とはいえ理屈がないままじゃあ実際に謝るとおかしなことになっちゃうよなあ、と結局は沈黙し続けていたところ、お母さんからお父さんへ「あなた、そろそろいいんじゃない?」と思わせぶりな一言。対してお父さんは「そうだな」と頷くわけですが、さて何の話なのでしょうか。
「喜坂さん、それに家守さん。あと孝一も」
なんか僕だけ取って付けた感のある言い方でしたが、まあ仕方ないかな、ということで。
「喜坂さんが幽霊だという話、信じます。私達は」
栞さんと顔を見合せます。すると初めぽかんとしていた栞さんの表情はみるみる嬉しそうな色を帯び始めました。次に確認した家守さんと高次さんの表情も、栞さんほどではないにせよ、ほっとしたようなものに。
もちろんそんなことを言いながら僕だって嬉しいわけですが、しかし。
「ありがとう。でも、なんで?」
嬉しさよりも疑問のほうが大きくなってしまったのでした。
「それっぽい話、まだ全然してないのに」
家守さん高次さんを呼んで再度この部屋に入ってからしたことと言えば、栞さんが両親からでも見えるようにしてもらったことだけです。予定ではここからまだまだ幽霊についての話を続けて、それでようやくお父さんお母さんにも栞さんが幽霊だと信じてもらえる、ということになっていたのですが。嬉しい誤算ではありますがしかし、それでも誤算は誤算なのです。
というわけで口にした質問に対し、お父さんから返答が。
「喜坂さんが――まあ、なんだ。普通の人とちょっと違うということは、初めから明白だったわけだ。なんせ見えなかったわけだしな」
そりゃまあその通り。
とは言え、それだけ取り上げても「ちょっと違う」どころではないわけですが、そこはお父さんなりの気遣いなのでしょう。さっき三人で謝ることになったことと同様、多分栞さんは全く気にしないでしょうが、それでも感謝の念くらいは浮かぶのでした。
「でも、だったら何なんだって話になるでしょ? これからそれを、幽霊だってことを説明しようと思ってたんだけど……」
「逆に考えて、幽霊だと嘘を吐く理由はなんだ? 見えないけどそこにいる、という部分を隠そうとするならともかく、それをはっきり明かしたうえで正体を誤魔化す必要なんてあるか?」
言われてみれば、まあそうなんだろうけども。例えば、馬鹿馬鹿しい話だけど「栞さんは透明人間なんだ」なんてことを言ってみたとしても、お父さんお母さんからすれば結局は同じことなんだろうし。
「うーん、理屈は分かるけど、でもだからってそんなあっさりと」
「あっさりなんてことはない」
お父さんの声はそれまでより低められ、お母さんもこちらを睨み付けるような目をしていました。つまり、今の僕の発言は不用意なものだったのでしょう。
「お前と喜坂さんが外に出ている間、父さんも母さんもうんうん唸ってたんだぞ。お前は小さい頃から全然手が掛からん奴だったからこういう機会は多くはなかったし、だからお前からすれば目立たないことだったかもしれんが、それでも父さんと母さんはな――」
「あなた」
「――む、すまん」
…………。
「ごめんなさい」
不用意の一言で済まされるものでなかったのは、今のお父さんの剣幕を見れば当事者でなくとも分かろうというもの。という認識がはっきりと形になるより一寸早く、僕は頭を下げ、謝罪の言葉を口にしていました。
「まあともかく、父さんも母さんもお前を信用してるし、息子の恋人として喜坂さんを歓迎しているということだ。……いつまでもそうしてるな、顔を上げろ」
それはこのうえなく嬉しい言葉だった筈なのに、自分の失態でしょんぼりしたままそれを聞くことになってしまいました。「あまり僕にあれやこれやと干渉してくる親ではありませんでした」、なんてこと、どうやら思い上がりもいいところだったようです。
きちんとまともに育ててくれた親である以上、「子どもに対して干渉が少ない」なんてことが有り得ないということぐらい、少し考えれば分かりそうなものなんですけどね。どうしてこれまで、少しも考えてこなかったんでしょうか?
顔を上げると、お父さんは硬い顔ながらもどこか照れたふうなのでした。
初めてだもんね、こんなこと言ったのも言われたのも。
「それにだ孝一、そもそもな」
「ん?」
綺麗に話が纏まったと思いきや、まだ続きがあるようです。
「度量で言えば父さん母さんよりも喜坂さんだぞ。なんせお前なんかを選んだわけだからなあ」
「『なんか』って何さ!? たった今信用してるとか手が掛からないとか言ったばっかりなのに!」
「ふふん、それとこれとは話が別だ。お前だって、まさか自分が非の打ちどころのない人間だなんて思ってはいないだろう?」
「ぐぐぅっ」
とすっかり釣られて唸らされた後になって思ったことですが、どう考えても照れ隠しですよねこれ。……まあ照れ隠しだろうがなんだろうが、その言い分を否定できなくて唸ってしまったことは変わらないんですけど。
というわけでこのことについては僕の完全敗北ということになるのですが、するとその時、久々にお母さんが口を開きました。
「手が掛からないっていうのは、なんでも自分一人でやってしまうってことでもあるしね」
「あ、それ分かります――ああいえ、済みません」
お母さんの言葉に真っ先に反応したのは栞さんでした。が、直後に何かを謝りも。
もちろんここは謝る場面なんかじゃないわけですが、
「ふふ、分かったうえで付き合ってらっしゃるなら安心ね」
お母さん、そもそもその謝罪をまるで意に介していないのでした。まるで謝罪の部分だけ綺麗に聞き逃したかのようです。
「うちの息子がどれだけご迷惑を掛けてるか、じっくりお話を聞かせてもらいたいところですけど――それは全部終わってからかしらね、やっぱり」
言いながら、お母さんは流すように視線をお父さんの方へと。するとお父さんは静かに頷き、真っ直ぐに前を向きました。誰か一人ではなく、僕も含めた来訪者全員を視界に納めるように。
「それを知ったからと言って今更『息子と喜坂さんの中を認めない』なんてことを言うつもりは一切ありませんが、お聞かせ願います。幽霊というのが、どういうものなのか」
一般的には、亡くなってしまった人が肉体を失って魂だけになった存在、といったところなのでしょう。頭に三角の布を付けていたり、白い着物姿だったり、足がなかったり影がなかったりといったようなことも、場合によっては「分かり易い外見」として付随してきます。
けれど今、幽霊のことを知らないお父さんとお母さんの目に映っている幽霊、喜坂栞さんは、外見だけで言えばごく普通の女性と何ら変わりありません。頭に変な布なんかつけてませんし、着てるのは洋服ですし、足も影もありますし。
――だからこそ混乱するのでしょう。こんな、見えてさえいれば普通の人と全く見分けがつかない女性が幽霊だなんて、じゃあ幽霊とそうじゃない人の違いは何なんだと。
説明役を買って出たのは栞さん本人でした。家守さんと高次さんも合間合間に補足するような形で一言二言加えたりしていましたが、それでも主だっていたのはやはり栞さんでした。
僕はただじっとしていました。本当なら自分の口でだって話したいところなのですが、けれど自分から進んで説明を始めたうえ、かなり大きいであろう緊張にまるで怯む様子を窺わせない栞さんを見ていると、我慢しておいた方がいいと思ったのです。
大半の人の目には映らず、声も聞こえないということ。
たまに声だけ聞こえる人がいるということ。
それより更に少数ながら、見える人もいるということ。
どういうわけかそれは人間だけで、他の全ての動物には見えも聞こえもしているということ。
やろうと思えば物をすり抜けられること。
年を取らないこと。
条件を満たせば年を取るようになるということと、その条件の詳細。
――子どもを作れないということ。
――死んでしまっているということ。
これは栞さん個人の話でなく幽霊というものについての話なので、特には最後の件について、それがどういう問題に繋がってくるかということまでは、あまり深くは説明しませんでした。なので、説明全体としてはそう長い時間が掛かることはありませんでした。
しかし、その掛かった時間に見合わないほど重い内容であったことは、疑いようもありません。説明の内容を初めから知っている僕や家守さん高次さんはもちろん、お父さんとお母さんだって、それは同じことだったのでしょう。
全ての説明が終わると、その後に少しだけ間が。本来ならばこの時間は、栞さんによる説明を受けての両親の返事に使われる時間だったのでしょうが――。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
動いたのは栞さんでした。座ったまま床に手をつき頭を下げたその謝罪の相手は、僕の両親です。
「何のことを謝っているんです?」
そう言い返したのはお父さんでしたが、しかしその目は、「分かっていない」というものではありませんでした。分かっていて敢えて、加えて厳しく、詰問しているようなものなのでした。
下げた頭を上げないまま、栞さんは答えます。
「私には、普通の……生きている女の人と同じだけの幸せを、孝一さんに約束してあげることができません」
「そうでしょうな、今の話を聞かせて頂いた限りでは」
「私は、それだけの理由で孝一さんを諦められないんです。酷い我が儘だということは承知しています。でも、それでも――」
「私達に決していい思いをさせないということが分かっていて、それを理由にそうして頭を下げてまで、うちの孝一を選ぶと?」
「はい」
栞さんのその考えは、事前に伝えてもらっていました。なので今それを聞いて眉をひそめるということもないのですが、しかし代わりに知っています。その話に、まだ続きがあるということを。
栞さんは顔を上げました。
「でも、これ以上は言いません。もしもお父様お母様が今の話で私に難色を示すなら、私はそれに従います」
一度は我が儘を通そうとし、けれどそれに二度目はない。話だけ聞けば諦めるつもりがあるのかないのかよく分からなかったりするかもしれませんが、けれどその考えをしっかりと聞かせてもらった僕からすれば、むしろ潔い言い分なのでした。
しかし当然、僕の両親からすればそれは、今初めて聞いた話なのです。
「私達があなたを拒否すれば、孝一を諦めると?」
「はい」
栞さんの返事に迷いはなく、けれどそれとは対照的に、お父さんの顔は曇っていくのでした。
「ないとは思いますが喜坂さん、私達に二人のことに口を出す気がないと知っているからそんなことを」
「そうじゃない!」
と。
気が付くと僕は、大声を張り上げていたのでした。
それについては「ごめん」とだけ詫びておき、意識して声量を通常のそれに落としてから、再度話し始めます。
「前々からなんだよ、お父さん。お父さんとお母さんに対してはそういう立場をとるってこと、栞さんは前々から決めてたんだよ。そのことだけに限らず、『幽霊だから』って話、僕と栞さんは何度もしてきてるんだよ、これまで」
「……そうか」
僕を信頼していると、お父さんは言ってくれました。だからといって、それに甘えて何でもかんでも信用しろと言えるわけではないですけど、でも、信用してもらうしかありません。「僕と栞さんはそういう話を何度もしてきた」なんてこと、当たり前ながら証拠なんて何もありはしないのですから。
しかしお父さん、そこでふっと鼻を鳴らします。
「なんせ引っ越す前の自分を大人しいお利口さんだと思ってたお前だからなあ? だったら、今のが演技だとしても声を張り上げたりするのはおかしいからな」
「お、大人しいお利口さんとまでは思ってないし言ってないけど……」
「というわけで喜坂さん」
放置かい。
「私達はこれまで通り、あなたと孝一のことに口を出しはしません。そもそも孝一にとって何が幸せで何がそうでないかは、孝一自身が決めるべきでしょうからな。自己責任、なんて言葉も既に出ていることですし」
それも自己責任に含めてくれるなら望むところ、という僕の感想はともかく、言い終えたお父さんは次に「お前もそれでいいな?」と。尋ねられたお母さんは、こくり、と静かに頷くのでした。
「で、そういうことになるとだ。孝一、お前に一つ訊いておいた方がよさそうなことがある」
「なに?」
訊かなければならない、ならともかく、随分と回りくどい尋ね方ですけども。
「お前は、喜坂さんと一緒にいて幸せか?」
「うん」
「なら問題ないな。うむ、照れる素振りすらないとは」
「いや、だって真面目な話だし」
「だからといって、普段そういう話をしていなかったりしたらそうもいかんだろう? つまりは喜坂さんとちょくちょくそういう話をしていたりする、と」
「……プライベートの詮索は止めて欲しいところだけどね」
「ははは、すまんすまん」
「あなた」
「……すまん」
もともと「お父さんよりお母さんのほうが発言力が高い」というのが我が家の在り方なのですが、しかし本日これまでのお母さんに対するお父さんの様子というのは、それを差し引いても情けないものなのでした。まあ、今日はその情けなさが存分に発揮される状況だということなんでしょうけど。
――というわけで、周囲から堪え切れずに漏れ出した笑いが三つほど。僕なんかは堪える気なんか更々ないまま普通に笑ってますし、お母さんは笑うどころか怒気を放っているわけですが。
それにしても吹き出してしまったお三方、これまでにも数回あった同じ流れではなんとか堪え切ってたんでしょうね。妙な気遣いをさせてしまって済みませんでした、こんな場面で。
で、今回ついに笑われてしまったということで。
「うぉっほん」
というとてつもなくわざとらしい咳払いは当然お父さんが。それで暴落した何かを取り戻せるかどうかはともかく、取り敢えずこの場の空気はリセットされます。
「それにしても喜坂さん」
今の事態には触れずに次の話題へ。うむ、まあこういう場ではありますし、あまり多くは言いますまい。なので栞さんも、背筋を正しながら「はい」と。
「一応、孝一とお付き合いをして頂くことについてはこちらも認める――というかいっそ、うちの息子なんかで宜しければ是非にでも、という話ではありましたが……」
そ、そうだっけ? そんな酷い言われようだったらさすがに反論の一つもしてただろうけど、そんな記憶全然ないんだけどなあ?
ともかく、結局はまだこういう方面の話であるらしく、そして話の続きですが、それを口にするお父さんの顔は緩んでいたのでした。
「同棲なんかも含めてらっしゃる感じでしたな、今の話しぶりだと」
「ふぁあ!」
栞さんから変な声が。
「すっ、すみません! まだそこまでの話なんて一つもしてないのに、私……!」
まあ、幸せを約束できないっていう話でしたし、その直前には飽くまでも「幽霊に関する説明」の一部とはいえ、子どもの話もしてたわけですしねえ。だったらお父さんがそんなふうに思うのも無理はないんでしょうし、そしてこの反応からすると、栞さんも実際にそのつもりだったようで。
「いやいや、非難してるわけじゃないんですよ? そんなこと言ったらうちの息子なんて、初めに連絡寄越した時点で『結婚も考えてる』って言っちゃってるんですし。だったらこっちだってそのつもりで臨んでるわけですから」
こっちに振るか。そりゃそうか。
――いや、ちょっと待てよ?
「お父さん、一つ訊いてもいい?」
「なんだ?」
「『そのつもりで臨んでる』って、なのにあんなあっさり栞さんを受け入れて――いや、僕が言うようなことじゃないんだけどさ、良かったの? あんな感じで」
もちろんさっきお父さんが言った通り、今の時点で受け入れられているのはまだ付き合うことについてのみなのですが、それにしたってあまりにも。なんせ、今の話を抜きにして考えても尚あっさりし過ぎなんじゃないかと思えるほどなのです。
するとお父さん、お母さんのほうを向き、そしてそこから何の遣り取りもないまま、再びこちらを向き直りました。
「さすがにもうちょっと話がそういう方向に進んでからにしようとは思っていたが、そういうことならもう言ってしまおうか。別に反対はしないぞ、結婚のことだって」
え。
栞さんのほうを見ます。
え、という顔がそこにありました。
「えーと、いや、認めてくれるっていうのは嬉しいけど……あれ? いいの? そんなので」
「どんなのを想像してたんだお前は」
「ええと、もうちょっとくらい厳しく当たられるのかなーと」
そりゃあさっきも思った通り、ここまでがあまりにもあっさりしていたんだから、ここから先の話も多少はそんな感じなんだろうなとは思っていました。が、これではあっさりどころの騒ぎではありません。なんせ話を始める前から決着がついてしまいまったのですから。
というふうに思ったところ、しかしお父さん。
「勘違いしちゃいかんな孝一。最上級に厳しいやり方だぞ、父さんと母さんの手口は」
「手口って」
「なんせ全責任をお前に負わせてるわけだからな」
「…………」
出てきそうになったふざけ混じりの返事はしかし、その感情ごとひっこんでしまいました。
「どこまでもついて回るぞ、自己責任の話は。当然、喜坂さんが幽霊だということに関してもだ。何か不都合が起こっても父さんと母さんは何もせん。まあ、どうしようもないとも言えるんだけどな」
どうしようもない。それはそうなのでしょう。でもなければ、ここに来てもらっている家守さんと高次さんは、仕事が成り立たなくなってしまうのですから。
「まさか相手の女性が幽霊だなんて話だとは思っていなかったが、初めからこうするつもりではあったからな。だったら事情がどうあれ、後になってそれを曲げるのは避けるべきだろうし」
「…………」
僕は今日、栞さんとの交際を、ひいては栞さんとの結婚を、認めてもらうためにここへやってきました。だったらお父さんのそんな言い分はこちらとしては都合がよく、なので、喜ぶべき場面なのでしょう。
がしかし、どうしてもそんなふうには心が動いてくれませんでした。
「不安そうな顔だな」
お父さんが言いました。それは無論、僕へ向けられたものなのでしょう。
「そういうわけじゃないよ。ただ……」
「ただ? なんだ?」
全責任を負う、ということについては、不安も不満もありません。実際に成し遂げられるかどうかは成し遂げる瞬間まで分かりはしないわけですが、しかし成し遂げられる自信くらいは、今の時点でもしっかり持っています。
けれどお父さんから「不安そうな」と形容されるような顔をしていたことは事実であって、じゃあそうなった原因は何なのかという話になるのですが。
「……いや、やっぱいい。言ってもものすっごく格好悪いだけだから」
寂しい、なんて。もっと僕のことを心配して欲しいなんて、とても口にできる言葉ではありませんでした。恥ずかしいというのはもちろんですが、それ以前に言ってはいけない台詞のように思えたのです。
「そうか」
僕が言おうとした言葉が何なのか、お父さんは追及しようとはしませんでした。まるで今この時点で既に、僕から距離を置いているかのように。
しかしそこへ、「それとは関係ない話だが」という前置きを挟んで、お父さんが引き続き話をし始めました。
「父さんも母さんも、このやり方が絶対に正しい、なんてことは思ってないからな。だからといって間違ってると思ってるわけでもないが」
「……どういうこと?」
「子に対する親の在り方に絶対なんてものはないってことだ。『絶対に間違ってる』はあるだろうが、少なくとも『絶対に正しい』ということはな」
関係ない話、とお父さんは言いましたが、しかし関係ありそうなそうでないような、微妙なところなのでした。
要するには「この話の目指すところは何処なのか」ということになるのでしょうが、しかしそうは思いつつ、僕は先を急かすようなことを言ったりはしませんでした。言えなかったのです。理屈も何もなしに、口が動いてくれなかったのです。
けれどお父さんは、そんな金縛りか何かに遭っているような状態の僕へ、こう尋ねてきます。
「なんで『絶対に正しい』が有り得ないと言い切れると思う?」
すると、ふっと金縛りが解けるのでした。さっきも「どういうこと?」という質問なら問題なく口に出来ていた辺り、その言葉がこの場にそぐうか否かを頭が自動的に判断し、そぐうという結果が出るまで、僕は動けなくなってしまうようです。もちろんそれも、無意識のうちに自分でやっていることなのですが。
「なんでって……そりゃあ、子ども側がみんな僕みたいだったら気持ち悪いし……」
「そう、つまり子どもはみんな違うからってことだな。なんでそこで自分を卑下し始めたのかは分からんが」
僕自身にも分かりません。勝手にそうなっちゃったんだから仕方ない、としか。
お父さんの話は続きます。
「だから、お前には『このやり方』が合ってると判断しただけのことだ。父さんも母さんも、ずっと昔からな」
「なんでも自分でやろうとしちゃうんですものねえ、孝一は。小さい頃から」
こんなことで驚くのは変なのでしょうが、お母さんが話に加わったことに、多少ながら驚いてしまいました。が、当然、僕が勝手にそう思っただけのことでお母さんは止まりはしません。
「だったら親としてそれを止めるか、思う通りにさせてあげるかってことになるんだけど――人並み程度の良識は持ってたからね、あんた。だから思い切って好きにさせてあげることにしちゃったわ、私もお父さんも」
言いながら、悪戯っぽく笑ってみせるお母さん。けれど実際にそれを判断した時はきっと、そんな表情とは似ても似つかない顔をしていたのでしょう。
「あの」
何か言いたいけど何を言えばいいか分からない、といった様子で僕がまごまごしていたところ、そうして両親へ声を掛けたのは栞さんでした。
「感激しました――と、言えばいいのかどうか……ともかく、ありがとうございました。孝一さんを、今の孝一さんにして下さって」
お父さんとお母さんは顔を見合わせました。初めはきょとんとした表情でしたが、しかし栞さんの言っていることを理解したのか、数瞬後にはお互いふっと笑い合うのでした。
「今お話しした通り、私達は何もしていませんよ。放っておいたら勝手にそんなふうに育ってただけで」
「そのご決断がなかったら、孝一さんは今の孝一さんと全然違う人になっていたかもしれません。そう考えると、私……」
栞さんが何を言っているのか、お父さんもお母さんも既に分かっていることでしょう、けれどその背景にあるものが何なのかは、分かろうはずがありません。
今の、こんな僕だからこそ、栞さんにしてあげられたことがあるのです。それがあったからこそ、僕と栞さんはここまでの関係になったのです。間違いなく。
「お父さん、お母さん」
二人の視線が栞さんからこちらへ移りました。それを確認してから、僕は告げます。心から。
「ありがとうございました」
栞さんとのことは自己責任。全て僕が責任を負うということで、話は纏まっています。
けれどそうなった、そうなることが出来るに至った土壌は、間違いなくお父さんとお母さんが作ってくれたものなのです。
なにもそこまで、と両親は二人揃って苦笑いを浮かべていました。
けれど、いずれ話す時が来るのでしょう。これが、そこまでの話であるということを。僕が今の僕であるおかげで、どれだけ栞さんの助けになることが出来たのかを。栞さんがどれだけ巨大なものを胸の傷跡に仕舞い込み、それを巡って僕とどれほどの大喧嘩を起こしたのかを。
僕のこの長所――親から長所だと思われ、愛する女性から愛される理由の一つでもあるんですから、もう長所ということでいいでしょう――を僕が今でも抱えたままなのは、今の話を聞く限り、どう考えたってお父さんとお母さんのおかげなのです。
だから、ありがとうございました。これまでの全部を。
「喜坂さん、それに家守さん。あと孝一も」
なんか僕だけ取って付けた感のある言い方でしたが、まあ仕方ないかな、ということで。
「喜坂さんが幽霊だという話、信じます。私達は」
栞さんと顔を見合せます。すると初めぽかんとしていた栞さんの表情はみるみる嬉しそうな色を帯び始めました。次に確認した家守さんと高次さんの表情も、栞さんほどではないにせよ、ほっとしたようなものに。
もちろんそんなことを言いながら僕だって嬉しいわけですが、しかし。
「ありがとう。でも、なんで?」
嬉しさよりも疑問のほうが大きくなってしまったのでした。
「それっぽい話、まだ全然してないのに」
家守さん高次さんを呼んで再度この部屋に入ってからしたことと言えば、栞さんが両親からでも見えるようにしてもらったことだけです。予定ではここからまだまだ幽霊についての話を続けて、それでようやくお父さんお母さんにも栞さんが幽霊だと信じてもらえる、ということになっていたのですが。嬉しい誤算ではありますがしかし、それでも誤算は誤算なのです。
というわけで口にした質問に対し、お父さんから返答が。
「喜坂さんが――まあ、なんだ。普通の人とちょっと違うということは、初めから明白だったわけだ。なんせ見えなかったわけだしな」
そりゃまあその通り。
とは言え、それだけ取り上げても「ちょっと違う」どころではないわけですが、そこはお父さんなりの気遣いなのでしょう。さっき三人で謝ることになったことと同様、多分栞さんは全く気にしないでしょうが、それでも感謝の念くらいは浮かぶのでした。
「でも、だったら何なんだって話になるでしょ? これからそれを、幽霊だってことを説明しようと思ってたんだけど……」
「逆に考えて、幽霊だと嘘を吐く理由はなんだ? 見えないけどそこにいる、という部分を隠そうとするならともかく、それをはっきり明かしたうえで正体を誤魔化す必要なんてあるか?」
言われてみれば、まあそうなんだろうけども。例えば、馬鹿馬鹿しい話だけど「栞さんは透明人間なんだ」なんてことを言ってみたとしても、お父さんお母さんからすれば結局は同じことなんだろうし。
「うーん、理屈は分かるけど、でもだからってそんなあっさりと」
「あっさりなんてことはない」
お父さんの声はそれまでより低められ、お母さんもこちらを睨み付けるような目をしていました。つまり、今の僕の発言は不用意なものだったのでしょう。
「お前と喜坂さんが外に出ている間、父さんも母さんもうんうん唸ってたんだぞ。お前は小さい頃から全然手が掛からん奴だったからこういう機会は多くはなかったし、だからお前からすれば目立たないことだったかもしれんが、それでも父さんと母さんはな――」
「あなた」
「――む、すまん」
…………。
「ごめんなさい」
不用意の一言で済まされるものでなかったのは、今のお父さんの剣幕を見れば当事者でなくとも分かろうというもの。という認識がはっきりと形になるより一寸早く、僕は頭を下げ、謝罪の言葉を口にしていました。
「まあともかく、父さんも母さんもお前を信用してるし、息子の恋人として喜坂さんを歓迎しているということだ。……いつまでもそうしてるな、顔を上げろ」
それはこのうえなく嬉しい言葉だった筈なのに、自分の失態でしょんぼりしたままそれを聞くことになってしまいました。「あまり僕にあれやこれやと干渉してくる親ではありませんでした」、なんてこと、どうやら思い上がりもいいところだったようです。
きちんとまともに育ててくれた親である以上、「子どもに対して干渉が少ない」なんてことが有り得ないということぐらい、少し考えれば分かりそうなものなんですけどね。どうしてこれまで、少しも考えてこなかったんでしょうか?
顔を上げると、お父さんは硬い顔ながらもどこか照れたふうなのでした。
初めてだもんね、こんなこと言ったのも言われたのも。
「それにだ孝一、そもそもな」
「ん?」
綺麗に話が纏まったと思いきや、まだ続きがあるようです。
「度量で言えば父さん母さんよりも喜坂さんだぞ。なんせお前なんかを選んだわけだからなあ」
「『なんか』って何さ!? たった今信用してるとか手が掛からないとか言ったばっかりなのに!」
「ふふん、それとこれとは話が別だ。お前だって、まさか自分が非の打ちどころのない人間だなんて思ってはいないだろう?」
「ぐぐぅっ」
とすっかり釣られて唸らされた後になって思ったことですが、どう考えても照れ隠しですよねこれ。……まあ照れ隠しだろうがなんだろうが、その言い分を否定できなくて唸ってしまったことは変わらないんですけど。
というわけでこのことについては僕の完全敗北ということになるのですが、するとその時、久々にお母さんが口を開きました。
「手が掛からないっていうのは、なんでも自分一人でやってしまうってことでもあるしね」
「あ、それ分かります――ああいえ、済みません」
お母さんの言葉に真っ先に反応したのは栞さんでした。が、直後に何かを謝りも。
もちろんここは謝る場面なんかじゃないわけですが、
「ふふ、分かったうえで付き合ってらっしゃるなら安心ね」
お母さん、そもそもその謝罪をまるで意に介していないのでした。まるで謝罪の部分だけ綺麗に聞き逃したかのようです。
「うちの息子がどれだけご迷惑を掛けてるか、じっくりお話を聞かせてもらいたいところですけど――それは全部終わってからかしらね、やっぱり」
言いながら、お母さんは流すように視線をお父さんの方へと。するとお父さんは静かに頷き、真っ直ぐに前を向きました。誰か一人ではなく、僕も含めた来訪者全員を視界に納めるように。
「それを知ったからと言って今更『息子と喜坂さんの中を認めない』なんてことを言うつもりは一切ありませんが、お聞かせ願います。幽霊というのが、どういうものなのか」
一般的には、亡くなってしまった人が肉体を失って魂だけになった存在、といったところなのでしょう。頭に三角の布を付けていたり、白い着物姿だったり、足がなかったり影がなかったりといったようなことも、場合によっては「分かり易い外見」として付随してきます。
けれど今、幽霊のことを知らないお父さんとお母さんの目に映っている幽霊、喜坂栞さんは、外見だけで言えばごく普通の女性と何ら変わりありません。頭に変な布なんかつけてませんし、着てるのは洋服ですし、足も影もありますし。
――だからこそ混乱するのでしょう。こんな、見えてさえいれば普通の人と全く見分けがつかない女性が幽霊だなんて、じゃあ幽霊とそうじゃない人の違いは何なんだと。
説明役を買って出たのは栞さん本人でした。家守さんと高次さんも合間合間に補足するような形で一言二言加えたりしていましたが、それでも主だっていたのはやはり栞さんでした。
僕はただじっとしていました。本当なら自分の口でだって話したいところなのですが、けれど自分から進んで説明を始めたうえ、かなり大きいであろう緊張にまるで怯む様子を窺わせない栞さんを見ていると、我慢しておいた方がいいと思ったのです。
大半の人の目には映らず、声も聞こえないということ。
たまに声だけ聞こえる人がいるということ。
それより更に少数ながら、見える人もいるということ。
どういうわけかそれは人間だけで、他の全ての動物には見えも聞こえもしているということ。
やろうと思えば物をすり抜けられること。
年を取らないこと。
条件を満たせば年を取るようになるということと、その条件の詳細。
――子どもを作れないということ。
――死んでしまっているということ。
これは栞さん個人の話でなく幽霊というものについての話なので、特には最後の件について、それがどういう問題に繋がってくるかということまでは、あまり深くは説明しませんでした。なので、説明全体としてはそう長い時間が掛かることはありませんでした。
しかし、その掛かった時間に見合わないほど重い内容であったことは、疑いようもありません。説明の内容を初めから知っている僕や家守さん高次さんはもちろん、お父さんとお母さんだって、それは同じことだったのでしょう。
全ての説明が終わると、その後に少しだけ間が。本来ならばこの時間は、栞さんによる説明を受けての両親の返事に使われる時間だったのでしょうが――。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
動いたのは栞さんでした。座ったまま床に手をつき頭を下げたその謝罪の相手は、僕の両親です。
「何のことを謝っているんです?」
そう言い返したのはお父さんでしたが、しかしその目は、「分かっていない」というものではありませんでした。分かっていて敢えて、加えて厳しく、詰問しているようなものなのでした。
下げた頭を上げないまま、栞さんは答えます。
「私には、普通の……生きている女の人と同じだけの幸せを、孝一さんに約束してあげることができません」
「そうでしょうな、今の話を聞かせて頂いた限りでは」
「私は、それだけの理由で孝一さんを諦められないんです。酷い我が儘だということは承知しています。でも、それでも――」
「私達に決していい思いをさせないということが分かっていて、それを理由にそうして頭を下げてまで、うちの孝一を選ぶと?」
「はい」
栞さんのその考えは、事前に伝えてもらっていました。なので今それを聞いて眉をひそめるということもないのですが、しかし代わりに知っています。その話に、まだ続きがあるということを。
栞さんは顔を上げました。
「でも、これ以上は言いません。もしもお父様お母様が今の話で私に難色を示すなら、私はそれに従います」
一度は我が儘を通そうとし、けれどそれに二度目はない。話だけ聞けば諦めるつもりがあるのかないのかよく分からなかったりするかもしれませんが、けれどその考えをしっかりと聞かせてもらった僕からすれば、むしろ潔い言い分なのでした。
しかし当然、僕の両親からすればそれは、今初めて聞いた話なのです。
「私達があなたを拒否すれば、孝一を諦めると?」
「はい」
栞さんの返事に迷いはなく、けれどそれとは対照的に、お父さんの顔は曇っていくのでした。
「ないとは思いますが喜坂さん、私達に二人のことに口を出す気がないと知っているからそんなことを」
「そうじゃない!」
と。
気が付くと僕は、大声を張り上げていたのでした。
それについては「ごめん」とだけ詫びておき、意識して声量を通常のそれに落としてから、再度話し始めます。
「前々からなんだよ、お父さん。お父さんとお母さんに対してはそういう立場をとるってこと、栞さんは前々から決めてたんだよ。そのことだけに限らず、『幽霊だから』って話、僕と栞さんは何度もしてきてるんだよ、これまで」
「……そうか」
僕を信頼していると、お父さんは言ってくれました。だからといって、それに甘えて何でもかんでも信用しろと言えるわけではないですけど、でも、信用してもらうしかありません。「僕と栞さんはそういう話を何度もしてきた」なんてこと、当たり前ながら証拠なんて何もありはしないのですから。
しかしお父さん、そこでふっと鼻を鳴らします。
「なんせ引っ越す前の自分を大人しいお利口さんだと思ってたお前だからなあ? だったら、今のが演技だとしても声を張り上げたりするのはおかしいからな」
「お、大人しいお利口さんとまでは思ってないし言ってないけど……」
「というわけで喜坂さん」
放置かい。
「私達はこれまで通り、あなたと孝一のことに口を出しはしません。そもそも孝一にとって何が幸せで何がそうでないかは、孝一自身が決めるべきでしょうからな。自己責任、なんて言葉も既に出ていることですし」
それも自己責任に含めてくれるなら望むところ、という僕の感想はともかく、言い終えたお父さんは次に「お前もそれでいいな?」と。尋ねられたお母さんは、こくり、と静かに頷くのでした。
「で、そういうことになるとだ。孝一、お前に一つ訊いておいた方がよさそうなことがある」
「なに?」
訊かなければならない、ならともかく、随分と回りくどい尋ね方ですけども。
「お前は、喜坂さんと一緒にいて幸せか?」
「うん」
「なら問題ないな。うむ、照れる素振りすらないとは」
「いや、だって真面目な話だし」
「だからといって、普段そういう話をしていなかったりしたらそうもいかんだろう? つまりは喜坂さんとちょくちょくそういう話をしていたりする、と」
「……プライベートの詮索は止めて欲しいところだけどね」
「ははは、すまんすまん」
「あなた」
「……すまん」
もともと「お父さんよりお母さんのほうが発言力が高い」というのが我が家の在り方なのですが、しかし本日これまでのお母さんに対するお父さんの様子というのは、それを差し引いても情けないものなのでした。まあ、今日はその情けなさが存分に発揮される状況だということなんでしょうけど。
――というわけで、周囲から堪え切れずに漏れ出した笑いが三つほど。僕なんかは堪える気なんか更々ないまま普通に笑ってますし、お母さんは笑うどころか怒気を放っているわけですが。
それにしても吹き出してしまったお三方、これまでにも数回あった同じ流れではなんとか堪え切ってたんでしょうね。妙な気遣いをさせてしまって済みませんでした、こんな場面で。
で、今回ついに笑われてしまったということで。
「うぉっほん」
というとてつもなくわざとらしい咳払いは当然お父さんが。それで暴落した何かを取り戻せるかどうかはともかく、取り敢えずこの場の空気はリセットされます。
「それにしても喜坂さん」
今の事態には触れずに次の話題へ。うむ、まあこういう場ではありますし、あまり多くは言いますまい。なので栞さんも、背筋を正しながら「はい」と。
「一応、孝一とお付き合いをして頂くことについてはこちらも認める――というかいっそ、うちの息子なんかで宜しければ是非にでも、という話ではありましたが……」
そ、そうだっけ? そんな酷い言われようだったらさすがに反論の一つもしてただろうけど、そんな記憶全然ないんだけどなあ?
ともかく、結局はまだこういう方面の話であるらしく、そして話の続きですが、それを口にするお父さんの顔は緩んでいたのでした。
「同棲なんかも含めてらっしゃる感じでしたな、今の話しぶりだと」
「ふぁあ!」
栞さんから変な声が。
「すっ、すみません! まだそこまでの話なんて一つもしてないのに、私……!」
まあ、幸せを約束できないっていう話でしたし、その直前には飽くまでも「幽霊に関する説明」の一部とはいえ、子どもの話もしてたわけですしねえ。だったらお父さんがそんなふうに思うのも無理はないんでしょうし、そしてこの反応からすると、栞さんも実際にそのつもりだったようで。
「いやいや、非難してるわけじゃないんですよ? そんなこと言ったらうちの息子なんて、初めに連絡寄越した時点で『結婚も考えてる』って言っちゃってるんですし。だったらこっちだってそのつもりで臨んでるわけですから」
こっちに振るか。そりゃそうか。
――いや、ちょっと待てよ?
「お父さん、一つ訊いてもいい?」
「なんだ?」
「『そのつもりで臨んでる』って、なのにあんなあっさり栞さんを受け入れて――いや、僕が言うようなことじゃないんだけどさ、良かったの? あんな感じで」
もちろんさっきお父さんが言った通り、今の時点で受け入れられているのはまだ付き合うことについてのみなのですが、それにしたってあまりにも。なんせ、今の話を抜きにして考えても尚あっさりし過ぎなんじゃないかと思えるほどなのです。
するとお父さん、お母さんのほうを向き、そしてそこから何の遣り取りもないまま、再びこちらを向き直りました。
「さすがにもうちょっと話がそういう方向に進んでからにしようとは思っていたが、そういうことならもう言ってしまおうか。別に反対はしないぞ、結婚のことだって」
え。
栞さんのほうを見ます。
え、という顔がそこにありました。
「えーと、いや、認めてくれるっていうのは嬉しいけど……あれ? いいの? そんなので」
「どんなのを想像してたんだお前は」
「ええと、もうちょっとくらい厳しく当たられるのかなーと」
そりゃあさっきも思った通り、ここまでがあまりにもあっさりしていたんだから、ここから先の話も多少はそんな感じなんだろうなとは思っていました。が、これではあっさりどころの騒ぎではありません。なんせ話を始める前から決着がついてしまいまったのですから。
というふうに思ったところ、しかしお父さん。
「勘違いしちゃいかんな孝一。最上級に厳しいやり方だぞ、父さんと母さんの手口は」
「手口って」
「なんせ全責任をお前に負わせてるわけだからな」
「…………」
出てきそうになったふざけ混じりの返事はしかし、その感情ごとひっこんでしまいました。
「どこまでもついて回るぞ、自己責任の話は。当然、喜坂さんが幽霊だということに関してもだ。何か不都合が起こっても父さんと母さんは何もせん。まあ、どうしようもないとも言えるんだけどな」
どうしようもない。それはそうなのでしょう。でもなければ、ここに来てもらっている家守さんと高次さんは、仕事が成り立たなくなってしまうのですから。
「まさか相手の女性が幽霊だなんて話だとは思っていなかったが、初めからこうするつもりではあったからな。だったら事情がどうあれ、後になってそれを曲げるのは避けるべきだろうし」
「…………」
僕は今日、栞さんとの交際を、ひいては栞さんとの結婚を、認めてもらうためにここへやってきました。だったらお父さんのそんな言い分はこちらとしては都合がよく、なので、喜ぶべき場面なのでしょう。
がしかし、どうしてもそんなふうには心が動いてくれませんでした。
「不安そうな顔だな」
お父さんが言いました。それは無論、僕へ向けられたものなのでしょう。
「そういうわけじゃないよ。ただ……」
「ただ? なんだ?」
全責任を負う、ということについては、不安も不満もありません。実際に成し遂げられるかどうかは成し遂げる瞬間まで分かりはしないわけですが、しかし成し遂げられる自信くらいは、今の時点でもしっかり持っています。
けれどお父さんから「不安そうな」と形容されるような顔をしていたことは事実であって、じゃあそうなった原因は何なのかという話になるのですが。
「……いや、やっぱいい。言ってもものすっごく格好悪いだけだから」
寂しい、なんて。もっと僕のことを心配して欲しいなんて、とても口にできる言葉ではありませんでした。恥ずかしいというのはもちろんですが、それ以前に言ってはいけない台詞のように思えたのです。
「そうか」
僕が言おうとした言葉が何なのか、お父さんは追及しようとはしませんでした。まるで今この時点で既に、僕から距離を置いているかのように。
しかしそこへ、「それとは関係ない話だが」という前置きを挟んで、お父さんが引き続き話をし始めました。
「父さんも母さんも、このやり方が絶対に正しい、なんてことは思ってないからな。だからといって間違ってると思ってるわけでもないが」
「……どういうこと?」
「子に対する親の在り方に絶対なんてものはないってことだ。『絶対に間違ってる』はあるだろうが、少なくとも『絶対に正しい』ということはな」
関係ない話、とお父さんは言いましたが、しかし関係ありそうなそうでないような、微妙なところなのでした。
要するには「この話の目指すところは何処なのか」ということになるのでしょうが、しかしそうは思いつつ、僕は先を急かすようなことを言ったりはしませんでした。言えなかったのです。理屈も何もなしに、口が動いてくれなかったのです。
けれどお父さんは、そんな金縛りか何かに遭っているような状態の僕へ、こう尋ねてきます。
「なんで『絶対に正しい』が有り得ないと言い切れると思う?」
すると、ふっと金縛りが解けるのでした。さっきも「どういうこと?」という質問なら問題なく口に出来ていた辺り、その言葉がこの場にそぐうか否かを頭が自動的に判断し、そぐうという結果が出るまで、僕は動けなくなってしまうようです。もちろんそれも、無意識のうちに自分でやっていることなのですが。
「なんでって……そりゃあ、子ども側がみんな僕みたいだったら気持ち悪いし……」
「そう、つまり子どもはみんな違うからってことだな。なんでそこで自分を卑下し始めたのかは分からんが」
僕自身にも分かりません。勝手にそうなっちゃったんだから仕方ない、としか。
お父さんの話は続きます。
「だから、お前には『このやり方』が合ってると判断しただけのことだ。父さんも母さんも、ずっと昔からな」
「なんでも自分でやろうとしちゃうんですものねえ、孝一は。小さい頃から」
こんなことで驚くのは変なのでしょうが、お母さんが話に加わったことに、多少ながら驚いてしまいました。が、当然、僕が勝手にそう思っただけのことでお母さんは止まりはしません。
「だったら親としてそれを止めるか、思う通りにさせてあげるかってことになるんだけど――人並み程度の良識は持ってたからね、あんた。だから思い切って好きにさせてあげることにしちゃったわ、私もお父さんも」
言いながら、悪戯っぽく笑ってみせるお母さん。けれど実際にそれを判断した時はきっと、そんな表情とは似ても似つかない顔をしていたのでしょう。
「あの」
何か言いたいけど何を言えばいいか分からない、といった様子で僕がまごまごしていたところ、そうして両親へ声を掛けたのは栞さんでした。
「感激しました――と、言えばいいのかどうか……ともかく、ありがとうございました。孝一さんを、今の孝一さんにして下さって」
お父さんとお母さんは顔を見合わせました。初めはきょとんとした表情でしたが、しかし栞さんの言っていることを理解したのか、数瞬後にはお互いふっと笑い合うのでした。
「今お話しした通り、私達は何もしていませんよ。放っておいたら勝手にそんなふうに育ってただけで」
「そのご決断がなかったら、孝一さんは今の孝一さんと全然違う人になっていたかもしれません。そう考えると、私……」
栞さんが何を言っているのか、お父さんもお母さんも既に分かっていることでしょう、けれどその背景にあるものが何なのかは、分かろうはずがありません。
今の、こんな僕だからこそ、栞さんにしてあげられたことがあるのです。それがあったからこそ、僕と栞さんはここまでの関係になったのです。間違いなく。
「お父さん、お母さん」
二人の視線が栞さんからこちらへ移りました。それを確認してから、僕は告げます。心から。
「ありがとうございました」
栞さんとのことは自己責任。全て僕が責任を負うということで、話は纏まっています。
けれどそうなった、そうなることが出来るに至った土壌は、間違いなくお父さんとお母さんが作ってくれたものなのです。
なにもそこまで、と両親は二人揃って苦笑いを浮かべていました。
けれど、いずれ話す時が来るのでしょう。これが、そこまでの話であるということを。僕が今の僕であるおかげで、どれだけ栞さんの助けになることが出来たのかを。栞さんがどれだけ巨大なものを胸の傷跡に仕舞い込み、それを巡って僕とどれほどの大喧嘩を起こしたのかを。
僕のこの長所――親から長所だと思われ、愛する女性から愛される理由の一つでもあるんですから、もう長所ということでいいでしょう――を僕が今でも抱えたままなのは、今の話を聞く限り、どう考えたってお父さんとお母さんのおかげなのです。
だから、ありがとうございました。これまでの全部を。
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