「あたしも、もう少しだけいさせてもらおうかな?」
「まあジョンもそっちのほうが喜ぶだろうしな」
現在、四時前後。もう少しだけというほど時間がおすような時刻でもないと思うのですがしかしそんなふうに控えめに尋ねた庄子ちゃんに対し、「ジョンが」という話でもないであろう大吾はしかしそんなふうに返すのでした。
仲良し兄妹という表現にも限度があると思います。下手したら付き合う直前の男女くらいには見えてしまうかもしれません。
「なあ庄子、少しだけと言わず、202号室にも寄っていかないか?」
そんな夫の兄妹愛はいつものことであろう成美さん、僕のような嫌味な表情は欠片も見せずに提案します。
「……お呼ばれしちゃった」
「好きにしろよ別に」
毎度毎度こういうワンクッションを置くような感じではなく、時には普通に仲が良い兄妹としてストレートな遣り取りをしたりもするのですが、今日は両者ともに機嫌がいいようです。まあ、機嫌がいいと言えばプールの時からそうなんですけど。
「何にせよまずはジョンだな。もう一回散歩に行くなりここでじゃれ合うなり」
「あ、じゃあ大吾、お散歩がいいなボク。大吾と庄子さんって本当に仲良しだよね」
「よーしじゃあ散歩な。行くぞジョン」
「ワンッ!」
そこまで露骨な反応だと、最早突っ込み待ちのようにしか見えないよ大吾。
さて、全員揃ってジョンに帰宅の挨拶をしたからといってジョンとの散歩も全員参加かと言われればそういうことでもなく、家守さんと高次さんと清さん、そして栞さんも、不参加なのでした。
前者三名が来なかった理由は(わざわざ理由を求めるようなことでもないのですが)、プールで言っていた「若者はエネルギッシュ」云々と同じようなものなのでしょう。そして栞さんですが、こちらは「みんなが言ってる間に庭掃除しとくよ」だそうです。それはいつもなら正午ごろになされる仕事ですが、今日は午前中から庄子ちゃんが遊びに来ていたこともあり、まだ手をつけられていなかったのです。
「そういえば日向、朝の散歩もお前は来ずに喜坂だけ来ていたな。いらぬ世話かも知れんが、珍しいな?」
「ああそれ、プールで清さんにも訊かれたんですけど――」
というわけで散歩が始まって早々、再び「あまりべったりしないようにしよう」というあの決め事についての説明です。
「――ふむう、意識して距離をおく、か。興味の湧く話だな」
「と言っても今回は庭掃除がまだだったっていうちゃんとした理由もあるんですし、栞さんが今の話を意識していたかどうかは、分からないんですけどね」
「まあそれもそうか」
と頷きつつも、成美さんはニット帽のすぐ下で眉を寄せ気味にしています。話を理解しても心情が理解できない、というところでしょうか。
「……それにしても、やはり興味深い。わたしなんかはそんなふうに思ったことがまるでないからなあ」
「オレだってねーよ」
「どさくさ紛れに兄ちゃんが惚気始めた!」
「なんでオレだと惚気たことになるんだ!?」
ともかく。
「まあ、そう言ってても夕食はこれまで通りになるでしょうし、極端なほど会わないようにするって話でもないですよ? それに、同じ部屋に住み始めた成美さんと大吾とはまた状況が違うでしょうし」
「それは確かにそうだが……」
それでもやっぱり納得がいかなそうな成美さん。その様子から何か言い返されるかな、と思ったのですが、
「あの、日向さん」
それよりも先に、サンデーと一緒にジョンの背中に乗っているナタリーさんから。
「哀沢さんと怒橋さんがそうしているように喜坂さんと一緒に暮らすっていうのは、駄目なんでしょうか?」
「あ、それはボクもそう思うな。人間ってそうするものなんでしょ? 家守さんと高次さんもそうだし、清一郎さんだって幽霊になっちゃう前はそうだったんだし」
それは自分と栞さんの関係を考えれば間近にある筈なのに、それでもどこか夢物語のような雰囲気を纏っている話なのでした。サンデーの言う通り、人間ってそうするものなんですけどねえ。
「うーん、いずれはそうしたいとは思ってるしそうなるんだろうけど、今はまだって感じかなあ。どうしてまだなんだって言われちゃったら、はっきりとした答えは言えそうにないけど」
強いて言うなら「こういうことは付き合い始めて半月で決断するようなことじゃないだろう」というのが理由だけど、でもそれは別に強制力のあるものじゃないし、そうしていない人だって現に沢山いるんだろうし。
もちろん、昨晩栞さんと話した「幽霊と幽霊でない人間が一緒に暮らすとなればいろいろ問題もあるだろう」という面もあるにはある。けどやっぱりそれだって無視しようと思えばできてしまうわけで、やっぱり決定的な要因じゃあない。
多分、決定的な要因なんてものは一つもないんだろう。
「まあ、急ぐことでもねえしな。急いだオレが言うのもアレだけど」
と、大吾。そう、今すぐに同棲を始めなければならないという要因も、やっぱりないのです。
するとそんな大吾に庄子ちゃん、「『お前が言うな』って突っ込もうとしたら先に自分で言っちゃったよ」なんて。しかしふと成美さんへ目を向けたかと思うと、
「ま、まあ成美さんも納得してのことだし、それ自体に文句があるわけじゃないけどさ」
と取り繕うように付け足すのでした。と言ってもちろん、成美さんに気分を害したような様子は全くありません。
「断る理由などないし、当たり前だが一緒に暮らそうと言ってもらえたのは嬉しかったからな。喜坂だって恐らくはそう思うのだろうが……しかし今すぐそうすることが最善ではない、ということか」
「正直言ってあやふやですけど、まあそんな感じです」
……でも、栞さんもそう思う、か。今はまだそうする時期じゃないという話になったのは成美さんが今言った通りだけど、それでもやっぱり、無理を通して同棲を申し込んでいたとしても喜んではもらえたんだろうか。
「どこまでいっても難しいですねえ、人間って」
「ボクもそう思うよ。でも、だから一緒にいて面白いのかもしれないけど」
「ああ、それはそうですよね」
「ワウ」
と言ってもらえるのは友人として有難いのですが、問題を抱える本人としては「人間って難しい」で終わらせてしまうわけにもいかないので、それこそ難しいところです。
……いや、もちろん「今のところは一緒に暮さないでおく」という決定に依存はないです。ただ、その土台がぐらぐらしているということが気掛かりなだけでして。
僕があれこれ考えていたのも要因の一つなんでしょう、ほんの少しだけ生じた無言の時間。
そこへ、会話の隙間を埋めるように語り出すのは庄子ちゃんでした。
「結局のところ、人間だろうがそうでなかろうが、二人が一番気持ち良く付き合っていけるように付き合っていくのが一番ですよね。人間はちょっとずれてるみたいだけど、だからってどうせ人間なんだから、そのずれてる中でどうにかするしかないんですもん」
「大雑把な纏め方だなおい」
「ガッチガチに計画練ってその通りに付き合うのなんて疲れるじゃん。大雑把でいいんだって。――まああたし、彼氏がいた試しなんてないんだけどさ」
最後には笑い話になってしまいました。
もちろん散歩が続く以上は何かしらの会話があるわけですが、僕と栞さんがどうのについての話題は、もう出てこないのでした。
「ただいま、栞さん」
「お帰りなさい、庄子ちゃん。みんなもお帰りー」
散歩を済ませて戻ってくると、栞さんはまだ庭掃除を続けていました。それについては頭が下がるばかりですが、正面玄関をくぐってすぐにお出迎えがあるというのは、大したことでない割になかなかほっこり来るものがあります。
「庄子にはわたし達の部屋へ来てもらうことになっているが……お前達もどうだ? 喜坂は、仕事が終わるまであとどれくらい掛かる?」
「あ、もうすぐに終わるよ。そういうことなら遠慮なくお邪魔させてもらうね」
ということになれば、それはやっぱり栞さんだけがそうするということにはならないわけです。散歩に同行した全員がお邪魔させてもらうということになり、そしてそのまま「わたし達の部屋」こと202号室へ。
で。
「わざわざ庄子に来てもらったのには、ある事情がないでもないのだ」
みんなが揃った202号室。集合完了から間髪を入れず、成美さんは強張った表情で切り出しました。
「ないでもないって……何ですか?」
「これだ」
声色には緊迫感すら纏わせながらも曖昧さが窺える言い回しに首を傾げる庄子ちゃんへ、成美さんはあるものを差し出しました。
「これは――」
「猫じゃらし、だ。……ぐぬぬ、揺れていないからまだ何とかなるが、やはり我慢するのは辛いな」
強張った表情を強張ったままで苦しそうに歪める成美さんですが、しかし出てきたものが出てきたものなので、庄子ちゃんは反応に困っている様子。だんだんと成美さんと同じような顔になっていきます。
「どうしても大吾がこれを使ってくれないのだ。それでも本当は大吾にそうしてもらいたかったのだが……頼む庄子、これを」
「おいおいおい……」
大吾が頭を抱えてしまいました。比喩表現でなく、実際の行動として。
「オレだけの時でも無理だったのに、こんだけ人数揃ってる中でとか、もっと無理だっつの」
すると成美さん、不機嫌な表情に――ではなく、とても悲しそうな表情になってしまいました。そうなれば大吾にも苦々しそうな色が差すのですがしかし、朝に聞いた話では、それについてはもう仲直りを済ませたということだったんですけど……?
「昨日、お前は言ったではないか。お前がわたしをじゃらしているのは絵的に良くないと。だからこうして、本当はお前にしてもらいたいのに、庄子に頼んでいるのだぞ? それでも駄目なのか?」
悲しそうな表情のまま、悲しそうな声で、成美さんは言いました。これが怒った表情と声だったなら大吾も何かしら言い返したんでしょうけど、
「…………」
何も言い返せない様子でした。
「話はついたと、仲直りができたと、昨日の時点ではそう思っていたんだがな……」
何も言わない大吾に成美さんの声はいっそう暗くなり、その顔は、しょんぼりと下を向いてしまいました。
猫じゃらしのおもちゃの登場からどんな馬鹿馬鹿しい展開になるのかと思いきや、そえとは真逆な気まずい雰囲気。大吾以外の全員もが不用意に口を開けなくなり、そしてそのまま部屋がすっかり静まってしまって、
「……我ながら大人げない、たかが玩具のことで空気を悪くしてしまったな。すまん、わたしは席を外すよ」
成美さんはするりと私室へ入ってしまい、ふすまもしっかりと閉じられてしまいました。
それでも居間の僕達の空気は変わらず、ジョンまでもがこうべを垂れてしまうほどの落ち込みようを見せ、そしてそんな中での暫くののち。
「これはさすがに、本気で良くないと思うよ兄ちゃん」
「……ああ」
この状況でそんな庄子ちゃんの言葉に即座に頷き返せるあたり、さすがは良くも悪くもな単純さが売りの大吾だ、というところなのでしょう。けれど、だからと言って即座に事態を改善する行動には移れないようです。一歩も動かないどころか体全体を微動だにさせないまま、ただただ座りこんでいます。
「確かに猫じゃらしで遊んでたりしたら、あたしだって何か言うだろうけどさ――それだって成美さんがあそこまでなんじゃあ、変わってくるよ?」
「だよな……いや、そりゃそうなんだろうけどよ……」
良くはないと分かっていても、やっぱり抵抗はあるのでしょう。そもそも、抵抗があるから猫じゃらしの使用を断ったし、庄子ちゃんに使わせるのにも「止めてくれ」と言ったわけですから。
しかしもちろん、僕達はその「抵抗」が何であるのかは知りません。大吾が使いたがらない理由は成美さんが言った通りなのですが、それが庄子ちゃんであっても駄目だというのがどういうことなのかは、聞いていません。何故なら朝にした話は、あくまで「大吾が」猫じゃらしの使用を拒否した、という話だったからです。
「怒橋さんは、どうして嫌なんですか?」
「なんつーかな、こう、猫としてどうしようもねえ反応を故意に引っ張り出すっての、オレは成美にしたくねえし、他の誰にもして欲しくねえ――いや、無茶苦茶言ってるなオレ」
ナタリーさんから質問されて大吾は答え始めますが、その途中で自分から自分の言葉を遮ってしまいました。出てきた理由そのものは結局のところ朝に聞いたものと同じだったのですが、どうやらそれは自分以外にも適用されることだったようです。
「成美がああなんじゃあ単なるオレの身勝手だよなあ、そんなもん」
と、大吾は苦笑いを浮かべる余裕すらなく落ち込んでいます。
とは言え、結局のところ何かしらを決断するのは大吾であって、周囲の僕達が大吾以上に息巻いたところでどうなるわけでもなく。成美さんの立場で考えるにしたって、そもそも猫じゃらしが猫にとってどれほど引き付けられるものなのか、分かるわけもなく。
そこで。
「サンデー、チューズデーさんは何か言ってないかな」
「ん? ああ、うん。ちょっと聞いてみるよ」
チューズデーさん。黒猫。そんなわけなので、意見を求めてみました。
「哀沢さんのこと、『甘えたがりは大変だね』だって。でもそう言いながら、大吾のことをちょっと怒ってるみたい――あ、『そこまでは言わなくていいがね』って、今度はボクが怒られちゃったよ」
「いや、どっちかと言うとその言わなくていい範囲を聞きたいんだけど……」
「そう? じゃあ言うよ、喧嘩は嫌だもんね」
いいんでしょうか、そんなにあっさり。聞きたいと言ったのはそりゃ僕だけど。
「――大吾、初めは知らなかったんだろうけど、猫じゃらしって猫にとっては本当に気になって仕方がないものなんだって。それを大吾が買ってきちゃったから、哀沢さんはきっと大吾がそれで遊んでくれるって期待したんだろうって」
その時点でもう、大吾にとってはダメージ大だったようです。顔を肩ごとがっくり落として、一番身長が高いのに誰よりも座高が低くなってしまいました。
しかしそれでもサンデーは続けます。
「だけど大吾は、猫じゃらしが猫にとってどういうものかを知っちゃったら遊んであげないって言いだしたから、哀沢さんはとってもがっかりしたんだろうなって。それを我慢して庄子さんに頼んでも、それも駄目って言われちゃったら、いくらなんでもおへそが曲がっちゃうよって。甘えたがりの哀沢さんじゃなかったとしてもそうなって仕方がないくらい、猫にとって猫じゃらしは大変なものなんだぞって」
「やっぱり兄ちゃんが悪い。初めから分かってたけど俄然悪い」
「やっぱオレだよな」
「だからチューズデーも良ければ遊んで欲しいって……あっ、ごめん、ごめんなさい」
ありがとうございましたサンデーくん。ご苦労様です。
「なんかもう、おもちゃとして売っちゃっていいようなものじゃないってレベルだね、猫じゃらし」
サンデーの話を受けて、栞さん。それも確かにその通りで、事実として猫であるチューズデーさんに「大変なもの」とまで言わしめたからには、対猫コミュニケーション用最終アプローチツール、とでも言うべき威力を備えているようですし。
今ここにあるものこそ人間が作ったおもちゃではありますが、その元になったものが自然界に生息している植物であることも、また驚きですけど。
「ぽいですねえ。まあそれでも、しっかり遊びさえすれば問題はなさそうな話でしたけど」
自分でそう言ってから、しかしちょっと気になることが。――そういえばチューズデーさん、「遊んで欲しい」って言ったんだよなあ。実際に言ったのはサンデーで、チューズデーさんは頭の中でそう思っただけなのかもしれないけど。
しかしともかく、「これでわたしと遊んでくれ」に類するような台詞、成美さんだと恥ずかしがって言い渋りそうな気もするけど……大吾と二人だけなら、そうでもないんだろうか?
「ねえ、大吾くん」
僕が割かしどうでも良さそうなことを考えていると、栞さんが大吾に直接話し掛けました。普段のそれとは違うけど、それでもしっかりと耳に残っている口調で。
「大吾くんが猫じゃらしを使わなかった理由は分かるよ。そういうふうに考えるのは、大吾くんが優しいからなんだと思う」
そこで栞さんは、ちらりとだけ、僕のほうを見ました。
「でもね、優しかったら何でもいいってわけでもないと思うな」
即座に思い出す記憶が一つ。それは、「孝一くんは優し過ぎる。何でもかんでも自分が悪いと思うのは良くない」と叱られたことです。
それはもちろん「優しかったら何でもいいというわけではない」という話に釣られただけであって、現在なされている話とはまた別の話題です。けれど、恐らくは栞さんも僕と同じことを思ったんでしょう。話題は違えど分類は同じ、と。
「個人個人の受け取り方ひとつなんだろうけど、少なくとも成美ちゃんに――優しくする相手に悲しい思いをさせちゃったらそれは、全部を否定まではしないけど、やっぱりどこかが間違ってるんだと思う」
「……そう、なるよな」
僕に対しての時もそうだったように、栞さんの語気は強い。そのことが話に説得力を感じさせる一因になっているんだろうけど、しかしもちろん、それだけじゃあないんでしょう。僕という前例があるからこそ――もしかしたら、栞さん自身だって前例のうちに入っているのかもしれないけど――自分でなく他人に対して、そこまで力強く言い放てるんだと思います。
筋違いにも程がありますが、ちょっと誇らしかったり。
しかしそんな筋違いはさておき、大吾が立ち上がります。
「謝ってくるわ」
「頑張ってよ、兄ちゃん」
当人である大吾はともかく、最もこの事態を心配しているであろう庄子ちゃんはその心配をしっかりと顔に出し、もう、いつもの憎まれ口を差し挟む様子すらなくしているようでした。これもまた栞さんの話がもたらした変化なのでしょう。もちろん、望まれた変化ではないのでしょうけど。
そんな庄子ちゃんの変化を見逃すような大吾でもなく、しかしこれまた大吾らしくただ「ああ」とだけ返して歩み出し、私室へのふすまに手を掛けました。
すると、
「…………」
開かれたふすまのすぐ向こうには、成美さんが立っていました。大吾が向かうまでもなく、成美さんの側からこちらへ来ようとしていたように。
「あ、あの、成美……」
謝ろうと意を決して立ちあがった大吾でしたが、このちょっとした不意打ちに動揺したようで、声が詰まり気味です。
とは言え、不意打ちとなったのはすぐ目の前に立っていたことだけでなく、その成美さんが随分と目線を下げた位置にいること――つまりは猫耳を引っ込めた小さい身体で立っていたことも、あったのでしょう。なんせ気分を害して私室へ入ってしまう前は大人の身体たしでした、そんな状態の中でわざわざ耳を引っ込めるだなんて、予想だにしていなかったわけで。
「まあ大吾、まずは座ろう。――お前達の話は、聞こえていたからな。引き籠ったまま謝られて解決というのも、締まりが悪いだろう?」
「……なんで、猫耳引っ込めたんだ? わざわざ」
成美さんに促されて座る前に、大吾は尋ねます。引き籠ったまま云々の部分にはそうさせた本人として肯定も否定もし辛いから、という面もあったのかもしれません。
「大人げなかったからだよ、玩具如きの話で臍を曲げたわたし自身が。大人げないことを恥ずかしく思っているなら大人の身体であり続ける必要もない、というわけだ。無論、こじ付けだがな」
こちらでしていた話が聞こえていたなら大吾が謝るという話になっていたことも知っているはずで、ならば機嫌は良くなっていたりするのかな、とも思ったのですが――この自嘲的な話を半笑いでしてくるあたり、成美さん、まだまだそうではない様子です。
「…………」
そんな話に対しても大吾は何も言わず、しかし辛そうな表情を浮かべだけはしつつ、成美さんの勧め通りその場に座り込みました。
それを見て、成美さんも床に腰を落ち着けます。ただし腰を落ち着けたのは、そのまま座れば大吾の隣になるのに、わざわざ大吾と向かい合うよう部屋の反対側まで移動してからのことでしたが。
「今も言ったが、わたしにはこちら側でされていた話が全部聞こえていた。大吾が謝ろうとしていたことは知っているし、どうしてそういう結論になったかも同様だ。わたしは、それに異を唱えたりはしない。謝ってくるというなら快くそれを受け入れるつもりだ」
大吾と距離を取りはしましたが、それでも成美さんの会話相手はあくまで大吾であるようで、周りの僕達には全く視線を逸らしてきません。もちろん、大吾が成美さんに一対一で謝るという流れだったことを考えれば、そのこと自体に何の問題があるわけでもないのですが。
「ただ、わたしの話も聞いて欲しい。皆の前で醜態を曝したからには皆に聞いてもらう必要があると思うし、特に大吾には、聞いたうえで理解して欲しい。……構わない、だろうか」
「ボクは構わないよ、哀沢さん」
「あ、わ、私もです」
誰もがそう思っただろうけど「口に出してそうは言い難い」と思ったであろう中、普通に会話をしているような呼吸でサンデーが返事をし、釣られるようにしてナタリーさんも。そうなってしまえばあとはみんなも釣られ続け、言葉にするにせよ首肯だけに止まったにせよ、全員が成美さんの提案を受け入れるのでした。
「話してくれ、成美」
強張った表情の大吾が最後にそう言い、するとそれだけで既に嬉しそうな表情を作った成美さんは、しかしすぐにそれを掻き消して話し始めます。
「殆どは、チューズデーが言っていた通りだ。猫にとって猫じゃらしはどうしようもないくらい誘われてしまうものだし、加えてわたしは甘えたがりだ。これまた大人げない話だが正直、猫じゃらしの玩具を見た時は『大吾がこれで遊んでくれるのか』と胸を躍らせたよ」
猫にとっての猫じゃらしのことはともかく、自分が甘えたがりであるということまでさらりと認めてしまった成美さん。しかし普段の言動から考えれば、やっぱりそれは易々と言ってしまえるようなことではないのでしょう。
「結局大吾は遊んではくれなかったが、それについては大吾なりの理由もあるようだったし、残念だったがわたしは了解した。だが――大吾だけでなく他の誰であっても駄目となると、それはもう別の話だろう?」
その言葉が向けられているのはあくまで大吾なのであって、僕達はそれを横から聞いているだけ。しかしそうは言ってもやっぱり考える部分は考えるわけで、「別の話」というのがどういうことなのか、それなりに思考を巡らせたりもしてみます。
とは言え当然、成美さんが言葉を繋げるより早く答えに辿り着けたりはせず、
「それは、『猫じゃらしに誘われること』を丸々否定されたも同然だ。となるとそれはもう、猫の性質の一つを認めてもらえなかった、ということになるだろう」
言われて初めて浮かんだその答えに、背筋を引き締められる思いでした。横で聞いているだけの僕でこうなら大吾は、と思わずにはいられません。
「まあジョンもそっちのほうが喜ぶだろうしな」
現在、四時前後。もう少しだけというほど時間がおすような時刻でもないと思うのですがしかしそんなふうに控えめに尋ねた庄子ちゃんに対し、「ジョンが」という話でもないであろう大吾はしかしそんなふうに返すのでした。
仲良し兄妹という表現にも限度があると思います。下手したら付き合う直前の男女くらいには見えてしまうかもしれません。
「なあ庄子、少しだけと言わず、202号室にも寄っていかないか?」
そんな夫の兄妹愛はいつものことであろう成美さん、僕のような嫌味な表情は欠片も見せずに提案します。
「……お呼ばれしちゃった」
「好きにしろよ別に」
毎度毎度こういうワンクッションを置くような感じではなく、時には普通に仲が良い兄妹としてストレートな遣り取りをしたりもするのですが、今日は両者ともに機嫌がいいようです。まあ、機嫌がいいと言えばプールの時からそうなんですけど。
「何にせよまずはジョンだな。もう一回散歩に行くなりここでじゃれ合うなり」
「あ、じゃあ大吾、お散歩がいいなボク。大吾と庄子さんって本当に仲良しだよね」
「よーしじゃあ散歩な。行くぞジョン」
「ワンッ!」
そこまで露骨な反応だと、最早突っ込み待ちのようにしか見えないよ大吾。
さて、全員揃ってジョンに帰宅の挨拶をしたからといってジョンとの散歩も全員参加かと言われればそういうことでもなく、家守さんと高次さんと清さん、そして栞さんも、不参加なのでした。
前者三名が来なかった理由は(わざわざ理由を求めるようなことでもないのですが)、プールで言っていた「若者はエネルギッシュ」云々と同じようなものなのでしょう。そして栞さんですが、こちらは「みんなが言ってる間に庭掃除しとくよ」だそうです。それはいつもなら正午ごろになされる仕事ですが、今日は午前中から庄子ちゃんが遊びに来ていたこともあり、まだ手をつけられていなかったのです。
「そういえば日向、朝の散歩もお前は来ずに喜坂だけ来ていたな。いらぬ世話かも知れんが、珍しいな?」
「ああそれ、プールで清さんにも訊かれたんですけど――」
というわけで散歩が始まって早々、再び「あまりべったりしないようにしよう」というあの決め事についての説明です。
「――ふむう、意識して距離をおく、か。興味の湧く話だな」
「と言っても今回は庭掃除がまだだったっていうちゃんとした理由もあるんですし、栞さんが今の話を意識していたかどうかは、分からないんですけどね」
「まあそれもそうか」
と頷きつつも、成美さんはニット帽のすぐ下で眉を寄せ気味にしています。話を理解しても心情が理解できない、というところでしょうか。
「……それにしても、やはり興味深い。わたしなんかはそんなふうに思ったことがまるでないからなあ」
「オレだってねーよ」
「どさくさ紛れに兄ちゃんが惚気始めた!」
「なんでオレだと惚気たことになるんだ!?」
ともかく。
「まあ、そう言ってても夕食はこれまで通りになるでしょうし、極端なほど会わないようにするって話でもないですよ? それに、同じ部屋に住み始めた成美さんと大吾とはまた状況が違うでしょうし」
「それは確かにそうだが……」
それでもやっぱり納得がいかなそうな成美さん。その様子から何か言い返されるかな、と思ったのですが、
「あの、日向さん」
それよりも先に、サンデーと一緒にジョンの背中に乗っているナタリーさんから。
「哀沢さんと怒橋さんがそうしているように喜坂さんと一緒に暮らすっていうのは、駄目なんでしょうか?」
「あ、それはボクもそう思うな。人間ってそうするものなんでしょ? 家守さんと高次さんもそうだし、清一郎さんだって幽霊になっちゃう前はそうだったんだし」
それは自分と栞さんの関係を考えれば間近にある筈なのに、それでもどこか夢物語のような雰囲気を纏っている話なのでした。サンデーの言う通り、人間ってそうするものなんですけどねえ。
「うーん、いずれはそうしたいとは思ってるしそうなるんだろうけど、今はまだって感じかなあ。どうしてまだなんだって言われちゃったら、はっきりとした答えは言えそうにないけど」
強いて言うなら「こういうことは付き合い始めて半月で決断するようなことじゃないだろう」というのが理由だけど、でもそれは別に強制力のあるものじゃないし、そうしていない人だって現に沢山いるんだろうし。
もちろん、昨晩栞さんと話した「幽霊と幽霊でない人間が一緒に暮らすとなればいろいろ問題もあるだろう」という面もあるにはある。けどやっぱりそれだって無視しようと思えばできてしまうわけで、やっぱり決定的な要因じゃあない。
多分、決定的な要因なんてものは一つもないんだろう。
「まあ、急ぐことでもねえしな。急いだオレが言うのもアレだけど」
と、大吾。そう、今すぐに同棲を始めなければならないという要因も、やっぱりないのです。
するとそんな大吾に庄子ちゃん、「『お前が言うな』って突っ込もうとしたら先に自分で言っちゃったよ」なんて。しかしふと成美さんへ目を向けたかと思うと、
「ま、まあ成美さんも納得してのことだし、それ自体に文句があるわけじゃないけどさ」
と取り繕うように付け足すのでした。と言ってもちろん、成美さんに気分を害したような様子は全くありません。
「断る理由などないし、当たり前だが一緒に暮らそうと言ってもらえたのは嬉しかったからな。喜坂だって恐らくはそう思うのだろうが……しかし今すぐそうすることが最善ではない、ということか」
「正直言ってあやふやですけど、まあそんな感じです」
……でも、栞さんもそう思う、か。今はまだそうする時期じゃないという話になったのは成美さんが今言った通りだけど、それでもやっぱり、無理を通して同棲を申し込んでいたとしても喜んではもらえたんだろうか。
「どこまでいっても難しいですねえ、人間って」
「ボクもそう思うよ。でも、だから一緒にいて面白いのかもしれないけど」
「ああ、それはそうですよね」
「ワウ」
と言ってもらえるのは友人として有難いのですが、問題を抱える本人としては「人間って難しい」で終わらせてしまうわけにもいかないので、それこそ難しいところです。
……いや、もちろん「今のところは一緒に暮さないでおく」という決定に依存はないです。ただ、その土台がぐらぐらしているということが気掛かりなだけでして。
僕があれこれ考えていたのも要因の一つなんでしょう、ほんの少しだけ生じた無言の時間。
そこへ、会話の隙間を埋めるように語り出すのは庄子ちゃんでした。
「結局のところ、人間だろうがそうでなかろうが、二人が一番気持ち良く付き合っていけるように付き合っていくのが一番ですよね。人間はちょっとずれてるみたいだけど、だからってどうせ人間なんだから、そのずれてる中でどうにかするしかないんですもん」
「大雑把な纏め方だなおい」
「ガッチガチに計画練ってその通りに付き合うのなんて疲れるじゃん。大雑把でいいんだって。――まああたし、彼氏がいた試しなんてないんだけどさ」
最後には笑い話になってしまいました。
もちろん散歩が続く以上は何かしらの会話があるわけですが、僕と栞さんがどうのについての話題は、もう出てこないのでした。
「ただいま、栞さん」
「お帰りなさい、庄子ちゃん。みんなもお帰りー」
散歩を済ませて戻ってくると、栞さんはまだ庭掃除を続けていました。それについては頭が下がるばかりですが、正面玄関をくぐってすぐにお出迎えがあるというのは、大したことでない割になかなかほっこり来るものがあります。
「庄子にはわたし達の部屋へ来てもらうことになっているが……お前達もどうだ? 喜坂は、仕事が終わるまであとどれくらい掛かる?」
「あ、もうすぐに終わるよ。そういうことなら遠慮なくお邪魔させてもらうね」
ということになれば、それはやっぱり栞さんだけがそうするということにはならないわけです。散歩に同行した全員がお邪魔させてもらうということになり、そしてそのまま「わたし達の部屋」こと202号室へ。
で。
「わざわざ庄子に来てもらったのには、ある事情がないでもないのだ」
みんなが揃った202号室。集合完了から間髪を入れず、成美さんは強張った表情で切り出しました。
「ないでもないって……何ですか?」
「これだ」
声色には緊迫感すら纏わせながらも曖昧さが窺える言い回しに首を傾げる庄子ちゃんへ、成美さんはあるものを差し出しました。
「これは――」
「猫じゃらし、だ。……ぐぬぬ、揺れていないからまだ何とかなるが、やはり我慢するのは辛いな」
強張った表情を強張ったままで苦しそうに歪める成美さんですが、しかし出てきたものが出てきたものなので、庄子ちゃんは反応に困っている様子。だんだんと成美さんと同じような顔になっていきます。
「どうしても大吾がこれを使ってくれないのだ。それでも本当は大吾にそうしてもらいたかったのだが……頼む庄子、これを」
「おいおいおい……」
大吾が頭を抱えてしまいました。比喩表現でなく、実際の行動として。
「オレだけの時でも無理だったのに、こんだけ人数揃ってる中でとか、もっと無理だっつの」
すると成美さん、不機嫌な表情に――ではなく、とても悲しそうな表情になってしまいました。そうなれば大吾にも苦々しそうな色が差すのですがしかし、朝に聞いた話では、それについてはもう仲直りを済ませたということだったんですけど……?
「昨日、お前は言ったではないか。お前がわたしをじゃらしているのは絵的に良くないと。だからこうして、本当はお前にしてもらいたいのに、庄子に頼んでいるのだぞ? それでも駄目なのか?」
悲しそうな表情のまま、悲しそうな声で、成美さんは言いました。これが怒った表情と声だったなら大吾も何かしら言い返したんでしょうけど、
「…………」
何も言い返せない様子でした。
「話はついたと、仲直りができたと、昨日の時点ではそう思っていたんだがな……」
何も言わない大吾に成美さんの声はいっそう暗くなり、その顔は、しょんぼりと下を向いてしまいました。
猫じゃらしのおもちゃの登場からどんな馬鹿馬鹿しい展開になるのかと思いきや、そえとは真逆な気まずい雰囲気。大吾以外の全員もが不用意に口を開けなくなり、そしてそのまま部屋がすっかり静まってしまって、
「……我ながら大人げない、たかが玩具のことで空気を悪くしてしまったな。すまん、わたしは席を外すよ」
成美さんはするりと私室へ入ってしまい、ふすまもしっかりと閉じられてしまいました。
それでも居間の僕達の空気は変わらず、ジョンまでもがこうべを垂れてしまうほどの落ち込みようを見せ、そしてそんな中での暫くののち。
「これはさすがに、本気で良くないと思うよ兄ちゃん」
「……ああ」
この状況でそんな庄子ちゃんの言葉に即座に頷き返せるあたり、さすがは良くも悪くもな単純さが売りの大吾だ、というところなのでしょう。けれど、だからと言って即座に事態を改善する行動には移れないようです。一歩も動かないどころか体全体を微動だにさせないまま、ただただ座りこんでいます。
「確かに猫じゃらしで遊んでたりしたら、あたしだって何か言うだろうけどさ――それだって成美さんがあそこまでなんじゃあ、変わってくるよ?」
「だよな……いや、そりゃそうなんだろうけどよ……」
良くはないと分かっていても、やっぱり抵抗はあるのでしょう。そもそも、抵抗があるから猫じゃらしの使用を断ったし、庄子ちゃんに使わせるのにも「止めてくれ」と言ったわけですから。
しかしもちろん、僕達はその「抵抗」が何であるのかは知りません。大吾が使いたがらない理由は成美さんが言った通りなのですが、それが庄子ちゃんであっても駄目だというのがどういうことなのかは、聞いていません。何故なら朝にした話は、あくまで「大吾が」猫じゃらしの使用を拒否した、という話だったからです。
「怒橋さんは、どうして嫌なんですか?」
「なんつーかな、こう、猫としてどうしようもねえ反応を故意に引っ張り出すっての、オレは成美にしたくねえし、他の誰にもして欲しくねえ――いや、無茶苦茶言ってるなオレ」
ナタリーさんから質問されて大吾は答え始めますが、その途中で自分から自分の言葉を遮ってしまいました。出てきた理由そのものは結局のところ朝に聞いたものと同じだったのですが、どうやらそれは自分以外にも適用されることだったようです。
「成美がああなんじゃあ単なるオレの身勝手だよなあ、そんなもん」
と、大吾は苦笑いを浮かべる余裕すらなく落ち込んでいます。
とは言え、結局のところ何かしらを決断するのは大吾であって、周囲の僕達が大吾以上に息巻いたところでどうなるわけでもなく。成美さんの立場で考えるにしたって、そもそも猫じゃらしが猫にとってどれほど引き付けられるものなのか、分かるわけもなく。
そこで。
「サンデー、チューズデーさんは何か言ってないかな」
「ん? ああ、うん。ちょっと聞いてみるよ」
チューズデーさん。黒猫。そんなわけなので、意見を求めてみました。
「哀沢さんのこと、『甘えたがりは大変だね』だって。でもそう言いながら、大吾のことをちょっと怒ってるみたい――あ、『そこまでは言わなくていいがね』って、今度はボクが怒られちゃったよ」
「いや、どっちかと言うとその言わなくていい範囲を聞きたいんだけど……」
「そう? じゃあ言うよ、喧嘩は嫌だもんね」
いいんでしょうか、そんなにあっさり。聞きたいと言ったのはそりゃ僕だけど。
「――大吾、初めは知らなかったんだろうけど、猫じゃらしって猫にとっては本当に気になって仕方がないものなんだって。それを大吾が買ってきちゃったから、哀沢さんはきっと大吾がそれで遊んでくれるって期待したんだろうって」
その時点でもう、大吾にとってはダメージ大だったようです。顔を肩ごとがっくり落として、一番身長が高いのに誰よりも座高が低くなってしまいました。
しかしそれでもサンデーは続けます。
「だけど大吾は、猫じゃらしが猫にとってどういうものかを知っちゃったら遊んであげないって言いだしたから、哀沢さんはとってもがっかりしたんだろうなって。それを我慢して庄子さんに頼んでも、それも駄目って言われちゃったら、いくらなんでもおへそが曲がっちゃうよって。甘えたがりの哀沢さんじゃなかったとしてもそうなって仕方がないくらい、猫にとって猫じゃらしは大変なものなんだぞって」
「やっぱり兄ちゃんが悪い。初めから分かってたけど俄然悪い」
「やっぱオレだよな」
「だからチューズデーも良ければ遊んで欲しいって……あっ、ごめん、ごめんなさい」
ありがとうございましたサンデーくん。ご苦労様です。
「なんかもう、おもちゃとして売っちゃっていいようなものじゃないってレベルだね、猫じゃらし」
サンデーの話を受けて、栞さん。それも確かにその通りで、事実として猫であるチューズデーさんに「大変なもの」とまで言わしめたからには、対猫コミュニケーション用最終アプローチツール、とでも言うべき威力を備えているようですし。
今ここにあるものこそ人間が作ったおもちゃではありますが、その元になったものが自然界に生息している植物であることも、また驚きですけど。
「ぽいですねえ。まあそれでも、しっかり遊びさえすれば問題はなさそうな話でしたけど」
自分でそう言ってから、しかしちょっと気になることが。――そういえばチューズデーさん、「遊んで欲しい」って言ったんだよなあ。実際に言ったのはサンデーで、チューズデーさんは頭の中でそう思っただけなのかもしれないけど。
しかしともかく、「これでわたしと遊んでくれ」に類するような台詞、成美さんだと恥ずかしがって言い渋りそうな気もするけど……大吾と二人だけなら、そうでもないんだろうか?
「ねえ、大吾くん」
僕が割かしどうでも良さそうなことを考えていると、栞さんが大吾に直接話し掛けました。普段のそれとは違うけど、それでもしっかりと耳に残っている口調で。
「大吾くんが猫じゃらしを使わなかった理由は分かるよ。そういうふうに考えるのは、大吾くんが優しいからなんだと思う」
そこで栞さんは、ちらりとだけ、僕のほうを見ました。
「でもね、優しかったら何でもいいってわけでもないと思うな」
即座に思い出す記憶が一つ。それは、「孝一くんは優し過ぎる。何でもかんでも自分が悪いと思うのは良くない」と叱られたことです。
それはもちろん「優しかったら何でもいいというわけではない」という話に釣られただけであって、現在なされている話とはまた別の話題です。けれど、恐らくは栞さんも僕と同じことを思ったんでしょう。話題は違えど分類は同じ、と。
「個人個人の受け取り方ひとつなんだろうけど、少なくとも成美ちゃんに――優しくする相手に悲しい思いをさせちゃったらそれは、全部を否定まではしないけど、やっぱりどこかが間違ってるんだと思う」
「……そう、なるよな」
僕に対しての時もそうだったように、栞さんの語気は強い。そのことが話に説得力を感じさせる一因になっているんだろうけど、しかしもちろん、それだけじゃあないんでしょう。僕という前例があるからこそ――もしかしたら、栞さん自身だって前例のうちに入っているのかもしれないけど――自分でなく他人に対して、そこまで力強く言い放てるんだと思います。
筋違いにも程がありますが、ちょっと誇らしかったり。
しかしそんな筋違いはさておき、大吾が立ち上がります。
「謝ってくるわ」
「頑張ってよ、兄ちゃん」
当人である大吾はともかく、最もこの事態を心配しているであろう庄子ちゃんはその心配をしっかりと顔に出し、もう、いつもの憎まれ口を差し挟む様子すらなくしているようでした。これもまた栞さんの話がもたらした変化なのでしょう。もちろん、望まれた変化ではないのでしょうけど。
そんな庄子ちゃんの変化を見逃すような大吾でもなく、しかしこれまた大吾らしくただ「ああ」とだけ返して歩み出し、私室へのふすまに手を掛けました。
すると、
「…………」
開かれたふすまのすぐ向こうには、成美さんが立っていました。大吾が向かうまでもなく、成美さんの側からこちらへ来ようとしていたように。
「あ、あの、成美……」
謝ろうと意を決して立ちあがった大吾でしたが、このちょっとした不意打ちに動揺したようで、声が詰まり気味です。
とは言え、不意打ちとなったのはすぐ目の前に立っていたことだけでなく、その成美さんが随分と目線を下げた位置にいること――つまりは猫耳を引っ込めた小さい身体で立っていたことも、あったのでしょう。なんせ気分を害して私室へ入ってしまう前は大人の身体たしでした、そんな状態の中でわざわざ耳を引っ込めるだなんて、予想だにしていなかったわけで。
「まあ大吾、まずは座ろう。――お前達の話は、聞こえていたからな。引き籠ったまま謝られて解決というのも、締まりが悪いだろう?」
「……なんで、猫耳引っ込めたんだ? わざわざ」
成美さんに促されて座る前に、大吾は尋ねます。引き籠ったまま云々の部分にはそうさせた本人として肯定も否定もし辛いから、という面もあったのかもしれません。
「大人げなかったからだよ、玩具如きの話で臍を曲げたわたし自身が。大人げないことを恥ずかしく思っているなら大人の身体であり続ける必要もない、というわけだ。無論、こじ付けだがな」
こちらでしていた話が聞こえていたなら大吾が謝るという話になっていたことも知っているはずで、ならば機嫌は良くなっていたりするのかな、とも思ったのですが――この自嘲的な話を半笑いでしてくるあたり、成美さん、まだまだそうではない様子です。
「…………」
そんな話に対しても大吾は何も言わず、しかし辛そうな表情を浮かべだけはしつつ、成美さんの勧め通りその場に座り込みました。
それを見て、成美さんも床に腰を落ち着けます。ただし腰を落ち着けたのは、そのまま座れば大吾の隣になるのに、わざわざ大吾と向かい合うよう部屋の反対側まで移動してからのことでしたが。
「今も言ったが、わたしにはこちら側でされていた話が全部聞こえていた。大吾が謝ろうとしていたことは知っているし、どうしてそういう結論になったかも同様だ。わたしは、それに異を唱えたりはしない。謝ってくるというなら快くそれを受け入れるつもりだ」
大吾と距離を取りはしましたが、それでも成美さんの会話相手はあくまで大吾であるようで、周りの僕達には全く視線を逸らしてきません。もちろん、大吾が成美さんに一対一で謝るという流れだったことを考えれば、そのこと自体に何の問題があるわけでもないのですが。
「ただ、わたしの話も聞いて欲しい。皆の前で醜態を曝したからには皆に聞いてもらう必要があると思うし、特に大吾には、聞いたうえで理解して欲しい。……構わない、だろうか」
「ボクは構わないよ、哀沢さん」
「あ、わ、私もです」
誰もがそう思っただろうけど「口に出してそうは言い難い」と思ったであろう中、普通に会話をしているような呼吸でサンデーが返事をし、釣られるようにしてナタリーさんも。そうなってしまえばあとはみんなも釣られ続け、言葉にするにせよ首肯だけに止まったにせよ、全員が成美さんの提案を受け入れるのでした。
「話してくれ、成美」
強張った表情の大吾が最後にそう言い、するとそれだけで既に嬉しそうな表情を作った成美さんは、しかしすぐにそれを掻き消して話し始めます。
「殆どは、チューズデーが言っていた通りだ。猫にとって猫じゃらしはどうしようもないくらい誘われてしまうものだし、加えてわたしは甘えたがりだ。これまた大人げない話だが正直、猫じゃらしの玩具を見た時は『大吾がこれで遊んでくれるのか』と胸を躍らせたよ」
猫にとっての猫じゃらしのことはともかく、自分が甘えたがりであるということまでさらりと認めてしまった成美さん。しかし普段の言動から考えれば、やっぱりそれは易々と言ってしまえるようなことではないのでしょう。
「結局大吾は遊んではくれなかったが、それについては大吾なりの理由もあるようだったし、残念だったがわたしは了解した。だが――大吾だけでなく他の誰であっても駄目となると、それはもう別の話だろう?」
その言葉が向けられているのはあくまで大吾なのであって、僕達はそれを横から聞いているだけ。しかしそうは言ってもやっぱり考える部分は考えるわけで、「別の話」というのがどういうことなのか、それなりに思考を巡らせたりもしてみます。
とは言え当然、成美さんが言葉を繋げるより早く答えに辿り着けたりはせず、
「それは、『猫じゃらしに誘われること』を丸々否定されたも同然だ。となるとそれはもう、猫の性質の一つを認めてもらえなかった、ということになるだろう」
言われて初めて浮かんだその答えに、背筋を引き締められる思いでした。横で聞いているだけの僕でこうなら大吾は、と思わずにはいられません。
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