「お待たせー」
そんなことがあった直後に栞さんが出てきましたが、掃除機を持ったままなせいか、ドアはたどたどしく、かつ半開き程度にだけ開けられるのでした。
一応僕のほうから残り半分を開き切ってあげましたが、掃除機を代わりに持つというのは、頭に浮かびこそすれ実行には移しませんでした。掃除の手伝いだということになって断られるだろうと踏んだのです。まあ、ドアを開けるのと大して変わらないと言われればそれまでですけど。
しかし僕からすれば「掃除機を持たなかった」であっても、栞さんからすれば「ドアを開けてもらった」なので、お礼を言われたりもするわけです。少々、もやっとしないでもありません。
そんな些細なことに気を取られつつも、しかし栞さんに続いて空き部屋である103号室へ足を踏み入れました。
当たり前ですが、薄暗いです。まだ日が沈むような時間ではないにせよ、天候があんなですし。
「電気が点けられないからね。真っ暗になってからだと、それこそ何も見えなくて掃除どころじゃなくなっちゃうんだよ」
「ああ、だからいつも昼頃なんですね掃除するの」
「……うーん、それは単にそういう習慣が付いただけっていうか」
おや。いやまあ、日が出てればいつでもいいんだからそりゃあ正午に拘ることもないか。庭掃除だったら今よりもうちょっとくらい暗くても大丈夫だろうし。
「まあ、なんだかんだで忘れちゃうことも未だにあるんだけど」
「本当なら毎日やるほどのことじゃないんですし、栞さん以外は問題だとも思わないでしょうけどね」
「あはは、ちょっと耳が痛い話だね」
さて、そんな会話も済んだところでお仕事開始です。薄暗くとも埃っぽさがまるでないことだけは分かりますが、栞さんの掃除をするかどうかの基準はそんなことに左右されません。
「――そういえば、掃除機の電源ってどうするんですか?」
電灯が点けられないのと同じく、コンセントにももちろん電気は通っていません。けれども栞さんが使うのは箒でなく、電気を必要とする掃除機なのです。
そんな質問をしている間に栞さん、掃除機のコードをめいっぱいに伸ばしていました。黄色いテープを越えて赤いテープが見え、伸ばせる限界まで伸ばすと、プラグ部分を持って立ちあがりました。
「もう一回、清さんの部屋に行ってきます」
ああ、そういうことですか。
「すいません、僕のせいで二度手間になったみたいで」
「いえいえ。初めから分かってて今ここにいてもらってるんだし」
それだけ言って栞さんは踵を返し、102号室側の壁に頭を突っ込んで「お邪魔しまーす」と。
もし僕がいなかったら掃除機を受け取った後この部屋の鍵を開けに外を出る必要はないわけで、つまりその時点で掃除機をコンセントに繋いで直接この部屋に来られたのです。清さんの部屋に二度お邪魔する必要はなかったということですね。鍵を僕に預けてくれれば――というのは、さっきの掃除機を持つか否かの話に準じるのでしょう。
まあ栞さんが気にしてなさそうなのでそれはそれとして、いくら掃除機のコードを伸ばしても届きそうにない104号室はどうするのかという疑問も。
「さて、これでようやく準備完了です」
壁の向こうから現れた栞さん、まっすぐ伸ばしたらどれだけの長さになるのか――何重にも丸く巻かれた延長コードを手に携えていました。まあ恐らく、清さんからの借り物なんでしょう。
「あとは普通に掃除機を掛けるだけだから、こうくんとしてはつまらないと思うよ?」
「だったらいつもの庭掃除だって付き合ってませんって」
毎回付き合ってるというわけでもないですが、時々はそうして栞さんと談笑したりしているのです。今の栞さんの言い分は、何を今更といったものにあたるでしょう。
「あはは、それもそうだよね」
まあ、雨の音と掃除機の音で話はし辛いかもしれませんけども。しかし何も話ができなければ駄目なのかと言われたらそうでないというのは、これまた今更な話なんですけどね。僕の中だけの話ですけど。
というわけで掃除機のスイッチが入れられ、予想していた騒音が鳴り始めます。しかしまあそんなことが気になるのかと言われればもちろんそんなことはなく、取り敢えず僕はすっからかんな室内を歩き回りながら見回してみました。
そうして暫くうろうろしていると、栞さんが言いました。
「少し前まで、204号室もこんな感じだったんだよ」
204号室。言わずもがな、僕の部屋です。一月半ほど前までは、ここと同様の空き部屋だった部屋です。
「ものを買うほうじゃないんで、今もこことあんまり変わらないかもしれませんけどね」
机やタンス、テレビにテーブルと、ほぼ必要最低限のものしか備わっていない現在の204号室。それ以外のものとなると、机の上に熊の置物とキリンのぬいぐるみが並んでいるくらいでしょうか。電気さえ点けられたなら、この部屋も雰囲気はあまり変わらなさそうでした。
「そんなことないよ」
けれど、栞さんはそう言います。
「誰か住んでるってだけでも結構違ったりするよ? 空き部屋だった頃に寂しいと思ってたってわけじゃないけど、こうくんが204号室に住むようになってからは、それまでよりちょっとだけ良い気分だもん。自分の部屋にいるだけでもね」
ちょっとだけですか、と苦笑しそうになりましたが、僕と会うわけでなく自分の部屋にいるだけでということなら、むしろそれは嬉しい話です。
「ああ、別にその住み始めた人と付き合い始めたからってわけじゃないよ? それがこうくんじゃない他の誰かだったとしても、同じように感じてたと思う。……その人が私達を見ることができるかっていうのは、ちょっと関係してくるかもだけど」
「こういうアパートなんかの隣人って、今時だと『隣の部屋がうるさい』とか、そういう苦情の対象にしか思われてなさそうですけどねえ」
「ふふん、幽霊の人恋しさをみくびっちゃいけないよ。だからここに住んでるんだもん。行こうと思えばどこにだって行けるのに」
言いながら、仕事としての掃除機がけを続行している栞さん。説得力はばっちりなのでしょう、なにせ自分のためでなく他人のためにしている掃除なのですから。
「まあ、僕もそうなんですけどね。幽霊じゃないですけど」
「そう? それは良かった」
ここの雰囲気に馴染んだからなのか、お隣さんが栞さんだったからなのか。そのどちらかではあるんでしょうが、どちらでも同じような気もするので、それ以上は深く考えないでおきました。
そしてその一方、住み始めたのがここでなかったら僕にとっても隣人は苦情の対象だったのかもしれないな、とも。実際に起こっていないことを仮定しても、それが栓ないことだというのは分かってるんですけどね。
にこりと微笑んでくれた栞さん、しかし数秒ののち、今度はくすくすと笑い始めました。
「今日のサタデーに言わせたら、こういうのも『ややこしいこと』なのかもね」
「ああ、そんなこと言ってましたっけね」
植物は他人というものを認識しない、と語っていたサタデー。彼自身は今でこそそこから外れた生活を送っていますが、植物園で多数の植物を見ているうち、昔自分がそうだった頃のことを思い出したのでしょう。
「そんなこと言いながら笑ってたよね、サタデー」
「そうでしたね」
ややこしい、なんて言いながら笑っていたその胸中というのは、まあ語るまでもないことなのでしょう。なんせサタデー自身、そのややこしい生活にすっかり溶け込んでいるんですから。
「さっきは『こうくんじゃなくて他の誰かだったとしても同じように感じてたと思う』って言ったけど、それでも、ありがとう。いろいろややこしくしてくれて」
「いえいえ、こちらこそ」
掃除機の騒音の中でするには相応しくない会話だったようなきもしますが、まあ、それもふくめて冗談交じりだったということで。僕と栞さん、そこまで仰々しい付き合いをしてるわけじゃないですしね。普通ですよ、普通。
そこまで時間を掛けて掃除をするというわけでもないようで、一通り掃除機を掛け終えたら、ささっと104号室へ。「はたきを掛けたりするのは、まあ気が向いた時だね」と栞さんは苦笑交じりに言っていましたが、そもそも空き部屋の掃除という時点で気の向きようは結構なものなんだと思います。多分、家守さんからそうするように頼まれたとかでもないでしょうし。
というわけで、延長コードによって102号室から103号室を抜けて104号室まで電源プラグを延ばし、栞さんの仕事に慣れた僕ですら「そこまでして」と言いそうになった掃除が開始されます。壁一枚を抜けるのならまだしも、部屋一つを跨いでるわけですし。
「そのうち、ここにも誰か住むことになるのかなあ」
103号室の時と同じ騒音の向こうで、栞さんが呟きました。
けれども、それは僕へ向けた言葉なのでしょう。こういう掃除はもう何度も経験している栞さんですから、ただの感想としてそういう言葉を漏らすというのは不自然でしょうし。
「でしょうね。まあ、住み続けることになるかどうかは分かりませんけど」
「ちょっと……どころじゃなく、敷居が高いよねやっぱり」
言いながら栞さんは軽く笑い、ならばこれは冗談なのですが、しかし同時に事実でもあります。なんたってここ、お化け屋敷なんですし。たとえそのお化けがフレンドリーであるにせよ、です。
「今のところ、空き部屋は三つもあるしねー。全部埋まる日は来るのかな、なんて思っちゃうよ」
つい最近までは103号室と104号室の二つだった空き部屋ですが、大吾と成美さんが夫婦になったのに合わせ、そこに201号室も加わって三つになったのです。それで何が変わったかと言えば、栞さんの仕事が増えたわけですね。
「一番気にしてるのは、それでお金を稼いでる楓さんなんだろうけどね」
「現状はとんでもない赤字ですよね、どう考えても。みんなの給料もあるし、僕なんか家賃を払う立場なのに家賃以上のバイト代を貰ってますし」
そりゃあ僕としてはありがたい話なんですが、いろいろと大丈夫なんでしょうかと心配にも。家守さんの個人収入についてはもちろん、このあまくに荘自体が潰れたりしないだろうか、なんて。
けれども一方の栞さんはそんな心配がまるで浮かばないらしく、
「それでもどうにかなるくらい本業で稼いでるってことなんだろうね。こういう話になる度に言ってるような気がするけど、格好良いなあ、やっぱり」
と、ここにはいない家守さんにデレデレ――とまでは行かずとも、テレテレしているのでした。僕としてもそれに同意しないわけではありませんが、本人は格好の良い振る舞いを見せてはくれないんですよね、あんまり。だから格好良いのかもしれませんけど。
「自分で働いてお金を稼ぐって話だったら、栞さんだって同じだと思いますよ。そりゃあ、規模はいろいろと違いますけど」
「あはは、その規模が重要なような気もするけどね。でも、うん、ありがとう。そう言ってもらえると働き甲斐があるよ、こっちも」
そう言いながら栞さん、掃除機の首を前後させる速度を僅かに上昇させるのでした。目に見えて分かる喜び方をしていただけで、こちらとしても満足です。
ところで、
「それにしても栞さんって、家守さんのこと好きですよね」
「ん? うん、それはもちろんだけど……みんなだってそうでしょ? こうくんだって」
いきなり何を訊いてくるんだ、と言わんばかりの意外そうな顔をされてしまいましたが、まあ僕には僕でそう思わずにはいられないようなことがあるわけです。
それが何かと言われたら、栞さんがさっき言っていた、「こういう話になる度に言ってるけど、格好良いなあ」という部分です。好きさ加減がよっぽどでなければ、毎度のことだと分かっていながらわざわざ言いはしないでしょう。
「それはまあそうなんですけど、みんなの中でも特にって意味でです。いやまあ、僕にはそういうふうに見えるってだけなんですけど」
「そうなのかなあ? うーん、みんなと変わらないと思うけど……もちろん、すっごい好きなんだけどさ」
つい先程速くなった掃除機の首の前後動が、今度はゆっくりになりました。そのことと合わせてしかめっ面になる栞さんを見たところで、下手なこと言っちゃったかな、と。
「ああ、別にだから何だって話でもないんで、あまり深く考えてもらわなくてもいいですよ?」
「あはは、そうだね。どう転んでも悪いことじゃあないんだし」
というわけで引き続き掃除が続行され、栞さんは何とも思ってないんでしょうが、僕としては何となく口を開き難い雰囲気に。栞さんが何とも思ってない時点で取り越し苦労なのは分かってるんですけどね。
「……うーん、それで『みんなよりも』ってことになるかどうかは分からないけど」
すると、栞さんのほうから口が開かれました。
「私を病院から連れ出して、ここでの生活をくれた人だからね。そういう恩がある分、好きだっていうのも大きいんだと思うよ」
どうやら栞さん、深く考えてくれていたようです。
「でもまあ、恩と好きだっていう気持ちを結び付けるなら、やっぱりこうくんが一番になっちゃうんだけどね。ずっと引きずってた病院のことを解決してくれたんだし」
オチまで付けていただいて、どうもすいません。ありがとうございます。
「こんな、掃除機掛けながら言うことじゃないんだろうけどね」
「いえいえそんな、ちゃんと嬉しいですよ。照れますけど」
さて。104号室の掃除も終わって、残るは201号室。つい最近まで成美さんが住んでいた部屋です。
もちろん二階にある部屋なのですが、しかしどうやらこのまま清さんから借りた掃除機でやり通す気のようで、外に出てみれば随分と弱まっていた雨脚の中を、清さんの部屋に寄ることなく移動しました。
――が、栞さんが立ち止ったのはその201号室前ではなく、もう少し進んで一つ隣の202号室前でした。
何をするかと言えばそりゃあまずはチャイムを鳴らすのですが、そうして出てきた大吾は、栞さんが口を開くよりも前に「電源だな?」と告げてくるのでした。
僕なんかは「電源確保のために隣の部屋を訪ねる」ということを知ったのがついさっきなのですが、さすが、付き合いの長さからか僕よりも理解は深いようです。ちょっとだけ胸が痛かったりしますが、まあだからどうだというようなことでもないでしょう。
「宜しくお願いします」
丁寧な言葉と一緒に、丁寧に頭を下げる栞さん。仕事だから、ということなのでしょう。しかし、
「あれ?」
そうして頭を下げたまま、栞さんの動きが止まってしまいました。何を見たのかとその低くされた視線を追ってみると、玄関にある靴が通常よりも多いのでした。
「誰か来てる――って言うか、家守さんと高次さんと清さんの靴? だよね?」
見覚えのある靴にそんな予想を立ててみたところ、大吾は「おう」と。
「植物園から帰って来た時、ここに旦那サンが座っててよ。だからみんなを呼んでみたんだけど、オマエ等は仕事中だったからな。どうせこうやってそっちから来るし」
旦那さん。一見特定の個人を表していないような呼称ですが、しかし大吾がそう呼ぶのはある特定の個人だけ。それは、成美さんの前の夫である猫さんです。
「猫さん、来てたんだ。でもなんで? こんな雨の日に」
栞さんが尋ねました。言われてみれば、確かにこんな雨の日は避けてもいいでしょう。そこまで頻繁に顔を出しているというほどでもないですし。
「雨が降ってたからだよ。止む気配がねえからって、雨宿りのつもりで来たんだそうだ。オレ等は暫く留守だったけど、ここでも屋根はあるしな」
ここというのは、202号室ではなく二階の廊下。確かに屋根があるにはあるのですが、風向き一つでそれが意味を成さなくなるくらい幅の狭い屋根でもあります。それを圧してまで雨宿りの場所にここを選んだのは、まあ大吾と成美さんに会うことが念頭にあってのことなのでしょう。
「あー、あと、今日が何曜日なのか分からなくなったってのもな。火曜日はまだ明々後日だけど」
なるほど、それもあったのか。
成美さんの元夫ということで当たり前ながら猫である猫さんは、同じく猫であるチューズデーさんと良い仲っぽいのです。ぽいというのはまあ、僕が全てを把握しているわけではないことと、お二人としてもまだ男女の関係になるかどうかを見定めている最中だというのがあってのことなんですけど。要は、今のところは友人だということです。
「掃除終わったら、オマエ等も寄ってくか?」
「うん。お邪魔させてもらうよ」
僕の意見を窺うでもなく栞さんがそう答え、そうして僕と栞さんは、202号室でなく201号室へ進み入るのでした。まあ、栞さんだけはコンセントを借りるために201号室の壁をすり抜けて202号室へ入ることになるわけですけど。
というわけで、201号室での掃除が開始されます。と言っても、先の二つの部屋とやることは全く同じなんですけどね。
「家守さんも呼んだってことは、猫さん、また話せるようになってるんですかね」
「だと思うよ。そうじゃなかったら、さっき大吾くんが言ってた『今日ここに来た理由』が聞けないし」
「あ、そりゃそうですよね」
間抜けな質問をしてしまいましたが、事実確認ということにしておきましょう。恥ずかしいには恥ずかしいですが、幸い栞さんはそういうところへ追い打ちを掛けてくるような人ではないですし。
それでも、くすくすと笑われるくらいのことはありましたけどね。まあそれくらいは仕方ありません。
「ここみたいに、使われてた部屋が空いちゃうと思うんだけどさ」
栞さんが話を始めました。想像していた通り、どうやら別の話のようです。
「ちょっと変な気分だよね。つい最近まで人が住んでたのに、それがいきなりこうなってるって」
掃除機を持つ手は止めないまま、辺りを見渡す栞さん。つられて僕も同じように視線を動かしてみますが、そこにあるのは当然ながら103、104号室と同じ風景です。
……しかし、同じだからこその違和感が。前から空き部屋だった103、104号室と、つい最近に空き部屋になった、つい最近までは成美さんが住んでいたこの201号室が、全く同じなのです。ここが空き部屋でなかった痕跡なんて、何もありません。
「分かるような気がします。気がするだけかもしれませんけど」
掃除をするに当たって空き部屋というものを見慣れている栞さんと、今言われて初めてそう思った僕とでは、浮かんだ感想が全く同じだということはないのでしょう。というわけで、少々弱気な物言いになってしまいました。
けれどもまあ、それを訊く側である栞さんからすれば、そんなのは些末なこと。まるで気に留めることもありませんでした。
なので僕もそれに拘ることなく、それ以外で思い付いた点の話をしました。――とは言っても、話し出すまでにそれなりの躊躇を乗り越える必要のある話題なんですけど。
「すぐにって話ではないですけど、そのうち、二階にもう一つ空き部屋ができるんですかね」
「ん? ああ、そっか」
躊躇を完全には振り切れなかったか、何とも遠回しな言い方になってしまいましたが、栞さんは察してくれたようでした。
「こうくん、大学を卒業するまでだもんね。ここに住むの」
「え? あ、いや、そういうことじゃなくて」
「あれ? 違った?」
掃除機を持つ手は止めないながら、きょとんとした表情になる栞さん。
いえ、違ったというわけではないのです。むしろ栞さんが言ったそれは正解で、ただ単に僕が想定したものと違っただけなのです。そうですよね、普通はそっちが先に出てきますよね。
「あくまでも、もしかしたらの話なんですけど」
「うん」
「僕と栞さんも、大吾と成美さんみたいに――」
「……あっ。あっ、そっ、そっか。そうだよね、そういうことになるっていうのも、有り得ない話じゃないよね。いや、むしろそうならないと変なのかな」
さすがに変とまでは言いませんけど、と告げてあげるのが憚られるくらいの動揺っぷりでした。
やっぱりぼかしたりせず初めから具体的にこう言っていれば良かったかと反省もするのですが、早口気味になるのはまあ仕方ないとして、掃除機の頭を前後させるスピードが相当に速くなっているのは、悪いですけどちょっと面白いです。
「ああ、しまったあ!」
すると栞さん、声を張り上げながら今度は手も含めた全ての動きをびたりと停止させました。何だろうかと思っていたら、続けてへにゃりと背中を丸めます。そしてそのままへにゃりとした声で言うには、
「慌てた拍子に同意しちゃった……。もうちょっときちんと返事するところだったよねえ、今のって」
大吾と成美さんみたいに一緒に住むことになるのかもしれませんね、と言おうとして、そうならないと変なのかな、と返されました。まあ、同意の意思が表れているかと言えば、表れているのでしょう。
「そりゃあ、それなりに気合い入れて言いはしましたけど。でも、そう落ち込まれるほど深刻な話だったつもりもないですよ? 初めにも言った通り、もしかしたらの話ですし」
「深刻になった時は、また改めてお願いします。今度はちゃんとするんで……」
今の時点で同意を得たのに深刻になる機会はあるんだろうかという疑問が頭をよぎりもしましたが、けれどもやっぱりする時はするんでしょう。すっかり項垂れてしまった栞さんを可愛らしく思いながらも苦笑を浮かべつつ、僕は引き続き、仕事の付き添いという立場に甘んじることにしました。
『お邪魔しまーす』
清さんの掃除機を持ったまま、202号室へ招き入れられます。返すもの返してから行けよと言われるかもしれませんが、持ち主である清さんがここにいるんですから仕方ありません。
「ご苦労様、二人とも」
大吾に連れられて居間へ踏み入ったところ、小さい身体で座椅子に座り、猫さんを膝に乗せている成美さんから、労いの言葉を掛けられました。が、もちろん。
「いえ、僕は見てただけですから」
「ははは、そうか。相手がお前でもそこは譲らんのだな、喜坂は」
ということになります。そう、栞さんの掃除には分け隔てがないのです。そりゃあ隔てて欲しいと思わないでもないですけど、しかしそこは誇るべき箇所なのでしょう。自分の彼女の「いいところ」として。
しかしはてさて、そんなことばかり考えていると何を言われるか分かったものではありません。なんせこの場には家守さんもいるんですから。
ということで話題逸らしに――というだけの理由ではもちろんないですけど、
「今日は」
「ああ」
猫さんに挨拶をしました。栞さんは掃除機の電源を確保する時にもう済ませたんでしょう、栞さんからも猫さんからも、挨拶らしい言葉は出てきませんでした。というか栞さん、掃除機を清さんに引き渡していました。
「働き者だそうだな、お前の連れ合いは」
基本的に人間嫌いで、かつ無駄口が嫌いな猫さん。挨拶だけで終わると思いきや話し掛けられたことでちょっと驚きもしましたが、しかしそうは言ってもやはり、驚くようなことではないのでしょう。
「あ、えーと……そうですね、いつも感心させられるくらいで」
まだ連れ合ってはいないんですけどね、と201号室での会話を思い出しつつ考えてしまいますが、そこまで厳密な意味を込めてその言葉を使ったわけではないんでしょう。浮かんできたそんな思考は、沈めておきました。
そんなことがあった直後に栞さんが出てきましたが、掃除機を持ったままなせいか、ドアはたどたどしく、かつ半開き程度にだけ開けられるのでした。
一応僕のほうから残り半分を開き切ってあげましたが、掃除機を代わりに持つというのは、頭に浮かびこそすれ実行には移しませんでした。掃除の手伝いだということになって断られるだろうと踏んだのです。まあ、ドアを開けるのと大して変わらないと言われればそれまでですけど。
しかし僕からすれば「掃除機を持たなかった」であっても、栞さんからすれば「ドアを開けてもらった」なので、お礼を言われたりもするわけです。少々、もやっとしないでもありません。
そんな些細なことに気を取られつつも、しかし栞さんに続いて空き部屋である103号室へ足を踏み入れました。
当たり前ですが、薄暗いです。まだ日が沈むような時間ではないにせよ、天候があんなですし。
「電気が点けられないからね。真っ暗になってからだと、それこそ何も見えなくて掃除どころじゃなくなっちゃうんだよ」
「ああ、だからいつも昼頃なんですね掃除するの」
「……うーん、それは単にそういう習慣が付いただけっていうか」
おや。いやまあ、日が出てればいつでもいいんだからそりゃあ正午に拘ることもないか。庭掃除だったら今よりもうちょっとくらい暗くても大丈夫だろうし。
「まあ、なんだかんだで忘れちゃうことも未だにあるんだけど」
「本当なら毎日やるほどのことじゃないんですし、栞さん以外は問題だとも思わないでしょうけどね」
「あはは、ちょっと耳が痛い話だね」
さて、そんな会話も済んだところでお仕事開始です。薄暗くとも埃っぽさがまるでないことだけは分かりますが、栞さんの掃除をするかどうかの基準はそんなことに左右されません。
「――そういえば、掃除機の電源ってどうするんですか?」
電灯が点けられないのと同じく、コンセントにももちろん電気は通っていません。けれども栞さんが使うのは箒でなく、電気を必要とする掃除機なのです。
そんな質問をしている間に栞さん、掃除機のコードをめいっぱいに伸ばしていました。黄色いテープを越えて赤いテープが見え、伸ばせる限界まで伸ばすと、プラグ部分を持って立ちあがりました。
「もう一回、清さんの部屋に行ってきます」
ああ、そういうことですか。
「すいません、僕のせいで二度手間になったみたいで」
「いえいえ。初めから分かってて今ここにいてもらってるんだし」
それだけ言って栞さんは踵を返し、102号室側の壁に頭を突っ込んで「お邪魔しまーす」と。
もし僕がいなかったら掃除機を受け取った後この部屋の鍵を開けに外を出る必要はないわけで、つまりその時点で掃除機をコンセントに繋いで直接この部屋に来られたのです。清さんの部屋に二度お邪魔する必要はなかったということですね。鍵を僕に預けてくれれば――というのは、さっきの掃除機を持つか否かの話に準じるのでしょう。
まあ栞さんが気にしてなさそうなのでそれはそれとして、いくら掃除機のコードを伸ばしても届きそうにない104号室はどうするのかという疑問も。
「さて、これでようやく準備完了です」
壁の向こうから現れた栞さん、まっすぐ伸ばしたらどれだけの長さになるのか――何重にも丸く巻かれた延長コードを手に携えていました。まあ恐らく、清さんからの借り物なんでしょう。
「あとは普通に掃除機を掛けるだけだから、こうくんとしてはつまらないと思うよ?」
「だったらいつもの庭掃除だって付き合ってませんって」
毎回付き合ってるというわけでもないですが、時々はそうして栞さんと談笑したりしているのです。今の栞さんの言い分は、何を今更といったものにあたるでしょう。
「あはは、それもそうだよね」
まあ、雨の音と掃除機の音で話はし辛いかもしれませんけども。しかし何も話ができなければ駄目なのかと言われたらそうでないというのは、これまた今更な話なんですけどね。僕の中だけの話ですけど。
というわけで掃除機のスイッチが入れられ、予想していた騒音が鳴り始めます。しかしまあそんなことが気になるのかと言われればもちろんそんなことはなく、取り敢えず僕はすっからかんな室内を歩き回りながら見回してみました。
そうして暫くうろうろしていると、栞さんが言いました。
「少し前まで、204号室もこんな感じだったんだよ」
204号室。言わずもがな、僕の部屋です。一月半ほど前までは、ここと同様の空き部屋だった部屋です。
「ものを買うほうじゃないんで、今もこことあんまり変わらないかもしれませんけどね」
机やタンス、テレビにテーブルと、ほぼ必要最低限のものしか備わっていない現在の204号室。それ以外のものとなると、机の上に熊の置物とキリンのぬいぐるみが並んでいるくらいでしょうか。電気さえ点けられたなら、この部屋も雰囲気はあまり変わらなさそうでした。
「そんなことないよ」
けれど、栞さんはそう言います。
「誰か住んでるってだけでも結構違ったりするよ? 空き部屋だった頃に寂しいと思ってたってわけじゃないけど、こうくんが204号室に住むようになってからは、それまでよりちょっとだけ良い気分だもん。自分の部屋にいるだけでもね」
ちょっとだけですか、と苦笑しそうになりましたが、僕と会うわけでなく自分の部屋にいるだけでということなら、むしろそれは嬉しい話です。
「ああ、別にその住み始めた人と付き合い始めたからってわけじゃないよ? それがこうくんじゃない他の誰かだったとしても、同じように感じてたと思う。……その人が私達を見ることができるかっていうのは、ちょっと関係してくるかもだけど」
「こういうアパートなんかの隣人って、今時だと『隣の部屋がうるさい』とか、そういう苦情の対象にしか思われてなさそうですけどねえ」
「ふふん、幽霊の人恋しさをみくびっちゃいけないよ。だからここに住んでるんだもん。行こうと思えばどこにだって行けるのに」
言いながら、仕事としての掃除機がけを続行している栞さん。説得力はばっちりなのでしょう、なにせ自分のためでなく他人のためにしている掃除なのですから。
「まあ、僕もそうなんですけどね。幽霊じゃないですけど」
「そう? それは良かった」
ここの雰囲気に馴染んだからなのか、お隣さんが栞さんだったからなのか。そのどちらかではあるんでしょうが、どちらでも同じような気もするので、それ以上は深く考えないでおきました。
そしてその一方、住み始めたのがここでなかったら僕にとっても隣人は苦情の対象だったのかもしれないな、とも。実際に起こっていないことを仮定しても、それが栓ないことだというのは分かってるんですけどね。
にこりと微笑んでくれた栞さん、しかし数秒ののち、今度はくすくすと笑い始めました。
「今日のサタデーに言わせたら、こういうのも『ややこしいこと』なのかもね」
「ああ、そんなこと言ってましたっけね」
植物は他人というものを認識しない、と語っていたサタデー。彼自身は今でこそそこから外れた生活を送っていますが、植物園で多数の植物を見ているうち、昔自分がそうだった頃のことを思い出したのでしょう。
「そんなこと言いながら笑ってたよね、サタデー」
「そうでしたね」
ややこしい、なんて言いながら笑っていたその胸中というのは、まあ語るまでもないことなのでしょう。なんせサタデー自身、そのややこしい生活にすっかり溶け込んでいるんですから。
「さっきは『こうくんじゃなくて他の誰かだったとしても同じように感じてたと思う』って言ったけど、それでも、ありがとう。いろいろややこしくしてくれて」
「いえいえ、こちらこそ」
掃除機の騒音の中でするには相応しくない会話だったようなきもしますが、まあ、それもふくめて冗談交じりだったということで。僕と栞さん、そこまで仰々しい付き合いをしてるわけじゃないですしね。普通ですよ、普通。
そこまで時間を掛けて掃除をするというわけでもないようで、一通り掃除機を掛け終えたら、ささっと104号室へ。「はたきを掛けたりするのは、まあ気が向いた時だね」と栞さんは苦笑交じりに言っていましたが、そもそも空き部屋の掃除という時点で気の向きようは結構なものなんだと思います。多分、家守さんからそうするように頼まれたとかでもないでしょうし。
というわけで、延長コードによって102号室から103号室を抜けて104号室まで電源プラグを延ばし、栞さんの仕事に慣れた僕ですら「そこまでして」と言いそうになった掃除が開始されます。壁一枚を抜けるのならまだしも、部屋一つを跨いでるわけですし。
「そのうち、ここにも誰か住むことになるのかなあ」
103号室の時と同じ騒音の向こうで、栞さんが呟きました。
けれども、それは僕へ向けた言葉なのでしょう。こういう掃除はもう何度も経験している栞さんですから、ただの感想としてそういう言葉を漏らすというのは不自然でしょうし。
「でしょうね。まあ、住み続けることになるかどうかは分かりませんけど」
「ちょっと……どころじゃなく、敷居が高いよねやっぱり」
言いながら栞さんは軽く笑い、ならばこれは冗談なのですが、しかし同時に事実でもあります。なんたってここ、お化け屋敷なんですし。たとえそのお化けがフレンドリーであるにせよ、です。
「今のところ、空き部屋は三つもあるしねー。全部埋まる日は来るのかな、なんて思っちゃうよ」
つい最近までは103号室と104号室の二つだった空き部屋ですが、大吾と成美さんが夫婦になったのに合わせ、そこに201号室も加わって三つになったのです。それで何が変わったかと言えば、栞さんの仕事が増えたわけですね。
「一番気にしてるのは、それでお金を稼いでる楓さんなんだろうけどね」
「現状はとんでもない赤字ですよね、どう考えても。みんなの給料もあるし、僕なんか家賃を払う立場なのに家賃以上のバイト代を貰ってますし」
そりゃあ僕としてはありがたい話なんですが、いろいろと大丈夫なんでしょうかと心配にも。家守さんの個人収入についてはもちろん、このあまくに荘自体が潰れたりしないだろうか、なんて。
けれども一方の栞さんはそんな心配がまるで浮かばないらしく、
「それでもどうにかなるくらい本業で稼いでるってことなんだろうね。こういう話になる度に言ってるような気がするけど、格好良いなあ、やっぱり」
と、ここにはいない家守さんにデレデレ――とまでは行かずとも、テレテレしているのでした。僕としてもそれに同意しないわけではありませんが、本人は格好の良い振る舞いを見せてはくれないんですよね、あんまり。だから格好良いのかもしれませんけど。
「自分で働いてお金を稼ぐって話だったら、栞さんだって同じだと思いますよ。そりゃあ、規模はいろいろと違いますけど」
「あはは、その規模が重要なような気もするけどね。でも、うん、ありがとう。そう言ってもらえると働き甲斐があるよ、こっちも」
そう言いながら栞さん、掃除機の首を前後させる速度を僅かに上昇させるのでした。目に見えて分かる喜び方をしていただけで、こちらとしても満足です。
ところで、
「それにしても栞さんって、家守さんのこと好きですよね」
「ん? うん、それはもちろんだけど……みんなだってそうでしょ? こうくんだって」
いきなり何を訊いてくるんだ、と言わんばかりの意外そうな顔をされてしまいましたが、まあ僕には僕でそう思わずにはいられないようなことがあるわけです。
それが何かと言われたら、栞さんがさっき言っていた、「こういう話になる度に言ってるけど、格好良いなあ」という部分です。好きさ加減がよっぽどでなければ、毎度のことだと分かっていながらわざわざ言いはしないでしょう。
「それはまあそうなんですけど、みんなの中でも特にって意味でです。いやまあ、僕にはそういうふうに見えるってだけなんですけど」
「そうなのかなあ? うーん、みんなと変わらないと思うけど……もちろん、すっごい好きなんだけどさ」
つい先程速くなった掃除機の首の前後動が、今度はゆっくりになりました。そのことと合わせてしかめっ面になる栞さんを見たところで、下手なこと言っちゃったかな、と。
「ああ、別にだから何だって話でもないんで、あまり深く考えてもらわなくてもいいですよ?」
「あはは、そうだね。どう転んでも悪いことじゃあないんだし」
というわけで引き続き掃除が続行され、栞さんは何とも思ってないんでしょうが、僕としては何となく口を開き難い雰囲気に。栞さんが何とも思ってない時点で取り越し苦労なのは分かってるんですけどね。
「……うーん、それで『みんなよりも』ってことになるかどうかは分からないけど」
すると、栞さんのほうから口が開かれました。
「私を病院から連れ出して、ここでの生活をくれた人だからね。そういう恩がある分、好きだっていうのも大きいんだと思うよ」
どうやら栞さん、深く考えてくれていたようです。
「でもまあ、恩と好きだっていう気持ちを結び付けるなら、やっぱりこうくんが一番になっちゃうんだけどね。ずっと引きずってた病院のことを解決してくれたんだし」
オチまで付けていただいて、どうもすいません。ありがとうございます。
「こんな、掃除機掛けながら言うことじゃないんだろうけどね」
「いえいえそんな、ちゃんと嬉しいですよ。照れますけど」
さて。104号室の掃除も終わって、残るは201号室。つい最近まで成美さんが住んでいた部屋です。
もちろん二階にある部屋なのですが、しかしどうやらこのまま清さんから借りた掃除機でやり通す気のようで、外に出てみれば随分と弱まっていた雨脚の中を、清さんの部屋に寄ることなく移動しました。
――が、栞さんが立ち止ったのはその201号室前ではなく、もう少し進んで一つ隣の202号室前でした。
何をするかと言えばそりゃあまずはチャイムを鳴らすのですが、そうして出てきた大吾は、栞さんが口を開くよりも前に「電源だな?」と告げてくるのでした。
僕なんかは「電源確保のために隣の部屋を訪ねる」ということを知ったのがついさっきなのですが、さすが、付き合いの長さからか僕よりも理解は深いようです。ちょっとだけ胸が痛かったりしますが、まあだからどうだというようなことでもないでしょう。
「宜しくお願いします」
丁寧な言葉と一緒に、丁寧に頭を下げる栞さん。仕事だから、ということなのでしょう。しかし、
「あれ?」
そうして頭を下げたまま、栞さんの動きが止まってしまいました。何を見たのかとその低くされた視線を追ってみると、玄関にある靴が通常よりも多いのでした。
「誰か来てる――って言うか、家守さんと高次さんと清さんの靴? だよね?」
見覚えのある靴にそんな予想を立ててみたところ、大吾は「おう」と。
「植物園から帰って来た時、ここに旦那サンが座っててよ。だからみんなを呼んでみたんだけど、オマエ等は仕事中だったからな。どうせこうやってそっちから来るし」
旦那さん。一見特定の個人を表していないような呼称ですが、しかし大吾がそう呼ぶのはある特定の個人だけ。それは、成美さんの前の夫である猫さんです。
「猫さん、来てたんだ。でもなんで? こんな雨の日に」
栞さんが尋ねました。言われてみれば、確かにこんな雨の日は避けてもいいでしょう。そこまで頻繁に顔を出しているというほどでもないですし。
「雨が降ってたからだよ。止む気配がねえからって、雨宿りのつもりで来たんだそうだ。オレ等は暫く留守だったけど、ここでも屋根はあるしな」
ここというのは、202号室ではなく二階の廊下。確かに屋根があるにはあるのですが、風向き一つでそれが意味を成さなくなるくらい幅の狭い屋根でもあります。それを圧してまで雨宿りの場所にここを選んだのは、まあ大吾と成美さんに会うことが念頭にあってのことなのでしょう。
「あー、あと、今日が何曜日なのか分からなくなったってのもな。火曜日はまだ明々後日だけど」
なるほど、それもあったのか。
成美さんの元夫ということで当たり前ながら猫である猫さんは、同じく猫であるチューズデーさんと良い仲っぽいのです。ぽいというのはまあ、僕が全てを把握しているわけではないことと、お二人としてもまだ男女の関係になるかどうかを見定めている最中だというのがあってのことなんですけど。要は、今のところは友人だということです。
「掃除終わったら、オマエ等も寄ってくか?」
「うん。お邪魔させてもらうよ」
僕の意見を窺うでもなく栞さんがそう答え、そうして僕と栞さんは、202号室でなく201号室へ進み入るのでした。まあ、栞さんだけはコンセントを借りるために201号室の壁をすり抜けて202号室へ入ることになるわけですけど。
というわけで、201号室での掃除が開始されます。と言っても、先の二つの部屋とやることは全く同じなんですけどね。
「家守さんも呼んだってことは、猫さん、また話せるようになってるんですかね」
「だと思うよ。そうじゃなかったら、さっき大吾くんが言ってた『今日ここに来た理由』が聞けないし」
「あ、そりゃそうですよね」
間抜けな質問をしてしまいましたが、事実確認ということにしておきましょう。恥ずかしいには恥ずかしいですが、幸い栞さんはそういうところへ追い打ちを掛けてくるような人ではないですし。
それでも、くすくすと笑われるくらいのことはありましたけどね。まあそれくらいは仕方ありません。
「ここみたいに、使われてた部屋が空いちゃうと思うんだけどさ」
栞さんが話を始めました。想像していた通り、どうやら別の話のようです。
「ちょっと変な気分だよね。つい最近まで人が住んでたのに、それがいきなりこうなってるって」
掃除機を持つ手は止めないまま、辺りを見渡す栞さん。つられて僕も同じように視線を動かしてみますが、そこにあるのは当然ながら103、104号室と同じ風景です。
……しかし、同じだからこその違和感が。前から空き部屋だった103、104号室と、つい最近に空き部屋になった、つい最近までは成美さんが住んでいたこの201号室が、全く同じなのです。ここが空き部屋でなかった痕跡なんて、何もありません。
「分かるような気がします。気がするだけかもしれませんけど」
掃除をするに当たって空き部屋というものを見慣れている栞さんと、今言われて初めてそう思った僕とでは、浮かんだ感想が全く同じだということはないのでしょう。というわけで、少々弱気な物言いになってしまいました。
けれどもまあ、それを訊く側である栞さんからすれば、そんなのは些末なこと。まるで気に留めることもありませんでした。
なので僕もそれに拘ることなく、それ以外で思い付いた点の話をしました。――とは言っても、話し出すまでにそれなりの躊躇を乗り越える必要のある話題なんですけど。
「すぐにって話ではないですけど、そのうち、二階にもう一つ空き部屋ができるんですかね」
「ん? ああ、そっか」
躊躇を完全には振り切れなかったか、何とも遠回しな言い方になってしまいましたが、栞さんは察してくれたようでした。
「こうくん、大学を卒業するまでだもんね。ここに住むの」
「え? あ、いや、そういうことじゃなくて」
「あれ? 違った?」
掃除機を持つ手は止めないながら、きょとんとした表情になる栞さん。
いえ、違ったというわけではないのです。むしろ栞さんが言ったそれは正解で、ただ単に僕が想定したものと違っただけなのです。そうですよね、普通はそっちが先に出てきますよね。
「あくまでも、もしかしたらの話なんですけど」
「うん」
「僕と栞さんも、大吾と成美さんみたいに――」
「……あっ。あっ、そっ、そっか。そうだよね、そういうことになるっていうのも、有り得ない話じゃないよね。いや、むしろそうならないと変なのかな」
さすがに変とまでは言いませんけど、と告げてあげるのが憚られるくらいの動揺っぷりでした。
やっぱりぼかしたりせず初めから具体的にこう言っていれば良かったかと反省もするのですが、早口気味になるのはまあ仕方ないとして、掃除機の頭を前後させるスピードが相当に速くなっているのは、悪いですけどちょっと面白いです。
「ああ、しまったあ!」
すると栞さん、声を張り上げながら今度は手も含めた全ての動きをびたりと停止させました。何だろうかと思っていたら、続けてへにゃりと背中を丸めます。そしてそのままへにゃりとした声で言うには、
「慌てた拍子に同意しちゃった……。もうちょっときちんと返事するところだったよねえ、今のって」
大吾と成美さんみたいに一緒に住むことになるのかもしれませんね、と言おうとして、そうならないと変なのかな、と返されました。まあ、同意の意思が表れているかと言えば、表れているのでしょう。
「そりゃあ、それなりに気合い入れて言いはしましたけど。でも、そう落ち込まれるほど深刻な話だったつもりもないですよ? 初めにも言った通り、もしかしたらの話ですし」
「深刻になった時は、また改めてお願いします。今度はちゃんとするんで……」
今の時点で同意を得たのに深刻になる機会はあるんだろうかという疑問が頭をよぎりもしましたが、けれどもやっぱりする時はするんでしょう。すっかり項垂れてしまった栞さんを可愛らしく思いながらも苦笑を浮かべつつ、僕は引き続き、仕事の付き添いという立場に甘んじることにしました。
『お邪魔しまーす』
清さんの掃除機を持ったまま、202号室へ招き入れられます。返すもの返してから行けよと言われるかもしれませんが、持ち主である清さんがここにいるんですから仕方ありません。
「ご苦労様、二人とも」
大吾に連れられて居間へ踏み入ったところ、小さい身体で座椅子に座り、猫さんを膝に乗せている成美さんから、労いの言葉を掛けられました。が、もちろん。
「いえ、僕は見てただけですから」
「ははは、そうか。相手がお前でもそこは譲らんのだな、喜坂は」
ということになります。そう、栞さんの掃除には分け隔てがないのです。そりゃあ隔てて欲しいと思わないでもないですけど、しかしそこは誇るべき箇所なのでしょう。自分の彼女の「いいところ」として。
しかしはてさて、そんなことばかり考えていると何を言われるか分かったものではありません。なんせこの場には家守さんもいるんですから。
ということで話題逸らしに――というだけの理由ではもちろんないですけど、
「今日は」
「ああ」
猫さんに挨拶をしました。栞さんは掃除機の電源を確保する時にもう済ませたんでしょう、栞さんからも猫さんからも、挨拶らしい言葉は出てきませんでした。というか栞さん、掃除機を清さんに引き渡していました。
「働き者だそうだな、お前の連れ合いは」
基本的に人間嫌いで、かつ無駄口が嫌いな猫さん。挨拶だけで終わると思いきや話し掛けられたことでちょっと驚きもしましたが、しかしそうは言ってもやはり、驚くようなことではないのでしょう。
「あ、えーと……そうですね、いつも感心させられるくらいで」
まだ連れ合ってはいないんですけどね、と201号室での会話を思い出しつつ考えてしまいますが、そこまで厳密な意味を込めてその言葉を使ったわけではないんでしょう。浮かんできたそんな思考は、沈めておきました。
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