。おどけた口調であるからには、それは冗談のつもりで言ったんだろう。話のあらと言うか、矛盾と言うか。そういうところを見付けて指摘するのは、友人同士のなんでもない話においてそういう位置付けになるんだろう。
でもその話は、実に見事に僕の話だった。ここに引っ越してくるまで自分が幽霊を見る事ができる体質だとまるで気付いていなかった、大間抜けもいいところなこの僕の。
「それもそうだな。いきなり美人の女が部屋にいたとして、ただのストーカーかもしれねえし」
「誰があんたみたいな奴のストーカーになるってのよ勘違いしてんじゃないわよこの自意識過剰男は」
「例え話でなんでそこまで言われなきゃなんねえんだボケ」
「その幽霊が美人さんである必要もストーカーである必要もそもそも女の人である必要もないじゃないのよ。必要のない設定つけた挙句に中身がこれじゃあ、そう言わざるを得ないじゃないの」
「じゃあもう泥棒。オッサンの。それで文句ねえな? はいはい終わり終わり」
「ん。止める前に治まったようで何よりじゃの」
ここで言い合う異原さんと口宮さん、それを止める同森さんに、あわあわと見守る音無さん。幽霊だってそんなふうに和気藹々と暮らしているのに、その事はどうしても伝わらない。それを僕がどうこう思ったって何も変わらないし、どうこう思う以前に仕方の無い事だというのも分かってるけど――。
「日向くん、どうしたの? どこか調子悪い?」
「あ、いえ。大丈夫ですよ全然」
そういう顔をしていた、という事なんだろう。いつの間にかすぐ隣にいた異原さんがそのおでこ――もとい、顔を、横から僕の顔の前に滑り込ませていた。
「僕が調子悪かったらみんな危ないですよね。同じ店のもの食べたんですし」
まるでそんな気がないとは言え、異原さんはやっぱり女性。動揺は隠し切れず、でもだからといってひけらかすわけにもいかず、軽口で誤魔化してみる。いや、もし本当だったらと考えたら軽口じゃ済まない話だけど。
ほぼ全ての生物に必須たる食物に牙を剥かれると、生物側としてはタジタジなのです。はい。
……その場合、幽霊でもお腹壊したりするのかな?
「そうだ異原さん、あれは今どうですか? 首の」
「え? あら、そう言えば」
顔を引っ込めた異原さんへ、確信犯的な質問。単語の使い方が合っているかどうかはさておき、僕がある事柄を確信しているのは間違いがない。
「来てないわね、今は」
だって今日は栞さんが、幽霊が一緒にいませんからね。
「嫌ねえ、もう気にしてないって言った途端に気になる展開?」
「どーせそれで何か分かるわけでもねえだろ? 気にすんなよ面倒臭え」
「それもまあ、そうよね。うん、やっぱり気にしない」
それが口宮さんの言葉であるというのに、珍しく素直に頷く異原さん。何が何でも反論するだとか、そういうスタンスではないらしい。とするならば口宮さんが大人しくしていればそれなりに仲良くもできるんだろうけど――いや、僕が口を挟む話じゃないか。今で既に仲が良いから一緒に行動してるんだろうし。
話を戻そう。
生きている人たちの間にも、幽霊という考え方はある。でもそれは憶測推測入り乱れたものであって、幽霊の本来の在り方を映し出すものではない。そもそも話としての幽霊なんてものはホラーを楽しむために面白おかしく、そしておどろおどろしく脚色されているもので、何も幽霊の本来を伝えるために語り継がれる話ではない。だからそんな事を期待するのはそれこそおかしい話なんだろう。面白くもおどろおどろしくもないけど。
だからこそさっきの「ストーカー美女や泥棒のおじさん」という話にも難無く逸れたりして、ただの笑い話になる。そうして幽霊は空想の産物として人々の間に広まって――
「音無さん」
「あ、はい……?」
「もし幽霊が僕達とまるで同じ人達で、しかも良い人達だったとして、それでもやっぱり怖いですか?」
「うー……そこまで条件が緩いと……さすがに怖くなさそうですけど……」
「ですよね」
――空想でない、親しみやすい幽霊像は人の間に残らない。それはやっぱりちょっと悲しげな気もするけど、でも幽霊の存在を感知できない人が多数だという事を考えると、これでいいとも思える。幽霊を感知できない人達が幽霊の本当のあり方を知っていたとして、それだと幽霊側からすれば余計に寂しく感じられそうだったからだ。幽霊でない僕がこんな事を考えるのはおこがましいのかもしれないけど。
「日向さんは……幽霊の話とか、好きなんですか……?」
「凄く好きです。ただし、怖くない話限定ですけどね」
ここに引っ越してくるまではそりゃあ、僕も幽霊と言えば怖いものだと思ってたんでしょうけどね。特別そういう話が嫌いだったわけでもないですし。
「ふーん。それでさっきから幽霊を普通の人に近付けようとしてたんだ」
「あそこまでいくともう、幽霊も何もあったもんじゃないがの。丸っきり普通の人じゃし」
「でも怖くない話っつったって、普通は怖いもんだろうがよ。夏とか特にそういう――」
そういう話が多くなる、と繋がるであろう事は容易に想像できる。だけど、繋がらなかった。
途中で止まった口宮さんの口は、音無さんの方を向いて再起動。
「夏どころか、明日からなんだよな? 楽しみにしてんぞおい」
「ぬわぁらっ!」
「ぬがっ!」
口宮さんが厭らしくにやけたところ、その腰付近に回し蹴りヒット。別に回らなくてもそのまま蹴ればいいとも思ったんですが、その威力の上乗せ分だけご立腹だ、という事なんでしょう。それにしたってよく分からない掛け声ですけど。
「さて、話戻すわよ」
うーむ、力強い。
「そうね――もし幽霊が普通の人とあんまり変わらないんだったら、本当に『お化け屋敷』でもいいかもね、日向くんの家」
「要は……人が増えるってだけの話ですもんね……。あそこ、二人しかいないし……」
そうでしょうそうでしょう、とご満悦。もちろん僕が。
あまくに荘は実際にお化け屋敷。そしてそうであったところで、音無さんの言う通りに人が増えるだけ。更にここでは言わないけど、みんな良い人達。だからと言って「いいでしょう」と実際に自慢する事はできないけど――胸を張るくらいなら、構わないですよね?
「もしそんな幽霊が出たら呼んで欲しいもんじゃの」
「別にそうじゃない幽霊でもいいんだけどな、俺は。ただし美人限定」
「あはは、もし出たら呼びますよ。美人でも怖い人だったらそんな余裕ないでしょうけど」
「へん」
これでいいんだと思う。本当は僕があそこに住むよりずっと前から「そうじゃない幽霊」はたくさん住んでて、でもだからと言って幽霊が出たとみんなを呼び集める事はできないけど、これで。
どうあがいたところでどうしようもない問題があるのなら、そこについては妥協しなくてはならない。
だけどそれは諦めるというわけではなくて、妥協するなら妥協するなりにその妥協先で最善を求める努力をする、という事だ。栞さんの涙も、僕の嘘も、諦めるなどと言う投げ遣りな感情からでは出てこない行動だっただろうから。ただ諦めただけだったら僕は幽霊の話を自分から振ったりしないだろうし、栞さんは泣いたりせずに肩を落とすだけだっただろうから。
「出たら……いいですね、そういう幽霊……」
「ですね」
前向きな妥協から生まれた現在の状況。友人同士のこそばゆい雑談。これを生み出すための妥協だと言うなら僕は喜んで行いましょう。幽霊さん達と普通の人達、どちらか一方というわけにはいかないんですから。
そもそもその二つは区別するほど差があるわけでもないですしね。だから僕は、どっちも好きです。
交際中の男性と言うより婚約者なんだけど、まあそこまでひけらかす事もないだろう。家守さんとここのみんなが知り合いっていうならともかく。で、それはそれとしても。
そうか、あの格好はやっぱり「大胆」に分類されるのか。毎晩会ってるとそんな感覚、とっくに麻痺しちゃってるなあ。じゃあもし栞さんがあの格好だったら……………やっぱり完全には麻痺してないか。
あ、でも待てよ。そうは言っても栞さんだって上着は結構。袖無しだから手を挙げたりしたら脇が見えるし。いや別に、そういうのが趣味だとかじゃないんですけど。
「そんな事より、元々は音無さんの話でしたよね?」
「ああ、そう言えばそうだったわね」
この話を続けているとなんだか自分が悲しくなってくるので、ここいらで修正を入れてみる。……と言って、行き着く先が音無さんのあんな話じゃあ、あんまり変わらないのかもしれないけど。
そして当の黒コートさんは「ひうっ」と小さな悲鳴を上げ、あまつさえ足に乗せた手から腕にかけてをピンと張り、身を強張らせる。そこまで嫌がっているのが切っても切り離せない自分の体についての話というのは、なんとも気の毒になるでした。
「どうしよっか静音。さっきも言ったけど、ずっとそのままってわけにはいかないわよ?」
「そうですけど……でも……」
「ぱっぱと脱いじまえばいいだろーがよ。お前みてえなのなんて他にもわんさかいんだぞ? 主にはエロ雑誌とかに」
「しゃっ!」
「どうぶっ!」
罵りの言葉すらなく振り上げる拳に合わせる掛け声のみを口にする異原さん。口宮さんの軽口(なのかどうかは本人次第なんだけど)が度を越えていたという事なのか、それとも回数的な意味でもううんざりしているという事なのか。……まあ、それでも例の如く口宮さんは懲りないんだろうなあ。
女の人が躊躇なく男の人をぶん殴る、なんていきなり見たら何事かと思って然るべき事態も、僕ですらそうなんだから同森さんと音無さんにとってはいつもの光景でしかない。
「……あ……」
という事で、なんとも気の抜けてしまう音無さんの声。
「あの……そろそろ大学に戻ったほうが……」
壁時計を見上げるその姿を見て、その言葉を聞いて、「いやもしかしたら話題を逸らすために努めてそう振舞っているのかもしれない」と思ったりなんだり。でもまあ、話題が逸れても僕は一向に構わないんですけどね。そりゃあ男ですから「そういった意味」での興味が無いとは言いませんけど。
「そう? ……そうみたいね。じゃあ行きましょうか」
現在時刻、十二時四十分ちょっと過ぎ。チキンレースをしているわけでもなし、ギリギリまで粘る事もない。……まあ、考えようによっては今の時点でギリギリと言えなくもないけど。
「そう言えば、全員三限あるんですか?」
文句が挙がる筈も無く各々がもそもそと。そんな立ち上がり際に尋ねてみたらば、真っ先に「はい」と答えたのは音無さん。
「えっと、哲郎さん達三人は……同じ講義なんでしたよね……?」
「ああ、そうじゃ。口宮がサボりさえしなけりゃ全員参加じゃな」
「出るっつの。つーか出ねえんだったらとっくに家に帰ってるわ俺」
「かはは、まあお前ならそうくるわな」
「人の家に上がらせてもらっといて失礼な奴だわねえ」
まあ、ともかく出発です。
――あ。そう言えばこの状況じゃあ、栞さんに声が掛けられないな。……仕方ないか。
「お邪魔しました」とお客さん達が(口宮さんだけ無言だったけど)口を揃える中、僕だけ「行ってきます」と言って部屋を出、ちょっと強めにドアを閉じてみる。もしかしたらその音が届いて栞さんが気付くんじゃないかな、と。
「ワウ?」
「おい、孝一達出たんじゃねえか? ドアの音したぞ」
「みたいだな。帰ってきたばかりなのにすぐまたとは、ご苦労様な事だ」
「こくこく」
「え? すぐまたって、一回帰ってきたのにまた行くって事ですか? 大学……でしたっけ」
「そうだよ。お昼ご飯を食べに帰ってきただけだからね。普通は大学の中にある食堂とかで済ませるんだろうけど、孝一くんの場合は家がここだしね。近いから帰ってこれるんだよ」
「へえ」
「それで喜坂、ついて行かなくていいのか? いつもなら午後も一緒だっただろう」
「うーん、でもまだ庭掃除が途中だし。取り敢えずそれを終わらせて、その後で行くよ」
「そうか。お前もご苦労様だな」
聞こえなかったのか聞こえたけど取り込み中なのか、栞さんは出てこない。まあ、ジョンが203号室にいるという事は大吾もいるんだろうし、大吾がいるという事は成美さんもいるんだろうし、清さんは留守だからサーズデイさんとナタリーさんももしかしたら一緒にいたりするのかもしれない。それだけの人数が揃っているなら、無理にお呼び立てする事もないだろう。
「にしても兄ちゃん、全部空き部屋だってのになんで一番奥の部屋なんだ?」
203、202号室とそのドアの前を通り過ぎた辺りで、自分達が出てきたドアを振り返った口宮さんがそう尋ねてきた。
「あ、えーと」
考える。まさか本当は空き部屋じゃないだなんて言える筈も無く、真っ先に思い付いた「窓からの景色が云々」という言い訳も、「どう見たってどの部屋でも同じ」という事実に阻まれて口から出せない。結果、
「す、隅っこって良いと思いませんか? なんとなく」
正直これは苦しいんじゃないかと思わざるを得ない誤魔化し方しか出てこず。
「隅がいいっつうんなら、そこの部屋でいいじゃねえか」
言ってる間に階段を下り始めていた僕達から見て「そこ」、つまりやや上方にある201号室へ親指を向ける口宮さん。隅があるならその反対側も隅なわけで、はい、ごもっともです。
「あ……でも、分かるような気がします……」
するとなんと僕の一つ後ろ、言い換えるなら最後列に位置している音無さんから、助け舟が。
「その部屋だとまだ通路の途中って感じで……隅っこっぽくないと言うか……」
「そうです、そんな感じで一番奥のあの部屋に」
溺れてるところに船が通り掛かったらそりゃあしがみ付くわけで、しかもその船が泥舟でも何でもなく造りのしっかりした船だっていうんだからしがみ付きやすさもかなりのものです。何なら本当に音無さんにしがみ付いて……いや、それはさすがにちょっと。
階段を降りている最中なのでちょいと足元が危険ですが、本人さんを数段下から見上げながらそんな事を考えたり。すると、
「わたしも……隅っことか、結構好きですよ」
口元だけの「にっこり」を向けられた。その瞬間、唐突に高校時代のこの人に抱いていたくすぐったい感情がぶり返してきて、
「ほあっ?」
足の裏から伝わる「ずるん」という感覚。そしてそれに対する妙な声。もちろん僕の。
――声を上げる暇すらなかった、としか。妙な声の後に何も付け加えられないまま僕は階段を、尻で滑り落ちる事になったのでした。
痛む尻をさすりながらよろよろと立ち上がる僕へ、後ろから声。
「ひ、日向くん、大丈夫?」
前のめりで転ばない限りはドラマの階段落ちみたいにゴロゴロいかないんだなあ、と、この時初めて知る。いやまあ、残り数段だったんで大した事もなかったんですけど。
「危ねえ……巻き込まれるとこだったぞ今」
「むしろ三人全員が見事に避けたのは凄かったの。――かはは、日向君からすれば酷い話なんじゃろうが」
一人で落ちたから良かったものの、もし他の人を巻き込んで落ちていたら変にもつれて意外と危なかったかもしれない。それを考えたらとても酷い話とは言えないんだけど……でもやっぱりなんだかちょと悲しい。そして尻が痛い。
「ご……ごめんなさい、わたしが……後ろから話し掛けたから……」
「いや、今のくらいでそんな」
と言うか話し掛けられた事自体は問題無い事なんですよ。それくらいで足踏み外すんだったら階段は凶器ですよ。そうじゃなくて、薄く笑ってたんですよ音無さん。それが問題なんですよ。まあそれで足を踏み外すっていうのは……僕のほうに問題があるとも、言えるんですけど。
「ま、大した事はなさそうじゃな。ほれほれ、あんまり時間取られてると遅刻になるぞ」
「家から近いからって言って余裕こいてたらむしろ遅刻になっちゃうって話ね。なんでそうなるのか不思議だったけど、なるほどこういう事があるからなのねえ」
いや、そう滅多にこんな事はないと思いますけど。
――まあいいや。行きましょう行きましょう、階段から落ちて尻を打った話なんて引きずってもこっ恥ずかしいだけですし。
「それじゃあ、掃除の続きに行こうかな」
「ん、それじゃあわたし達も退散するか」
「ああ、いいよいいよ、ここにいてくれてても。別に栞は構わないし、それに……ほら」
「おや、いつの間にか寝ていたのか。――寝ている時は普通のマリモだな、いつもながら」
「移動の時に起こしちゃったら悪いしねー」
「それくらいで起きるとは思えねえけどな」
「ワウ」
「え? サーズデイさん、顔がどこにもないと思ったら寝てるんですかこれ?」
「おう。どこにもないっつっても下向いてるだけだから、ビンの底からなら見えるぞ。ほれ」
「本当ですね。ふふ、気持ち良さそう。……サーズデイさん、お昼寝が好きだったりするんですか?」
「好きっつーか、コイツは基本的に寝てばっかなんだよな。オマエがいるから頑張って起きてたとかじゃねえのか?」
「え、そんな。なんだか、悪かったですかね?」
「ふ。悪い事なら無理してまで起きたりしないだろうさ。そう思うくらいなら目が覚めた時に礼の一つでも言ってやるといい。きっと喜ぶぞ」
「……はい!」
「ワンッ!」
「それじゃあ喜坂、お言葉に甘えてこのまま居させてもらうぞ」
「うん。じゃあ、行ってくるね」
で、階段落ちの話なんてものがそうそう長続きする筈も無く、あまくに荘から出る頃にはもう別の話題へ。さてそれが何の話題かと言いますと、
「取り敢えず脱いでみれば意外と平気だったりするかもしれんじゃろ? まずやってみん事にはじゃな」
「うう……」
この話題。音無さんからすれば、僕の尻が痛む話を続けていたほうが良かったんだろう。残念ながら僕にも他の人にもそんなつもりはなく、それでこんな残念な展開なんだけど。
「あ、あの……じゃあ、明日から頑張るって事で……今はもう、勘弁してください……」
「ほう、言ったな? かはは、明日が楽しみじゃの」
どう見てもその場凌ぎの口約束とは言え、約束は約束。その言葉を待っていたと言わんばかりに機嫌を良くした同森さんは、歩きながらでありながらも腰に手を当て一笑い。そしてそれを横目に異原さん、汚いものでも見るように目を細め、
「スケベ」
一言。
「何を言うか、悩みを抱える幼馴染に救いの手を差し伸べてるだけじゃろが。それともお前はこのままでいいと?」
「あーあー男ねえ男だわねえ実に男らしい言い分だわねえ。日向くーん、駄目よこんな目で女の子を見るようになっちゃあ」
「え、あ、はあ……」
忠告、と言うよりは同森さんへの当て付けに使われたってとこだろう。男である以上それを完全に無くすのはそりゃ無理ってもんですけど、だからと言ってここで「無理です」と男らしく言い放つのはもっと無理でしょう。そんな事したら音無さん、泣き出すんじゃないでしょうか。
……音無さんが泣き出す? そう言えば、もう一つそんな感じの話が。でもこの話、果たしてこんな所でさらっと訊いちゃっていいものなのか、そもそも場所がどうあれ訊いていいものなのか。
「異原よ、それは日向君に男を捨てろと言ってるようなもんじゃぞ? それが全てとは言わんが、どうあっても気になるじゃろう、そこは」
「ほらやっぱりそういう目で見てるんじゃない。公言するなって話なのよあたしが言ってるのは」
口宮さんが相手の時ほど勢いがないとは言え、口喧嘩モードな異原さん。そして、
「あ、あの……勘弁してくださいってばぁ……」
このままでは本当に泣いてしまうか音無さん。
うーん、そうだな。それを防ぐためにも。
「あの、ちょっといいですか?」
瞬間、それまでの賑やかさが治まり、視線がこちらに集中する。という事で、まずは第一の目標である「音無さんの救出」は達成。まあそれは正直言ってついでみたいなものだけど。
「な……何ですか……?」
しかし僕の意図など知りもしない音無さんは、僕がただ話に混ざろうとしているだけだと思ったんだろう、不安感たっぷりの声色でこちらに合の手。
心配しないでください。そんな話じゃないですから。
「あまくに荘に来てもらったという事でちょっと意見調査なんかを、と思いまして」
「と言われても、何の意見かしら?」
――大丈夫。訊いてみたって疑われやしないさ。
「もしあそこに噂通り幽霊が出るとして、そしたら皆さんはどう思うかな、と。やっぱり怖いですか?」
あそこに本物の幽霊が出るというのは、隠すべき事実だ、だから本来ならこんな質問は不味いんだろう。だけどその事実が特殊な立場、つまり「話としては存在しているけど実際には存在していない」という通念の上に存在しているものだから、
「そうねえ、そりゃあ本物が出てきたら怖いわねえ」
「じゃなきゃ遊園地なんかのお化け屋敷は儲からんしの」
だれもそれが現実の話だとは考えない。紛う事なき現実なのに。
「ですよね……やっぱり怖いですよね……」
ちなみに、話を聞いただけで怖がるのと「本当に出てきたら」という前提があって怖がるのとじゃあまた違う話だと思いますよ音無さん。異原さんと同森さんの意見にほっとしているようですが。
怖がりつつも半分微笑んでいるといった音無さんの声にそんな事を考え、そしてその時。
「でもまあ、美人な女だったら出てきてくれてもいいかもな。幽霊でも」
口宮さんのそんな発言。
「あんたはまたそんな話を……」
異原さんがいつも通りに釘を刺そうと呆れ口調を合わせ始める。が、そこへ更に僕が言葉を重ねる。
「いえ、僕が訊きたかったのはそういう話なんです」
……さすがに「口宮さんの言ったそのままの意味ではないですけど」と付け加えたほうが良かったか、異原さんの視線が痛い。その、下心がどうとかじゃなくてですね。
「えーとですね、だから、幽霊がいたとしてなんで怖いのかな、と。見た目は普通の人と同じですし……じゃなくて、同じだとした場合に」
危ない危ない、つい本音が。
「そりゃあだって、幽霊って事は一度死んじゃった人なんでしょ? それだと……ねえ? 静音」
「え、あ……は、はい……」
考える様子などなく、予め答えを考えていたかのような早さで理由を告げてくる異原さん。そして、動揺しながらではあるものの、しっかりと頷く音無さん。
そういうものなんだろうか。一度死んでしまって、それでもまだこの世にいるという事は、そんなにおかしい事なんだろうか。人間以外の動物には幽霊が普通に見えていて、つまりは幽霊がこの世に存在するという事実こそが、世界の通常であるというのに。
一度死んでしまったからと言って突然おどろおどろしい姿になったり、誰かを呪うだとか言った物騒なものの考え方をするようになるわけじゃあ、ないのに。
「まあでも、もし見た目が普通の人間じゃったらそもそもどうやって幽霊かどうか見分けるかって話じゃの」
同森さんがおどけた口調で言う。おどけた口調であるからには、それは冗談のつもりで言ったんだろう。話のあらと言うか、矛盾と言うか。そういうところを見付けて指摘するのは、友人同士のなんでもない話においてそういう位置付けになるんだろう。
でもその話は、実に見事に僕の話だった。ここに引っ越してくるまで自分が幽霊を見る事ができる体質だとまるで気付いていなかった、大間抜けもいいところなこの僕の。
「それもそうだな。いきなり美人の女が部屋にいたとして、ただのストーカーかもしれねえし」
「誰があんたみたいな奴のストーカーになるってのよ勘違いしてんじゃないわよこの自意識過剰男は」
「例え話でなんでそこまで言われなきゃなんねえんだボケ」
「その幽霊が美人さんである必要もストーカーである必要もそもそも女の人である必要もないじゃないのよ。必要のない設定つけた挙句に中身がこれじゃあ、そう言わざるを得ないじゃないの」
「じゃあもう泥棒。オッサンの。それで文句ねえな? はいはい終わり終わり」
「ん。止める前に治まったようで何よりじゃの」
ここで言い合う異原さんと口宮さん、それを止める同森さんに、あわあわと見守る音無さん。幽霊だってそんなふうに和気藹々と暮らしているのに、その事はどうしても伝わらない。それを僕がどうこう思ったって何も変わらないし、どうこう思う以前に仕方の無い事だというのも分かってるけど――。
「日向くん、どうしたの? どこか調子悪い?」
「あ、いえ。大丈夫ですよ全然」
そういう顔をしていた、という事なんだろう。いつの間にかすぐ隣にいた異原さんがそのおでこ――もとい、顔を、横から僕の顔の前に滑り込ませていた。
「僕が調子悪かったらみんな危ないですよね。同じ店のもの食べたんですし」
まるでそんな気がないとは言え、異原さんはやっぱり女性。動揺は隠し切れず、でもだからといってひけらかすわけにもいかず、軽口で誤魔化してみる。いや、もし本当だったらと考えたら軽口じゃ済まない話だけど。
ほぼ全ての生物に必須たる食物に牙を剥かれると、生物側としてはタジタジなのです。はい。
……その場合、幽霊でもお腹壊したりするのかな?
「そうだ異原さん、あれは今どうですか? 首の」
「え? あら、そう言えば」
顔を引っ込めた異原さんへ、確信犯的な質問。単語の使い方が合っているかどうかはさておき、僕がある事柄を確信しているのは間違いがない。
「来てないわね、今は」
だって今日は栞さんが、幽霊が一緒にいませんからね。
「嫌ねえ、もう気にしてないって言った途端に気になる展開?」
「どーせそれで何か分かるわけでもねえだろ? 気にすんなよ面倒臭え」
「それもまあ、そうよね。うん、やっぱり気にしない」
それが口宮さんの言葉であるというのに、珍しく素直に頷く異原さん。何が何でも反論するだとか、そういうスタンスではないらしい。とするならば口宮さんが大人しくしていればそれなりに仲良くもできるんだろうけど――いや、僕が口を挟む話じゃないか。今で既に仲が良いから一緒に行動してるんだろうし。
話を戻そう。
生きている人たちの間にも、幽霊という考え方はある。でもそれは憶測推測入り乱れたものであって、幽霊の本来の在り方を映し出すものではない。そもそも話としての幽霊なんてものはホラーを楽しむために面白おかしく、そしておどろおどろしく脚色されているもので、何も幽霊の本来を伝えるために語り継がれる話ではない。だからそんな事を期待するのはそれこそおかしい話なんだろう。面白くもおどろおどろしくもないけど。
だからこそさっきの「ストーカー美女や泥棒のおじさん」という話にも難無く逸れたりして、ただの笑い話になる。そうして幽霊は空想の産物として人々の間に広まって――
「音無さん」
「あ、はい……?」
「もし幽霊が僕達とまるで同じ人達で、しかも良い人達だったとして、それでもやっぱり怖いですか?」
「うー……そこまで条件が緩いと……さすがに怖くなさそうですけど……」
「ですよね」
――空想でない、親しみやすい幽霊像は人の間に残らない。それはやっぱりちょっと悲しげな気もするけど、でも幽霊の存在を感知できない人が多数だという事を考えると、これでいいとも思える。幽霊を感知できない人達が幽霊の本当のあり方を知っていたとして、それだと幽霊側からすれば余計に寂しく感じられそうだったからだ。幽霊でない僕がこんな事を考えるのはおこがましいのかもしれないけど。
「日向さんは……幽霊の話とか、好きなんですか……?」
「凄く好きです。ただし、怖くない話限定ですけどね」
ここに引っ越してくるまではそりゃあ、僕も幽霊と言えば怖いものだと思ってたんでしょうけどね。特別そういう話が嫌いだったわけでもないですし。
「ふーん。それでさっきから幽霊を普通の人に近付けようとしてたんだ」
「あそこまでいくともう、幽霊も何もあったもんじゃないがの。丸っきり普通の人じゃし」
「でも怖くない話っつったって、普通は怖いもんだろうがよ。夏とか特にそういう――」
そういう話が多くなる、と繋がるであろう事は容易に想像できる。だけど、繋がらなかった。
途中で止まった口宮さんの口は、音無さんの方を向いて再起動。
「夏どころか、明日からなんだよな? 楽しみにしてんぞおい」
「ぬわぁらっ!」
「ぬがっ!」
口宮さんが厭らしくにやけたところ、その腰付近に回し蹴りヒット。別に回らなくてもそのまま蹴ればいいとも思ったんですが、その威力の上乗せ分だけご立腹だ、という事なんでしょう。それにしたってよく分からない掛け声ですけど。
「さて、話戻すわよ」
うーむ、力強い。
「そうね――もし幽霊が普通の人とあんまり変わらないんだったら、本当に『お化け屋敷』でもいいかもね、日向くんの家」
「要は……人が増えるってだけの話ですもんね……。あそこ、二人しかいないし……」
そうでしょうそうでしょう、とご満悦。もちろん僕が。
あまくに荘は実際にお化け屋敷。そしてそうであったところで、音無さんの言う通りに人が増えるだけ。更にここでは言わないけど、みんな良い人達。だからと言って「いいでしょう」と実際に自慢する事はできないけど――胸を張るくらいなら、構わないですよね?
「もしそんな幽霊が出たら呼んで欲しいもんじゃの」
「別にそうじゃない幽霊でもいいんだけどな、俺は。ただし美人限定」
「あはは、もし出たら呼びますよ。美人でも怖い人だったらそんな余裕ないでしょうけど」
「へん」
これでいいんだと思う。本当は僕があそこに住むよりずっと前から「そうじゃない幽霊」はたくさん住んでて、でもだからと言って幽霊が出たとみんなを呼び集める事はできないけど、これで。
どうあがいたところでどうしようもない問題があるのなら、そこについては妥協しなくてはならない。
だけどそれは諦めるというわけではなくて、妥協するなら妥協するなりにその妥協先で最善を求める努力をする、という事だ。栞さんの涙も、僕の嘘も、諦めるなどと言う投げ遣りな感情からでは出てこない行動だっただろうから。ただ諦めただけだったら僕は幽霊の話を自分から振ったりしないだろうし、栞さんは泣いたりせずに肩を落とすだけだっただろうから。
「出たら……いいですね、そういう幽霊……」
「ですね」
前向きな妥協から生まれた現在の状況。友人同士のこそばゆい雑談。これを生み出すための妥協だと言うなら僕は喜んで行いましょう。幽霊さん達と普通の人達、どちらか一方というわけにはいかないんですから。
そもそもその二つは区別するほど差があるわけでもないですしね。だから僕は、どっちも好きです。
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