「あ、あの、あの……?」
こういう反応のほうが自然なんだろうな、と思わせてくれるナタリーさんの困惑した声が聞こえ始めた頃、清さんが倒れた家守さんの肩を一方の手で掴んで、もう一方の手を背中に回し、起こそうとしていた。
「心配はご無用ですよ。意識を失って、バランスを崩してしまっただけですから」
清さんに持ち上げられている間、見ていて気の毒になるぐらいぐったりと重力に体を流す家守さん。それをきちんと元の座った姿勢に戻した頃、清さんはいつもの表情を崩さずにそう、僕とナタリーさんに声を掛けてきた。状況を考えればさすがに意識してその調子を作っているのかもしれないけど、そのおかげで気分が落ち着いた。と思う。
「楓殿が爺殿と婆殿を連れてきてくれるまで、このまま暫らく待つであります。自分達の出番はそれからでありますので、今は落ち着いてくださいでありますナタリー殿」
驚いた事を声に出していたからか、それとも同じ立場として気に掛かるのか。ウェンズデーは羽を小さくぱたぱたさせながら、すぐ隣でやっぱりピンと首を持ち上げたままなナタリーさんを気遣ってみせた。
「は、はい。ありがとうございますウェンズデーさん」
するとナタリーさんがお礼を言うわけだけど、するとウェンズデー、羽のぱたぱたを止めて家守さんへ視線を戻してしまう。その際、ウェンズデーが小さく小さく「むむ」と唸ったのはどういう意味だったんだろう。――やっぱり、照れちゃったんだろうね。
しかしそのことに気付いていないのか、はたまた気にする余裕がまだないのか、ナタリーさんはその流れのままウェンズデーに話し掛ける。
「それであの、急かすわけじゃないんですけど、これってどれくらい掛かるもなんでしょうか?」
「むう」
ウェンズデー、答えられない。そこで代わりに答えるのは、再び倒れないようにという事なのか家守さんの傍に腰を落ち着けた「んっふっふ」の人。
「お爺さんお婆さんとの話がすんなり決着したとしても一時間掛かるか掛からないか、と言ったところでしょうか。なんせあちらの役所でお二人の所在地を探すところから始めるそうですからねえ」
それだけ聞いたら、物凄く本格的な人捜し。むしろどうすればたった一時間程度で済むのかとすら思ってしまうけど、そこんとこどうなんでしょ?
「あの、一つ質問が」
タイミングはバッチリだったものの、それを口にしたのは僕ではなくてナタリーさん。やっぱりこんな展開を前にすると、何かしら疑問点は浮かぶものらしい。
「はいはい、何でしょう?」
「ここのみなさんはあっちに行った事って……ない、んですよね?」
「それはもう。幽霊が一度あっちに行ってしまえば、その時点で『あちらの住人』という事になってしまうそうなので」
というと、どういう事? としばし考えてみる。あちらの住人、つまり天国の住人という事となると――あ、そう言えば前に家守さんから説明されたっけ。色々聞いたけど結局のところ、「こっちに来るのに制限がある」ってな内容の話。
へえ、幽霊があっちに行っちゃうとその時点で、ねえ。要するに戻ってこれなくなるって事か。
「でもあの、今あっちに行ってて、それでも身体がここにあるって事は、家守さんも幽霊になってるって事なんじゃないですか? 大丈夫なんでしょうか……」
「ああ、確かにそうなんですが家守さんはまだ存命ですからねえ。それにお仕事でもう何度も行ってらっしゃるわけですし、安心して待っていてください」
ナタリーさんが心配になるのも分かるけど、と言うか僕も似たようなものなんだけど、結局のところ「今まで何度も行ってるんだから」という話になる。だけど自分の目で確認できない清さんがそれだけで「安心して」と言ってのけられるのは、何も楽天的というわけではないのだろう。……名字どうこうの話じゃなくて。
「待ってんのがアレならもっかい外行くか? 寝てるだけみてーなもんっつっても、やっぱ見てていい気のするもんじゃねえしな」
「おや、お前でもそんなふうに物事を見る事もあるのか。意外だな」
「ほっとけよ」
「いやいやそう照れるな。家守が戻ってきたら伝えてやろう」
何気ない気遣いをみせただけの大吾だったのに、大吾が大吾であるが故なのか、猫耳さんから突っ込みを入れられてしまう。
一時は家守さんに弄られてご機嫌斜めだった成美さんでも、自分が弄くるのは面白いらしい。よーく分かるけど。
「けっ、勝手にやってろ。……そんで、どうよナタリー。そっちとしては」
「あ、いえ、せっかくのお誘いですけど、私、ここで待ちます」
「そっか」
どうやら外に行くという提案はナタリーさんだけに向けたものだったようで、丁重に断りを入れられた大吾は、立ち上がろうとさえしなかった。家守さんのぐったりした様子が気になるというより、それに困惑したナタリーさんが気になった、という事なんだろう。
「あの、ありがとうございます」
「いや別に」
周りのみんなの表情がこころなしか緩んでいるのは、「言うまでもない事」に分類してもいいものだろうか。
とにもかくにもただ待ち続け、その間話をしたり家守さんに目が行ったりもしながらある時ふとどれくらい経っただろうかと確認してみれば、家守さんが今の状態になってそろそろ一時間が過ぎようかという頃。長かったような短かったようなという感想はこの際よそに置いておくとして。
「そろそろかもね」
僕が時間を気にした事を契機として部屋内の数名が壁時計へと顔を向け、残る数名はその顔色を窺う。そんな中、時計と僕の顔色の両方に目を遣った栞さんが殆ど独り事のようなボリュームでぽつりとそう漏らした。もちろん、それは僕に向けて言ったんだろうけど。
「あの、栞さん」
「なに?」
どこまで行ってもやっぱり疑問は尽きないもので、返事の代わりに質問を投げ掛ける。
「お爺さんとお婆さんって、どんな感じでこっちに来るんですか? 突然目の前に立ってたりとか?」
家守さんは当然、自分の身体に戻ってくるんだろう。でもお爺さんとお婆さんの身体についてはここにあるわけじゃないので、なら一体どうなるのかな、と。
すると栞さん、小首を傾げて「うーん」と声を上げたのち、
「ごめん、分からないよ」
と自嘲気味に。すると、成美さんがそのフォローに回る。
「わたし達も実際に仕事の様子を見る事は滅多にないからな。家守の口から聞く事以外はあまり詳しくもないのだよ、日向」
「そうなんですか。……ああいえ、全然構わないんですけどね」
家守さんの仕事は依頼先に出向いていく形のものだから、ここに住んでるからって何でもかんでも知ってるわけじゃない。現に僕だって、まだ住み始めて間がないとは言え仕事に立ち会った事なんてないわけだし。だから……と言うか、もしそうじゃなかったとしても、こんな程度の事で腹を立てたりなんかはする筈もない。
「おや」
――なんて、あんまり自慢にもならない自己アピールをしたところで清さんが何かに気付いたらしい。その何かってなんだろう、と清さんのほうを見てみれば、
「おやおや」
その隣の家守さんが目をきょろきょろと動かしていた。
心配するのも筋違いなんだけど、やっぱりどこかほっとしたのは否定できない。
「あ、お帰りなさい楓さん」
栞さんも僕と同じなのか、ちょっとだけ浮付いたような口調になったような気がする。
でもそれはいいとして、問題だったのはその後。きょろきょろさせた目を今度はぱちぱちさせて、家守さんが珍しいものでも見るように栞さんをまじまじと見詰めていた。
「楓さん?」
「ん? なんじゃもう着いたのか? 意外と早いもんじゃのう。それでえーと、これからどうするんじゃったか。ああ、それはそれとして皆さん初めまして」
「んっふっふ、こちらこそ初めまして」
よく普通に返事ができますね清さん、というのは置いといて。
開いた口から出てくるのは、聞き慣れた家守さんの声。ただその口調がどこぞの身長低くてスポーツ刈りで筋肉質でジャージ姿な大学の先輩を思い出させるものだったので、今度はこっちが目をぱちぱちさせてしまう。
いやまあ、普通に考えたらそっちよりもお爺さんお婆さんを想像すべきなんだろうけどね。状況的に。
「いやしかし、本当にあのお嬢さんの身体じゃな。……そうじゃそうじゃ、『ただ立ち上がればいい』じゃったか。よっこらせっと」
お年寄り口調の家守さんはそう言うと、ゆっくり立ち上がる。――と思ったらそうではなく、家守さん本人はぐったりと壁にもたれかかった姿勢のまま。そしてその代わりのようにして、家守さんの身体から何かが「立ち上がってきた」。
だらんと床に下ろされた両手からは、皺が目立つやや骨張った感じの手が。いつも通りの服装から大胆に付け根までが曝け出された両足からは、いつの間にか現れていた和服らしき紺色の生地と、それに通された足が。同じくいつも通りの服装で盛り上がりが目立つ黒Tシャツからは――ああ、やっぱり和服か――足部分と同じ紺色の生地が。そして今は後ろで束ねられている黒い長髪が垂れた頭からは、白い短髪が伸びた頭が。
「えーと、確か続けて婆さんが出てくるっちゅう話じゃったんで、もう少しだけお待ち頂けますか」
足を伸ばし、背筋を伸ばし、顔を上げて、完全に家守さんから分離したそのお爺さんは、すぐ隣に座っていた清さんへ、見た目の高齢さからするとちょっと意外なくらいにハッキリした声でそう告げた。
対して清さん、「ええ、どうぞ楽にしてください」とこの状況を前にして余裕のある発言。こうなると予見していたのかそれとも最初から知っていたのか、はたまたこれくらいじゃ驚かないのか。まあとにかくお客様を迎えるという立場上、そうやって動じずに対応できるというのは見習いたいものです。こういう精神的な安定感を「年の功」って言うんですかね?
――年の話となると、今家守さんから出てきたお爺さん。こちらもそんなとんでもない登場の仕方をしておいて、なんとも落ち着いた様子。清さんから促されるままにゆっくりと、お爺さんという割には腰が曲がったりしていないどっしりした姿勢で腰を落ち着け、たった今自分が通ってきた家守さんの身体を眺めていた。するとそこへ、
「爺殿!」
「お爺さん……!」
ぺたぺたと、そしてするすると、小さな二人が駆け寄る。それに気付いたお爺さんは、膝元へ辿り着いた二人へ向けた目を細めて「おお……」と感動を隠さない声を上げる。
「向こうでこのお嬢さんから話は聞いたよ。ワシなんぞの事を覚えてくれていて、有難う。婆さんもすぐに来るから、もう少し待ってておくれな」
ウェンズデーとナタリーさん。その両方の頭にそっと手を当てて、自分の息子……孫? に向けるように穏やかな顔をするお爺さん。それだけを見ても、この人がウェンズデー達の言うような優しい人だという事は理解できた。もちろんそれだけで断言なんてできないんだろうけど、少なくとも「優しい人」という情報と目の前の人物とは、頭の中で違和感無く合致させられる。今はそれだけで充分だった。
「あらまあ」
そこへ、そんな声。またも家守さんの声で、家守さんのものではない口調。
「おう、来たようじゃな」
その口調だけでお婆さんだと分かるのか、それとも家守さんが最後だと(多分そういう事なんだろう)予め話し合っていたのか、明らかに「見知った者への呼び掛け」な口調で、再び目をきょろきょろさせ始めた家守さんに声を掛けるお爺さん。
「そら出て来い出て来い。あのお嬢さんの言う通り、本当に立ち上がるだけじゃったぞ」
「はあ。それじゃあ、よいしょっと」
その場で足を引いて立ち上がったお爺さんとは違い、一度前に膝をつき、更に前方に手をついて、ゆっくりゆっくりと立ち上がる。そうして、今度はお婆さんが現れた。
お爺さんと同じく和服姿で、色は殆ど白に近い桃色。髪が全て白くなっているお爺さんとは違って、所々に白が混じっているものの、基本的には黒い髪。お爺さんと比べたらちょっと背中が丸くなってるけど、それもまたどことなくふんわりした空気を生み出している……ような、気がする。
「……お婆さん」
「婆殿ー!」
お爺さんの膝元にいた二人、今度はお婆さんの足元へ。ウェンズデーに到ってはもう足元に抱き付かんばかりの勢いです。と言うか、抱き付きました。
「おやまあ。……お爺さん、この子達が?」
「おう。ワシ等と会いたがってくれたそうじゃな」
「まあまあ。有り難うねえペンギンさんに蛇さん」
ひしと自分の足にしがみ付くウェンズデーとその傍にいるナタリーさんをちょっとだけ曲がった背中から見下ろして、お婆さんがにこにこと嬉しそうに口の端を持ち上げ、目を細める。見てるこっちもそんな顔になってしまいそうな状況だし、当人となればそれはもう言葉で表現するのが難しい、と言うかそんな気も起こらないくらいに嬉しかったりするんだろう。
違う場所に行ってしまった後でも元いた場所の誰かに「会いたい」と思ってもらえるというのは、どんな気分なんだろう? 少々頭を捻ってみても、僕には「嬉しいんだろうな」という、そう言ってしまえば大体間違いはないであろうアバウトな想像しかできなかった。
そしてそんな事を考えている間に、お婆さんがウェンズデーの肩(にあたる部分、という事になるのかな。正確には)に手を掛ける。
「ペンギンさんの中にもっと沢山いるんだったかねえ? 不思議だねえ」
家守さんから前もって聞いていた、という事だろう。ウェンズデーとナタリーさんが喋っているのを見ても特に驚いた様子を見せない辺り、大体の事情は伝わっているらしい。
「で、でも婆殿、本当なのであります。みんな爺殿と婆殿に会えて、とても嬉しがっているであります」
ウェンズデーは身体がそんなに大きくないので、肩に手を置かれたというだけでもお婆さんに抱かれているような印象を受ける。そんなウェンズデーは他のみんなの存在を不審がられていると思ったのか、若干不安そうな声。
「ええ、ええ。そう思ってもらえてとっても嬉しいよ」
対するお婆さんはあくまでにこにこと、肩に掛けていた手の片方をウェンズデーの頭へ。そしてそのまま、撫でると言うよりはまさぐるとでも言ったほうが正しそうなくらいにゆったりした動きで、それでもやっぱり撫で始める。それを受けてウェンズデーは、足にしがみ付く力を少しだけ強めたようだった。
「んん……」
まるでそれに反応したかのようなタイミングで、三たび家守さんの身体から声が。という事は?
今度は目だけでなく首も振って部屋内を見渡した家守さんの身体は、最終的にすぐ隣のお爺さんお婆さんへ視線を移す。
「お疲れ様でした山村さん。それと、ようこそいらっしゃいませ」
お客さん相手という事でいつもと言葉遣いは違うけど、どうやら家守さんで間違いはないらしい。そして、お爺さんお婆さんの名字は山村というそうだ。
気がついて早々に崩れていた姿勢を正座の形に正し、山村夫妻に向き合う家守さん。それに応じてお爺さんも姿勢を正し、ウェンズデーに抱き付かれて立ったままだったお婆さんはゆるりとお爺さんの隣へ腰を落ち着ける。
「まだ連れてきて頂いたばかりですが、今の時点で嬉しくて堪りませんわい。口で言うぐらいのお礼しかできやしませんが――本当に、有り難うございます」
お爺さんが両手を前につき、丁寧に頭を下げると、お婆さんもそれに倣う。
「有り難うございます」
すると家守さんは、
「お二人の話は、この子達から何度も聞いていたんです。それがあった上での判断ですが、この子達が人間を好きになってくれて、その上今こうして一緒に暮らしていられるのは、お二人がいてこそです。ですから……お礼を言うのは、こちらなのかもしれませんね」
そう言って軽く笑みを浮かべながら、頭を下げ返した。
「そう言って頂けると、ますます嬉しいですな」
「本当にねえ」
お爺さんは膝元のナタリーさんに視線を落としつつ、二カッと爽快に白い歯を見せる。お婆さんは同じく膝元のウェンズデーに視線を落としつつ、にこにこと柔らかく頬に手を当てる。
正体はよく分からないけど、お年寄りと話をする際のどこかほっとするような雰囲気。この二人からは、それが一層強く感じられた。とは言え正体が分からない以上、それが本当にあちらの年齢に関係する部分なのかどうかと訊かれれば強くは出られないわけですけどね。もしかしたら単にそういう人達だって話なのかもしれないし。
「……あら?」
誰かに話し掛けようとしたのか座ったまま体の向きを変え始めたお婆さんが、不意に何かを思いついたような声を上げる。
「どうしたでありますか? 婆殿」
見上げるウェンズデーが声を掛けるも、お婆さんは自分の背後が気になる様子で、やや前傾気味の背中を後ろに倒して後ろを見ようとする。しかし後ろに誰かがいるわけでもなく、一体何をそんなに?
「あら、お爺さんお爺さん、履き物」
「お? ……お、おお。うっかり忘れとったわい」
手招きするような動きで叔母さんに声を掛けられ、お爺さんも「それ」に気が付く。
どうやら下履きを履いたままだったらしく、二人揃っていそいそと草履を脱ぎ始めた。
「これはとんだ失礼を。……この部屋は、どなたのお住まいなんですかな」
「ああ、私です」
部屋内の全員を見渡すお爺さんに、家守さんの後ろからゆるーく手を挙げながら身を乗り出したのは、102号室の主である清さん。草履を膝の上へ逆さまに置きながら申しわけ無さそうなお爺さんお婆さんに対して、いつものように笑顔のまま。そしていつもと同じ笑い声を口の中で響かせた後、
「どうぞ、お気になさらず。家守さんの身体から出てこられた以上、仕方の無い事ですから。――だからと言って、眠っている家守さんを外に追い出すわけにもいきませんしね」
後半を冗談っぽく発音し、再び笑い声。合わせて、家守さんも笑った。
「目が覚めていきなり外に放り出されてたら、暫らく塞ぎ込んじゃうかもねえ」
そんな二人にお爺さんは、
「いやはや、面目無い」
恥ずかしそうに頭を抑えながら、控えめではあるもののやっぱり笑っていた。そしてそれは、お婆さんも同じく。
「楽しそうだねえ、ペンギンさん」
「今はウェンズデーという名前を貰っているであります、婆殿」
羽をぱたぱたさせながら申告してくるウェンズデーに、お婆さんは「そうなのかい?」とちょっと驚いたような顔。そう言えば、お爺さんお婆さんは屋敷の動物に名前を付けてなかったんだっけ。
「その名前は、好きなのかい?」
驚いた表情から柔らかい表情に戻り、同時にそう尋ねてくるお婆さんに、ウェンズデーのぱたぱたが止まる。
「はいであります。それに今自分達はくっ付いてしまっているでありますので、名前がないと誰が呼ばれているのか困ってしまうであります。……それから、ここでの暮らしはとても楽しいであります」
「そうかい、そうかい」
そうしているだけでも楽しいと言わんばかりに、うんうんと頷きながらウェンズデーの話に耳を傾けるお婆さん。ウェンズデーもお婆さんと話をしている事それ自体が嬉しいらしく、いつもより声がちょっとだけ大きい。
そんな「お婆ちゃんとお婆ちゃんっ子の孫」を連想させる二人の横では、お爺さんがナタリーさんと視線を重ねる。
「蛇さんはどうなんじゃい、名前のほうは」
「動物園で、ナタリーという名前を貰いました。ここでもそう呼んでもらっています。……と言っても、ここに来たのは昨日の話なんですけど」
ほんの少しだけ戸惑うようにそう言うナタリーさんを、お爺さんは「かかか」と笑い飛ばした。
――しゃっきりした背筋とか通りのいい声とか、若々しい人だなあ。こんな時にこんなところ見るのもなんだけど、入れ歯って感じでもなさそうだし、その上歯並び綺麗だし。
「どれだけ長くここいるのか、なんてのは大した問題じゃないわい。時間なんて放っといても流れるもんじゃしな。『ここでも名前で呼ばれている』んじゃろ? その事だけで充分だとは、思えんかのう?」
僕の場違いな観察などは口にしない以上もちろん誰の意識にも触れず、その間、ナタリーさんに対してお爺さんが返答。昨日ここへ来たナタリーさんは、昨日からずっとそうだったように、身動き一つせずお爺さんを見上げている。
「……………」
動きがないものだから判断し辛いけど、どうやら返事に詰まっているらしい。お爺さんが口を閉じても、ナタリーさんは何も言わなかった。そうして暫らくの間があって、お爺さんが「説教ぽくなってしもうたな」と困ったように鼻を鳴らす。
それに対して「そうですよ、本当」と呆れたように続いたのは、お婆さんだった。
「履き物、置きに行きますよ。いつまでも手に持ったままだなんて失礼ですから」
「分かった、分かった」
柔らかな声質をそれでも不機嫌だと分かるような口調に乗せ、お爺さんを叱り付けるようにしながらゆっくりと立ち上がるお婆さん。お爺さんもかったるそうな返事をしながら、それでも素直にお婆さんに続いて立ち上がる。
「あ、持って行きますよ」
二人に続いて清さんまでもがそう言いながら立ち上がるも、「いえいえ、お気遣いなく」とお婆さんにやんわり断られ、結局その場に再び座り込んだ。
「それでは失礼して」
と言うほど玄関は遠くにあるわけじゃないけど、とにかくそう言い残して、お婆さんはお爺さんを引き連れ玄関へ。草履を置くだけだからすぐに戻ってくるだろうけどね。
「はふう」
そこで唐突に気の抜けてしまいそうな声。見れば、玄関の方を向いたウェンズデーがぺたんと尻餅を付いていた。尻尾にしか見えない尾羽が床へ押し付けられ、お尻と床の間からちょっとだけ顔を覗かせているのは、なんだか可愛らしい。
「どうしたよ、ウェンズデー」
ここで久しぶりに大吾が口を開く。と言うかお爺さんが出てきてから、大人二名とアニマル二名以外は一切喋ってなかったんですけどね。僕も含めて。
「緊張の糸が切れたのだろう。それくらい察してやらんか世話係」
たしなめるような次の声が部屋内に通ると、大吾は苦々しい顔になる。声の主が誰かは――まあ、言うまでもないとして、大吾は一生懸命に反論を考えているのか、その猫耳女性の顔を睨み続ける。一方で、睨まれている側は澄ました顔。今の今まで全く口を閉ざしていたのに、開いた途端こういうお決まりの状況にもつれ込めるというのは、もう特技のレベルなのかもしれない。もちろんそれは今更言うまでもない事なんだけど、「お爺さんお婆さん」という落ち着きの後にこれというのは、なんとも印象深い落差があるのでした。
さて、そんな事を考えている間に大吾も成美さんへの反論を思いついたようです。
「……んでよ、成美。それはまあ置いといて、だ」
「なんだ?」
「初対面の客が来てるわけだけどよ、帽子はいいのか?」
「――あ」
それまで「何でも来い」と言わんばかりに余裕しゃくしゃくの表情だった成美さんが一瞬にして気の抜けた顔になり、思い出したように両手を頭へ。ナタリーさんにねだられて大人バージョンになってから今までそのままだったが故に、そこには当然猫耳ワンペア。
「し、しまった……」
そして、頭を押さえたままうなだれる。そのポーズだけ見れば頭痛がするか、もしくは大袈裟なくらい何かに悩んでいるように見えるけど、まあ実際はそういう事じゃないんだろう。
こういう反応のほうが自然なんだろうな、と思わせてくれるナタリーさんの困惑した声が聞こえ始めた頃、清さんが倒れた家守さんの肩を一方の手で掴んで、もう一方の手を背中に回し、起こそうとしていた。
「心配はご無用ですよ。意識を失って、バランスを崩してしまっただけですから」
清さんに持ち上げられている間、見ていて気の毒になるぐらいぐったりと重力に体を流す家守さん。それをきちんと元の座った姿勢に戻した頃、清さんはいつもの表情を崩さずにそう、僕とナタリーさんに声を掛けてきた。状況を考えればさすがに意識してその調子を作っているのかもしれないけど、そのおかげで気分が落ち着いた。と思う。
「楓殿が爺殿と婆殿を連れてきてくれるまで、このまま暫らく待つであります。自分達の出番はそれからでありますので、今は落ち着いてくださいでありますナタリー殿」
驚いた事を声に出していたからか、それとも同じ立場として気に掛かるのか。ウェンズデーは羽を小さくぱたぱたさせながら、すぐ隣でやっぱりピンと首を持ち上げたままなナタリーさんを気遣ってみせた。
「は、はい。ありがとうございますウェンズデーさん」
するとナタリーさんがお礼を言うわけだけど、するとウェンズデー、羽のぱたぱたを止めて家守さんへ視線を戻してしまう。その際、ウェンズデーが小さく小さく「むむ」と唸ったのはどういう意味だったんだろう。――やっぱり、照れちゃったんだろうね。
しかしそのことに気付いていないのか、はたまた気にする余裕がまだないのか、ナタリーさんはその流れのままウェンズデーに話し掛ける。
「それであの、急かすわけじゃないんですけど、これってどれくらい掛かるもなんでしょうか?」
「むう」
ウェンズデー、答えられない。そこで代わりに答えるのは、再び倒れないようにという事なのか家守さんの傍に腰を落ち着けた「んっふっふ」の人。
「お爺さんお婆さんとの話がすんなり決着したとしても一時間掛かるか掛からないか、と言ったところでしょうか。なんせあちらの役所でお二人の所在地を探すところから始めるそうですからねえ」
それだけ聞いたら、物凄く本格的な人捜し。むしろどうすればたった一時間程度で済むのかとすら思ってしまうけど、そこんとこどうなんでしょ?
「あの、一つ質問が」
タイミングはバッチリだったものの、それを口にしたのは僕ではなくてナタリーさん。やっぱりこんな展開を前にすると、何かしら疑問点は浮かぶものらしい。
「はいはい、何でしょう?」
「ここのみなさんはあっちに行った事って……ない、んですよね?」
「それはもう。幽霊が一度あっちに行ってしまえば、その時点で『あちらの住人』という事になってしまうそうなので」
というと、どういう事? としばし考えてみる。あちらの住人、つまり天国の住人という事となると――あ、そう言えば前に家守さんから説明されたっけ。色々聞いたけど結局のところ、「こっちに来るのに制限がある」ってな内容の話。
へえ、幽霊があっちに行っちゃうとその時点で、ねえ。要するに戻ってこれなくなるって事か。
「でもあの、今あっちに行ってて、それでも身体がここにあるって事は、家守さんも幽霊になってるって事なんじゃないですか? 大丈夫なんでしょうか……」
「ああ、確かにそうなんですが家守さんはまだ存命ですからねえ。それにお仕事でもう何度も行ってらっしゃるわけですし、安心して待っていてください」
ナタリーさんが心配になるのも分かるけど、と言うか僕も似たようなものなんだけど、結局のところ「今まで何度も行ってるんだから」という話になる。だけど自分の目で確認できない清さんがそれだけで「安心して」と言ってのけられるのは、何も楽天的というわけではないのだろう。……名字どうこうの話じゃなくて。
「待ってんのがアレならもっかい外行くか? 寝てるだけみてーなもんっつっても、やっぱ見てていい気のするもんじゃねえしな」
「おや、お前でもそんなふうに物事を見る事もあるのか。意外だな」
「ほっとけよ」
「いやいやそう照れるな。家守が戻ってきたら伝えてやろう」
何気ない気遣いをみせただけの大吾だったのに、大吾が大吾であるが故なのか、猫耳さんから突っ込みを入れられてしまう。
一時は家守さんに弄られてご機嫌斜めだった成美さんでも、自分が弄くるのは面白いらしい。よーく分かるけど。
「けっ、勝手にやってろ。……そんで、どうよナタリー。そっちとしては」
「あ、いえ、せっかくのお誘いですけど、私、ここで待ちます」
「そっか」
どうやら外に行くという提案はナタリーさんだけに向けたものだったようで、丁重に断りを入れられた大吾は、立ち上がろうとさえしなかった。家守さんのぐったりした様子が気になるというより、それに困惑したナタリーさんが気になった、という事なんだろう。
「あの、ありがとうございます」
「いや別に」
周りのみんなの表情がこころなしか緩んでいるのは、「言うまでもない事」に分類してもいいものだろうか。
とにもかくにもただ待ち続け、その間話をしたり家守さんに目が行ったりもしながらある時ふとどれくらい経っただろうかと確認してみれば、家守さんが今の状態になってそろそろ一時間が過ぎようかという頃。長かったような短かったようなという感想はこの際よそに置いておくとして。
「そろそろかもね」
僕が時間を気にした事を契機として部屋内の数名が壁時計へと顔を向け、残る数名はその顔色を窺う。そんな中、時計と僕の顔色の両方に目を遣った栞さんが殆ど独り事のようなボリュームでぽつりとそう漏らした。もちろん、それは僕に向けて言ったんだろうけど。
「あの、栞さん」
「なに?」
どこまで行ってもやっぱり疑問は尽きないもので、返事の代わりに質問を投げ掛ける。
「お爺さんとお婆さんって、どんな感じでこっちに来るんですか? 突然目の前に立ってたりとか?」
家守さんは当然、自分の身体に戻ってくるんだろう。でもお爺さんとお婆さんの身体についてはここにあるわけじゃないので、なら一体どうなるのかな、と。
すると栞さん、小首を傾げて「うーん」と声を上げたのち、
「ごめん、分からないよ」
と自嘲気味に。すると、成美さんがそのフォローに回る。
「わたし達も実際に仕事の様子を見る事は滅多にないからな。家守の口から聞く事以外はあまり詳しくもないのだよ、日向」
「そうなんですか。……ああいえ、全然構わないんですけどね」
家守さんの仕事は依頼先に出向いていく形のものだから、ここに住んでるからって何でもかんでも知ってるわけじゃない。現に僕だって、まだ住み始めて間がないとは言え仕事に立ち会った事なんてないわけだし。だから……と言うか、もしそうじゃなかったとしても、こんな程度の事で腹を立てたりなんかはする筈もない。
「おや」
――なんて、あんまり自慢にもならない自己アピールをしたところで清さんが何かに気付いたらしい。その何かってなんだろう、と清さんのほうを見てみれば、
「おやおや」
その隣の家守さんが目をきょろきょろと動かしていた。
心配するのも筋違いなんだけど、やっぱりどこかほっとしたのは否定できない。
「あ、お帰りなさい楓さん」
栞さんも僕と同じなのか、ちょっとだけ浮付いたような口調になったような気がする。
でもそれはいいとして、問題だったのはその後。きょろきょろさせた目を今度はぱちぱちさせて、家守さんが珍しいものでも見るように栞さんをまじまじと見詰めていた。
「楓さん?」
「ん? なんじゃもう着いたのか? 意外と早いもんじゃのう。それでえーと、これからどうするんじゃったか。ああ、それはそれとして皆さん初めまして」
「んっふっふ、こちらこそ初めまして」
よく普通に返事ができますね清さん、というのは置いといて。
開いた口から出てくるのは、聞き慣れた家守さんの声。ただその口調がどこぞの身長低くてスポーツ刈りで筋肉質でジャージ姿な大学の先輩を思い出させるものだったので、今度はこっちが目をぱちぱちさせてしまう。
いやまあ、普通に考えたらそっちよりもお爺さんお婆さんを想像すべきなんだろうけどね。状況的に。
「いやしかし、本当にあのお嬢さんの身体じゃな。……そうじゃそうじゃ、『ただ立ち上がればいい』じゃったか。よっこらせっと」
お年寄り口調の家守さんはそう言うと、ゆっくり立ち上がる。――と思ったらそうではなく、家守さん本人はぐったりと壁にもたれかかった姿勢のまま。そしてその代わりのようにして、家守さんの身体から何かが「立ち上がってきた」。
だらんと床に下ろされた両手からは、皺が目立つやや骨張った感じの手が。いつも通りの服装から大胆に付け根までが曝け出された両足からは、いつの間にか現れていた和服らしき紺色の生地と、それに通された足が。同じくいつも通りの服装で盛り上がりが目立つ黒Tシャツからは――ああ、やっぱり和服か――足部分と同じ紺色の生地が。そして今は後ろで束ねられている黒い長髪が垂れた頭からは、白い短髪が伸びた頭が。
「えーと、確か続けて婆さんが出てくるっちゅう話じゃったんで、もう少しだけお待ち頂けますか」
足を伸ばし、背筋を伸ばし、顔を上げて、完全に家守さんから分離したそのお爺さんは、すぐ隣に座っていた清さんへ、見た目の高齢さからするとちょっと意外なくらいにハッキリした声でそう告げた。
対して清さん、「ええ、どうぞ楽にしてください」とこの状況を前にして余裕のある発言。こうなると予見していたのかそれとも最初から知っていたのか、はたまたこれくらいじゃ驚かないのか。まあとにかくお客様を迎えるという立場上、そうやって動じずに対応できるというのは見習いたいものです。こういう精神的な安定感を「年の功」って言うんですかね?
――年の話となると、今家守さんから出てきたお爺さん。こちらもそんなとんでもない登場の仕方をしておいて、なんとも落ち着いた様子。清さんから促されるままにゆっくりと、お爺さんという割には腰が曲がったりしていないどっしりした姿勢で腰を落ち着け、たった今自分が通ってきた家守さんの身体を眺めていた。するとそこへ、
「爺殿!」
「お爺さん……!」
ぺたぺたと、そしてするすると、小さな二人が駆け寄る。それに気付いたお爺さんは、膝元へ辿り着いた二人へ向けた目を細めて「おお……」と感動を隠さない声を上げる。
「向こうでこのお嬢さんから話は聞いたよ。ワシなんぞの事を覚えてくれていて、有難う。婆さんもすぐに来るから、もう少し待ってておくれな」
ウェンズデーとナタリーさん。その両方の頭にそっと手を当てて、自分の息子……孫? に向けるように穏やかな顔をするお爺さん。それだけを見ても、この人がウェンズデー達の言うような優しい人だという事は理解できた。もちろんそれだけで断言なんてできないんだろうけど、少なくとも「優しい人」という情報と目の前の人物とは、頭の中で違和感無く合致させられる。今はそれだけで充分だった。
「あらまあ」
そこへ、そんな声。またも家守さんの声で、家守さんのものではない口調。
「おう、来たようじゃな」
その口調だけでお婆さんだと分かるのか、それとも家守さんが最後だと(多分そういう事なんだろう)予め話し合っていたのか、明らかに「見知った者への呼び掛け」な口調で、再び目をきょろきょろさせ始めた家守さんに声を掛けるお爺さん。
「そら出て来い出て来い。あのお嬢さんの言う通り、本当に立ち上がるだけじゃったぞ」
「はあ。それじゃあ、よいしょっと」
その場で足を引いて立ち上がったお爺さんとは違い、一度前に膝をつき、更に前方に手をついて、ゆっくりゆっくりと立ち上がる。そうして、今度はお婆さんが現れた。
お爺さんと同じく和服姿で、色は殆ど白に近い桃色。髪が全て白くなっているお爺さんとは違って、所々に白が混じっているものの、基本的には黒い髪。お爺さんと比べたらちょっと背中が丸くなってるけど、それもまたどことなくふんわりした空気を生み出している……ような、気がする。
「……お婆さん」
「婆殿ー!」
お爺さんの膝元にいた二人、今度はお婆さんの足元へ。ウェンズデーに到ってはもう足元に抱き付かんばかりの勢いです。と言うか、抱き付きました。
「おやまあ。……お爺さん、この子達が?」
「おう。ワシ等と会いたがってくれたそうじゃな」
「まあまあ。有り難うねえペンギンさんに蛇さん」
ひしと自分の足にしがみ付くウェンズデーとその傍にいるナタリーさんをちょっとだけ曲がった背中から見下ろして、お婆さんがにこにこと嬉しそうに口の端を持ち上げ、目を細める。見てるこっちもそんな顔になってしまいそうな状況だし、当人となればそれはもう言葉で表現するのが難しい、と言うかそんな気も起こらないくらいに嬉しかったりするんだろう。
違う場所に行ってしまった後でも元いた場所の誰かに「会いたい」と思ってもらえるというのは、どんな気分なんだろう? 少々頭を捻ってみても、僕には「嬉しいんだろうな」という、そう言ってしまえば大体間違いはないであろうアバウトな想像しかできなかった。
そしてそんな事を考えている間に、お婆さんがウェンズデーの肩(にあたる部分、という事になるのかな。正確には)に手を掛ける。
「ペンギンさんの中にもっと沢山いるんだったかねえ? 不思議だねえ」
家守さんから前もって聞いていた、という事だろう。ウェンズデーとナタリーさんが喋っているのを見ても特に驚いた様子を見せない辺り、大体の事情は伝わっているらしい。
「で、でも婆殿、本当なのであります。みんな爺殿と婆殿に会えて、とても嬉しがっているであります」
ウェンズデーは身体がそんなに大きくないので、肩に手を置かれたというだけでもお婆さんに抱かれているような印象を受ける。そんなウェンズデーは他のみんなの存在を不審がられていると思ったのか、若干不安そうな声。
「ええ、ええ。そう思ってもらえてとっても嬉しいよ」
対するお婆さんはあくまでにこにこと、肩に掛けていた手の片方をウェンズデーの頭へ。そしてそのまま、撫でると言うよりはまさぐるとでも言ったほうが正しそうなくらいにゆったりした動きで、それでもやっぱり撫で始める。それを受けてウェンズデーは、足にしがみ付く力を少しだけ強めたようだった。
「んん……」
まるでそれに反応したかのようなタイミングで、三たび家守さんの身体から声が。という事は?
今度は目だけでなく首も振って部屋内を見渡した家守さんの身体は、最終的にすぐ隣のお爺さんお婆さんへ視線を移す。
「お疲れ様でした山村さん。それと、ようこそいらっしゃいませ」
お客さん相手という事でいつもと言葉遣いは違うけど、どうやら家守さんで間違いはないらしい。そして、お爺さんお婆さんの名字は山村というそうだ。
気がついて早々に崩れていた姿勢を正座の形に正し、山村夫妻に向き合う家守さん。それに応じてお爺さんも姿勢を正し、ウェンズデーに抱き付かれて立ったままだったお婆さんはゆるりとお爺さんの隣へ腰を落ち着ける。
「まだ連れてきて頂いたばかりですが、今の時点で嬉しくて堪りませんわい。口で言うぐらいのお礼しかできやしませんが――本当に、有り難うございます」
お爺さんが両手を前につき、丁寧に頭を下げると、お婆さんもそれに倣う。
「有り難うございます」
すると家守さんは、
「お二人の話は、この子達から何度も聞いていたんです。それがあった上での判断ですが、この子達が人間を好きになってくれて、その上今こうして一緒に暮らしていられるのは、お二人がいてこそです。ですから……お礼を言うのは、こちらなのかもしれませんね」
そう言って軽く笑みを浮かべながら、頭を下げ返した。
「そう言って頂けると、ますます嬉しいですな」
「本当にねえ」
お爺さんは膝元のナタリーさんに視線を落としつつ、二カッと爽快に白い歯を見せる。お婆さんは同じく膝元のウェンズデーに視線を落としつつ、にこにこと柔らかく頬に手を当てる。
正体はよく分からないけど、お年寄りと話をする際のどこかほっとするような雰囲気。この二人からは、それが一層強く感じられた。とは言え正体が分からない以上、それが本当にあちらの年齢に関係する部分なのかどうかと訊かれれば強くは出られないわけですけどね。もしかしたら単にそういう人達だって話なのかもしれないし。
「……あら?」
誰かに話し掛けようとしたのか座ったまま体の向きを変え始めたお婆さんが、不意に何かを思いついたような声を上げる。
「どうしたでありますか? 婆殿」
見上げるウェンズデーが声を掛けるも、お婆さんは自分の背後が気になる様子で、やや前傾気味の背中を後ろに倒して後ろを見ようとする。しかし後ろに誰かがいるわけでもなく、一体何をそんなに?
「あら、お爺さんお爺さん、履き物」
「お? ……お、おお。うっかり忘れとったわい」
手招きするような動きで叔母さんに声を掛けられ、お爺さんも「それ」に気が付く。
どうやら下履きを履いたままだったらしく、二人揃っていそいそと草履を脱ぎ始めた。
「これはとんだ失礼を。……この部屋は、どなたのお住まいなんですかな」
「ああ、私です」
部屋内の全員を見渡すお爺さんに、家守さんの後ろからゆるーく手を挙げながら身を乗り出したのは、102号室の主である清さん。草履を膝の上へ逆さまに置きながら申しわけ無さそうなお爺さんお婆さんに対して、いつものように笑顔のまま。そしていつもと同じ笑い声を口の中で響かせた後、
「どうぞ、お気になさらず。家守さんの身体から出てこられた以上、仕方の無い事ですから。――だからと言って、眠っている家守さんを外に追い出すわけにもいきませんしね」
後半を冗談っぽく発音し、再び笑い声。合わせて、家守さんも笑った。
「目が覚めていきなり外に放り出されてたら、暫らく塞ぎ込んじゃうかもねえ」
そんな二人にお爺さんは、
「いやはや、面目無い」
恥ずかしそうに頭を抑えながら、控えめではあるもののやっぱり笑っていた。そしてそれは、お婆さんも同じく。
「楽しそうだねえ、ペンギンさん」
「今はウェンズデーという名前を貰っているであります、婆殿」
羽をぱたぱたさせながら申告してくるウェンズデーに、お婆さんは「そうなのかい?」とちょっと驚いたような顔。そう言えば、お爺さんお婆さんは屋敷の動物に名前を付けてなかったんだっけ。
「その名前は、好きなのかい?」
驚いた表情から柔らかい表情に戻り、同時にそう尋ねてくるお婆さんに、ウェンズデーのぱたぱたが止まる。
「はいであります。それに今自分達はくっ付いてしまっているでありますので、名前がないと誰が呼ばれているのか困ってしまうであります。……それから、ここでの暮らしはとても楽しいであります」
「そうかい、そうかい」
そうしているだけでも楽しいと言わんばかりに、うんうんと頷きながらウェンズデーの話に耳を傾けるお婆さん。ウェンズデーもお婆さんと話をしている事それ自体が嬉しいらしく、いつもより声がちょっとだけ大きい。
そんな「お婆ちゃんとお婆ちゃんっ子の孫」を連想させる二人の横では、お爺さんがナタリーさんと視線を重ねる。
「蛇さんはどうなんじゃい、名前のほうは」
「動物園で、ナタリーという名前を貰いました。ここでもそう呼んでもらっています。……と言っても、ここに来たのは昨日の話なんですけど」
ほんの少しだけ戸惑うようにそう言うナタリーさんを、お爺さんは「かかか」と笑い飛ばした。
――しゃっきりした背筋とか通りのいい声とか、若々しい人だなあ。こんな時にこんなところ見るのもなんだけど、入れ歯って感じでもなさそうだし、その上歯並び綺麗だし。
「どれだけ長くここいるのか、なんてのは大した問題じゃないわい。時間なんて放っといても流れるもんじゃしな。『ここでも名前で呼ばれている』んじゃろ? その事だけで充分だとは、思えんかのう?」
僕の場違いな観察などは口にしない以上もちろん誰の意識にも触れず、その間、ナタリーさんに対してお爺さんが返答。昨日ここへ来たナタリーさんは、昨日からずっとそうだったように、身動き一つせずお爺さんを見上げている。
「……………」
動きがないものだから判断し辛いけど、どうやら返事に詰まっているらしい。お爺さんが口を閉じても、ナタリーさんは何も言わなかった。そうして暫らくの間があって、お爺さんが「説教ぽくなってしもうたな」と困ったように鼻を鳴らす。
それに対して「そうですよ、本当」と呆れたように続いたのは、お婆さんだった。
「履き物、置きに行きますよ。いつまでも手に持ったままだなんて失礼ですから」
「分かった、分かった」
柔らかな声質をそれでも不機嫌だと分かるような口調に乗せ、お爺さんを叱り付けるようにしながらゆっくりと立ち上がるお婆さん。お爺さんもかったるそうな返事をしながら、それでも素直にお婆さんに続いて立ち上がる。
「あ、持って行きますよ」
二人に続いて清さんまでもがそう言いながら立ち上がるも、「いえいえ、お気遣いなく」とお婆さんにやんわり断られ、結局その場に再び座り込んだ。
「それでは失礼して」
と言うほど玄関は遠くにあるわけじゃないけど、とにかくそう言い残して、お婆さんはお爺さんを引き連れ玄関へ。草履を置くだけだからすぐに戻ってくるだろうけどね。
「はふう」
そこで唐突に気の抜けてしまいそうな声。見れば、玄関の方を向いたウェンズデーがぺたんと尻餅を付いていた。尻尾にしか見えない尾羽が床へ押し付けられ、お尻と床の間からちょっとだけ顔を覗かせているのは、なんだか可愛らしい。
「どうしたよ、ウェンズデー」
ここで久しぶりに大吾が口を開く。と言うかお爺さんが出てきてから、大人二名とアニマル二名以外は一切喋ってなかったんですけどね。僕も含めて。
「緊張の糸が切れたのだろう。それくらい察してやらんか世話係」
たしなめるような次の声が部屋内に通ると、大吾は苦々しい顔になる。声の主が誰かは――まあ、言うまでもないとして、大吾は一生懸命に反論を考えているのか、その猫耳女性の顔を睨み続ける。一方で、睨まれている側は澄ました顔。今の今まで全く口を閉ざしていたのに、開いた途端こういうお決まりの状況にもつれ込めるというのは、もう特技のレベルなのかもしれない。もちろんそれは今更言うまでもない事なんだけど、「お爺さんお婆さん」という落ち着きの後にこれというのは、なんとも印象深い落差があるのでした。
さて、そんな事を考えている間に大吾も成美さんへの反論を思いついたようです。
「……んでよ、成美。それはまあ置いといて、だ」
「なんだ?」
「初対面の客が来てるわけだけどよ、帽子はいいのか?」
「――あ」
それまで「何でも来い」と言わんばかりに余裕しゃくしゃくの表情だった成美さんが一瞬にして気の抜けた顔になり、思い出したように両手を頭へ。ナタリーさんにねだられて大人バージョンになってから今までそのままだったが故に、そこには当然猫耳ワンペア。
「し、しまった……」
そして、頭を押さえたままうなだれる。そのポーズだけ見れば頭痛がするか、もしくは大袈裟なくらい何かに悩んでいるように見えるけど、まあ実際はそういう事じゃないんだろう。
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