で、です。今後は控えるというなら今だって控えなきゃならないわけで、しかしそうなると別の話題を持ってこなきゃいけないわけで、さてどうしたものかと。
普段はいちいちこんなこと考えないわけで、ならば特に気にしなければぽんぽん出てくるものなのでしょうが、一度気になってしまうとこんな調子です。しかもこれが珍しいことじゃなくて――というのはまあ、もちろんながら、相手が好きな人だからということになるんでしょうけど。
「そういえば怒橋さんって」
その時点で既にあたしについての話であることが確定している言い方に、しかも不意を突かれた形だったので少々驚きはしたものの、ともあれ話題を提供してくれるというのなら大歓迎です。
「ん?」
「なんでしたっけ、下の名前」
……覚えられて、ない。
い、いやしかし、それでもやっぱり大歓迎です。
「庄子だよ。まだれに土って書くやつと、子どもの子。でもなんで?」
兄ちゃんが大なんだからあたしは小でよかったよなあ、なんてことは微塵も思っていませんが、それにしたって説明に困る字です。地名以外でぱっと思い付く単語なんて庄屋くらいのもんですし、だからって庄屋って言葉が誰にでも通じるのかって言われたらそんなことなさそうですし。あたしだってその庄屋とやらが何をする職業なのかはさっぱり知りませんしね。
ともあれ。
「いやその、怒橋さん、いつの間にか僕のこと名前で呼んでくれてるから……」
それまで楽くんと呼んでいた清明くんを清明くんと呼ぶことに清明くんの了解を取ったりはしなかったわけで、ということならばまあ、いつの間にかということにはなるのでしょう。そのおぼろげ感漂う表現がこれまたちょっと胸に痛かったりしないでもないのですが、しかし大事なのはそこではなく。
「あー、えーと、もしかして嫌だった? ごめんね、そういうことだったら」
「ち、違います! そういうことじゃなくて」
「違うの?」
「はい、違うんです」
よかった、違うのか。でもじゃあなんだろうか――と、そういえばあたしの下の名前を訊かれてたんだっけ。
あれ? ということはこれって、もしかして。
「僕もその、嫌じゃなかったら、怒橋さんのこと……。あ、あの、なんていうかこっちだけ名前で呼ばれてるっていうのもなんとなく変かなって、それで」
「えーと、つまり、あたしを下の名前で呼びたいってこと?」
「そういうことになりますね」
それまでもじもじしていたと思ったら、無理をしているのがはっきり分かるくらい急にきりっとしてみせる清明くん。一体彼の胸中は今、どんな慌ただしいことになっているのでしょうか。
なんてことを考えている余裕があたしにあるわけもなく、
「い、嫌ってことはないよ?」
という返事をするためににやけそうになる頬の筋肉を必死で抑えつける羽目になるのでした。
「ごめんなさい」
が、どういうわけか謝られてしまいました。
「へ? なんで?」
「困った顔してますし……」
「それはむしろ喜びのあまりというか」
「え?」
「ごめん間違えた」
間違ってなんかいないわけですけど、その場凌ぎにそう言っておきました。
というわけであたし、むちゃくちゃ喜んでます。
というわけであたし、一旦呼吸を整えます。あと気持ちも一緒に。
「ともかく、嫌じゃないっていうのは本当だよ。だから清明くんがそうしたいって言ってくれるんだったら、あたしは全然構わないけど」
「本当ですか?」
「うん。というかあたしだって勝手に名前で呼び始めたんだし、清明くんからだってそうしてくれてよかったのに」
――という言い分は、まあしかし後輩に当たる側からすれば無理な注文というやつなのでしょう。あたしは別に自分が先輩だとか清明くんが後輩だとか、そんなふうには全く思っていませんけど。……部活に入ってたりしたら違うんだろうか、そのへん。
「えーと、じゃあ……庄子さん」
「なにかな? 清明くん」
「……えへへ」
「ふふっ」
やべえ。嬉しいなんてもんじゃねえ、幸せってやつなのかこれは。
願わくば今この瞬間、清明くんもあたしと同じ気持ちであって欲しい――というのはもちろん、飽くまでも願いでしかないわけですけどね。同じ気持ちってそれ、清明くんがあたしのこと好きじゃないとそうはなり得ないわけですしね。ないない、ないですってそれは。
「あっ、でも、学校で会った時はやっぱり今までと同じ呼び方の方が」
「いや? あたしは別に構わないよ? こっちは学校でも名前で呼んでるんだし、それにまあご近所さんだって説明すればそこまで変だとも思われないんじゃない? 他の人にも」
本来ならそれに「小さい頃からの付き合い」というようなことも加わって初めて不自然でなくなるのでしょうが、しかしまあ嘘をつくわけじゃないですしね。ご近所さんだと言われたら、大半の人はもうその時点で「ああそうか」と納得してくれることでしょう。恐らくは。
「そ、そうですかね」
なんだか嬉しそうに言う清明くんでしたが、しかしここはもう一言くらい言っておいた方がいいでしょう。
「あたしは、だからね? 無理してまでっていうのはむしろナシだよ?」
「無理なんてことないです、どば――庄子さんが、いいって言ってくれるなら」
ぷるぷると首を横に振り、かつ名字を言い掛けて名前を呼び直す清明くんはこれまた可愛らしいのですがそれはともかく、どうしてそこまで、と思わないでもありません。そもそもにして名前で呼ぶというのも、どうして今だったのかという話ではありますし。あたしが清明くんを名前で呼んでいるからという理由は一応出てきましたけど、それだったら初めて名前で呼んだその時にもうこの話が出ていてもおかしくなかったわけですし。
うーむ……。
「ところで清明くん」
「はい?」
「なんで今日になってこういう話に?」
「えっ!」
何だか驚かれてしまいましたが、
「と、特には……。思い付いたのがたまたま今日だったってだけです」
「ふーん、そっか」
驚いた割には普通の答えでした。しかし普通の答えというだけあって、それは充分納得に足るものでもありました。そりゃあ思い付いたのが今日だっていうなら仕方ないですよね、思い付いてないことなんて話せるわけがないんですし。
「それじゃあ庄子さん、僕からも質問ですけど」
「なに?」
そんな一問一答形式だったっけ、なんてふうに思わないでもありませんでしたが、ともあれ。
「えーっと、その――」
「うん」
いったいどんな質問を用意したというのか言い難そうにし始める清明くんでしたが、しかし彼が清明くんであるという時点でこちらに不安はありません。これが例えば家守さんだったりしたら不安になるかもしれませんが、あの人の場合は言い難そうになんかしませんよねまず。
「さっき言ってた片想いの人っていうのは、やっぱり同じクラスの人なんですか?」
いや違うクラスの違う学年のキミだよ?
……なかった筈の不安がどばっと湧き上がってきたのでした。後から不安になったって何の意味もないんですけどね、もちろん。
で、呼び方の件と同じくなんでまたその話が今? ということではあるのですが、連続で同じ質問をするというのもなんだか聞こえが悪そうというかなんというか。
というわけでここは普通に答えにいくわけですが、
「ううん、全然別」
清明くんだよ、なんてことが言えないのはもちろんのこととして、クラスどころか学年が違うよ、というのもなんだか言い辛いのでした。「全然別」の「全然」は、そこらへんの代理として出てきた言葉だったりします。伝わるわけがありませんけどね。
「そうですか」
これ以上訊かれるようだったらさすがに「困る」って言わないとだよねえ、と思ってはいたのですが、しかし清明くん、どうやら自分から引っ込んでくれたようでそれ以上何かを訊き出そうとはしてこないのでした。本当のことを言えはしないにしても、それはそれでちょっとばかり寂しい気がしないでもないです。
「気になる?」
「え、あ、あはは、はい、ちょっと」
「ふふ、そっか。いやまあ、これ以上は言えないけどさ」
「ですよね、すいません」
こちらからすれば必要のない謝罪をする清明くんでしたが、でもそうしながらなんだか嬉しそうな顔をしていたので、指摘はしないでおきました。こういう形にせよ気にされるというのはこっちとしても嬉しいようなくすぐったいような、とにかくいい気分でしたしね。
ならばそのいい気分に任せて――ということだけが理由ではないのですが、少し前に引っ込めた質問をここでしてみることにしました。
「清明くんはどう? いるの? 好きな人って」
こっちがここまで訊かれたんだったらこっちから訊くのだって不自然とか不都合はないよね、ということで。……などと言いつつ、どんな返事が返ってくるのかと内心バクバクだったりもするんですけど。
「い――」
清明くんは、
「います」
そう答えました。
エレベーターが止まる瞬間のあのふわっと感に似たようなものが、身体を抜けていきました。そしてそれが抜け切った後には、背中が冷え冷えしていたのでした。
ああ、そうか。いるんだ、清明くん。
ショックでした。ただただ、ショックなのでした。
――好きな人がいる、というだけであるならまだ落ち込むには早いのかもしれません。どうにかこうにか頑張って自分を好きになってもらう、なんてことは難しくはあるんでしょうけど、不可能ではないんでしょうし。
でもあたしの場合、それは難しい以上に絶望的な話なのです。
だって、あたしは決めてしまっているのです。気持ちを伝えるのは清明くんの霊障が治まって、清さんや兄ちゃんのことを打ち明けた後にしようと。それがいつになるかなんて分かりませんし、そしてその間清明くんが自身の恋を成就させようと行動を起こさない保証なんて、全くないのです。
……こんな事態だからといって撤回できるほど、それは安っぽい決めごとではないのです。あたしにとっては。
「同じクラスの子?」
あたしは、自分がされたのと同じ質問をしました。
そんなつもりで言ったわけではなかったにせよ、それくらいしかできなかった、と言っても差し支えなかったのでしょう。平静を装ったまま言えることなんて、他にはとても。
「違います」
清明くんは目を伏せがちに、でも口元は微笑ませながら、そう返してきました。
あたしの時はそこまでしか言いませんでしたが、でも清明くんは、そこから更に話を続けてくるのでした。どういうわけか、嬉しそうに。
「その人にはすっごくお世話になってて、いっぱい優しくしてもらってて、そうしてるうちに……その、ええと、好きになってたんです」
お世話になる。優しくしてもらう。それらの言葉はなんだかその女の子が清明くんより年上であるように印象付けてくるのですが、でもそう断言できるほどの情報ではないのでしょう。同い年でも、もしかしたら年下でも、有り得ないということはないんでしょうし。
「全然違うんです、今までと。気になる女子っていうのはその、今までだっていないってことはなかったんですけど……その人達は学校で見掛けた時とかに『いいな』って思うだけだったんですけど、その人はなんていうか、見掛けなくても気が付いたらその人のことばっかり考えてるんです、最近」
「へえ……」
今までにも気になる女子はいた。それはまあ誰だってそういう人の一人や二人入るものなのでしょうし、だったらそれはいいんですけど、でも「その人」は、「その人」だけは、清明くんの中で明確に特別な扱いをされているようでした。ということはつまり清明くん、本気なのでしょう。本当に大好きなんでしょう、その人のことを。
なんでその入れ込みっぷりをよりによってあたしに話すのか――とは、まあ思わないということはありませんでしたけど、でもそれはむしろ喜ぶべきことなのでしょう、誰にでもする話じゃないでしょうしね、こんなこと。
だからといって、心から喜ぶのはかなり難しそうでしたけど。
「じゃあそのうち、告白とか?」
当然、ということになるのかどうかは微妙なところですが、その質問をした瞬間のあたしはもうヤケになっているのでした。うんと言われたら完全なる自滅、そうでなくても現状維持でしかないわけで、あたし自身には何一つ得することのない質問ですしね。
果たして清明くんは、ぷるぷると首を横に振りました。
現状維持でしかないその返答にほっとしてしまう自分が、なんだかとても惨めに思えてくるのでした。
「恥ずかしくてできない――っていうのも、なくはないんですけど」
情けない一人相撲で気持ちが沈み始めていたところへ、清明くんは話を続けてきました。
「今はまだしないほうがいいんだろうなって、そう思ってるんです」
「え、なんで?」
正直、変な話でした。恥ずかしいというのはともかく、それまで気になってきた女子達と別扱いするほど好きなんだったらそう言ってしまえばいいのにと、そう思ってしまうのでした。
「告白って、上手くいったら付き合うってことじゃないですか」
「そうだね」
「お世話になりっ放しでいる間にそういうことになるのって、何か違うんじゃないかなって。――いや、上手くいったらなんて、そんな想像をすること自体が違うのかもしれませんけど」
…………。
「なんかいろいろ気になるけど取り敢えず、上手くいく想像をすること自体が違うっていうのは?」
「好きな人がいるらしいんです、その人も」
「あー」
どうやら清明くん、あたしの同士だったりもするようでした。もちろん、「も」が含んでいる関係性のほうが遥かに大きいわけですけどね。
「なのに僕なんかにそんな想像されるって、多分、その人からしたら嫌だろうなあって」
同士であるというならそれはあたしにも当て嵌まる話なのですが……ということはつまり、あたしも嫌がられるのでしょうか。清明くんと付き合い始めたら、みたいな想像をするというのは。
「……いや、でもそれはさすがにきつく考え過ぎなんじゃないかなあ。あたしだったら想像されるくらいでどうとか思わないし、それに好きな人じゃなくたって、誰かから良く思われるっていうのは嬉しいことだと思うけど」
恐らくは清明くんに言い聞かせる以上に自分を慰めるために、あたしはそう言いました。だって辛過ぎるじゃないですか、そんなことすら許されないなんて。それすら許されなかったら、あたしは今すぐこの場を去らなきゃいけないじゃないですか。
想像どころか会ってるんですよ? その、好きな人に。嘘をついてまで。
「そ、そうですかね?」
「だと思うよ」
「そうですか……」
なんだか清明くん、あたしの言葉をえらく噛み締めているようでした。情けない自己弁護でしかない言い分だったというのに、です。
「ええと、じゃあ『お世話になりっ放しでいる間にそういうことになるのは違う』っていうのは?」
言いたいことはなんとなく分からないでもないのですが、でもなんとなくで済ませたくはなかったので、引き続き尋ねてみました。
「あ、はい」
ぼーっとしていたのか何なのかちょっと驚いた様子の清明くんでしたが、しかしそれはすぐに持ち直したようで、しっかり質問に答え始めるのでした。……なんかこう、必要以上にしっかりし過ぎてるような気もしましたけど。みっちゃんの対極かってぐらいぴしりとまっすぐな背筋とか、険しいと表現することになる一歩手前、みたいな真剣な表情とか。
「お父さんの話になるんですけど」
ああ、そりゃあそんなふうにも。
浮かんだ違和感は一瞬にして消え去ってしまいました。と言っても今度は、なんでここでその話が、という別の違和感が出てきたりもしたわけですけど。
「僕が言うのもなんですけど、お父さんとお母さん、すっごく仲が良かったんです。何年も前の記憶だからそんなふうに思えるっていうのもあるんでしょうけど――その頃は何とも思ってませんでしたけど、今思い出すとこっちが恥ずかしくなっちゃうくらいで」
清さんと明美さん。今ですら、今の状況ですら二人で一緒に出掛けたりしているわけで、じゃあ昔の記憶だから強調されているというようなことではなく、清明くんが感じた通りだったりするのでしょう。
それに清さんは最初から「年を取る幽霊」だったわけで、ということは今よりもうちょっと若かったっていうのもありますし――って、見た目じゃなくて中身の問題なんだから、そこは関係ないですよね。
「うん」
いろいろ考えた割に返事は相槌のみでしたが、でもそれを受ける清明くんは少しだけ嬉しそうな顔をしていました。ということはあたしも、そうさせるような顔をしていたのでしょう。
そしてそれから一息つくような間を挟んでから、清明くんは言いました。
「告白して、もし付き合えたりしたとしても、お世話になりっ放しのままじゃあそんなふうにはなれないんだろうなって。多分、そのままお世話になってるだけなんだろうなって」
…………。
中学一年生の考えることなんでしょうか、これは。
「なんか、すごいね。清明くん」
感心はしています。多分、惚れ直してもいるんでしょう。でもあたしはそれ以上に、呆気にとられてしまっているのでした。どうしてそこまで、と。
呆気にとられている以上、それは疑問と呼べるものですらなかったのかもしれませんが、しかしともかくそんな疑問の答えはすぐに聞かせてもらえました。
「何でもかんでもお父さんを結び付けようとしちゃうってだけなんでしょうけどね」
清明くんは少し困ったような顔をしていました。
もしかしてこれもあたしがそういう顔をしていたからなのか、なんて考えが一瞬頭をよぎりましたが、
「こんなだから、『お世話になりっ放し』なんでしょうけどね……」
どうやらそこにあたしは全く関係しておらず、清明くんはただ清明くん自身だけを振り返って、そういう顔をしているようでした。
悲しそうな顔。それにまっすぐでなくなった背筋を見ていると――抱き締めてあげたくなりました。もちろん、許されるのならば、ということではあるんですけど。加えてもちろん、清明くんからすれば、あたしに抱き締められてどうなるんだって話ではあるんでしょうけど。
なので、それとは違う話をしてみようと思います。
「清明くん」
「あ、はい?」
「清明くんがお世話になってる――清明くんが好きな女の人は、そんな顔されるためにお世話してるんじゃないと思うよ」
「あ……」
「『お世話になりっ放し』なんて、そんな顔で言われちゃったら、その人にとってそれは絶対悲しいことだよ。他に好きな人がいるにしたって、お世話なんかするってことは清明くんを大事に思ってるんだと思うよ? その人」
お世話、とは違いますが、でもそれはやっぱりあたし自身に照らし合わせて思ったことなのでした。お世話でなくて何なのかというのはもちろん、兄ちゃんの話を聞いてもらったり清さんの話を聞かせてもらったりというあれです。
せっかく暗い顔にならずに話ができるようになってきたのに、知らないところで結局こうして暗い顔をされてたんじゃあ、ぬか喜びもいいところじゃないですか。それだったらまだ、目の前で暗い顔をしてくれた方がマシです。
――清明くんは、気まずそうな顔で黙り込んでしまいました。最後の一言はそうならないためのフォローだったつもりなのですが、どうやらそれだけでは足りていなかったようです。
そりゃそうですよね。どれだけ大事に思われてたって、他に好きな人がいるんじゃあ。
「ごめんなさい」
「いや、あたしはいいんだけどね」
完全に謝る相手を間違っている清明くんなのでした。
というか、自分をその清明くんが好きな人に置き換えて考えてしまったあたしなので、そこで謝られるとむしろ凹みます。そんなことをしてしまった自分にも、そして「もし実際に置き換わっていたらあたしはここで謝られているのか」ということにも。
清明くんに好かれていようといまいとあたしの気持ちは同じなわけで、だったらどのみち、謝って欲しいなんて思うわけがないのです。思うわけがないのに。
…………。
「間違ってもその好きな人の前で今みたいなこと言っちゃ駄目だよ、振られちゃうから」
「……はい」
「そしてそれはともかく、お手洗いをお借りしても?」
「あ、は、はい。どうぞ」
立場的には振られることを望むべきなのかなあ、なんて、とてつもなく酷いことを考えようとするあたしを、あたしはなんとか振り切りました。
けれどその余韻というか何というかまでは振り切れなかったようで、だからここで、ちょっとだけこの場を離れることにしました。
少しだけ泣きました。
「……庄子さん、なんか目、赤くなってないですか?」
「トイレのついでで、湿っぽい気分をリセットするために顔を洗ってきました」
それは半分嘘で、でも半分本当でした。確かに顔は洗いましたが、それは「まかり間違っても涙の跡なんか残して清明くんの前に戻ってはいけない」という考えからであって、気分のリセットについては泣き終えた時点で完了していたのです。ええ、見事に気分スッキリさっぱりです。
「ああ、拭く時にタオル借りちゃったけど良かったかな」
「あ、それはもう全然」
明美さんに声を掛けるという選択肢もないわけではなかったのですが、間違いなく何事かと思われてしまうので、避けざるを得なかったのでした。
「気分をリセットしたってことで話題もリセットしようと思うんだけど、どう?」
「えーと、じゃあ、お願いします」
これについては予想通りということになりましょう、言葉はともかく表情の方では歓迎してくれている清明くんなのでした。泣いたあたしほどではないにしても見るからに落ち込んでましたし、だったら清明くんとしてもそうなるのでしょう、やっぱり。
とはいえもちろん、あたしはあたしの都合から今の申し出をしたわけですけどね。キツいですもん、好きな人が好きな人の話なんて。
「兄ちゃんの話なんだけどさ――」
持ち出す話題はやっぱりこれなわけですが、しかしどうしましょうか。これまでの話題が話題ですし、兄ちゃんの恋人の話でもしましょうか。可愛くて格好良くて、あたしも大好きな兄ちゃんの恋人の話。
……お嫁さんってところは伏せたほうがいいですよね。それで兄ちゃんが死んじゃってるってことになると、現実との食い違いが結構なことになっちゃいそうですし。
「お邪魔しました。ばいばい、清明くん」
「はい。また来てくださいね」
そりゃキツいかもしれないなあ――と、でも、別れ際の挨拶でそんな言葉が出てくる程度にはここへ通わせて貰っているわけで、それ自体は喜ばしいことなのでしょう。果たしてそのことがこの恋路に対して有効に働くかと言われれば、唸らざるを得ないわけですけど。
「また来てあげてねー」
「お母さん!」
「あはは、そのうちには」
……明美さん、どうなんだろう。あたしの清明くんに対する気持ちを知っていて、それを後押ししようとしてくれているのは間違いないんだけど――清明くんに好きな人がいるっていうことは、じゃあ、知らないんだろうか? 知ってたら言ってくると思うしなあ。明美さんだし。
とはいえまあ、知っていて黙っていたということであっても、それはあたしが悪く思うようなことではないんでしょう。知らされたところでどうしようもないということを思えば、ここはむしろ感謝すべきです。
おかげで、少なくとも今までは、何の不安も遠慮もなく清明くんを好きでいられたのですから。
もちろんこれからだって、不安も遠慮もありこそすれ、好きなものは好きであり続けるわけですけどね。失恋が確定するまでは。
普段はいちいちこんなこと考えないわけで、ならば特に気にしなければぽんぽん出てくるものなのでしょうが、一度気になってしまうとこんな調子です。しかもこれが珍しいことじゃなくて――というのはまあ、もちろんながら、相手が好きな人だからということになるんでしょうけど。
「そういえば怒橋さんって」
その時点で既にあたしについての話であることが確定している言い方に、しかも不意を突かれた形だったので少々驚きはしたものの、ともあれ話題を提供してくれるというのなら大歓迎です。
「ん?」
「なんでしたっけ、下の名前」
……覚えられて、ない。
い、いやしかし、それでもやっぱり大歓迎です。
「庄子だよ。まだれに土って書くやつと、子どもの子。でもなんで?」
兄ちゃんが大なんだからあたしは小でよかったよなあ、なんてことは微塵も思っていませんが、それにしたって説明に困る字です。地名以外でぱっと思い付く単語なんて庄屋くらいのもんですし、だからって庄屋って言葉が誰にでも通じるのかって言われたらそんなことなさそうですし。あたしだってその庄屋とやらが何をする職業なのかはさっぱり知りませんしね。
ともあれ。
「いやその、怒橋さん、いつの間にか僕のこと名前で呼んでくれてるから……」
それまで楽くんと呼んでいた清明くんを清明くんと呼ぶことに清明くんの了解を取ったりはしなかったわけで、ということならばまあ、いつの間にかということにはなるのでしょう。そのおぼろげ感漂う表現がこれまたちょっと胸に痛かったりしないでもないのですが、しかし大事なのはそこではなく。
「あー、えーと、もしかして嫌だった? ごめんね、そういうことだったら」
「ち、違います! そういうことじゃなくて」
「違うの?」
「はい、違うんです」
よかった、違うのか。でもじゃあなんだろうか――と、そういえばあたしの下の名前を訊かれてたんだっけ。
あれ? ということはこれって、もしかして。
「僕もその、嫌じゃなかったら、怒橋さんのこと……。あ、あの、なんていうかこっちだけ名前で呼ばれてるっていうのもなんとなく変かなって、それで」
「えーと、つまり、あたしを下の名前で呼びたいってこと?」
「そういうことになりますね」
それまでもじもじしていたと思ったら、無理をしているのがはっきり分かるくらい急にきりっとしてみせる清明くん。一体彼の胸中は今、どんな慌ただしいことになっているのでしょうか。
なんてことを考えている余裕があたしにあるわけもなく、
「い、嫌ってことはないよ?」
という返事をするためににやけそうになる頬の筋肉を必死で抑えつける羽目になるのでした。
「ごめんなさい」
が、どういうわけか謝られてしまいました。
「へ? なんで?」
「困った顔してますし……」
「それはむしろ喜びのあまりというか」
「え?」
「ごめん間違えた」
間違ってなんかいないわけですけど、その場凌ぎにそう言っておきました。
というわけであたし、むちゃくちゃ喜んでます。
というわけであたし、一旦呼吸を整えます。あと気持ちも一緒に。
「ともかく、嫌じゃないっていうのは本当だよ。だから清明くんがそうしたいって言ってくれるんだったら、あたしは全然構わないけど」
「本当ですか?」
「うん。というかあたしだって勝手に名前で呼び始めたんだし、清明くんからだってそうしてくれてよかったのに」
――という言い分は、まあしかし後輩に当たる側からすれば無理な注文というやつなのでしょう。あたしは別に自分が先輩だとか清明くんが後輩だとか、そんなふうには全く思っていませんけど。……部活に入ってたりしたら違うんだろうか、そのへん。
「えーと、じゃあ……庄子さん」
「なにかな? 清明くん」
「……えへへ」
「ふふっ」
やべえ。嬉しいなんてもんじゃねえ、幸せってやつなのかこれは。
願わくば今この瞬間、清明くんもあたしと同じ気持ちであって欲しい――というのはもちろん、飽くまでも願いでしかないわけですけどね。同じ気持ちってそれ、清明くんがあたしのこと好きじゃないとそうはなり得ないわけですしね。ないない、ないですってそれは。
「あっ、でも、学校で会った時はやっぱり今までと同じ呼び方の方が」
「いや? あたしは別に構わないよ? こっちは学校でも名前で呼んでるんだし、それにまあご近所さんだって説明すればそこまで変だとも思われないんじゃない? 他の人にも」
本来ならそれに「小さい頃からの付き合い」というようなことも加わって初めて不自然でなくなるのでしょうが、しかしまあ嘘をつくわけじゃないですしね。ご近所さんだと言われたら、大半の人はもうその時点で「ああそうか」と納得してくれることでしょう。恐らくは。
「そ、そうですかね」
なんだか嬉しそうに言う清明くんでしたが、しかしここはもう一言くらい言っておいた方がいいでしょう。
「あたしは、だからね? 無理してまでっていうのはむしろナシだよ?」
「無理なんてことないです、どば――庄子さんが、いいって言ってくれるなら」
ぷるぷると首を横に振り、かつ名字を言い掛けて名前を呼び直す清明くんはこれまた可愛らしいのですがそれはともかく、どうしてそこまで、と思わないでもありません。そもそもにして名前で呼ぶというのも、どうして今だったのかという話ではありますし。あたしが清明くんを名前で呼んでいるからという理由は一応出てきましたけど、それだったら初めて名前で呼んだその時にもうこの話が出ていてもおかしくなかったわけですし。
うーむ……。
「ところで清明くん」
「はい?」
「なんで今日になってこういう話に?」
「えっ!」
何だか驚かれてしまいましたが、
「と、特には……。思い付いたのがたまたま今日だったってだけです」
「ふーん、そっか」
驚いた割には普通の答えでした。しかし普通の答えというだけあって、それは充分納得に足るものでもありました。そりゃあ思い付いたのが今日だっていうなら仕方ないですよね、思い付いてないことなんて話せるわけがないんですし。
「それじゃあ庄子さん、僕からも質問ですけど」
「なに?」
そんな一問一答形式だったっけ、なんてふうに思わないでもありませんでしたが、ともあれ。
「えーっと、その――」
「うん」
いったいどんな質問を用意したというのか言い難そうにし始める清明くんでしたが、しかし彼が清明くんであるという時点でこちらに不安はありません。これが例えば家守さんだったりしたら不安になるかもしれませんが、あの人の場合は言い難そうになんかしませんよねまず。
「さっき言ってた片想いの人っていうのは、やっぱり同じクラスの人なんですか?」
いや違うクラスの違う学年のキミだよ?
……なかった筈の不安がどばっと湧き上がってきたのでした。後から不安になったって何の意味もないんですけどね、もちろん。
で、呼び方の件と同じくなんでまたその話が今? ということではあるのですが、連続で同じ質問をするというのもなんだか聞こえが悪そうというかなんというか。
というわけでここは普通に答えにいくわけですが、
「ううん、全然別」
清明くんだよ、なんてことが言えないのはもちろんのこととして、クラスどころか学年が違うよ、というのもなんだか言い辛いのでした。「全然別」の「全然」は、そこらへんの代理として出てきた言葉だったりします。伝わるわけがありませんけどね。
「そうですか」
これ以上訊かれるようだったらさすがに「困る」って言わないとだよねえ、と思ってはいたのですが、しかし清明くん、どうやら自分から引っ込んでくれたようでそれ以上何かを訊き出そうとはしてこないのでした。本当のことを言えはしないにしても、それはそれでちょっとばかり寂しい気がしないでもないです。
「気になる?」
「え、あ、あはは、はい、ちょっと」
「ふふ、そっか。いやまあ、これ以上は言えないけどさ」
「ですよね、すいません」
こちらからすれば必要のない謝罪をする清明くんでしたが、でもそうしながらなんだか嬉しそうな顔をしていたので、指摘はしないでおきました。こういう形にせよ気にされるというのはこっちとしても嬉しいようなくすぐったいような、とにかくいい気分でしたしね。
ならばそのいい気分に任せて――ということだけが理由ではないのですが、少し前に引っ込めた質問をここでしてみることにしました。
「清明くんはどう? いるの? 好きな人って」
こっちがここまで訊かれたんだったらこっちから訊くのだって不自然とか不都合はないよね、ということで。……などと言いつつ、どんな返事が返ってくるのかと内心バクバクだったりもするんですけど。
「い――」
清明くんは、
「います」
そう答えました。
エレベーターが止まる瞬間のあのふわっと感に似たようなものが、身体を抜けていきました。そしてそれが抜け切った後には、背中が冷え冷えしていたのでした。
ああ、そうか。いるんだ、清明くん。
ショックでした。ただただ、ショックなのでした。
――好きな人がいる、というだけであるならまだ落ち込むには早いのかもしれません。どうにかこうにか頑張って自分を好きになってもらう、なんてことは難しくはあるんでしょうけど、不可能ではないんでしょうし。
でもあたしの場合、それは難しい以上に絶望的な話なのです。
だって、あたしは決めてしまっているのです。気持ちを伝えるのは清明くんの霊障が治まって、清さんや兄ちゃんのことを打ち明けた後にしようと。それがいつになるかなんて分かりませんし、そしてその間清明くんが自身の恋を成就させようと行動を起こさない保証なんて、全くないのです。
……こんな事態だからといって撤回できるほど、それは安っぽい決めごとではないのです。あたしにとっては。
「同じクラスの子?」
あたしは、自分がされたのと同じ質問をしました。
そんなつもりで言ったわけではなかったにせよ、それくらいしかできなかった、と言っても差し支えなかったのでしょう。平静を装ったまま言えることなんて、他にはとても。
「違います」
清明くんは目を伏せがちに、でも口元は微笑ませながら、そう返してきました。
あたしの時はそこまでしか言いませんでしたが、でも清明くんは、そこから更に話を続けてくるのでした。どういうわけか、嬉しそうに。
「その人にはすっごくお世話になってて、いっぱい優しくしてもらってて、そうしてるうちに……その、ええと、好きになってたんです」
お世話になる。優しくしてもらう。それらの言葉はなんだかその女の子が清明くんより年上であるように印象付けてくるのですが、でもそう断言できるほどの情報ではないのでしょう。同い年でも、もしかしたら年下でも、有り得ないということはないんでしょうし。
「全然違うんです、今までと。気になる女子っていうのはその、今までだっていないってことはなかったんですけど……その人達は学校で見掛けた時とかに『いいな』って思うだけだったんですけど、その人はなんていうか、見掛けなくても気が付いたらその人のことばっかり考えてるんです、最近」
「へえ……」
今までにも気になる女子はいた。それはまあ誰だってそういう人の一人や二人入るものなのでしょうし、だったらそれはいいんですけど、でも「その人」は、「その人」だけは、清明くんの中で明確に特別な扱いをされているようでした。ということはつまり清明くん、本気なのでしょう。本当に大好きなんでしょう、その人のことを。
なんでその入れ込みっぷりをよりによってあたしに話すのか――とは、まあ思わないということはありませんでしたけど、でもそれはむしろ喜ぶべきことなのでしょう、誰にでもする話じゃないでしょうしね、こんなこと。
だからといって、心から喜ぶのはかなり難しそうでしたけど。
「じゃあそのうち、告白とか?」
当然、ということになるのかどうかは微妙なところですが、その質問をした瞬間のあたしはもうヤケになっているのでした。うんと言われたら完全なる自滅、そうでなくても現状維持でしかないわけで、あたし自身には何一つ得することのない質問ですしね。
果たして清明くんは、ぷるぷると首を横に振りました。
現状維持でしかないその返答にほっとしてしまう自分が、なんだかとても惨めに思えてくるのでした。
「恥ずかしくてできない――っていうのも、なくはないんですけど」
情けない一人相撲で気持ちが沈み始めていたところへ、清明くんは話を続けてきました。
「今はまだしないほうがいいんだろうなって、そう思ってるんです」
「え、なんで?」
正直、変な話でした。恥ずかしいというのはともかく、それまで気になってきた女子達と別扱いするほど好きなんだったらそう言ってしまえばいいのにと、そう思ってしまうのでした。
「告白って、上手くいったら付き合うってことじゃないですか」
「そうだね」
「お世話になりっ放しでいる間にそういうことになるのって、何か違うんじゃないかなって。――いや、上手くいったらなんて、そんな想像をすること自体が違うのかもしれませんけど」
…………。
「なんかいろいろ気になるけど取り敢えず、上手くいく想像をすること自体が違うっていうのは?」
「好きな人がいるらしいんです、その人も」
「あー」
どうやら清明くん、あたしの同士だったりもするようでした。もちろん、「も」が含んでいる関係性のほうが遥かに大きいわけですけどね。
「なのに僕なんかにそんな想像されるって、多分、その人からしたら嫌だろうなあって」
同士であるというならそれはあたしにも当て嵌まる話なのですが……ということはつまり、あたしも嫌がられるのでしょうか。清明くんと付き合い始めたら、みたいな想像をするというのは。
「……いや、でもそれはさすがにきつく考え過ぎなんじゃないかなあ。あたしだったら想像されるくらいでどうとか思わないし、それに好きな人じゃなくたって、誰かから良く思われるっていうのは嬉しいことだと思うけど」
恐らくは清明くんに言い聞かせる以上に自分を慰めるために、あたしはそう言いました。だって辛過ぎるじゃないですか、そんなことすら許されないなんて。それすら許されなかったら、あたしは今すぐこの場を去らなきゃいけないじゃないですか。
想像どころか会ってるんですよ? その、好きな人に。嘘をついてまで。
「そ、そうですかね?」
「だと思うよ」
「そうですか……」
なんだか清明くん、あたしの言葉をえらく噛み締めているようでした。情けない自己弁護でしかない言い分だったというのに、です。
「ええと、じゃあ『お世話になりっ放しでいる間にそういうことになるのは違う』っていうのは?」
言いたいことはなんとなく分からないでもないのですが、でもなんとなくで済ませたくはなかったので、引き続き尋ねてみました。
「あ、はい」
ぼーっとしていたのか何なのかちょっと驚いた様子の清明くんでしたが、しかしそれはすぐに持ち直したようで、しっかり質問に答え始めるのでした。……なんかこう、必要以上にしっかりし過ぎてるような気もしましたけど。みっちゃんの対極かってぐらいぴしりとまっすぐな背筋とか、険しいと表現することになる一歩手前、みたいな真剣な表情とか。
「お父さんの話になるんですけど」
ああ、そりゃあそんなふうにも。
浮かんだ違和感は一瞬にして消え去ってしまいました。と言っても今度は、なんでここでその話が、という別の違和感が出てきたりもしたわけですけど。
「僕が言うのもなんですけど、お父さんとお母さん、すっごく仲が良かったんです。何年も前の記憶だからそんなふうに思えるっていうのもあるんでしょうけど――その頃は何とも思ってませんでしたけど、今思い出すとこっちが恥ずかしくなっちゃうくらいで」
清さんと明美さん。今ですら、今の状況ですら二人で一緒に出掛けたりしているわけで、じゃあ昔の記憶だから強調されているというようなことではなく、清明くんが感じた通りだったりするのでしょう。
それに清さんは最初から「年を取る幽霊」だったわけで、ということは今よりもうちょっと若かったっていうのもありますし――って、見た目じゃなくて中身の問題なんだから、そこは関係ないですよね。
「うん」
いろいろ考えた割に返事は相槌のみでしたが、でもそれを受ける清明くんは少しだけ嬉しそうな顔をしていました。ということはあたしも、そうさせるような顔をしていたのでしょう。
そしてそれから一息つくような間を挟んでから、清明くんは言いました。
「告白して、もし付き合えたりしたとしても、お世話になりっ放しのままじゃあそんなふうにはなれないんだろうなって。多分、そのままお世話になってるだけなんだろうなって」
…………。
中学一年生の考えることなんでしょうか、これは。
「なんか、すごいね。清明くん」
感心はしています。多分、惚れ直してもいるんでしょう。でもあたしはそれ以上に、呆気にとられてしまっているのでした。どうしてそこまで、と。
呆気にとられている以上、それは疑問と呼べるものですらなかったのかもしれませんが、しかしともかくそんな疑問の答えはすぐに聞かせてもらえました。
「何でもかんでもお父さんを結び付けようとしちゃうってだけなんでしょうけどね」
清明くんは少し困ったような顔をしていました。
もしかしてこれもあたしがそういう顔をしていたからなのか、なんて考えが一瞬頭をよぎりましたが、
「こんなだから、『お世話になりっ放し』なんでしょうけどね……」
どうやらそこにあたしは全く関係しておらず、清明くんはただ清明くん自身だけを振り返って、そういう顔をしているようでした。
悲しそうな顔。それにまっすぐでなくなった背筋を見ていると――抱き締めてあげたくなりました。もちろん、許されるのならば、ということではあるんですけど。加えてもちろん、清明くんからすれば、あたしに抱き締められてどうなるんだって話ではあるんでしょうけど。
なので、それとは違う話をしてみようと思います。
「清明くん」
「あ、はい?」
「清明くんがお世話になってる――清明くんが好きな女の人は、そんな顔されるためにお世話してるんじゃないと思うよ」
「あ……」
「『お世話になりっ放し』なんて、そんな顔で言われちゃったら、その人にとってそれは絶対悲しいことだよ。他に好きな人がいるにしたって、お世話なんかするってことは清明くんを大事に思ってるんだと思うよ? その人」
お世話、とは違いますが、でもそれはやっぱりあたし自身に照らし合わせて思ったことなのでした。お世話でなくて何なのかというのはもちろん、兄ちゃんの話を聞いてもらったり清さんの話を聞かせてもらったりというあれです。
せっかく暗い顔にならずに話ができるようになってきたのに、知らないところで結局こうして暗い顔をされてたんじゃあ、ぬか喜びもいいところじゃないですか。それだったらまだ、目の前で暗い顔をしてくれた方がマシです。
――清明くんは、気まずそうな顔で黙り込んでしまいました。最後の一言はそうならないためのフォローだったつもりなのですが、どうやらそれだけでは足りていなかったようです。
そりゃそうですよね。どれだけ大事に思われてたって、他に好きな人がいるんじゃあ。
「ごめんなさい」
「いや、あたしはいいんだけどね」
完全に謝る相手を間違っている清明くんなのでした。
というか、自分をその清明くんが好きな人に置き換えて考えてしまったあたしなので、そこで謝られるとむしろ凹みます。そんなことをしてしまった自分にも、そして「もし実際に置き換わっていたらあたしはここで謝られているのか」ということにも。
清明くんに好かれていようといまいとあたしの気持ちは同じなわけで、だったらどのみち、謝って欲しいなんて思うわけがないのです。思うわけがないのに。
…………。
「間違ってもその好きな人の前で今みたいなこと言っちゃ駄目だよ、振られちゃうから」
「……はい」
「そしてそれはともかく、お手洗いをお借りしても?」
「あ、は、はい。どうぞ」
立場的には振られることを望むべきなのかなあ、なんて、とてつもなく酷いことを考えようとするあたしを、あたしはなんとか振り切りました。
けれどその余韻というか何というかまでは振り切れなかったようで、だからここで、ちょっとだけこの場を離れることにしました。
少しだけ泣きました。
「……庄子さん、なんか目、赤くなってないですか?」
「トイレのついでで、湿っぽい気分をリセットするために顔を洗ってきました」
それは半分嘘で、でも半分本当でした。確かに顔は洗いましたが、それは「まかり間違っても涙の跡なんか残して清明くんの前に戻ってはいけない」という考えからであって、気分のリセットについては泣き終えた時点で完了していたのです。ええ、見事に気分スッキリさっぱりです。
「ああ、拭く時にタオル借りちゃったけど良かったかな」
「あ、それはもう全然」
明美さんに声を掛けるという選択肢もないわけではなかったのですが、間違いなく何事かと思われてしまうので、避けざるを得なかったのでした。
「気分をリセットしたってことで話題もリセットしようと思うんだけど、どう?」
「えーと、じゃあ、お願いします」
これについては予想通りということになりましょう、言葉はともかく表情の方では歓迎してくれている清明くんなのでした。泣いたあたしほどではないにしても見るからに落ち込んでましたし、だったら清明くんとしてもそうなるのでしょう、やっぱり。
とはいえもちろん、あたしはあたしの都合から今の申し出をしたわけですけどね。キツいですもん、好きな人が好きな人の話なんて。
「兄ちゃんの話なんだけどさ――」
持ち出す話題はやっぱりこれなわけですが、しかしどうしましょうか。これまでの話題が話題ですし、兄ちゃんの恋人の話でもしましょうか。可愛くて格好良くて、あたしも大好きな兄ちゃんの恋人の話。
……お嫁さんってところは伏せたほうがいいですよね。それで兄ちゃんが死んじゃってるってことになると、現実との食い違いが結構なことになっちゃいそうですし。
「お邪魔しました。ばいばい、清明くん」
「はい。また来てくださいね」
そりゃキツいかもしれないなあ――と、でも、別れ際の挨拶でそんな言葉が出てくる程度にはここへ通わせて貰っているわけで、それ自体は喜ばしいことなのでしょう。果たしてそのことがこの恋路に対して有効に働くかと言われれば、唸らざるを得ないわけですけど。
「また来てあげてねー」
「お母さん!」
「あはは、そのうちには」
……明美さん、どうなんだろう。あたしの清明くんに対する気持ちを知っていて、それを後押ししようとしてくれているのは間違いないんだけど――清明くんに好きな人がいるっていうことは、じゃあ、知らないんだろうか? 知ってたら言ってくると思うしなあ。明美さんだし。
とはいえまあ、知っていて黙っていたということであっても、それはあたしが悪く思うようなことではないんでしょう。知らされたところでどうしようもないということを思えば、ここはむしろ感謝すべきです。
おかげで、少なくとも今までは、何の不安も遠慮もなく清明くんを好きでいられたのですから。
もちろんこれからだって、不安も遠慮もありこそすれ、好きなものは好きであり続けるわけですけどね。失恋が確定するまでは。
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