「しおりんは相変わらず可愛らしいなぁ~。そっかぁ、恋しちゃってるんだねぇ~」
「あぅ…………」
「あまり虐めてやるな椛。それと早く離せ。いつまでわたしを抱きかかえているつもりだ」
「だってなるみん抱っこしてると気持ちいいんだもん。つるつるぷにぷにのお肌とか、髪の毛のフカフカ加減とかさぁ」
「わたしのほうはむにょむにょしてあまり気持ちよくはないがな」
「ありがとうございました大吾さん。とても気持ちよかったですわ」
「じゃあ次、ジョンな。ほれこっち来い」
「ワンッ!」
「うふふ。ごゆっくり、ジョンさん。ところで大吾さん、楓さんのお部屋が少し賑やかになったようですわね?」
「ん、そうか? オレにゃあ分からねーけど。孝治サンが帰ってきたのかもな」
「ワフゥ~」
「いえ、どうやら栞さんと成美さんのようですわ。逆に孝治さんの声はしませんわね。孝治さん、どこかお出かけしているのですか?」
「ああ、じゃあ孝一の部屋だと思うぞ。ずっと廊下で立ち話って事もねーだろうしな。………そっか、成美のやつ出てきたのか……」
「………声色から察するに、成美さんの機嫌は直っているようですわ。よかったですわね、大吾さん」
「ワンワン!」
「まあ、開き直っただけかもしれねえんだけどな……」
「どういうことですか?」
「ワウ?」
「今日のアレの引き金になったの、アイツの体の事なんだよ。オレが―――えー、そこらにいた大学生のねーちゃんの話したら急に怒っちまってよ。そんでアレが収まってから、アイツ『もう子ども扱いでも構わない』とか言い出してな」
「大吾さんはそれでは駄目なのですか? 成美さん自身がそう仰っているのなら喧嘩の原因が減るって事になるんですし。それにもしかしたら落ち込みモードが解けて、無かった事にされているかもしれませんわ」
「そっちならいいんだけどよ、その前の――子ども扱い云々のほうだと、なんか嫌なんだよな。アイツらしくねえっつうかなんつーか」
「ワンワン!」
「ああ、そうですわねジョンさん。きっとそうですわ」
「なんだよ?」
「大吾さんはきっと、成美さんの強気なところがお好きなのですわ」
「なっ!?」
「だから御自分が成美さんに弱音を吐かせたという事を、不快に思ってしまうのですわ。自分が好きな成美さんはこうではないのに、そうさせてしまったのもまた自分。というふうに考えてしまうのですわね」
「な、なんでそんなの分かんだよ。オマエ等エスパーか?」
「ワン!」
「うふふ、外れているなら外れているでも結構ですわ。こんなものはただのカンですもの。もし万が一大吾さんが成美さんをお好きな理由が成美さんの外見だったとしても、わたくし達には関わりのない事ですわよ」
「ぐぬ……確かにそりゃそうだろうけどよ………」
「じゃあ打ち合わせと準備ですね。何事もまずは形から、という事で服を交換しましょうか日向くん」
言うが早いか、孝治さんは立ち上がって上着を脱ぎだした。
うーん、ノリノリですね孝治さん。僕まだ服のほうについては何も言ってないのに。
こちらも上着を脱いでお互いにそれを交換し、お互いに着る。さすが孝治さん、サイズぴったりですよ。と思ったところで、
「やっぱりズボンもですか?」
今更だけど、気になった。
「やっぱりズボンもですよ~」
そしてそれに対する返事はもちろん、肯定だった。
銭湯とかの大衆浴場とかだと当たり前のように他人の目の前で服を脱いだりするけど、普段服を脱ぐ場所ではない所(この場合は居間)だと恥ずかしいのはなんなのだろう? 別に下着まで脱ぐわけではないし、外で服を脱ぎだすよりはまだ常識指数は落ちないと思うんだけど……やっぱり空間の持つ意味って、僕達の行動にかなりの影響を及ぼしてるんだなあ。
はい。どうでもいい結論に達したところで変装完了。ああ、目の前に僕がいるよ。
そしてその僕が、口を開く。
「次は言葉使いですね。相手が誰だとどんなふうに喋ってるのか」
「ですね」
服を交換した僕と孝治さんは、再びテーブルで向かい合う。じゃあまずは僕から。さあさあノッてまいりましたよぉ。
「大吾以外の人とは、今の孝治さんと同じ口調で大丈夫だと思います。で、大吾にだけはなんて言うか、くだけた感じで。『ねえ』とか『どうしたの?』とか」
「あ、つまり僕が椛さんに話し掛ける時と同じですね」
「そうなんですか?」
一度家守さんの部屋にはお邪魔したけど、その時孝治さんと椛さんの会話には出くわさなかったと思う。「さん」付けだったからちょっと意外かな?
「はい。なので、椛さんにもそんな感じでお願いします。他の方には今のような言葉使いですので」
「要するに大吾と椛さんが入れ替わるだけですね」
言葉使いに関しては案外簡単そうだった。それが済んだら、次は呼び方の問題。誰を何と呼ぶのか、だ。
「孝治さんって、今誰をどういうふうに呼んでます?」
「あ、そうですねえ。それも大事なところですよね」
「む。もうこんな時間か。そろそろジョンとマンデーが散歩に出かける時間だな」
「あ、そういやまだあたしも孝治もあの二匹に顔合わせてないや。いやー、これはうっかり」
「しぃちゃん、ジョンとマンデーまだ裏にいる?」
「うーん………いないみたいです。やっぱり散歩に出かけちゃったんじゃないですか? 栞と成美ちゃんが部屋を出るちょっと前にジョンが吼えたのは聞こえたんですけど」
「もしかしたら、まだ楽の部屋で毛の手入れをしているのかもしれんがな。まあいつもの時間通りならもうとっくに済んでいる筈だが」
「あー、でも家に来てくれたり孝治さんに付き添ってくれたりしてたから、ブラシ掛けの時間なかったかもしれないねぇ。いや~だいちゃん大忙しだ」
「あ、じゃあ栞、清さんの部屋見てきますね。もしいたら呼んできます」
「お願いねしおりん。ありがと~」
「ところで今更ですけど、なぜアドバイザーにわたくしをご指名になったのですか? 光栄ではありますけど、やはり人と犬の違いもあるにはあるでしょうから清一郎さんか楓さんのほうが適任だったのではないですか? 楓さんだって、真剣な相談ならお遊びもお控えになるでしょうし」
「いや一回行ったんだけどよ、椛サン孝治サンのいる前でその話は無理だぜやっぱ。清サンはこの通り留守だしよ」
「ワフッ」
「『今日思い立ったからって今日じゃなくてもいいんじゃないか?』との事ですわ。お急ぎなのですか? 大吾さん」
「いや、思い立ったが吉日とか言うだろ。……まあこれは今思いついたんだけどよ。それになんか、じっとしてられなくてな」
「ならわたくしにいい案がありますわ」
「案? なんだ?」
「ワウ?」
「今、孝治さんは孝一さんのお部屋におられるんですわよね? その帰り、楓さんのお部屋にお着きになる前に捕まえてしまうのです。これなら途中で誰かに出くわさない限り二人っきりでお話できますわ。それに新婚さんですし、こういうお話にもお強いでしょう」
「ワンワン!」
「え、いや孝治サン? 今日会ったばっかでそれは」
「人間社会のルールなんてものはわたくし、存じ上げませんわ。またとないチャンスですのに勿体無い」
「ワウワウ」
「うぬぅ………おッ!? 喜坂!?」
「あら本当。ごきげんよう栞さん」
「ワンッ!」
「おはよ~。ってもうお昼だけどね」
誰をどう呼ぶのかの打ち合わせ終了。僕はこの部屋を出た瞬間から家守さんをお義姉さん、椛さんは椛さんのままで、他のみんなは名字にさん付けで呼びかける事になるそうだ。大吾以外のさん付けはいつもの事だし、これもそれほど難しくないかな?
と安心したところで、最後に大問題が発覚。
「で、一番の問題なんですけど、僕は幽霊が見えないんですよ。声は聞こえるんですけど」
なんですと!?
「そ、そうなんですか? 大吾と一緒に来たから、てっきり見える人なのかと思ってましたよ……」
って事はつまり、僕は幽霊さん方と出くわした場合に見えない振りをしなければならないという事ですか。急に難易度が急上昇しましたねえ。とあまりの衝撃についつい二重表現。火が燃えてる、みたいな。……これは違うか。
「日向くんは見えるんですよね?」
「あ、はい。そういう事で宜しくお願いします」
幽霊が見える見えない以外では逆に不安になってしまいそうなほど簡単な打ち合わせだったが、それでもこれで準備は整った。外面も内面も、今の僕は孝治さんなのだ!
「それでは早速ですが、行って参ります」
「頑張ってくださいね。僕のほうも誰かが尋ねてきたら頑張りますよ。『見える振り』だけはちょっと厳しそうですけど」
誰か……か。あの様子じゃあ栞さんは来てくれそうにないし、家守さんもお客がいるのならこっちに来てる場合じゃなさそうだし、これは今夜の料理教室は開催不可かなあ。となると孝治さんが頑張る機会は残念ながらないのかもしれない。
が、来客予定はありませんよと伝えるのもかなり寂しいものがあるので、この事実は伏せておいた。最初から頑張る必要がないと分かっちゃってもつまらないだろうしね。
「あの、お腹が空いたり喉が渇いたりしたらカップラーメンとか冷蔵庫の麦茶とか、食べたり飲んだり自由にしてもらって構いませんので」
「ああいえ、食べ物はここに………あ」
パンがまだ数個残っているリュックを持ち上げると、孝治さんがなんとも間の抜けた顔になった。そして僕も多分、孝治さんと全く同じ表情をしているのだろう。ああこの場に鏡があれば確認できるのに。
「あ、危ない危ない。これは『孝治さん』の持ち物なんでしたよね」
と、「日向くん」。……うん、くん付けだったよね。大丈夫大丈夫。
「すいません、忘れてましたよ」
そうだ。服装だけじゃなくてこのリュックもまた「孝治さん」である証の一つなんだから、今は僕が持っていないと駄目なんだった。
「日向くん」が持ち上げたリュックをこちらへと指し出したので、僕はそれを受け取る。
そしてその受け取り際、「日向くん」が楽しげに口を開く。
「それにしても自信満々ですね。今のって、お腹が空くような時間までばれるつもりはないって事ですよね?」
言ってくださる。
僕は苦笑とともに立ち上がり、目の前の僕と同じような口調で返す。
「念の為ですよ。多分すぐ戻ってくる事になりますから、もし今お腹が空いてるんでしたら早めにお湯の準備してくださいね」
「あはは。じゃあ、気をつけて」
「はい。行ってきます……じゃなくて、お邪魔しました。『日向くん』」
「またいつでもどうぞ。『孝治さん』」
玄関口へ向かい、靴の間違えのないように確認してから足を通す。―――うん、服と同じく靴のサイズもぴったりだ。
ドアをくぐって日向宅を後にし、「さてさて、結構長居させてもらっちゃったな」なんて呟いてみる。そうして気分も出たところで廊下のほうへと顔を向けてみると、
「あ、孝治サン。丁度よかった、ちょっと話があるんですけど……」
………なんてこったい。
「ただいま~。いましたよ、ジョンもマンデーも」
「おぉっ! やあやあお二人さん久しぶりぃ!」
「ワンワンッ!」
「お久しぶりですわ椛さん。それと、御結婚おめでとうございます。七匹を代表して御祝い申し上げますわ」
「ありがとね~。そっちはどう? 相変わらず仲好くやってる?」
「ワフッ」
「ええ、変わりありませんわ。他のみんなも相変わらず元気にしています」
「そりゃよかった。主人ともども、今後とも宜しくお願いします」
「ワウ」
「こちらこそですわ」
「ねえしぃちゃん。ジョンとマンデーがあっちにいたって事は、だいちゃんもいたんじゃないの?」
「あ、はい。大吾くんもいたんですけど、用事があるとかで上に戻っちゃいました」
「そっかー。なかなか全員揃わないもんだね、珍しく」
「…………」
「あ、なるみんが寂しそうな顔してる~。だいごんが来なかったからかなぁ~? うりうり」
「つ、突付くな鬱陶しい。そんな寂しそうなどと……」
「ワンッ!」
「うふふふ」
「な、なんだお前達。何が可笑しい? 椛もだな、本当いい加減に離してくれ。揉むぞ」
「ありゃ。う~ん、残念だけどこれ以上大きくされると困っちゃうからねぇ~」
「ふう。―――ああ、肩から後頭部にかけてのうにょうにょした感触が抜けん………」
「じゃあなっちゃん、今度はアタシのほうに来る?」
「お断りだ! 何が『じゃあ』だ! 似たようなものだろうが!」
「あ、あの……今のってその、揉む? と大きくなるって事ですか?」
「ん? そだよしおりん。よく言うじゃん、揉まれると大きくなるって。知らない?」
「そ、そうなんですか? ………じゃ、じゃじゃじゃあさっき言ってた『旦那さん効果』って、もしかして―――」
「やだも~。想像しないでよしおり~ん。恥ずかしいじゃんよぉ」
「ご、ごごごごごめんなさいっ!」
「椛ぃ、何もかも自分で言っといてそれじゃあ分かってて誘導したとしか思えないよ?」
「ありゃばれちった? でぇへへへへ~」
「ワウ?」
「何やら人間の女性は大変そうですわねジョンさん。よく分かりませんけれど」
いきなりの試練登場に驚いて声を失ってしまったのは、むしろ幸いだったのかもしれない。なんせ僕は今孝治さんで、幽霊が見えない筈なのだから。で、大吾に対する孝治さん流の呼びかけは………
「え、え~と、怒橋くんですか?」
こんな感じだろうか?
見えていないという事でわざと視線を逸らしつつ、正面にいる事だけは分かっているという演技をする。声をかけられれば大体の方向は掴めるのだから、横や後ろまで気にするのはやり過ぎだろうからね。
そして演技は上手くいったらしく、大吾―――いやいや、怒橋くんは特に不審がる様子もなく返事を返してきた。
「そうです。それであの、話っつうのが………」
言い辛そうに言葉を詰まらせ、頭を掻く。しかしこっちはそれどころではない。詰まるどころか頭は常にフル回転。次にどうくるのか、全く読めないからだ。
「な、何ですかね?」
「その、オレ、成美―――いや、哀沢の事が、好き………なんですよ。実は」
はっ!? いや、何言っちゃってんのよ怒橋くん!? 僕は孝治ですよ!? 孝一くんじゃないですよ!? 今日会ったばっかりって設定の孝治ですよ!?
「で、その………今日ちょっと喧嘩しちまいまして、なんかそれからやり辛いって言うか………」
そんな事知ってるよ! トイレでガンガンやってたの引っ張り出したの僕なんだから!
「は、はぁ。それで僕に何を……?」
「……どうしたらいいんですかね? こういう時って」
「は?」
待て待て待て落ち着け僕。「は?」じゃなくて。
何で僕に言ってくるのかは置いといて、聞いた事だけを考えるならこれは恋の相談だ。あの大吾が「好き」とかいっちゃってうぷぷぷぷ。………いや、笑っちゃ駄目だな。で、成美さ……いや、哀沢さんになるのか。その哀沢さんが好きだと。で、ついでに喧嘩をしたと。最後に、どうしたらいいのかと。
「謝ればいいんじゃないですかね?」
………対応はこれで合ってるよね? 学校で謝り合ったのは知ってるけど、そこは「孝治さん」は知らない筈だし。問題無いよね?
「それは………もう、謝ったんですけど」
大丈夫だったか、ふう。
「なんかそれだけじゃ駄目なような気がして……本当は喧嘩ってしょっちゅうやってんですけど、いつもと違ってモヤモヤが残ってるって言うか……」
って事は―――どういう事になるのかな? 謝ってもまだモヤモヤしている、と。それを今知った僕としては―――
「謝っても許してもらえなかったって事ですか?」
「いえ、あっちも謝ってくれたんですけど」
知ってるよ! 知ってるのに訊かなきゃならないんだよ! 大吾が先制攻撃で成美さんが好きとか言っちゃうから、引き返せなくなっちゃったんだよ!
「なんつーか、その……もう今までみたいに喧嘩したくねえっつーか……」
ああもう好きだとか最初に言ったくせにはっきりしないなぁ! 好きなんだったら―――はい、一旦深呼吸。ちゃんと言葉を変換させてね。
「告白しちゃえばいいんじゃないですか? 哀沢さんに『好きです』って」
なかなか役者だね、僕も。
「え、あ、あの」
怒橋くんは告白という単語におたおたしているが、僕の口は止まらない。潤滑油の効き過ぎで枠からすっぽ抜けた歯車が、そのまま勢い良く地面をタイヤのように転がり続けるみたいに。
……ああ、止まらな過ぎてものの例えも暴走気味だ。どこのコントだよその状況。
「告白したら喧嘩がなくなるってわけでもないでしょうけど、哀沢さんの事が好きだからもう喧嘩がしたくないと言うのなら、はっきり好きだと哀沢さんに伝えるべきだと思いますよ? 理由抜きで『喧嘩はもうよそう』と言っても、『お前が言うな』って返されるのがオチでしょうし」
と自分で言っておいて、思い浮かべるのは隣室にお住まいのあの人の顔。
凄い嫌な感じだけど、他人の話だとするする口が回るなあ。告白しちゃえって、自分だってそんな事できやしないくせに。
「や、やっぱそうなるんですかね………」
言った本人が言った自分を責めてたりするけど、それを聞いた怒橋くんは納得した様子。正直な話僕なんかのアドバイスが正解だとは思えない訳ですけど、逃げられないから仕方ないんです。だからごめんね、怒橋くん。目も合わせないで適当に答えちゃって。
「………ありがとうございました孝治サン。こんな無茶苦茶な相談に答えてもらって」
これまでほぼ直立不動だった怒橋くんが、深々と頭を下げる。
そうしてお礼を言われると、心にグサリときた。だから僕は孝治さんじゃないんだって。
「いえいえ。頑張ってくださいね」
「はい。それで孝治サン、これからヤモリの部屋に戻るんですよね?」
ん? ……おっと危ない。釣られてつい目を合わせるところだった。
「ええ、そのつもりですけど」
「えーっと、今部屋ん中に成美―――哀沢がいるんで、」
いやもう呼び方別にそのままでいいから。ナルミ・アイザーワみたいになってるから。なんでヤモリはそのままでそっちだけ意識するのさ。逆でしょ普通。一応、身内にあたるんだよ? 今の僕は。
「その、外に呼び出してもらえませんかね? オレ………やってみますから」
………え? 今から? マジで?
…………マジで?
「しっかし、孝治のやつ遅いなあ。こんだけ女の子勢ぞろいでうはうはだってのに勿体無い」
「いやあんた、自分の旦那に浮気勧めてどーすんのよ」
「それはいいとしても、本当になかなか帰ってこないな。まだ日向の部屋にいるのだろうか?」
「うぅ~………」
「ワウ?」
「どうしました? 栞さん。何かお困りですか?」
「あ、あのね、孝一くんにその……謝ろうと思って。ずっと感じの悪い態度だったし、せっかく話し掛けてくれても殆ど無視みたいにしちゃってたし………でも他に人がいると、ちょっと………」
「あらあら、こちらでもですの?」
「ん? マンデー、それはどういう意味だ?」
「あ、いえいえなんでもありませんわ」
「ワフッ」
「ほ~、仲直りって事かぁ。それは邪魔しちゃあ悪いねぇ。よし、じゃああたしがこーいっちゃんの部屋からお邪魔虫さんを引っ張り出してくるよ」
「え、あの、そんな無理してもらわなくても」
「下手しなさんなよ椛。しぃちゃんがどうのこうのとかあっちで口滑らせちゃ駄目だよ?」
「姉貴じゃないんだから、そんないらないおせっかいはしないよ~」
大吾―――じゃなくて怒橋くんは、壁の向こう側で待機中。さぞ心臓が爆発寸前なのでしょうね。
で、僕は今家守さん―――じゃなくて、お義姉さんの部屋の前。呼ぶほうだってそりゃ緊張するよ。哀沢さんを呼び出した後は部屋の中に突入するわけだし、なぜか栞さんまで来てるらしいし……ああ、そんな状況でばれたらどうなる? ただでさえ話もできない状況なのに、もう修復すら不可能になっちゃわない? だからって今更逃げるわけにもいかないし―――
「おろ、孝治じゃん」
ドアが勝手に開きました。椛さんが立っていました。僕を孝治と呼びました。
「なんだ帰ってきてたんだ。いやさ、今から呼びに行こうと思ってたとこなのよ」
「あ、お、遅くなっちゃったね。ごめんごめん」
これでいいんですかね? 本物の孝治さん。
「今なるみんとしおりんに加えて、ジョンとマンデーが来てるよ。犬と言えどここの仲間なんだし、ちゃんと挨拶しなよ?」
こういう対応で正解だったらしく、何事もないかのように会話は続行。ふぅ。
「う、うん。でもその前に哀沢さん呼んでくれる? ちょっと用事があるんだけど」
「なるみん? いいけど……」
僕が哀沢さんに用がある事のに意外そうな顔を見せつつ、
「おーいなるみーん! 孝治がなんか用だってさー!」
家の内側へ振り返って哀沢さんを呼ぶ椛さん。
そしてそれから数秒の間を置き、ぺたぺたという軽い足音とともに哀沢さん登場。もちろん今の僕には哀沢さんが見えない設定なので、来てるのが分かっても目は合わせない。
ああ疲れる。
「なんだ?」
「孝治さん」に対しても下から見上げながら上から目線なのはまあいいとして、なんだと言われても困るんですよね。椛さんがこの場にいることを考えると、できれば理由は教えないままで連れ出したいんだけど………そうだ、これ使おう。
「椛さん、これ中に持っていってくれない?」
僕はパンの入ったリュックを差し出す。話をしている間に荷物を持っていってもらうというのはそんなに不自然な行動でもないと思うけど、さあどうよ!?
「あ、うん。分かったー」
いよっし!
「お、まだ残ってる。あたしもなんか食ーべよっと」
リュックを受け取ると、そう言いながら奥へと入っていく椛さん。これで僕と哀沢さんの二人っきりというわけだ。あとは哀沢さんに行き先を告げるだけで、僕のここでの役目は終わりという事になる。
はやる気持ちと哀沢さんの顔を見てしまいそうな勢いを抑え込みつつ、行き先のほうへと顔を向けながら一応小声で指示を出す。
「哀沢さん、あっちの壁の向こうで怒橋くんが待ってます。行ってあげてください」
「怒橋が? 何の用だ?」
と訊き返されたが、ここでばらすよりは………
「そこまでは聞いてないですけど、とにかく行ってあげてください」
「あ、ああ。分かった……」
そう言って視界の隅の哀沢さんが移動を始めたのを確認し、僕は部屋の中へ。そして哀沢さんは――――頑張ってね、大吾。
「おお、いたいた。月見に言われて出て来たのだが、何の用だ? 怒橋」
「あ、あのよ、なんつーか………今日、大学でアレ、あっただろ?」
「その事か………あれは本当にすまなかった。謝り足りんと言うのなら何度でも謝る。悪かった」
「いやそういう事じゃなくてよ。オマエ、アレで随分落ち込んだだろ? それで」
「ああ、あんなものはもう収まったよ。一日部屋で寝るなどと言ってたのがこの通りだ。わたしのほうはもう心配いらんぞ」
「そういう事でもねえんだよ」
「ん? まだ違うのか? では何だ?」
「確かに心配もしたんだけどよ、オレ思ったんだよ。そん時だけ心配すんのも変だよなって。大きかれ小さかれ喧嘩してオマエの機嫌悪くするのなんて、いつもやってるのになって」
「いやそんな、そこまで心配してはもらわなくても……と言うか、いやに優しいじゃないか。どうしたのだ? 変な物でも食ったか?」
「あぅ…………」
「あまり虐めてやるな椛。それと早く離せ。いつまでわたしを抱きかかえているつもりだ」
「だってなるみん抱っこしてると気持ちいいんだもん。つるつるぷにぷにのお肌とか、髪の毛のフカフカ加減とかさぁ」
「わたしのほうはむにょむにょしてあまり気持ちよくはないがな」
「ありがとうございました大吾さん。とても気持ちよかったですわ」
「じゃあ次、ジョンな。ほれこっち来い」
「ワンッ!」
「うふふ。ごゆっくり、ジョンさん。ところで大吾さん、楓さんのお部屋が少し賑やかになったようですわね?」
「ん、そうか? オレにゃあ分からねーけど。孝治サンが帰ってきたのかもな」
「ワフゥ~」
「いえ、どうやら栞さんと成美さんのようですわ。逆に孝治さんの声はしませんわね。孝治さん、どこかお出かけしているのですか?」
「ああ、じゃあ孝一の部屋だと思うぞ。ずっと廊下で立ち話って事もねーだろうしな。………そっか、成美のやつ出てきたのか……」
「………声色から察するに、成美さんの機嫌は直っているようですわ。よかったですわね、大吾さん」
「ワンワン!」
「まあ、開き直っただけかもしれねえんだけどな……」
「どういうことですか?」
「ワウ?」
「今日のアレの引き金になったの、アイツの体の事なんだよ。オレが―――えー、そこらにいた大学生のねーちゃんの話したら急に怒っちまってよ。そんでアレが収まってから、アイツ『もう子ども扱いでも構わない』とか言い出してな」
「大吾さんはそれでは駄目なのですか? 成美さん自身がそう仰っているのなら喧嘩の原因が減るって事になるんですし。それにもしかしたら落ち込みモードが解けて、無かった事にされているかもしれませんわ」
「そっちならいいんだけどよ、その前の――子ども扱い云々のほうだと、なんか嫌なんだよな。アイツらしくねえっつうかなんつーか」
「ワンワン!」
「ああ、そうですわねジョンさん。きっとそうですわ」
「なんだよ?」
「大吾さんはきっと、成美さんの強気なところがお好きなのですわ」
「なっ!?」
「だから御自分が成美さんに弱音を吐かせたという事を、不快に思ってしまうのですわ。自分が好きな成美さんはこうではないのに、そうさせてしまったのもまた自分。というふうに考えてしまうのですわね」
「な、なんでそんなの分かんだよ。オマエ等エスパーか?」
「ワン!」
「うふふ、外れているなら外れているでも結構ですわ。こんなものはただのカンですもの。もし万が一大吾さんが成美さんをお好きな理由が成美さんの外見だったとしても、わたくし達には関わりのない事ですわよ」
「ぐぬ……確かにそりゃそうだろうけどよ………」
「じゃあ打ち合わせと準備ですね。何事もまずは形から、という事で服を交換しましょうか日向くん」
言うが早いか、孝治さんは立ち上がって上着を脱ぎだした。
うーん、ノリノリですね孝治さん。僕まだ服のほうについては何も言ってないのに。
こちらも上着を脱いでお互いにそれを交換し、お互いに着る。さすが孝治さん、サイズぴったりですよ。と思ったところで、
「やっぱりズボンもですか?」
今更だけど、気になった。
「やっぱりズボンもですよ~」
そしてそれに対する返事はもちろん、肯定だった。
銭湯とかの大衆浴場とかだと当たり前のように他人の目の前で服を脱いだりするけど、普段服を脱ぐ場所ではない所(この場合は居間)だと恥ずかしいのはなんなのだろう? 別に下着まで脱ぐわけではないし、外で服を脱ぎだすよりはまだ常識指数は落ちないと思うんだけど……やっぱり空間の持つ意味って、僕達の行動にかなりの影響を及ぼしてるんだなあ。
はい。どうでもいい結論に達したところで変装完了。ああ、目の前に僕がいるよ。
そしてその僕が、口を開く。
「次は言葉使いですね。相手が誰だとどんなふうに喋ってるのか」
「ですね」
服を交換した僕と孝治さんは、再びテーブルで向かい合う。じゃあまずは僕から。さあさあノッてまいりましたよぉ。
「大吾以外の人とは、今の孝治さんと同じ口調で大丈夫だと思います。で、大吾にだけはなんて言うか、くだけた感じで。『ねえ』とか『どうしたの?』とか」
「あ、つまり僕が椛さんに話し掛ける時と同じですね」
「そうなんですか?」
一度家守さんの部屋にはお邪魔したけど、その時孝治さんと椛さんの会話には出くわさなかったと思う。「さん」付けだったからちょっと意外かな?
「はい。なので、椛さんにもそんな感じでお願いします。他の方には今のような言葉使いですので」
「要するに大吾と椛さんが入れ替わるだけですね」
言葉使いに関しては案外簡単そうだった。それが済んだら、次は呼び方の問題。誰を何と呼ぶのか、だ。
「孝治さんって、今誰をどういうふうに呼んでます?」
「あ、そうですねえ。それも大事なところですよね」
「む。もうこんな時間か。そろそろジョンとマンデーが散歩に出かける時間だな」
「あ、そういやまだあたしも孝治もあの二匹に顔合わせてないや。いやー、これはうっかり」
「しぃちゃん、ジョンとマンデーまだ裏にいる?」
「うーん………いないみたいです。やっぱり散歩に出かけちゃったんじゃないですか? 栞と成美ちゃんが部屋を出るちょっと前にジョンが吼えたのは聞こえたんですけど」
「もしかしたら、まだ楽の部屋で毛の手入れをしているのかもしれんがな。まあいつもの時間通りならもうとっくに済んでいる筈だが」
「あー、でも家に来てくれたり孝治さんに付き添ってくれたりしてたから、ブラシ掛けの時間なかったかもしれないねぇ。いや~だいちゃん大忙しだ」
「あ、じゃあ栞、清さんの部屋見てきますね。もしいたら呼んできます」
「お願いねしおりん。ありがと~」
「ところで今更ですけど、なぜアドバイザーにわたくしをご指名になったのですか? 光栄ではありますけど、やはり人と犬の違いもあるにはあるでしょうから清一郎さんか楓さんのほうが適任だったのではないですか? 楓さんだって、真剣な相談ならお遊びもお控えになるでしょうし」
「いや一回行ったんだけどよ、椛サン孝治サンのいる前でその話は無理だぜやっぱ。清サンはこの通り留守だしよ」
「ワフッ」
「『今日思い立ったからって今日じゃなくてもいいんじゃないか?』との事ですわ。お急ぎなのですか? 大吾さん」
「いや、思い立ったが吉日とか言うだろ。……まあこれは今思いついたんだけどよ。それになんか、じっとしてられなくてな」
「ならわたくしにいい案がありますわ」
「案? なんだ?」
「ワウ?」
「今、孝治さんは孝一さんのお部屋におられるんですわよね? その帰り、楓さんのお部屋にお着きになる前に捕まえてしまうのです。これなら途中で誰かに出くわさない限り二人っきりでお話できますわ。それに新婚さんですし、こういうお話にもお強いでしょう」
「ワンワン!」
「え、いや孝治サン? 今日会ったばっかでそれは」
「人間社会のルールなんてものはわたくし、存じ上げませんわ。またとないチャンスですのに勿体無い」
「ワウワウ」
「うぬぅ………おッ!? 喜坂!?」
「あら本当。ごきげんよう栞さん」
「ワンッ!」
「おはよ~。ってもうお昼だけどね」
誰をどう呼ぶのかの打ち合わせ終了。僕はこの部屋を出た瞬間から家守さんをお義姉さん、椛さんは椛さんのままで、他のみんなは名字にさん付けで呼びかける事になるそうだ。大吾以外のさん付けはいつもの事だし、これもそれほど難しくないかな?
と安心したところで、最後に大問題が発覚。
「で、一番の問題なんですけど、僕は幽霊が見えないんですよ。声は聞こえるんですけど」
なんですと!?
「そ、そうなんですか? 大吾と一緒に来たから、てっきり見える人なのかと思ってましたよ……」
って事はつまり、僕は幽霊さん方と出くわした場合に見えない振りをしなければならないという事ですか。急に難易度が急上昇しましたねえ。とあまりの衝撃についつい二重表現。火が燃えてる、みたいな。……これは違うか。
「日向くんは見えるんですよね?」
「あ、はい。そういう事で宜しくお願いします」
幽霊が見える見えない以外では逆に不安になってしまいそうなほど簡単な打ち合わせだったが、それでもこれで準備は整った。外面も内面も、今の僕は孝治さんなのだ!
「それでは早速ですが、行って参ります」
「頑張ってくださいね。僕のほうも誰かが尋ねてきたら頑張りますよ。『見える振り』だけはちょっと厳しそうですけど」
誰か……か。あの様子じゃあ栞さんは来てくれそうにないし、家守さんもお客がいるのならこっちに来てる場合じゃなさそうだし、これは今夜の料理教室は開催不可かなあ。となると孝治さんが頑張る機会は残念ながらないのかもしれない。
が、来客予定はありませんよと伝えるのもかなり寂しいものがあるので、この事実は伏せておいた。最初から頑張る必要がないと分かっちゃってもつまらないだろうしね。
「あの、お腹が空いたり喉が渇いたりしたらカップラーメンとか冷蔵庫の麦茶とか、食べたり飲んだり自由にしてもらって構いませんので」
「ああいえ、食べ物はここに………あ」
パンがまだ数個残っているリュックを持ち上げると、孝治さんがなんとも間の抜けた顔になった。そして僕も多分、孝治さんと全く同じ表情をしているのだろう。ああこの場に鏡があれば確認できるのに。
「あ、危ない危ない。これは『孝治さん』の持ち物なんでしたよね」
と、「日向くん」。……うん、くん付けだったよね。大丈夫大丈夫。
「すいません、忘れてましたよ」
そうだ。服装だけじゃなくてこのリュックもまた「孝治さん」である証の一つなんだから、今は僕が持っていないと駄目なんだった。
「日向くん」が持ち上げたリュックをこちらへと指し出したので、僕はそれを受け取る。
そしてその受け取り際、「日向くん」が楽しげに口を開く。
「それにしても自信満々ですね。今のって、お腹が空くような時間までばれるつもりはないって事ですよね?」
言ってくださる。
僕は苦笑とともに立ち上がり、目の前の僕と同じような口調で返す。
「念の為ですよ。多分すぐ戻ってくる事になりますから、もし今お腹が空いてるんでしたら早めにお湯の準備してくださいね」
「あはは。じゃあ、気をつけて」
「はい。行ってきます……じゃなくて、お邪魔しました。『日向くん』」
「またいつでもどうぞ。『孝治さん』」
玄関口へ向かい、靴の間違えのないように確認してから足を通す。―――うん、服と同じく靴のサイズもぴったりだ。
ドアをくぐって日向宅を後にし、「さてさて、結構長居させてもらっちゃったな」なんて呟いてみる。そうして気分も出たところで廊下のほうへと顔を向けてみると、
「あ、孝治サン。丁度よかった、ちょっと話があるんですけど……」
………なんてこったい。
「ただいま~。いましたよ、ジョンもマンデーも」
「おぉっ! やあやあお二人さん久しぶりぃ!」
「ワンワンッ!」
「お久しぶりですわ椛さん。それと、御結婚おめでとうございます。七匹を代表して御祝い申し上げますわ」
「ありがとね~。そっちはどう? 相変わらず仲好くやってる?」
「ワフッ」
「ええ、変わりありませんわ。他のみんなも相変わらず元気にしています」
「そりゃよかった。主人ともども、今後とも宜しくお願いします」
「ワウ」
「こちらこそですわ」
「ねえしぃちゃん。ジョンとマンデーがあっちにいたって事は、だいちゃんもいたんじゃないの?」
「あ、はい。大吾くんもいたんですけど、用事があるとかで上に戻っちゃいました」
「そっかー。なかなか全員揃わないもんだね、珍しく」
「…………」
「あ、なるみんが寂しそうな顔してる~。だいごんが来なかったからかなぁ~? うりうり」
「つ、突付くな鬱陶しい。そんな寂しそうなどと……」
「ワンッ!」
「うふふふ」
「な、なんだお前達。何が可笑しい? 椛もだな、本当いい加減に離してくれ。揉むぞ」
「ありゃ。う~ん、残念だけどこれ以上大きくされると困っちゃうからねぇ~」
「ふう。―――ああ、肩から後頭部にかけてのうにょうにょした感触が抜けん………」
「じゃあなっちゃん、今度はアタシのほうに来る?」
「お断りだ! 何が『じゃあ』だ! 似たようなものだろうが!」
「あ、あの……今のってその、揉む? と大きくなるって事ですか?」
「ん? そだよしおりん。よく言うじゃん、揉まれると大きくなるって。知らない?」
「そ、そうなんですか? ………じゃ、じゃじゃじゃあさっき言ってた『旦那さん効果』って、もしかして―――」
「やだも~。想像しないでよしおり~ん。恥ずかしいじゃんよぉ」
「ご、ごごごごごめんなさいっ!」
「椛ぃ、何もかも自分で言っといてそれじゃあ分かってて誘導したとしか思えないよ?」
「ありゃばれちった? でぇへへへへ~」
「ワウ?」
「何やら人間の女性は大変そうですわねジョンさん。よく分かりませんけれど」
いきなりの試練登場に驚いて声を失ってしまったのは、むしろ幸いだったのかもしれない。なんせ僕は今孝治さんで、幽霊が見えない筈なのだから。で、大吾に対する孝治さん流の呼びかけは………
「え、え~と、怒橋くんですか?」
こんな感じだろうか?
見えていないという事でわざと視線を逸らしつつ、正面にいる事だけは分かっているという演技をする。声をかけられれば大体の方向は掴めるのだから、横や後ろまで気にするのはやり過ぎだろうからね。
そして演技は上手くいったらしく、大吾―――いやいや、怒橋くんは特に不審がる様子もなく返事を返してきた。
「そうです。それであの、話っつうのが………」
言い辛そうに言葉を詰まらせ、頭を掻く。しかしこっちはそれどころではない。詰まるどころか頭は常にフル回転。次にどうくるのか、全く読めないからだ。
「な、何ですかね?」
「その、オレ、成美―――いや、哀沢の事が、好き………なんですよ。実は」
はっ!? いや、何言っちゃってんのよ怒橋くん!? 僕は孝治ですよ!? 孝一くんじゃないですよ!? 今日会ったばっかりって設定の孝治ですよ!?
「で、その………今日ちょっと喧嘩しちまいまして、なんかそれからやり辛いって言うか………」
そんな事知ってるよ! トイレでガンガンやってたの引っ張り出したの僕なんだから!
「は、はぁ。それで僕に何を……?」
「……どうしたらいいんですかね? こういう時って」
「は?」
待て待て待て落ち着け僕。「は?」じゃなくて。
何で僕に言ってくるのかは置いといて、聞いた事だけを考えるならこれは恋の相談だ。あの大吾が「好き」とかいっちゃってうぷぷぷぷ。………いや、笑っちゃ駄目だな。で、成美さ……いや、哀沢さんになるのか。その哀沢さんが好きだと。で、ついでに喧嘩をしたと。最後に、どうしたらいいのかと。
「謝ればいいんじゃないですかね?」
………対応はこれで合ってるよね? 学校で謝り合ったのは知ってるけど、そこは「孝治さん」は知らない筈だし。問題無いよね?
「それは………もう、謝ったんですけど」
大丈夫だったか、ふう。
「なんかそれだけじゃ駄目なような気がして……本当は喧嘩ってしょっちゅうやってんですけど、いつもと違ってモヤモヤが残ってるって言うか……」
って事は―――どういう事になるのかな? 謝ってもまだモヤモヤしている、と。それを今知った僕としては―――
「謝っても許してもらえなかったって事ですか?」
「いえ、あっちも謝ってくれたんですけど」
知ってるよ! 知ってるのに訊かなきゃならないんだよ! 大吾が先制攻撃で成美さんが好きとか言っちゃうから、引き返せなくなっちゃったんだよ!
「なんつーか、その……もう今までみたいに喧嘩したくねえっつーか……」
ああもう好きだとか最初に言ったくせにはっきりしないなぁ! 好きなんだったら―――はい、一旦深呼吸。ちゃんと言葉を変換させてね。
「告白しちゃえばいいんじゃないですか? 哀沢さんに『好きです』って」
なかなか役者だね、僕も。
「え、あ、あの」
怒橋くんは告白という単語におたおたしているが、僕の口は止まらない。潤滑油の効き過ぎで枠からすっぽ抜けた歯車が、そのまま勢い良く地面をタイヤのように転がり続けるみたいに。
……ああ、止まらな過ぎてものの例えも暴走気味だ。どこのコントだよその状況。
「告白したら喧嘩がなくなるってわけでもないでしょうけど、哀沢さんの事が好きだからもう喧嘩がしたくないと言うのなら、はっきり好きだと哀沢さんに伝えるべきだと思いますよ? 理由抜きで『喧嘩はもうよそう』と言っても、『お前が言うな』って返されるのがオチでしょうし」
と自分で言っておいて、思い浮かべるのは隣室にお住まいのあの人の顔。
凄い嫌な感じだけど、他人の話だとするする口が回るなあ。告白しちゃえって、自分だってそんな事できやしないくせに。
「や、やっぱそうなるんですかね………」
言った本人が言った自分を責めてたりするけど、それを聞いた怒橋くんは納得した様子。正直な話僕なんかのアドバイスが正解だとは思えない訳ですけど、逃げられないから仕方ないんです。だからごめんね、怒橋くん。目も合わせないで適当に答えちゃって。
「………ありがとうございました孝治サン。こんな無茶苦茶な相談に答えてもらって」
これまでほぼ直立不動だった怒橋くんが、深々と頭を下げる。
そうしてお礼を言われると、心にグサリときた。だから僕は孝治さんじゃないんだって。
「いえいえ。頑張ってくださいね」
「はい。それで孝治サン、これからヤモリの部屋に戻るんですよね?」
ん? ……おっと危ない。釣られてつい目を合わせるところだった。
「ええ、そのつもりですけど」
「えーっと、今部屋ん中に成美―――哀沢がいるんで、」
いやもう呼び方別にそのままでいいから。ナルミ・アイザーワみたいになってるから。なんでヤモリはそのままでそっちだけ意識するのさ。逆でしょ普通。一応、身内にあたるんだよ? 今の僕は。
「その、外に呼び出してもらえませんかね? オレ………やってみますから」
………え? 今から? マジで?
…………マジで?
「しっかし、孝治のやつ遅いなあ。こんだけ女の子勢ぞろいでうはうはだってのに勿体無い」
「いやあんた、自分の旦那に浮気勧めてどーすんのよ」
「それはいいとしても、本当になかなか帰ってこないな。まだ日向の部屋にいるのだろうか?」
「うぅ~………」
「ワウ?」
「どうしました? 栞さん。何かお困りですか?」
「あ、あのね、孝一くんにその……謝ろうと思って。ずっと感じの悪い態度だったし、せっかく話し掛けてくれても殆ど無視みたいにしちゃってたし………でも他に人がいると、ちょっと………」
「あらあら、こちらでもですの?」
「ん? マンデー、それはどういう意味だ?」
「あ、いえいえなんでもありませんわ」
「ワフッ」
「ほ~、仲直りって事かぁ。それは邪魔しちゃあ悪いねぇ。よし、じゃああたしがこーいっちゃんの部屋からお邪魔虫さんを引っ張り出してくるよ」
「え、あの、そんな無理してもらわなくても」
「下手しなさんなよ椛。しぃちゃんがどうのこうのとかあっちで口滑らせちゃ駄目だよ?」
「姉貴じゃないんだから、そんないらないおせっかいはしないよ~」
大吾―――じゃなくて怒橋くんは、壁の向こう側で待機中。さぞ心臓が爆発寸前なのでしょうね。
で、僕は今家守さん―――じゃなくて、お義姉さんの部屋の前。呼ぶほうだってそりゃ緊張するよ。哀沢さんを呼び出した後は部屋の中に突入するわけだし、なぜか栞さんまで来てるらしいし……ああ、そんな状況でばれたらどうなる? ただでさえ話もできない状況なのに、もう修復すら不可能になっちゃわない? だからって今更逃げるわけにもいかないし―――
「おろ、孝治じゃん」
ドアが勝手に開きました。椛さんが立っていました。僕を孝治と呼びました。
「なんだ帰ってきてたんだ。いやさ、今から呼びに行こうと思ってたとこなのよ」
「あ、お、遅くなっちゃったね。ごめんごめん」
これでいいんですかね? 本物の孝治さん。
「今なるみんとしおりんに加えて、ジョンとマンデーが来てるよ。犬と言えどここの仲間なんだし、ちゃんと挨拶しなよ?」
こういう対応で正解だったらしく、何事もないかのように会話は続行。ふぅ。
「う、うん。でもその前に哀沢さん呼んでくれる? ちょっと用事があるんだけど」
「なるみん? いいけど……」
僕が哀沢さんに用がある事のに意外そうな顔を見せつつ、
「おーいなるみーん! 孝治がなんか用だってさー!」
家の内側へ振り返って哀沢さんを呼ぶ椛さん。
そしてそれから数秒の間を置き、ぺたぺたという軽い足音とともに哀沢さん登場。もちろん今の僕には哀沢さんが見えない設定なので、来てるのが分かっても目は合わせない。
ああ疲れる。
「なんだ?」
「孝治さん」に対しても下から見上げながら上から目線なのはまあいいとして、なんだと言われても困るんですよね。椛さんがこの場にいることを考えると、できれば理由は教えないままで連れ出したいんだけど………そうだ、これ使おう。
「椛さん、これ中に持っていってくれない?」
僕はパンの入ったリュックを差し出す。話をしている間に荷物を持っていってもらうというのはそんなに不自然な行動でもないと思うけど、さあどうよ!?
「あ、うん。分かったー」
いよっし!
「お、まだ残ってる。あたしもなんか食ーべよっと」
リュックを受け取ると、そう言いながら奥へと入っていく椛さん。これで僕と哀沢さんの二人っきりというわけだ。あとは哀沢さんに行き先を告げるだけで、僕のここでの役目は終わりという事になる。
はやる気持ちと哀沢さんの顔を見てしまいそうな勢いを抑え込みつつ、行き先のほうへと顔を向けながら一応小声で指示を出す。
「哀沢さん、あっちの壁の向こうで怒橋くんが待ってます。行ってあげてください」
「怒橋が? 何の用だ?」
と訊き返されたが、ここでばらすよりは………
「そこまでは聞いてないですけど、とにかく行ってあげてください」
「あ、ああ。分かった……」
そう言って視界の隅の哀沢さんが移動を始めたのを確認し、僕は部屋の中へ。そして哀沢さんは――――頑張ってね、大吾。
「おお、いたいた。月見に言われて出て来たのだが、何の用だ? 怒橋」
「あ、あのよ、なんつーか………今日、大学でアレ、あっただろ?」
「その事か………あれは本当にすまなかった。謝り足りんと言うのなら何度でも謝る。悪かった」
「いやそういう事じゃなくてよ。オマエ、アレで随分落ち込んだだろ? それで」
「ああ、あんなものはもう収まったよ。一日部屋で寝るなどと言ってたのがこの通りだ。わたしのほうはもう心配いらんぞ」
「そういう事でもねえんだよ」
「ん? まだ違うのか? では何だ?」
「確かに心配もしたんだけどよ、オレ思ったんだよ。そん時だけ心配すんのも変だよなって。大きかれ小さかれ喧嘩してオマエの機嫌悪くするのなんて、いつもやってるのになって」
「いやそんな、そこまで心配してはもらわなくても……と言うか、いやに優しいじゃないか。どうしたのだ? 変な物でも食ったか?」
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