「で、どこから起きてたんだ?」
「うう……し、静音に名前呼ばれた辺り……」
制裁を受け終えた異原さん、髪ばっさばさです。なるほど、今のは恥ずかし責め以外にそういう要素もあったんですね。
…………。
前髪下ろしてるほうが好みかなあ、とか、そういうのを抜きにしても髪が乱れてるのってどことなく色気があるなあ、とか。
「孝さん」
「すいません」
さすが奥さん、即座にかつにこやかに釘を指されてしまいました。
一つ弁解をさせていただくならば、僕は普段栞の髪をそんなに乱暴に扱わないのです。なので女性のそういう様というものはあまり見慣れていないのです。本当です信じてください。
などとぼやいている間にも異原さんについての話は続くわけで、
「ってことは俺が寝てるって気付いてからすぐだな、お前が起きたの」
「あ、そうなの?」
「ごめんなさい由依さん……せっかく気持ち良さそうだったのに、起こしちゃったみたいで……」
「あ、いや、うん、だとしたらあのまま寝顔晒してるよりはマシだったっていうか――ええ? あたし、そんな顔しちゃってた?」
「はい……それはもう……」
異原さん、髪型を整え直しながらも表情のほうはむしろどんどん崩れていくのでした。
「うう、罰ゲームなのにダメージ受けてるのがあたしだけのような……あ、そうだ。そうよ、あたしが寝てる間の罰ゲームはどうなったわけ?」
それは異原さんからすればなんでもない、気になって当然の質問ではあったのでしょう。けれど周囲の全員が大なり小なり、びくりと背筋を震わせるなり苦笑いを浮かべるなりし始めてしまえば、ああこれは何かあったなと、当たり前ですがそりゃあそう思うわけです。
「ふふーん、なんか面白そうなことがあった感じじゃないの。優治、説明してよ」
「俺かよ」
なんせダメージを受けているのが自分だけだと嘆いていた異原さんですから、殊更に興味津々、意気揚々でいらっしゃるわけです。口宮さんを説明役に任命したというのもその辺のことが絡んでいるのでしょうが、でもこれはさすがに女性陣に任せた方がいいのでは。
「どうするよこれ」
「あ……ええと、私はまあ、大丈夫ですけど……もう全員に知られてるわけですし……」
そりゃまあそうなんですが音無さん、それを説明するくらいだったらもういっそ自分の口から――なんて思わずにはいられなかったところ、しかし許しを得た口宮さんはさらりとそれを口にしてしまうのでした。
「音無がポロリった」
「…………!?」
「誰にも見えてねえけどな。ゴツいチビの背中で全部隠れてたし」
追加でそう説明する頃には、異原さんの右手がビンタの形で振り上げられる寸前のところまで。同森さんが抱き付いたり何だりのところから説明すればいいのに口宮さんったらもう、というところではあるのですが、自分がビンタされる寸前の状況に全く動じていない辺り、狙ってそうしたんでしょうね。
それはそうと、あからさまに悪口然とした呼ばれ方をした同森さんが眉をひそめてみせました。
「ふん、悪かったのゴツいチビで」
「いやいや、おかげで張り倒されずに済んだみてえだしそんな謙遜しなくても」
口宮さんのそんな言い草は冗談だとしても、真面目な話、この場にいる全員――というか男性陣――が、同森さんに救われたということにはなると思うのです。何にとは言いませんが、もし見えちゃってたりしたらそりゃまあやっぱり罪悪感のほうが勝っちゃいますもの。どうせ後で混浴入るんだし、なんて開き直りが通用しない程度には。
「あ、危なかった……そうよね、罰ゲームの内容考えたら犯人は哲郎くんってことよね」
「自分から俺に言わせといて俺が言ったから俺が犯人って、なかなか酷い思考だよな」
「犯人って言っちゃうと……哲くん、わざとそうしたみたいに聞こえちゃいますけど……」
「ああ、うう、いろいろごめんなさい」
寝ていたこと自体が一大事なのにそのお目覚め直後にこんな話を聞かされてしまえば、動転なりなんなりで不手際があっても仕方がなくはあるのでしょう。
というわけで、過程の是非はともかく異原さんが落ち着きを取り戻したところでトランプ再開――と思ったその時、部屋のドアがこんこんとノックされたのでした。
その音を聞いて僕が目を向けたのは、ノック音がしたドアのほうではなく、部屋の窓。
空は暗くなりつつありました。ということで、ああ、晩ご飯ってことなんだろうなあ、と。
…………。
晩ご飯ってことなんだろうなあ! と!
というわけで。
「広っ」
夕食の場として通された部屋は、そんな大吾の言葉通り、これから宴会でも始まるのかというような大広間なのでした。それにしたってスペースが余りまくる気がするというか、これまで誰ともすれ違いさえしていない辺りどう考えたって確実に余るのですが、どうやら他のお客さん達と相部屋なんだそうです。
個室も用意できるとのことではあったのですが、まあでもどっちかって言ったらこっちだろう、と何の根拠も理由もないままこちらになったのでした。
前回来た時は義春くん、どころかこの家の当主である彼の父親とその奥さん、定平さんと文恵さんとご一緒に食事をさせて頂いたわけですが、今回は飽くまでも「旅館の客扱い」ということなのでしょう。いやはやしかし、これはこれでいいもんです。
「どうぞお好きな席へお掛け下さいませ」
その広さに呆けて部屋に踏み入ったその場で突っ立っていたところ――と言っても先頭の大吾以外は彼に釣られただけなのでしょうが――どうしていいか分からず立ち往生していると思われたのでしょう、僕達をここまで案内してくれた仲居さんがそう言ってにっこりと。別にそういうことではないにしても、そう言われてしまえばそりゃまあ動かざるを得ないわけです。
お好きな席へ、ということで、席は向かい合う二列が三組、広い部屋の端から端まで。どう考えたって物凄い数の席が余るわけですが、どうやら料理は後から出てくるようなので、そりゃまあ物凄い量の料理が余るということはないのでしょう。なんて、ついついそっちの心配をしてしまったりも。
「ご機嫌そうだねえ、孝さん。この後出てくる料理のこと考えてるのかな? それとも、今の仲居さんかな?」
「確信してることを敢えて疑問形で尋ねられるって、怖いもんなんだね」
料理のことを考えてはいたのですが、ご機嫌ということであればその原因はやはり別の所にあるのでしょう。料理についてはご機嫌どころか心配していたわけですしね。
というわけで、別に鼻の下を伸ばしたとかそういう意味ではないのですが、花があるというか何と言うか、やっぱりいい気分にはなるわけです。だからこそ仲居という職業には女性が据えられがちであるというのも、そりゃあ間違いなくあるわけですしね。
「否定はしないけどね。今更それで気を悪くする栞でもないだろうし」
「まあね。なんたって……」
言い掛けて、ちらりと視線を流した先には音無さん。
「ね」
「いいお嫁さんを貰ったもんだよ、本当に」
急かしているつもりではないのでしょう。そんな素振りはありませんし、そんな人でもありません。――がしかし、僕は急くことにしました。だからといってもちろん今すぐここでというわけではありませんが、悠長にしていたこれまでよりは、ちょっとだけ。
音無さんへのかつての想いに決着を付ける。
自分のためにも、この人のためにも。
「おやー? 唐突にラブラブし始めましたねー」
なんだかんだ言ってる間に仲居さんに勧められた通り適当な場所に腰を下ろしていた僕達なのですが、すると僕の隣の栞のそのまた隣に座っていた異原さんが、にやにやしながらそんなふうに。
すると栞もにやにやしながらこんなふうに。
「前置きアリでラブラブし始めちゃったらえらいことになっちゃいますからねー」
「えっ、あっ、それってつまり」
「そんな簡単にやり込められるんだったら絡みに行くなよお前」
あたふたし始めた異原さんがしなくてもいいというかしてはいけない解説をしそうになったところで、その向かい側に座っていた口宮さんがナイスセーブ。
「いやだって、栞さんからそういう感じの反撃が来るとは思ってもみなかったし」
「ふっふっふ、実は私の大好きな人がそういう話を得意としてるんですよ。ちょっと見習ってみました」
「あら、日向くんって意外とそういう」
「僕じゃないです!」
でもそうですよね、今の言い方じゃあ僕にしか聞こえませんよね。
「え、じゃあ栞さん、まさか他にも好きな人が?」
と思った途端にまたとんでもない勘違いをされている予感!
しかしそれについてはさすがに、栞のほうから訂正を加えてくれたのでした。
「いやいや、うちの管理人さんです。家守楓さん」
「あ、ああ……」
なんでちょっとがっかりした感じなんですか異原さん。どうなってて欲しかったというんですか一体。
と思ったら、再度口宮さんがにやにやと。
「あの人出されたらもう下手なこと言えねえよな。メチャクチャお世話になったんだし」
「わ、分かってるわよ」
ああ、そういう。
……お恥ずかしい。
しかしこちらのそんなお恥ずかしい内情を誰かに察せられたというようなことはないようで――栞なんか特に目ざといですしね、最近――ならばと取り敢えず程度の安堵をしていたところ、すると僕の向かい側に座っている成美さんとその隣の大吾がこんなふうに。
「恩義を重んじるというのは素晴らしいことだが、はは、しかしまあ家守はなあ」
「やらしい話で逃げに入ってくるよな、あんまペコペコし過ぎたら」
実際にそうされた時の印象は「逃げられた」というより「攻められている」なのでしょうが、こうして外側から思い返してみる限りでは、確かにその通りなのでした。と言って別に今初めてそのことに気付いたというわけではもちろんなく、むしろあまくに荘に済んでいれば嫌でもすぐに気付かされることだったりするんですけどね。
気付いた結果どうなるかというのは、今更言うまでもありますまい。というか、栞がさっき言っちゃいましたけど。
「最近はそのやらしい話にも普通に反撃し始めたりしてるんだけどね、栞なんかは」
「そりゃまあ、実体験を通していろいろと余裕も出来たし」
ですよね。
と、それは疑いを差し挟む余地もなくちょっぴりやらしい話ではあるのですが、ならばやはりこうなるわけです。
「興奮すんなよ由依」
「えぁはいっ!?……つ、突っ込むにしてもせめて何か言った時だけにしてよ! あたし身動きとれないじゃないの!」
「いやそもそもお前がやらしい話の発端だし」
「ぐぬう!」
興奮のせいかぐうの音すら大きな声で発せられる中、すると栞は僕越しに音無さんへこんな質問を。
「音無さんはどうですか? こういう話って」
「あー、どうでしょうねえ……うーん、抵抗はそんなでもないですけど……そもそも自分から話せるようなことがないっていうか……」
胸の話は充分に話のタネになってますよとは、しかし言いますまい。
ここで自分の胸を意識すらしない。つまりは、それに纏わる話をやらしい話だと認識していない。どうやら音無さんにとって自分の胸の話というのは、完膚なきまでに「苦労話」であるらしいのでした。
というのは割と重大な話だったりするのかもしれませんが、けれど実は、この場ではかつ僕にとっては、「それはともかく」で済まされてしまう話だったりもするのでした。
栞は今、僕越しに音無さんに話し掛けました。つまり、音無さんは僕の隣に座っているわけです。そしてもちろん、その反対側には栞。となれば、妻帯者という身ではありますが、しかしこう言わざるを得ないのではないのでしょうか。
両手に花、と。
「まあどのみち、ワシら以外のお客さんが来出したら終いですがの」
「あはは、それはさすがにそうなんですけどね」
いかにもアホくさい発想の僕は捨て置くとして、同森さんの指摘にはさしもの栞も頷かざるを得ないのでした。いや、いつの間に「さしもの」なんて大層な扱いをするようになったんだって話ではあるんですけど。
ともあれしかし、その遣り取りからも分かるように、この大広間にはまだ僕達しか客らしき人物は立ち入っていないのでした。席が余るとかそれ以前に、本当に僕達以外の客なんているんでしょうか……?
なんて心配が影をちらつかせ始めたその時、
「お飲み物はいかが致しましょうか?」
仲居さんがそう尋ねてくるのでした。
他の客が来たら終い、なんて話になっていましたが、なんでこの仲居さんは初めから問題視してなかったんでしょうね?
とまあそれは与太話としておきまして、
「何があるんですか?」
尋ね返したのは栞でした。その時点で何かもう狙うところがありそうな感じだったのですが、まあ皆までは言いますまい。
「お水、麦茶、緑茶――ジュースでしたらコーラとオレンジジュースがございます。それと」
それと?
「お酒のほうも、ビールと焼酎が」
栞の目が輝いたのは言うまでもないでしょう。
「ああ、どっちにしようかなあ」
コーラとオレンジジュースで悩んでいるわけでないというのも言うまでもないでしょう。
ちなみに僕はお水にしておきました。別にお嫁さんがタダで値を張るものを頼もうとしていることに後ろめたさを覚えたとかそういうことではなく、なんせ、これから出てくるのは、その全てをとは言わずとも大門さんが手掛けた料理なのです。ジュースを飲むにしてもそれは食後に回すこともできるわけで、ならば今は、舌に余計な味を染み込ませないほうが得策ではあるのでしょう。
というのはもちろん僕個人の話であって、他の人もそうすべきとか、そんなことを言いたいわけではないんですけどね。だから栞も好きなだけじゃんじゃん飲んでしまえばいいのです。どうせちょっとだけでも真っ赤になっちゃうんですから。
……食べる前に酔い潰れたりとかは、さすがにちょっと勘弁ですけど。
なんてことを考えている間に全員が飲み物の注文を終え――栞は焼酎だそうでした――その注文を聞き届けて引き上げる仲居の背中を見送ったところで、
「どうした日向君、なんか引きつった顔しとるが」
と同森さん。
「あ、いえ」
こんなこと考えてたらそりゃあ栞が酔っ払ったところを想像することにもなるわけですが、今回そうした想像の結果行き着いたのは、今のこの位置関係もあってのことなのでしょう、僕の膝枕ですやすやと寝息を立てている赤い顔の栞なのでした。
さっきまで罰ゲームとして行っていたことをナチュラルに。勝手な想像ではあるにしたって、そりゃあ顔も引きつるってもんでしょう。
「嫌だったらそう言ってくれたら、私だって無理を通してまで飲んだりなんかしないのに」
ここまで考えたことは一切口に出してはいない筈なのですが、けれど栞は全てを察しているようでした。察したうえで、笑顔だったりも。
「そんなこと言わないし、思ってもないからね」
返事はありませんでしたが、いい笑顔を返してくる栞なのでした。全てを察していたというのなら、僕がこういう返事をすることも初めから分かっていたのでしょう。
そりゃそうですとも。食べ物と一緒に出てくる飲み物だって食事の一部ではあるわけで、ならばこの僕が、それを否定などしよう筈がありません。美味しく楽しく気持ちのいい飲食があるからこそ団欒が弾むわけで、まさかそれを阻害するようなことなんかとてもとても。
「飲んだりなんかっていうのは……じゃあ栞さん、お酒頼むんですか……?」
お茶やジュースだって同じ飲み物ではあるのに、ただ「飲む」とだけ言った場合は間違いなく酒の話ということになるのはどうしてなんでしょうね? とまあ理屈はともかくそういうわけで、音無さんがそのことに気付いたわけですが。
「飲むんですよー。すぐ酔っちゃうんですけど、それでもやっぱり好きですから」
僕に対しては遠慮なしの笑顔を浮かべていたというのに、相手が変わるや否やその笑顔がどこか照れ臭そうなものになる栞なのでした。ううむ、こうした特別扱いは喜ぶべきなのかそうでないのか。
と、それはともかく。
「そういうことじゃないと思うよ、栞」
「え? って、じゃあどういうことだったの?」
「年」
「ああ」
酒が好きか否か、ということを尋ねるのに驚いた顔はしないでしょう。いや音無さんなので顔は見えなかったんですけど、そこらへんは言葉のあやということで。
「そういうやそうなんだっけ? ってそりゃそうか、ギリギリの俺らより年上なんだし」
それを考えれば初めから自明なことではあったのですが、しかしまあ席を同じくして酒を飲むなんて機会はこれまでなかった以上、そういう反応も仕方なくはあるのでしょう。身体の年齢についてはまだ未成年、なんてこともあったりしますしね。
とここで、そんな口宮さんに異原さんが笑い掛けながらこう言います。
「ギリギリだから飲んでもギリギリセーフだよな、なんて言わないでよ?」
「…………」
「図星かい!」
せっかくの笑顔は即座に怒った顔へ。見慣れているせいか、むしろ安心感すら湧いてきたりもするんですけどね。
とまあそれはともかく。
最近飲んでもいい年齢になった、もしくはあと数カ月で飲んでもいい年齢になる。留年や浪人を経験しない限り二回生というのはそういう時期になるわけですが、どうやら先輩方は皆後者であるようでした。
「二十歳になった途端に体質が変わるってわけでもなし、十八ぐらいからでもいいんじゃねえかなあ。結婚できる年だったりもするんだし」
「そうしたら十七の時に同じこと言っとっただけじゃろう、お前の場合」
「まあな」
えー、それというのはもしかして、僕がそうだからということで出てきた話だったりするのでしょうか。そうだとしてもその、戸籍がどうのといったような法律上の手続きは一切踏んでいないというか踏みようがないので、実のところ僕の年齢はあんまり関係なかったりするんですけど……。
「結婚できる年齢とか言ってたら女なんか十六から飲めることになっちゃうわよ? それはさすがにねえ」
「酔っ払いながら高校行けちゃいますもんね……」
飲みながら登校するってことはさすがにないでしょうけど――なんてこともなかったりするんでしょうね、実際にそうなったとしたら。
「な、なんか私だけお酒飲むのが申し訳なくなってきたような」
「いえいえ、お気になさらずどうぞどうぞ」
「うう、優しく突き放してくる……」
それでも既に仲居さんが注文を聞き届けてこの場を立っている以上は手遅れ感がありますし、それにどうせ、そうでなかったとしても栞は注文を取り消したりはしなかったのでしょう。
好きな割には普段から酒を買い求めたりはしていない栞ですが、しかし果たしてあと一年と少々先の未来、僕も飲める年齢になった時はどうなってしまうんでしょうね。どうもその日を相当楽しみにして頂いているようでもありますし。
これで僕が酒好きだったりするなら単純に楽しみにしてもいられるのでしょうが、嫌いとは言わずとも別に好きというほどでもないわけで――と、そんな複雑な胸中でいたところ、成美さんがううむと唸るのでした。
「一人だけ酒を飲むのが後ろめたいというのであれば、わたしも飲めないことはないのだが……ここにいる皆はともかく他の客も来るわけだし、そうするとなると耳を出してきた方がよさそうだな。大人用の浴衣もまだ置いてあった筈だし」
「い、いいよいいよそこまでしてくれなくても」
猫にとっての十歳という年齢は飲酒に関してどう扱うべきなのか、というのは実に難しい話なのですが、しかしそれはともかくとしておいて。そういえば成美さん、以前栞と一緒に飲んでいた経験はありましたっけね。
経験があったうえでそう仰るということは、酒を割と気に入ったということなんでしょうか?
「ははは、別に嫌々飲むというわけではないさ。なんというか……優しくしてくれるからな、大吾が」
「それが目的って言っちまうのかよ」
「黙ったままでいるよりは潔いだろう?」
そりゃそうかもしれませんが、しかしこっちとしては動機が不純なものであると知らされていても突っ撥ねたりは出来ないわけで、潔いも何も初めから対等な勝負ではないわけで――と、大吾と成美さんの話に勝手に首を突っ込んだうえ、何故かそれを勝負扱いしてしまう僕なのですが、どうなんでしょうね。そう大して間違った解釈でもないと思うんですけども。
「というわけで一度部屋に戻ってくるぞ。飲み物が運ばれてきたら酒を追加で注文していてくれ。ビールと焼酎……というのは、よく分からんから日向と同じものでいい」
恐縮しきりの栞は意に介さず、そう言い残して大広間を出ていく成美さんなのでした。
で。
「なにい……!?」
暫くののち大人の身体になって戻ってきた成美さんは、大広間へ踏み込んだその場で驚きの声を上げていました。僕達はそれで成美さんの帰還に気付くことになったわけですが、しかしそれも、下手をすれば聞き逃してしまっていたのかもしれません。
成美さんがここを出ていった直後、入れ換わりのようにして飲み物が運ばれて来、言われた通りに酒の追加注文をしました。そしてその追加の酒についても、既にここへ届けられています。
ということに驚いてみせたわけではもちろんなく、
五、六割ほどになるでしょうか。それまで僕達しかいなかったこの大広間の席は、成美さんが出ていっている間にそれだけ埋まっていたのです。割合で言えば半分ちょっとでしかないにせよ、それでもやはり驚くべき光景ではあったのでしょう。
「わたしがいない間に何があったんだ? 外の履物の数も凄いことになっているぞ」
自分の席に戻ってきた後も、そう言いつつ周囲をちらちらと窺ってみせる成美さん。驚き冷めやらぬ、といったところなのでしょう。
「オレらも驚いたんだけどな。やっと他の客が来たと思ったらその入ってくる列が全然途切れなくて」
「お酒持ってきてくれた人に訊いたんだけどぉ」
大吾の説明に引き続いた――というより、タイミング的に考えてその説明に割り込んだということになるのでしょう。語尾をだらしなくしながらそんなことをし始めたのは、既に酒に口を付けた後である栞なのでした。
「お泊まりせずにご飯だけ食べに来るってお客さんもいるみたいだよぉ? で、今日はそういう人が多かったんだってぇ。んふふー」
別に笑うところではないのですが、なんて言っていたらキリがないのは間違いないので、スルーということにしておきましょう。
「なるほど、初めからタダだから面倒な金勘定もないわけだしな」
スルーで済まされてしまう栞に対して、非常に冷静な分析をしてみせる成美さん。これが人間として生活し始めて一年ちょっと、つまり金勘定というものを覚えて一年ちょっとという人(この場合はそれこそ猫とすべきでしょうか)だということもあって、うちのお嫁さんとは大違いだなあ、なんて。
まあでも可愛いんですけどね、ほろ酔い気分の栞っていうのも。
「しかし前回ここに来た時は……ああそうか、あの時は旅館ではなく四方院の家のほうで食事をさせてもらったんだったな」
「そうそう。今考えたらすげえことだけど」
同じ敷地内の別の建物ならともかく、なまじその「家」と「旅館」が建物として繋がっているせいで意識し辛くはあるのですが、そうなのです。あの時の僕達は旅館でなく四方院家の客扱いだったわけで。
「うう……し、静音に名前呼ばれた辺り……」
制裁を受け終えた異原さん、髪ばっさばさです。なるほど、今のは恥ずかし責め以外にそういう要素もあったんですね。
…………。
前髪下ろしてるほうが好みかなあ、とか、そういうのを抜きにしても髪が乱れてるのってどことなく色気があるなあ、とか。
「孝さん」
「すいません」
さすが奥さん、即座にかつにこやかに釘を指されてしまいました。
一つ弁解をさせていただくならば、僕は普段栞の髪をそんなに乱暴に扱わないのです。なので女性のそういう様というものはあまり見慣れていないのです。本当です信じてください。
などとぼやいている間にも異原さんについての話は続くわけで、
「ってことは俺が寝てるって気付いてからすぐだな、お前が起きたの」
「あ、そうなの?」
「ごめんなさい由依さん……せっかく気持ち良さそうだったのに、起こしちゃったみたいで……」
「あ、いや、うん、だとしたらあのまま寝顔晒してるよりはマシだったっていうか――ええ? あたし、そんな顔しちゃってた?」
「はい……それはもう……」
異原さん、髪型を整え直しながらも表情のほうはむしろどんどん崩れていくのでした。
「うう、罰ゲームなのにダメージ受けてるのがあたしだけのような……あ、そうだ。そうよ、あたしが寝てる間の罰ゲームはどうなったわけ?」
それは異原さんからすればなんでもない、気になって当然の質問ではあったのでしょう。けれど周囲の全員が大なり小なり、びくりと背筋を震わせるなり苦笑いを浮かべるなりし始めてしまえば、ああこれは何かあったなと、当たり前ですがそりゃあそう思うわけです。
「ふふーん、なんか面白そうなことがあった感じじゃないの。優治、説明してよ」
「俺かよ」
なんせダメージを受けているのが自分だけだと嘆いていた異原さんですから、殊更に興味津々、意気揚々でいらっしゃるわけです。口宮さんを説明役に任命したというのもその辺のことが絡んでいるのでしょうが、でもこれはさすがに女性陣に任せた方がいいのでは。
「どうするよこれ」
「あ……ええと、私はまあ、大丈夫ですけど……もう全員に知られてるわけですし……」
そりゃまあそうなんですが音無さん、それを説明するくらいだったらもういっそ自分の口から――なんて思わずにはいられなかったところ、しかし許しを得た口宮さんはさらりとそれを口にしてしまうのでした。
「音無がポロリった」
「…………!?」
「誰にも見えてねえけどな。ゴツいチビの背中で全部隠れてたし」
追加でそう説明する頃には、異原さんの右手がビンタの形で振り上げられる寸前のところまで。同森さんが抱き付いたり何だりのところから説明すればいいのに口宮さんったらもう、というところではあるのですが、自分がビンタされる寸前の状況に全く動じていない辺り、狙ってそうしたんでしょうね。
それはそうと、あからさまに悪口然とした呼ばれ方をした同森さんが眉をひそめてみせました。
「ふん、悪かったのゴツいチビで」
「いやいや、おかげで張り倒されずに済んだみてえだしそんな謙遜しなくても」
口宮さんのそんな言い草は冗談だとしても、真面目な話、この場にいる全員――というか男性陣――が、同森さんに救われたということにはなると思うのです。何にとは言いませんが、もし見えちゃってたりしたらそりゃまあやっぱり罪悪感のほうが勝っちゃいますもの。どうせ後で混浴入るんだし、なんて開き直りが通用しない程度には。
「あ、危なかった……そうよね、罰ゲームの内容考えたら犯人は哲郎くんってことよね」
「自分から俺に言わせといて俺が言ったから俺が犯人って、なかなか酷い思考だよな」
「犯人って言っちゃうと……哲くん、わざとそうしたみたいに聞こえちゃいますけど……」
「ああ、うう、いろいろごめんなさい」
寝ていたこと自体が一大事なのにそのお目覚め直後にこんな話を聞かされてしまえば、動転なりなんなりで不手際があっても仕方がなくはあるのでしょう。
というわけで、過程の是非はともかく異原さんが落ち着きを取り戻したところでトランプ再開――と思ったその時、部屋のドアがこんこんとノックされたのでした。
その音を聞いて僕が目を向けたのは、ノック音がしたドアのほうではなく、部屋の窓。
空は暗くなりつつありました。ということで、ああ、晩ご飯ってことなんだろうなあ、と。
…………。
晩ご飯ってことなんだろうなあ! と!
というわけで。
「広っ」
夕食の場として通された部屋は、そんな大吾の言葉通り、これから宴会でも始まるのかというような大広間なのでした。それにしたってスペースが余りまくる気がするというか、これまで誰ともすれ違いさえしていない辺りどう考えたって確実に余るのですが、どうやら他のお客さん達と相部屋なんだそうです。
個室も用意できるとのことではあったのですが、まあでもどっちかって言ったらこっちだろう、と何の根拠も理由もないままこちらになったのでした。
前回来た時は義春くん、どころかこの家の当主である彼の父親とその奥さん、定平さんと文恵さんとご一緒に食事をさせて頂いたわけですが、今回は飽くまでも「旅館の客扱い」ということなのでしょう。いやはやしかし、これはこれでいいもんです。
「どうぞお好きな席へお掛け下さいませ」
その広さに呆けて部屋に踏み入ったその場で突っ立っていたところ――と言っても先頭の大吾以外は彼に釣られただけなのでしょうが――どうしていいか分からず立ち往生していると思われたのでしょう、僕達をここまで案内してくれた仲居さんがそう言ってにっこりと。別にそういうことではないにしても、そう言われてしまえばそりゃまあ動かざるを得ないわけです。
お好きな席へ、ということで、席は向かい合う二列が三組、広い部屋の端から端まで。どう考えたって物凄い数の席が余るわけですが、どうやら料理は後から出てくるようなので、そりゃまあ物凄い量の料理が余るということはないのでしょう。なんて、ついついそっちの心配をしてしまったりも。
「ご機嫌そうだねえ、孝さん。この後出てくる料理のこと考えてるのかな? それとも、今の仲居さんかな?」
「確信してることを敢えて疑問形で尋ねられるって、怖いもんなんだね」
料理のことを考えてはいたのですが、ご機嫌ということであればその原因はやはり別の所にあるのでしょう。料理についてはご機嫌どころか心配していたわけですしね。
というわけで、別に鼻の下を伸ばしたとかそういう意味ではないのですが、花があるというか何と言うか、やっぱりいい気分にはなるわけです。だからこそ仲居という職業には女性が据えられがちであるというのも、そりゃあ間違いなくあるわけですしね。
「否定はしないけどね。今更それで気を悪くする栞でもないだろうし」
「まあね。なんたって……」
言い掛けて、ちらりと視線を流した先には音無さん。
「ね」
「いいお嫁さんを貰ったもんだよ、本当に」
急かしているつもりではないのでしょう。そんな素振りはありませんし、そんな人でもありません。――がしかし、僕は急くことにしました。だからといってもちろん今すぐここでというわけではありませんが、悠長にしていたこれまでよりは、ちょっとだけ。
音無さんへのかつての想いに決着を付ける。
自分のためにも、この人のためにも。
「おやー? 唐突にラブラブし始めましたねー」
なんだかんだ言ってる間に仲居さんに勧められた通り適当な場所に腰を下ろしていた僕達なのですが、すると僕の隣の栞のそのまた隣に座っていた異原さんが、にやにやしながらそんなふうに。
すると栞もにやにやしながらこんなふうに。
「前置きアリでラブラブし始めちゃったらえらいことになっちゃいますからねー」
「えっ、あっ、それってつまり」
「そんな簡単にやり込められるんだったら絡みに行くなよお前」
あたふたし始めた異原さんがしなくてもいいというかしてはいけない解説をしそうになったところで、その向かい側に座っていた口宮さんがナイスセーブ。
「いやだって、栞さんからそういう感じの反撃が来るとは思ってもみなかったし」
「ふっふっふ、実は私の大好きな人がそういう話を得意としてるんですよ。ちょっと見習ってみました」
「あら、日向くんって意外とそういう」
「僕じゃないです!」
でもそうですよね、今の言い方じゃあ僕にしか聞こえませんよね。
「え、じゃあ栞さん、まさか他にも好きな人が?」
と思った途端にまたとんでもない勘違いをされている予感!
しかしそれについてはさすがに、栞のほうから訂正を加えてくれたのでした。
「いやいや、うちの管理人さんです。家守楓さん」
「あ、ああ……」
なんでちょっとがっかりした感じなんですか異原さん。どうなってて欲しかったというんですか一体。
と思ったら、再度口宮さんがにやにやと。
「あの人出されたらもう下手なこと言えねえよな。メチャクチャお世話になったんだし」
「わ、分かってるわよ」
ああ、そういう。
……お恥ずかしい。
しかしこちらのそんなお恥ずかしい内情を誰かに察せられたというようなことはないようで――栞なんか特に目ざといですしね、最近――ならばと取り敢えず程度の安堵をしていたところ、すると僕の向かい側に座っている成美さんとその隣の大吾がこんなふうに。
「恩義を重んじるというのは素晴らしいことだが、はは、しかしまあ家守はなあ」
「やらしい話で逃げに入ってくるよな、あんまペコペコし過ぎたら」
実際にそうされた時の印象は「逃げられた」というより「攻められている」なのでしょうが、こうして外側から思い返してみる限りでは、確かにその通りなのでした。と言って別に今初めてそのことに気付いたというわけではもちろんなく、むしろあまくに荘に済んでいれば嫌でもすぐに気付かされることだったりするんですけどね。
気付いた結果どうなるかというのは、今更言うまでもありますまい。というか、栞がさっき言っちゃいましたけど。
「最近はそのやらしい話にも普通に反撃し始めたりしてるんだけどね、栞なんかは」
「そりゃまあ、実体験を通していろいろと余裕も出来たし」
ですよね。
と、それは疑いを差し挟む余地もなくちょっぴりやらしい話ではあるのですが、ならばやはりこうなるわけです。
「興奮すんなよ由依」
「えぁはいっ!?……つ、突っ込むにしてもせめて何か言った時だけにしてよ! あたし身動きとれないじゃないの!」
「いやそもそもお前がやらしい話の発端だし」
「ぐぬう!」
興奮のせいかぐうの音すら大きな声で発せられる中、すると栞は僕越しに音無さんへこんな質問を。
「音無さんはどうですか? こういう話って」
「あー、どうでしょうねえ……うーん、抵抗はそんなでもないですけど……そもそも自分から話せるようなことがないっていうか……」
胸の話は充分に話のタネになってますよとは、しかし言いますまい。
ここで自分の胸を意識すらしない。つまりは、それに纏わる話をやらしい話だと認識していない。どうやら音無さんにとって自分の胸の話というのは、完膚なきまでに「苦労話」であるらしいのでした。
というのは割と重大な話だったりするのかもしれませんが、けれど実は、この場ではかつ僕にとっては、「それはともかく」で済まされてしまう話だったりもするのでした。
栞は今、僕越しに音無さんに話し掛けました。つまり、音無さんは僕の隣に座っているわけです。そしてもちろん、その反対側には栞。となれば、妻帯者という身ではありますが、しかしこう言わざるを得ないのではないのでしょうか。
両手に花、と。
「まあどのみち、ワシら以外のお客さんが来出したら終いですがの」
「あはは、それはさすがにそうなんですけどね」
いかにもアホくさい発想の僕は捨て置くとして、同森さんの指摘にはさしもの栞も頷かざるを得ないのでした。いや、いつの間に「さしもの」なんて大層な扱いをするようになったんだって話ではあるんですけど。
ともあれしかし、その遣り取りからも分かるように、この大広間にはまだ僕達しか客らしき人物は立ち入っていないのでした。席が余るとかそれ以前に、本当に僕達以外の客なんているんでしょうか……?
なんて心配が影をちらつかせ始めたその時、
「お飲み物はいかが致しましょうか?」
仲居さんがそう尋ねてくるのでした。
他の客が来たら終い、なんて話になっていましたが、なんでこの仲居さんは初めから問題視してなかったんでしょうね?
とまあそれは与太話としておきまして、
「何があるんですか?」
尋ね返したのは栞でした。その時点で何かもう狙うところがありそうな感じだったのですが、まあ皆までは言いますまい。
「お水、麦茶、緑茶――ジュースでしたらコーラとオレンジジュースがございます。それと」
それと?
「お酒のほうも、ビールと焼酎が」
栞の目が輝いたのは言うまでもないでしょう。
「ああ、どっちにしようかなあ」
コーラとオレンジジュースで悩んでいるわけでないというのも言うまでもないでしょう。
ちなみに僕はお水にしておきました。別にお嫁さんがタダで値を張るものを頼もうとしていることに後ろめたさを覚えたとかそういうことではなく、なんせ、これから出てくるのは、その全てをとは言わずとも大門さんが手掛けた料理なのです。ジュースを飲むにしてもそれは食後に回すこともできるわけで、ならば今は、舌に余計な味を染み込ませないほうが得策ではあるのでしょう。
というのはもちろん僕個人の話であって、他の人もそうすべきとか、そんなことを言いたいわけではないんですけどね。だから栞も好きなだけじゃんじゃん飲んでしまえばいいのです。どうせちょっとだけでも真っ赤になっちゃうんですから。
……食べる前に酔い潰れたりとかは、さすがにちょっと勘弁ですけど。
なんてことを考えている間に全員が飲み物の注文を終え――栞は焼酎だそうでした――その注文を聞き届けて引き上げる仲居の背中を見送ったところで、
「どうした日向君、なんか引きつった顔しとるが」
と同森さん。
「あ、いえ」
こんなこと考えてたらそりゃあ栞が酔っ払ったところを想像することにもなるわけですが、今回そうした想像の結果行き着いたのは、今のこの位置関係もあってのことなのでしょう、僕の膝枕ですやすやと寝息を立てている赤い顔の栞なのでした。
さっきまで罰ゲームとして行っていたことをナチュラルに。勝手な想像ではあるにしたって、そりゃあ顔も引きつるってもんでしょう。
「嫌だったらそう言ってくれたら、私だって無理を通してまで飲んだりなんかしないのに」
ここまで考えたことは一切口に出してはいない筈なのですが、けれど栞は全てを察しているようでした。察したうえで、笑顔だったりも。
「そんなこと言わないし、思ってもないからね」
返事はありませんでしたが、いい笑顔を返してくる栞なのでした。全てを察していたというのなら、僕がこういう返事をすることも初めから分かっていたのでしょう。
そりゃそうですとも。食べ物と一緒に出てくる飲み物だって食事の一部ではあるわけで、ならばこの僕が、それを否定などしよう筈がありません。美味しく楽しく気持ちのいい飲食があるからこそ団欒が弾むわけで、まさかそれを阻害するようなことなんかとてもとても。
「飲んだりなんかっていうのは……じゃあ栞さん、お酒頼むんですか……?」
お茶やジュースだって同じ飲み物ではあるのに、ただ「飲む」とだけ言った場合は間違いなく酒の話ということになるのはどうしてなんでしょうね? とまあ理屈はともかくそういうわけで、音無さんがそのことに気付いたわけですが。
「飲むんですよー。すぐ酔っちゃうんですけど、それでもやっぱり好きですから」
僕に対しては遠慮なしの笑顔を浮かべていたというのに、相手が変わるや否やその笑顔がどこか照れ臭そうなものになる栞なのでした。ううむ、こうした特別扱いは喜ぶべきなのかそうでないのか。
と、それはともかく。
「そういうことじゃないと思うよ、栞」
「え? って、じゃあどういうことだったの?」
「年」
「ああ」
酒が好きか否か、ということを尋ねるのに驚いた顔はしないでしょう。いや音無さんなので顔は見えなかったんですけど、そこらへんは言葉のあやということで。
「そういうやそうなんだっけ? ってそりゃそうか、ギリギリの俺らより年上なんだし」
それを考えれば初めから自明なことではあったのですが、しかしまあ席を同じくして酒を飲むなんて機会はこれまでなかった以上、そういう反応も仕方なくはあるのでしょう。身体の年齢についてはまだ未成年、なんてこともあったりしますしね。
とここで、そんな口宮さんに異原さんが笑い掛けながらこう言います。
「ギリギリだから飲んでもギリギリセーフだよな、なんて言わないでよ?」
「…………」
「図星かい!」
せっかくの笑顔は即座に怒った顔へ。見慣れているせいか、むしろ安心感すら湧いてきたりもするんですけどね。
とまあそれはともかく。
最近飲んでもいい年齢になった、もしくはあと数カ月で飲んでもいい年齢になる。留年や浪人を経験しない限り二回生というのはそういう時期になるわけですが、どうやら先輩方は皆後者であるようでした。
「二十歳になった途端に体質が変わるってわけでもなし、十八ぐらいからでもいいんじゃねえかなあ。結婚できる年だったりもするんだし」
「そうしたら十七の時に同じこと言っとっただけじゃろう、お前の場合」
「まあな」
えー、それというのはもしかして、僕がそうだからということで出てきた話だったりするのでしょうか。そうだとしてもその、戸籍がどうのといったような法律上の手続きは一切踏んでいないというか踏みようがないので、実のところ僕の年齢はあんまり関係なかったりするんですけど……。
「結婚できる年齢とか言ってたら女なんか十六から飲めることになっちゃうわよ? それはさすがにねえ」
「酔っ払いながら高校行けちゃいますもんね……」
飲みながら登校するってことはさすがにないでしょうけど――なんてこともなかったりするんでしょうね、実際にそうなったとしたら。
「な、なんか私だけお酒飲むのが申し訳なくなってきたような」
「いえいえ、お気になさらずどうぞどうぞ」
「うう、優しく突き放してくる……」
それでも既に仲居さんが注文を聞き届けてこの場を立っている以上は手遅れ感がありますし、それにどうせ、そうでなかったとしても栞は注文を取り消したりはしなかったのでしょう。
好きな割には普段から酒を買い求めたりはしていない栞ですが、しかし果たしてあと一年と少々先の未来、僕も飲める年齢になった時はどうなってしまうんでしょうね。どうもその日を相当楽しみにして頂いているようでもありますし。
これで僕が酒好きだったりするなら単純に楽しみにしてもいられるのでしょうが、嫌いとは言わずとも別に好きというほどでもないわけで――と、そんな複雑な胸中でいたところ、成美さんがううむと唸るのでした。
「一人だけ酒を飲むのが後ろめたいというのであれば、わたしも飲めないことはないのだが……ここにいる皆はともかく他の客も来るわけだし、そうするとなると耳を出してきた方がよさそうだな。大人用の浴衣もまだ置いてあった筈だし」
「い、いいよいいよそこまでしてくれなくても」
猫にとっての十歳という年齢は飲酒に関してどう扱うべきなのか、というのは実に難しい話なのですが、しかしそれはともかくとしておいて。そういえば成美さん、以前栞と一緒に飲んでいた経験はありましたっけね。
経験があったうえでそう仰るということは、酒を割と気に入ったということなんでしょうか?
「ははは、別に嫌々飲むというわけではないさ。なんというか……優しくしてくれるからな、大吾が」
「それが目的って言っちまうのかよ」
「黙ったままでいるよりは潔いだろう?」
そりゃそうかもしれませんが、しかしこっちとしては動機が不純なものであると知らされていても突っ撥ねたりは出来ないわけで、潔いも何も初めから対等な勝負ではないわけで――と、大吾と成美さんの話に勝手に首を突っ込んだうえ、何故かそれを勝負扱いしてしまう僕なのですが、どうなんでしょうね。そう大して間違った解釈でもないと思うんですけども。
「というわけで一度部屋に戻ってくるぞ。飲み物が運ばれてきたら酒を追加で注文していてくれ。ビールと焼酎……というのは、よく分からんから日向と同じものでいい」
恐縮しきりの栞は意に介さず、そう言い残して大広間を出ていく成美さんなのでした。
で。
「なにい……!?」
暫くののち大人の身体になって戻ってきた成美さんは、大広間へ踏み込んだその場で驚きの声を上げていました。僕達はそれで成美さんの帰還に気付くことになったわけですが、しかしそれも、下手をすれば聞き逃してしまっていたのかもしれません。
成美さんがここを出ていった直後、入れ換わりのようにして飲み物が運ばれて来、言われた通りに酒の追加注文をしました。そしてその追加の酒についても、既にここへ届けられています。
ということに驚いてみせたわけではもちろんなく、
五、六割ほどになるでしょうか。それまで僕達しかいなかったこの大広間の席は、成美さんが出ていっている間にそれだけ埋まっていたのです。割合で言えば半分ちょっとでしかないにせよ、それでもやはり驚くべき光景ではあったのでしょう。
「わたしがいない間に何があったんだ? 外の履物の数も凄いことになっているぞ」
自分の席に戻ってきた後も、そう言いつつ周囲をちらちらと窺ってみせる成美さん。驚き冷めやらぬ、といったところなのでしょう。
「オレらも驚いたんだけどな。やっと他の客が来たと思ったらその入ってくる列が全然途切れなくて」
「お酒持ってきてくれた人に訊いたんだけどぉ」
大吾の説明に引き続いた――というより、タイミング的に考えてその説明に割り込んだということになるのでしょう。語尾をだらしなくしながらそんなことをし始めたのは、既に酒に口を付けた後である栞なのでした。
「お泊まりせずにご飯だけ食べに来るってお客さんもいるみたいだよぉ? で、今日はそういう人が多かったんだってぇ。んふふー」
別に笑うところではないのですが、なんて言っていたらキリがないのは間違いないので、スルーということにしておきましょう。
「なるほど、初めからタダだから面倒な金勘定もないわけだしな」
スルーで済まされてしまう栞に対して、非常に冷静な分析をしてみせる成美さん。これが人間として生活し始めて一年ちょっと、つまり金勘定というものを覚えて一年ちょっとという人(この場合はそれこそ猫とすべきでしょうか)だということもあって、うちのお嫁さんとは大違いだなあ、なんて。
まあでも可愛いんですけどね、ほろ酔い気分の栞っていうのも。
「しかし前回ここに来た時は……ああそうか、あの時は旅館ではなく四方院の家のほうで食事をさせてもらったんだったな」
「そうそう。今考えたらすげえことだけど」
同じ敷地内の別の建物ならともかく、なまじその「家」と「旅館」が建物として繋がっているせいで意識し辛くはあるのですが、そうなのです。あの時の僕達は旅館でなく四方院家の客扱いだったわけで。
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