(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 第二十九章 続く休日 七

2009-09-26 20:37:23 | 新転地はお化け屋敷
「それが猫にとっても妥協できるようなことで、かつきちんと話し合いをしたうえでどうしても折り合いがつかないというなら諦められないでもないが、しかし今回はそうではなかっただろう? 昨日話したことなのに『他の誰であっても駄目』というのは今日になって出てきたことだし、そもそも猫じゃらしは猫にとって、どうしても妥協はできないものなのだ。人間からすれば、玩具として売りに出されるようなものなのかもしれないが」
 大吾はまだ、何も言いません。
「お前はわたしを選んでくれただろう? わたしが猫であることを知っていて選んでくれたし、これまでだってそれについての折り合いはしっかり付けてきただろう? わたしは、今回もそうであって欲しかったんだ。遊んでもらえなかったことより、そのことが悔しかったんだ。悲しくて仕方がなかったんだ」
 まだ、何も言いません。
「お前とは大きく差のある年齢のことや、年齢と食い違っていたり女らしくなかったりする身体のことや、人魂で傷付けてしまったことやわたしが人間でないことを、お前はこれまで『気にすんな』と言ってきてくれただろう?『それもひっくるめてオマエが好きだ』と言ってきてくれただろう? 甘えたがりのわたしは今回も――お前にそう、言って欲しかったんだ……」
 後半、成美さんの声はだんだんと上ずってきて――言い終えた成美さんはとうとう、手で顔を覆ってしまいました。
「ごめんな、成美」
 そこまできてようやく、大吾が口を開きました。
 その言葉に成美さんは、顔を手で覆ったままではありますが、こくりと頷きました。大吾からの謝罪は快く受け入れると、事前に言っていた通りの反応でした。
「悪かった。本当に悪かった。ぶん殴られてそれで終わりでも仕方ねえような話なのに、オマエに我慢させて、泣かせるまでしちまうなんて」
 成美さんは、ぶんぶんと首を横に振りました。顔は手で覆われたままで言葉はなく、代わりに嗚咽が漏れてくるだけですが。
 そんな時、小さくトントンと僕の肩をノックする誰か。栞さんでした。何だろうかと思っていると、口の動きだけで何かを伝えようとしてきて……そとに、でよう? ああ、なるほど。

「兄ちゃんと成美さん、大丈夫だよね?」
「ワウゥ……」
 あまり多くは言わずに「聞かせてくれてありがとう、成美ちゃん」とだけ伝えた栞さんに続いて、大吾と成美さん以外の全員が204号室に集合することになりました。203号室、つまり栞さんの部屋だと、大吾と成美さんの声が大きくなると聞こえてしまう可能性があったのです。
 不安そうにしている庄子ちゃんはそれを紛らわせるためか、ジョンを足の間にお座りさせてもふもふしていますが、
「それは絶対に大丈夫だよ、庄子ちゃん」
 自信ありげに答える栞さん。それはただ庄子ちゃんを勇気付けようとしたと言うより、何かそう思える根拠を有しているような口ぶりでした。
 と言って「どうしてそう思うんですか?」なんてことは訊けないのですが、しかしそれも栞さんが自分から話してくれました。
「成美ちゃん、怒ってるわけじゃなかったもん。泣いてはいたけど、人魂、出てなかったし」
 ――そういえば、そうでした。
「あ、それ、あたしは結局見たことがないんだけど……」
「ああそっか、庄子ちゃんが幽霊を見れるようになってからは一度もないもんね」
「でも、怒ってなかったんなら成美さん、どうして泣いちゃったりまでしたんだろう」
「悲しかったんだと思うよ、成美ちゃん自身が言ってた通り。悲しいだけでも人魂が出ることはあったけど、そういう時って絶対に三個までは出なかったから」
 つまり怒りによる場合よりは人魂が出難いと、そういうことなのでしょう。言い換えれば、泣いてしまうほどに怒っていたならとっくに「そうなっている」、ということになるのかもしれません。
「泣いちゃいまでして一つも出なかったっていうのは……大吾くんのおかげ、かな? ちょっとロマンチック過ぎる考えだけど」
「でも実際に何かあるとしたら、考えられる原因ってそれくらいですよ?」
 成美さんが不機嫌になると現れてしまう、人魂。三つ揃うと大変なことになってしまいますがしかし、最近はご無沙汰なのです。となれば逆に「人魂の発生を抑えられるようになったのかもしれない」という成美さんの変化も最近のものということになり、それに該当するのは大吾くらいのものなのです。
「に、兄ちゃんはそこまで大層なやつじゃないですよ。ロマンチックなんて特に縁遠いですし」
「でも庄子ちゃん、哀沢さんにとって大層な人だっていうのは間違いないと思うよ?」
「それに庄子さんにとっても大層な人だもんね、大吾。ジョンもそう思うでしょ?」
「ワフッ」
 ナタリーさんとサンデー、それにジョンにまでそう言われてしまった庄子ちゃんは、むう、と膨れっ面。
「そりゃ、そうなんだけどさ」
 心配が過ぎて精神的に余裕がなかったか、あっさり認めてしまうのでした。

 暫くすると――十分ぐらいでしょうか? 部屋のチャイムが鳴りました。
「はーい」
 応対に出る前から分かってはいましたが、そこに立っていたのはやはり、大吾と成美さんでした。
「上がらせてもらっても、いいだろうか?」
「どうぞどうぞ。みんなそうですけど、庄子ちゃんが特にお待ちかねですよ」
 なんせチャイムが鳴った途端、脊髄反射かのような速度で立ち上がる寸前の体勢になってましたし。だから成美さん、そんなに申し訳なさそうな顔をすることはないと思いますよ?
 というわけで。
「さっきは、済まなかった。自分でもまさかあそこまで取り乱すとは思っていなかったのだが――ああいや、問題は取り乱した程度ではないな。急に取り乱して、済まなかった」
「悪かった」
 全員と向かい合うようにして座った成美さんと大吾は、一緒に頭を下げてきました。謝られるようなことじゃないですよと言いたいところですが、しかし実際にそれを言うべきであるかどうかは、咄嗟の判断ができません。
「あたし達のことより、その、成美さんと兄ちゃんの間では、ちゃんと話はついたんですか?」
 判断が付くよりも前に、庄子ちゃんから質問。僕が判断に困っていたようなことなんて、そもそも思い付きすらしなかったんでしょう。
「それは大丈夫だ。猫じゃらしの扱いについても、しっかりとしたルールを作ったしな」
「ルールって、どんなのですか?」
 庄子ちゃんからの質問は続きます。すると成美さん、大吾のほうへ視線を移して「言ってもいいか?」と尋ねました。大吾は、若干の間を空けてから「大丈夫だ」と。
 大丈夫だ?
「大吾も、大吾以外の皆とも、遊んでいいということになったぞ」
 ありゃ、全面的に認められたんですか。
「ただし他の誰かが一緒の場合、大吾にねだるのは無しだ。つまり大吾とは二人きりの時だけ、ということになるな」
 ……ん?
「そ、そう決まって問題が解決したんならいいんですけど……でもなんか、兄ちゃんの思惑が見え隠れしてるような」
 なんて庄子ちゃんが言うと、大吾はそっぽを向いてしまいました。そしてその顔は赤いです。
「そこは調整のしどころだろう。わたしが猫じゃらしで遊びたいというのも、大吾がそれを人前では恥ずかしいと思うのも、共にどうにもならない都合だからな」
「はあ……」
 庄子ちゃん、嘆息なのか肯定なのかが曖昧な返事。
 成美さんのそれと大吾のこれとでは随分と「都合」のレベルに差があるように思えますが、まあしかし、そこまで厳密に考えるようなことでもないのでしょう。少なくとも成美さんと大吾にとっては。
「そもそもにして猫じゃらしの使用を認めてもらった点だけとっても、大吾には折れてもらっているんだ。自分の都合を押し付けるばかりではいかんからな、居を同じくする者として」
 言い切った成美さんは満足そうで、合わせて何やら庄子ちゃんも素晴らしいものに心を奪われたような目で成美さんを見ていて、ですがしかしその目が成美さんの隣で顔を赤くしている人物に向けられると、表情が一気にクールダウン。
「これだけ出来たお嫁さんがいてさあ、出来たお嫁さんっていう肩書きに見劣りしない格好いいこと言ってもらっちゃってさあ、そこに持ってきたのが『恥ずかしいから』ってのはどうなの?」
「…………」
 出来たお嫁さんの夫、何も言えないのでした。
「待て待て庄子、今回ばかりはどうしてお前が怒っているのか分からんぞ。わたしばかり持ち上げているが、大吾とわたしは対等だったろう? 今の話のどこを取っても」
 猫としてのどうしようもない性質と、「恥ずかしいから」。
 もしかしたら成美さん、大吾のそれを猫のそれに照らし合わせて、「人間としてのどうしようもない性質」と捉えてしまっているのかもしれません。確かに人間の男性からすれば、妻と一緒に猫じゃらしで遊ぶというのは相当に難易度が高そうですが……でもやっぱり、同格にまで持ち上げるのはちょいとどうなんでしょう?
「ぐっ。――成美さんと兄ちゃんの問題なんですし、成美さんがそう言うんなら、あたしは文句付けるような立場じゃないですけど……」
 ひたすらに成美さんを尊敬している庄子ちゃんとしては、その成美さんからこう言われてしまっては、引き下がるしかないようです。
「でも兄ちゃん! 今日中に絶対に、成美さんと猫じゃらしで遊んであげること! 絶対だぞ!?」
「はいはい……」
「はいは一回!」
「はい!」
 胸につかえていた心配が取り払われたということなんでしょう、庄子ちゃん、いつも通りのスタンスに戻っているのでした。
 さて、ではそれはそれで一件落着ということで、
「ねえねえ哀沢さん、遊んでいいことになったんなら、猫じゃらしで遊ぼうよ。犬じゃらしっていうのはないのかなあ?」
「ワウ?」
「遊んでくれるのか? さっきのことがあった手前、すぐに皆の前へ持ち出すのは自重したのだが」
 ――まあ、サンデーに限らずその場の全員がどう答えたかは、言うまでもないでしょう。
 ただ、同じ人間の男である僕からすれば、初使用が大吾じゃなくていいんだろうか、というかなりどうでもいい思案を巡らせないわけでもなかったんですけど。

「へー、そこまでのことがあって人魂が出なかった、ねえ。いやはやそりゃあ驚きだ」
「もし起こったら一生もんの付き合いをさせちまうのが普通だもんなあ、イレギュラーって」
 遊び終わって時間が経って、今日も来ました晩ご飯タイム。でもその前に家守夫妻とちょっとした談話などしていると、関心を持ちかつ感心したように、そう返してくるのでした。
 僕達の時は栞さんが提示した「大吾のおかげではないか」という説で即座に納得してしまい、お二人のように嘆息する暇すらなかったのですが……そこまでのことだったんですか? 家守さんに高次さん。
「しぃちゃんが考えた理由も面白いね。そういうことがぱっと思い付くっていうのは、やっぱり若さなのかねえ」
「あ、あの楓さん、やっぱり変だったですか?」
 若さという単語に、栞さんは困り顔。その話をした時に栞さん自身が言っていた通り、まあなんともロマンチックな説なので、本人としても自信があるというわけではないのでしょう。
 ですが、
「いやいや喜坂さん、今の、楓は褒めたんだよ? 俺らなんかだと哀沢さんじゃなくイレギュラーそのもののほうに何かあったのか、なんて考えちゃうもんだからさ。――まあ、若さどうこうってより職業柄ってことなのかもしれないけど」
「あはは、それを若さどうこうに置き換えちゃう辺りこそが年寄りの考え方だよねえ。こりゃお恥ずかしい。ごめんねしぃちゃん」
 一方は見るからに活力溢れるややごっつい体付きで、一方は誰の目からしても若くて美人というフレーズが似合いそうな容貌。なのに最近のこのお二人、どうもすぐに話がそういう方向へ進んでしまうようでした。
 それがどうしてなのかと考えた時、ずっと待ち望んでいたであろう夫婦という関係になったから、などと考えてしまうのはやっぱり僕が若造だからなのでしょうか。
「ではそろそろ――こーちゃん先生、今日も宜しくお願いします」
 家守さん、幸せそうなんだもんなあ。

『いただきます』
「鯖の味噌煮かあ。魚料理とかってなんかこう、見るからに家庭の味って感じだよなあ」
「キシシ。高次さん家の料理なんて全部、高級料亭で出るようなものばっかりでしょうに」
「いやまあ、そりゃそうなんだろうけどね。でも別に相反するようなものでもないと思うぞ? その二つ」
「んー、それもそうか。どうあったって家庭は家庭なんだもんねえ」
「家庭の味、かあ」
「ん? 栞さん、どうかしまし――ああ、いえ」
「え? あ、違うの違うの、栞がどうだったって話じゃなくてね。あー……だからってその、言い難い話ではあるんだけど」
「良ければ聞きたいなあ、しぃちゃん。無理にとまでは言わないけど」
「…………あの、家庭の味っていうと、やっぱり自分の実家が思い浮かぶんですけど……でも例えば今の楓さんと高次さんだって、一つの家庭を作ってるわけじゃないですか」
「まあ、そうだね。夫と二人だけで小さいけど、自慢の家庭だねえ」
「ということは、楓さんのお料理が家庭の味になるわけじゃないですか。そういうの、なんとなく不思議だなあって」
「あー、まあ、そうだね。親の味じゃなくてアタシの味が家庭の味になるってのはねえ。――でもしぃちゃん、アタシだけの話でもなくないかな?」
「そ、そうなんですけど……でもそのためには、まだ問題が」
「そうだぞ楓。日向くんと喜坂さんがいくら好い仲だからって、まだそういう段階じゃあないんだし」
「あれ? アタシ、こーちゃんのほうが料理が上手いってことだと思ったんだけど」
「ありゃ? そうだったの? 喜坂さん」
「……は、はい。でもあの」
「ってことは、俺が言ったようなことはもう、問題になるようなことじゃないのかあ」
「…………!」
「キシシ、まあ、思い付いたか付かなかったかってだけの話だろうけどね。でもこーちゃん、どうだい? 今の話」
「弟子は師匠を超えるものなんですよ」
「ああ、そっちなんだ」
「恥ずかしいですもん」

『ごちそうさまでした』
 男の料理が家庭の味でもいいじゃないですか。
 そんなことを思わないでもない話題だったのですが、しかしまあ料理が上手くなりたいと栞さんが意気込んでくれているなら、それに水を差すようなこともないだろうということで。
「でさ、ちょっと話は戻りまして」
 散々僕と栞さんを「未来の家庭」の話で弄繰り回してきた家守さんですが、食事を終えたこのタイミングで話題を変えるようです。――いや、もしかしたら「食事は終わったけど終わる前にしていた話に戻りまして」という意味かもしれないので、油断はできませんが。
「なっちゃんの様子はどんなだったの? その猫じゃらしで遊んでたって時にさ」
「あ、俺も聞きたいな。すっかり忘れてたけど」
 そう言えば、猫じゃらしのことで一悶着があった、ぐらいしか話してませんでしたっけ。
 話してしまっても……まあ、いいのかな? 成美さん自身はそれについて、誰の目を気にしているわけでもなかったんだし。
「猫じゃらしを手に持ってたのは、ほぼずっと庄子ちゃんだったんですけど――」
「可愛かったねえ。栞ももっとさせて欲しかったなあ」
 説明を始めようとしたところ、栞さんが感想を優先させてしまいました。ええ、まあ、それは僕だってそうなんですけど、男の口からそれを言うのもそれについて同意するのも、辛いものがあるんですよ栞さん。
 そんな栞さんの反応だけで既に家守さんと高次さんはにんまりほっこりしているようですが、しかし口頭での説明を始めた以上は、想像の余地だけで補完をお願いするというのも避けておきたいところ。「その時の成美さんは小さい身体でした」と初めに言っておいて、
「えーっと、庄子ちゃんが座ってて、その足の間で抱き抱えられるように成美さんが座ってるって状態が多かったんですけど……まあその、まんま猫の動きでした。丸くした手で猫じゃらしをぺちんぺちんと」
 俗に言う猫パンチってやつです。猫のパンチなんですから当たり前っちゃあ当たり前なんですけど。
「時々、にゃあにゃあ言ってたよねえ」
 ぽわんぽわんと効果音が聞こえてきそうなぐらいに頬を緩ませた栞さんはそう言いますがしかし、人間の言葉を話せる――別の言い方をすれば猫の言葉が人間の言葉に置き換わる成美さんが「にゃあ」という言葉を発するのは妙な気もするのですが、本人に尋ねたところでは「気合いを入れただけだ」とのことでした。
 まあこれまでにも驚いた時なんかに「にゃあ!」みたいな叫び声を発していたような記憶もあるので、それと似たようなものなんでしょう。
「あんなにアグレッシブな成美ちゃん、初めて見ましたよ」
「ほほう。そりゃあ是非とも見ておきたいね。機会があったら是非にでも」
 とのことなんですけど、しかし今回は庄子ちゃんが後ろから抱き付いたままの状況でそうだったので、「もしそれが無く単に鼻先に猫じゃらしを向けられたら」と思うとちょっと申し訳ないような事態を想像してしまうのでした。猫みたいに四つん這いになっちゃったりとか、猫じゃらしを追いかけようとして床をごろごろ転げまわっちゃったりとか。
 何たらプレイ、なんて単語を頭に浮かべてしまったことは、なかったことにしておきます。
「怒橋くんは今頃、そんな状態の哀沢さんと二人っきりなのかな? 妹さんにどやされてたらしいし」
「もしかしたらそうかもしれませんけど、まさかあれからずっとってわけでもないかと……。成美さんの体力がもちませんよ、あんなのをずっとじゃあ。庄子ちゃんの時だって、終わったら息上がってましたし」
 体力の消費からくる呼吸の乱れか、はたまた精神的な興奮からくるそれか。どういうわけだか前者であって欲しいと願ってしまうのでした。
 しかし僕が願うようなことであるということは、他の人だって似たようなことを考える可能性があるということ。なので、
「だいちゃんもはぁはぁ言ってたりして」
「勘弁してあげてください!」
 絵面が想像出来てしまう分なおのこと居た堪れなくなってしまうのです、正常で健全な趣味嗜好を持つ人間の男性として。正常で健全な趣味嗜好を。
 ……だって成美さん、可愛かったんですもん。
「キシシ、じゃあまあ勘弁しておこう。その代わりこーちゃん、今度はそっちの話だよ?」
 ――えっ。
 それまでの話がそれまでの話だったので、背筋をびくりと震わせてしまいます。成美さんの猫じゃらしに代わるような話を、僕と栞さんについて? な、何かありましたっけ?
「しぃちゃん、こーちゃんの呼び方を『孝一くん』から『こーくん』に変えてみようって話、どうなった?」
 プールで出てきたあの話でした。それでもやや気恥ずかしくはありますが、まあ気を休めてもいい内容ではあるでしょう。ほっ。
 ……しかしよくよく考えれば、猫じゃらしの話と比較することで「まだマシだ」と思わされてしまっているだけのような気もしますけど。
「あっ、えっと、ごめんなさい。まだどうにもなってないです。猫じゃらしのことですっかり忘れちゃってて」
「ふふん、しかしもうその話は終わってだいちゃん一人が独占するものになったわけだよ。なので今この時点から、しっかり考えてみようではありませんか」
「ふふ、そうですね」
 そんなふうに言われてしまうと「大吾はどうしてるんでしょうねえ」なんて話題を逸らしてみたくなったりもしないではないですが、しかしこんなふうに言われてしまったからこそ、それは不自然極まりありません。諦めましょう、潔く。
「んで早速だけど、まずこーちゃん自身はどう思ってるのかな? 呼ばれ方が変わるのに、抵抗とか不都合があったりとかは?」
「いや、そりゃないですけど」
「けど?」
 うぐっ。
 と、考えなしに返事をした浅慮な僕は、早々に追い詰められてしまいました。初めから壁を背にしていたかのような追い詰められっぷりです。別に背水の陣とかでもないんですけど……いや、家守さんを相手にこういった話をする場合、それくらいの覚悟はしておくべきなのかもしれません。やるからには窮鼠猫を噛むの精神、家守さんに噛みつき返すくらいのことは。
 家守さんに噛みつき返す! 返すということは僕は既にかぷりと噛み付かれている段階であって、そこでこちらからもかぷりとやり返してやるわけで!……図で考えるとちょっといやらしい気がしないでもないです!
「良い具合に照れちゃってるねえ。シッシッシ、そうでなくっちゃあ」
「ソフトにサドだなあ、楓は」
「もちろんですとも高次さん。蛇を出すためにはまず藪をつっつかなきゃいけないんだし」
「藪をつついて蛇を出すっていうのは、サドとかマゾとかそういうことじゃないんだけどなあ。わざわざ余計なことをして被害をこうむる愚か者、みたいな意味だろうに」
「愚か者のほうが人生楽しいもんだって」
「分かるような気がしないではないけど……うーん、これまた凄まじく話が飛んだなあ」
 そんな話をしてらっしゃる間に家守さんとかぷかぷ噛み合ってる妄想を振り払い(途中で家守さんを栞さんに挿げ替えたりもしつつ)、すっかり胸を落ち着かせることになんとか成功。そのうえで今の話を振り返ってみたところ、ちょっと気付いたことが。
「そういえばですけど家守さん、高次さん」
「なんだい?」
 返事をしたのが高次さんだったので顔はそちらに向けますが、しかしこれはあくまで家守さんへの反撃。言葉はそちらへ向けるつもりで、胸を張って言ってやりましょう。
「家守さんと高次さんだって、普通に名前で呼び合ってますよね?」
 そう。ニックネームで呼ばれるべきは、何も僕だけではない筈なのです。
「そう言やそうだなあ。俺から楓は『楓』だし、楓から俺は『高次さん』だし」
「楓さん、みんなにはあだ名付けてるのに」
 高次さんと栞さんが後ろに続いてくれたことで、なんとなく自信も湧いてきます。お二人からすれば後ろに続いたとかそういうつもりではなかったんでしょうけど、僕の中ではそういうことにしておきます。
 さて、家守さんの反応ですが。
「みんなにあだ名付けてるからこそだよお、しぃちゃん。なんたって特別な人なんだし」
 普段と口調は変わらないものの、はにかんだ様子でしかも頬がちょっぴり赤くなっているのは、気のせいではありますまい。
「おおお、そういう考え方ですかー」
 栞さんはえらく感心させられてしまったようですが――そう言えば、そうでした。家守さんって、高次さんについては可愛らしいところもあるんでしたよね。料理を覚えようとしているのもその一環なんですし。
「そう考えると、俺も特別な呼び方ってことになるのかね? そう珍しいもんでもないけど一応、呼び捨てってのはここの人達の中じゃあ楓だけだし」
「ここの中だけ、しかも人に限るとなると、ものすっごい限定的だけどね。でもまあ……ふふ、そう思ってくれるだけで嬉しいかも」
 ふふって、そんな控えめな笑い方もできたんですか家守さん? いつもはもっと快活にカラカラ笑ってたのに。
 なんて思ったその途端、「話は戻ってさあこーちゃん! どうなんだねしぃちゃんからあだ名で呼ばれるというのは!?」といつもの調子の家守さん。何なんですかその急変っぷりは。もしかして、わざとやってるんですか?


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