…………正直寝不足な感じは否めませんが、おはようございます204号室住人日向孝一です。眠いです。
とんでもなく忙しかった月曜日を経て、本日は火曜日。今日から大学の講義が始まります。で、僕が作成した時間割の火曜日分ですが―――ラッキーな事に、昨日に引き続いて今日も午前だけです。ちなみに月曜日は朝から午後まで。講義開始が今日からで良かった。
……と言っても、大学の時間は一時間が九十分。つまり、例えば一限と三限に講義があって二限が抜けているとすればその二限の九十分は丸々休憩時間になる訳で、大学から家までが徒歩五分だと余裕で帰って来てしかも充分くつろげる訳です。で、月曜日はそんな感じで講義に穴がある訳です。最高です。
では……本日の講義とは無関係な事柄にぬか喜びした辺りで、行ってきます。眠いけど。
「そう言えば椛さんと孝治さんはもう帰っちゃったのかな」とか思いながら外に出ようとすると、伸ばした右手がドアノブを掴む直前でチャイムが鳴った。
「はあぁい」
ので、そのままドアを開く。が、その際、寝不足が祟ってか意図しないところで若干不機嫌そうな声になってしまう。
「うわ、早――――ってああ、ちょうど行くところだったの? ギリギリセーフだね、あはは」
チャイムを鳴らした途端にドアが開いた事に驚き、次に僕の左手に携えられたカバンを見てそう笑うのは、何を隠そう寝不足の遠因―――いや、もういっそ原因である栞さんその人。その人がその人であると確認すると同時に「あ!」とか声を上げてしまい、そしていろいろと凄まじき記憶が脳内を駆け巡り、眠気は吹き飛ぶ。
「おっ、おはようございます栞さん」
「おはよう、孝一くん」
「えーっと、えっと、どうしました? こんな朝早くから」
ちなみに今は八時四十分頃。そんなに早くもなかったりする。一限が九時からで登校所要時間が五分だから、これでも結構余裕を持っているつもりだ。だから朝の時間は結構ゆっくり取れるんだけど、それでもついさっきまで睡眠不足を感じていたって事は………相当遅かったんだろうな、寝るの。
すると栞さん、「んー」とちょっとだけ言いにくそうに困った顔をすると、
「ついて行かせてもらっていいかな。大学」
予想外な事を言ってきた。
「は?」
「あ! ご、ごめん、無理だったらいいの。そうだよね邪魔だよねやっぱり」
栞さんがここにいる事自体が予想外なのでぶっちゃけ何を言われても予想外になるんだけど、それにしたって今の反応はない。多分栞さんから見たら「あんたは何を言ってるんだ?」みたいな返しだった筈だ。
驚いたとは言えさあ、もうちょっと堪えようよ僕。ほら、栞さん勘違いしてるし。
という事で、外に出てドアを閉め、鍵を掛けつつ弁明する。
「い、いえ今のはそういう事じゃなくて…………えっと、いいですよ。来てもらっても全然大丈夫です。是非一緒に来てください」
むしろ栞さんが暇になっちゃうんじゃないかとも思ったけど、せっかくのご厚意に水を差すのもなんなので言わずにおいた。
そして断られたと思ってかやや沈んでいた栞さんの表情は、ぱっと明るくなる。
「い、いいの? ありがとう」
全然大丈夫と言っておいて、それでもふと、本当に大丈夫なのだろうかと不安が脳裏をよぎる。―――でも大丈夫だよね? 霧原さんだって深道さんについて来てたし。……まあ、教室の中まで一緒なのかどうかは見てないけど………
「じゃあ……」
いい加減極まりない安全宣言を出すと、栞さんがそう言って少し言葉を詰まらせる。そして本の少し間を置くと、恥ずかしそうに右手を差し出そうとして―――こちらの手を見て一旦止まる。つまりは手を繋ごうという事なんだろうけど、右手に対応するのはもちろん左手。で、僕の左手はカバンに塞がれている。そして右手に持っていた部屋の鍵は既にポケットの中なので、フリーなのはこっちも同じく右手。
「あ、こ、こっちだね」
握手ならいざ知らず、手を繋ぐとなると右手同士じゃあかなり無理があるのでさっと手を入れ替え、今度は左手を差し出してくる栞さん。
だけどなんとも間の悪い事に、それと同時に僕もカバンを持つ手を入れ替えていた。無論、元が逆の逆同士なのならまたしても結果は逆な訳で。
「……………」
「……………」
じゃあ栞さんがもう一度左右を変えるのを待とうと暫らくそのままにしてみるが、あちらも同じ事を考えたようでただの睨めっこに。
じゃあ仕方ない、こっちが手を変えよう。としてみれば案の定、
「………………」
「………………」
二人揃って右手を差し出す。
「……えっと、栞が手を変えるから。いい?」
「了解しました」
そうまでしてやっと僕の右手と栞さんの左手がこんにちは。
冗談でわざとこっちも手を変えてみようかとも思ったけど、やられた側の立場に立って考えてみると相当なウザさだったので止めておいた。止めておいて、やっとの事で足並みならぬ手並みが揃ったので、少々のためらいを伴いながらその手を握る。
すかっ。
「……あれ」
緊張の余り目測を誤ったか、僕の手は何も掴まずにただの握り拳に。………いや、いくらなんでもそこまでくるともう視覚障害だ。実際位置は合ってるし―――って事で、
「えっと、栞さん?」
僕の手は、栞さんが差し出した手に埋まっていた。つまりは、壁や物をすり抜けるのと同じ事をされた訳だ。
「ふふ、冗談冗談」
冗談ですか。こっちは直前で控えたとは言え、変なところで意見が合っちゃいましたね。
そうした冗談も済んだところで、朝っぱらからちょっとした苦難を乗り越えようやく繋がる栞さんの左手と僕の右手。
「じゃあ、行こ」
「はい」
右手の温かくて柔らかい感触を最大限意識しつつ、あまくに荘の正門に差し掛かったあたりの事。右手に加わる栞さんの握力がちょっとだけ強くなったような気がしたので、視線を正面から栞さんへと向けてみる。すると栞さんは二人の手が繋がっている部分を「なんとはなしに」といった表情で見下ろしていた。
「どうかしました?」
呼びかけてみると、その顔が手からこちらへと向けられる。
「あ、ううん。……大した事じゃないんだけどね、孝一くんってそんなに体ガッチリって感じでもないでしょ? それでもやっぱり男の子の手なんだなあって。ちょっと硬い」
まあ自慢じゃないですけど体についてはその通りですね。体重量った時に「痩せ過ぎじゃないか?」って言われましたから。身長殆ど同じ人に。
「そう言う栞さんは見た目通り女性の手ですよね。ちょっと柔らかめな感じですし」
手の平の筋力なんて誰でも同じようなものだろうし、それほど脂肪とかも付いたりしなさそうなんだけど……筋肉の質自体が違う? それとも、骨の太さとか? 不思議なもんだなあ人体って。
「そう? よかった、あんまり自分と違わないなんて言われたらどうしようかと思ったよ」
「そんな手の肉付きくらいで大袈裟な」とも思ったけどそれ以前に、
「昨日の夜の事を考えたら何を今更って感じですけどね。普通はこうやって手を繋いだりしながら遊びに出掛けたりして、それからああなるんじゃないですか?」
告白して抱き合ってキスしてだもんなあ。ああ、今思い返しても顔が熱い。
「あはは、それもそうだね。抱き締めたりしてたのに今更手の柔らかさだなんて―――あっ」
最初は笑った栞さんも、それきり顔を伏せて沈黙。
ああそちらも顔が熱いんですかそうですか。
「―――やっぱり、その場の勢いってのは怖いですねえ。あの時はなんとも―――いや、そりゃ全くないって事もないんですけど、ここまで恥ずかしいとは思いませんでしたよ」
「そ、そうだねー。孝一くんなんか押し倒すとか言っちゃってたし」
「それは勘弁してください……」
押し寄せる羞恥心に耐え切れず、カバンを持っているほうの手で顔を抑える。もしかしたらあれは十八年の人生の中で最大の暴言だったかもしれない。なんせ実行したら犯罪だし。
「それよりもですね、ちょっと思ったんですけど」
「なに?」
あんまり恥ずかしいもんだから、話を替えてしまうことにしました。
そして何の話かと言えば、今こうして二人並んで歩いているその始まり。つまり部屋を出ようとしたら栞さんが尋ねてきた事について。
「あまりにもばっちりなタイミングで僕の部屋のチャイム鳴らしてましたけど、僕が今日一限からだって知ってたんですか? 言ってはなかったと思うんですけど」
時間割云々どころか大学の話自体、みんなに話した記憶が殆ど無い。まだまだ話すような事なんて何も起こってないからね。そこで出会った四人組の事以外には。
「え? えっと―――」
しかし栞さん、僕が言ってる事が理解できないとでも言うように、そして必死に理解しようとしているかのように、首を傾げたまま考え込んでしまう。
……そんなに難しい質問でしたか?
こちらもそう疑問に思って腕を組みそうになるが、カバンを持った左腕はともかくもう片方の腕は完璧にロックされているので結局そのまま考える。そんなに難しい質問でしたか?
暫らく―――十歩ほどそのまま二人で考え込んでいると、栞さんがこっちを向く。ゆっくりゆっくり、恐る恐る、そして苦笑いで。
「―――ごめん孝一くん。大学って絶対に一時間目からって事じゃないの? 学生さんっぽい人が通り始める時間だから、そろそろかなって思って部屋に行ってみたんだけど……」
ああなるほど、了解しました。そりゃあ知らなくても仕方が………すいません、気がつきませんで。
「どこでもそうなのかどうかは知りませんけど、自分で作るんですよ時間割。だから、始まる時間も終わる時間も人によってバラバラです。違う時間にも学生っぽい人が通ったりしてませんでしたか?」
「そう言えば、ちらほらとは……でも意識して見てた訳じゃないし、遅刻してるとか学校の関係で始まるのが遅かったりするのかなって思ってたよ。へー、そうだったんだ………」
四年間大学から徒歩五分の所に住んでおいて―――うーん、いや、案外そんなもんなのかな。通勤途中のサラリーマンを見てその人の会社のスケジュールが分かる訳でもなし。………これはちょっと違うかな。まあいいや。
大学の仕組みについて納得すると、それについて更に栞さんから質問が。
「じゃあさ、今日は孝一くん、何時くらいに大学から帰ってこれるの? 栞はお掃除があるから昼頃には一回帰るつもりなんだけど」
「僕も午前中だけですよ。えーと、正確には十二時十分までです」
九時から講義が二つで九十×二の百八十分で三時間、それから講義の間に十分の休憩があるから、うん十二時十分間違い無し。
「そうなの? それじゃあ………お昼からさ、二人でどこか行きたいな。天気もいいし」
おおう。それは――実に良さげな提案ですね。……いや、提案と言うよりは既に決定した事って扱いのほうが合ってるのかな。栞さん、嬉しそうだし。もちろん僕も。
その嬉しさの表れか、ほんの僅かだけ栞さんの手に力が加わる。それに応えるようにこちらも見た目には分からないくらいちょっとだけ力を加え、そうしてる間に大学正門に到着。すると今度は、栞さんの手から力が抜ける。口では何も言わないけどこういう事だろうか? とこちらも手を緩めると、思った通りに栞さんの手がすっと離れる。その大多数が見えてないとは言え、やっぱり人多いですからね。
しかし人を気にするとなると、やっぱり手がどうこうよりも一人で空中に話し掛けてるのを気にしたほうがいいのだろう。今回は栞さん以外誰もいないから誤魔化しも効かないし。
栞さんもそれを気にしてか、辺りの人波を見渡しながら口を開こうとしない。
「ちょっと、あっち行きましょうか」
小声でそう言い、離れたばかりの栞さんの手を再度掴んで引っぱる。
「あ、うん」
向かう先は正門の柱、そのすぐ裏側。門から入ってくる人達が続々と前方を通過していくが、睨んだ通り誰一人としてこちらを気にする人などいない。社会の死角ってやつですか。
喋っても安心な場所を確保したところで、晴れて会話再開。それでもつい、ちょっと小声になるけど。ついでに手も離れるけど。
「えーっとですね、成美さんと大きな人の事はありますけど、それが済んでからなら大丈夫ですよ」
「あ、そっか。それがあるんだったね」
「はい。……でも、どこに行きましょうか? 正直な話、未だにこの辺りの地理はちょっと………」
不安に思ったところで、この近辺で自分が知っている場所をリストアップしてみる。
岩白神社。
駅前のデパート。
終了。
………これは酷い。もうちょっと歩き回ろうよ僕。一人でデパート行く度に道に迷いそうになってる場合じゃないよ。まあさすがにそろそろそんな事もなくなってきたけど。
しかし、こうなると遊びに行く場所の選択は栞さんに頼るしかないのか……
眉毛を若干八の字にし、口だけ微笑ませながら栞さんを改めて見る。すると栞さん、変わらずににこにことしたまま言う。
「前にさ、お花見どこでしようかって話になった時にちらって出たでしょ? 大きい公園があるって。あそこに行きたいな。桜もまだ散ってないだろうし、綺麗だよ? 道に沿ってたくさん咲いてるの」
確かにその公園の話は憶えてます。例年の花見場所はそこだったって話でしたよね。でも確か……
「そこって、遠いんじゃないでしたっけ? 車で行ってたって聞いた気がするんですけど」
二人で出掛けたいって言ったのが栞さんである以上、その栞さんが提案した場所に家守さんの車で送ってもらうって事にはならないだろうし、そもそも家守さんは今日も仕事で留守だ。軽ならではの少々高めなエンジン音は、今朝もちゃんと聞こえてたし。
「車で行ってたって言っても、車じゃないと無理って程遠いわけじゃないの」
あ、そうなんですか。てっきり前にみんなで行ったプールとかそのくらい距離があるもんだと思ってました。
しかし栞さん、こちらの不安が拭えた途端にそれを煽るかのようなうつむき加減。しかも申し訳無さそうな表情で。
「まあそれでも歩きだと一時間半くらいかかっちゃうけど………無理、かな」
うつむいたまま後ろで手を組み、こちらへと懇願するような視線を向けつつ、栞さんはそう頼んできた。
僕と栞さんの身長にそれ程差はなく、そしてその栞さんが、うつむいたままで、こちらを見る。という事は必然的に上目使い。―――という事はこれまた必然的に僕撃沈。
ああ駄目だ。可愛すぎる。
「いえ、全く問題無いです。僕もその公園には行ってみたいですし」
口でそう答え、指をしゃっきり伸ばした手の平を栞さんに向けて押し出し、言葉でも行動でも「是非ご一緒させていただきます」とアピール。片道一時間半どころか、目的地設定の無いただの徘徊だったとしても確実に頷いてるよ。今の目で見られたら。
「本当? いいの?」
うつむいていた栞さんの顔が、まじまじとこちらを眺めたままゆっくり持ち上がる。しかしその目に映るのは、嘘をつく余裕すら奪われて無言のまま首を縦に振る男の顔。その余裕を奪ったのが自分だって事には気付いてないんだろうなあ。いや、そもそも余裕がどうしただの自体に気付かないか普通は。
「ありがとう孝一くん」
「いえいえ、こちらこそ」
「え? 何が? 栞、何かしたっけ」
「あー、行く場所をね。いい所選んでくれてありがとうって事です」
「ふーん……?」
不可解そうだったけど、話もまとまったところで教室へ。
いやーなんて言うか、今ならもう死んでも……いや、これはさすがに止めとこう。と言う事で、今でもまだ生きたい! …………むぅ、何か確実に間違ってるなこれ……
「うわぁ……広いねぇ」
教室に到着すると栞さんはドアをくぐったその場で部屋内部を一瞥し、その広さに半ば呆然とする。
この大学に入学してからこれまで散々いろいろな教室をたらい回しにされてきたけど、今いるこの教室が大学内で一番大きいタイプの教室だ。……いや、訂正。少なくとも僕が入った部屋の中では、です。入学したての一回生には縁の無いような教室も多々あるでしょうからね。
「こういう前に向かって坂になってる教室、実際に入ったのは初めてだよ。ちょっと感激―――あっ」
言ってから、口を手で覆う。さっきわざわざ人気のない場所で話し合っていた事を忘れるくらいには、本当に感激していたらしい。
二人しかいないとちょっと喋るだけでも大変だ。でもこれはこれで、スリルがあって楽しいかもしれない。
せっかく感激したところを黙殺するのも悪いので、廊下側から誰も来ないのと周囲に誰もいない事を確認してから返事をする。
「でもこういう所で丸い消しゴムとか落としちゃうと大変なんですよ。一番前まで転がって行ったならまだいいですけど、誰かの足かカバンに引っかかったりして途中で止まるとほぼ確実に見失いますからね」
追いかけて立ち上がっちゃってたりすると、見つけられずに席に戻るのが癪で自分から前列の人の足元じろじろ見て回る羽目になるし。ふぅ。
すると口を塞いでから辺りをきょろきょろしていた栞さんが、まるで言葉に釣られたかのようにくるっとこちらを向く。
「あ、経験者?」
思い出して喋ってる間に事件当時のイライラが口ぶりに出てしまったか、即座に見破られてしまった。
「…………まあ、はい。高校の視聴覚室がこんな感じでして」
僕は消しゴムつきシャーペンの芯を入れ替えようとしただけなのに、あの使いもしない円柱型の消しゴムは…………まあ使いもしないのに追った僕も僕なんですけどね。
「じゃあ前のほうに座る? それなら転がっちゃってもすぐ拾えるよね」
と言いつつ、こちらの顔を覗きこんできた栞さんは半笑い。嫌味なのは見て取れる。
「いーえ、一番後ろでいいです。友達が来ますからね。部屋の入口からすぐの場所ならすぐ見つけられますし」
どうやらまだ来てないみたいですからね、明くん。それに消しゴムはもう四角のしか使ってませんし。
手近な三人掛けの机の右隅に席を取りながらそう言うと、僕の隣に腰掛けながら栞さん。
「友達? って言うと、あの……持田くん? だったよね? その持田くんの話をしたって人かな」
ちなみに腰掛ける際、席の左隅から入ってこちらに詰めてくるのではなく、椅子の裏から直接僕の隣に入ってきました。もちろん椅子を跨いでではなく、すり抜けて。微妙に便利ですね。
「そうです」と返事をしようとしたその時、背後の入口から人の気配が。って言ってもまあ足音が聞こえただけなんだけど。とにかくそういう事なので、返事は小さく頷くだけに止めておく。
栞さんも自分が言い終わってすぐに人が来た事に気付いてしかも驚いたのか、目を丸くし、背筋をぴんとして沈黙。僕の首肯を受け取ると、前列へと歩き去るその人の背中を、まるで上官の退室を見送る部下軍人のように不動で眺めていた。
でも口を塞ぐのはいいとして、姿勢を良くして動かない事には何の意味もないと思うのですが。気持ちはまあ分かりますけど。
その人がある程度離れた場所の空いていた席につくと、栞さんがぐにゃりと机に突っ伏した。
「ふぁ~。びっくりしたぁ~」
しかし一人をやり過ごして安心しきったのか、その時真後ろに人が立っていた事には気付かなかった様子。
「おっす」
「ふぁっ!?」
後ろの人物に声を掛けられると、珍妙な疑問文を読み上げながら跳ね起きた。と言うか、ちょっとだけ跳ね上がった。
まあ声を掛けられたと言っても、その対象は僕であって栞さんじゃないんですけどね。
「うぉっ!?」
ね、明くん―――まあまあ、そんなに驚かないでも。
あー、授業中に居眠りしてると今の栞さんみたいな感じでビクッてなって目が覚める事ありますよねー。あれ恥ずかしいんですよねー。まあ僕はする側じゃなくて見る側ですけどねー。
栞さんはともかく、明くんのその悲鳴に教室の中の一割くらいがこちらを振り返る。
一割。意外とこんなもんですよね他人の異常事態に反応する人の割合って。これなら結構栞さんと堂々話しても大丈夫だったり………? いやいや、それはさすがに危ないか。
驚き合って見詰め合って硬直し合う二人を微笑ましく眺めている間に、居眠りどうこうやら世間の他人に対する無関心さを考える。
しかしそこで時間切れ。二人の時が再度動き出した。
「えーと、前連れてきてた人達とは別の人みたいだけど、この人も孝一の知り合いか?」
明くんはそう言って崩れた姿勢を正し、
「え……あ、な、なんだ。孝一くんのお友達かぁ。あ~驚いて損したぁ………」
栞さんはそう言って再び机に突っ伏す。そして続けて、
「そうだよね、前に見える人だって言ってたし」
憔悴した顔で情報の確認という独り言。人の流れに気を揉んだり驚いたり、本当にお疲れ様です。
で、明くんの質問ですけど、知り合いって言うか彼女―――いや、わざわざ言いふらす事でもないか。
「えっと、こちらは僕の部屋の隣にお住まいの―――」
手の平を返して栞さんに向けると、その栞さんはすっと起き上がる。潰れたままで自己紹介ってのもやっぱり変ですからね。
「喜坂栞です。初めまして」
「俺、日永明です。こちらこそ初めまして」
軽く頭を下げ合う二人。その時僕達の傍を二人組が通り過ぎるが、特にこちらを気にした様子は無し。明くんが一人でやってたら変だけど、隣に僕がいるからなんとも思われないのかなやっぱり。霧原さんの時だってそうなんだろうし。
するとここで九時になったらしく、チャイムが鳴る。
「えーと、隣いいですかね?」
「あ、はい。どうぞどうぞ」
明くんが打診すると、元から三人掛けの真ん中に座っていたのにちょっとだけこちらへ寄って来る栞さん。
いや、電車とかの座席とは違って席はくっきり三つに分かれてますからね。そんなに譲ろうとしなくても大丈夫ですよ。
左端の席にどっかりと座り込んで「ふぅ」と一息つくと、明くんは早速、今知り合ったばかりの栞さんに話し掛けた。多少ためらいがちな声で。
「あの、失礼かもしれないんですけど幽霊の方……で? さっき見える人がどうとか……」
「はい、そうです。だから、こういう人の多い所で話し掛けるのはちょっと気をつけたほうが―――あ、それでも話し掛けてくれるの自体は全然構わないですよ?」
語弊の発生を防ぐため、手を小さく左右に振りながら最後に注釈を付ける。
そうですよね、声に釣られて外に飛び出すくらい誰かと話すのが好きなんですから。
しかしそれを聞いた明くん、「はっ」と息を吐くように一笑い。そして机に両腕を掛け、体を前に倒して、栞さんより向こうの僕のほうを見た。それを察して、栞さんは体を少し後ろに反らせる。
「そんなの今更―――なあ孝一? 俺達、霧原先輩と普通に喋ってるし」
「え、ああ、うん、まあ……」
―――ああ、なんて言うか説明が難しい。栞さんが言ってるのはさっきまで自分達がこそこそ話してた事を受けてだろうし、明くんが言ってるのは霧原さん以外に深道さんと僕がいての話だろうし。幽霊さんと一対一の場合と一対複数の場合じゃあ結構状況が変わってくるんだけど……
「ねえ明くん、霧原さんって講義中はどうしてるのかな」
なので、唐突ではあるけど実例を出して訊いてみた。わざわざ一対一がどうとか説明するまでも無く、講義中なら二人だけだし。
それに答える明くんは、頬杖をつく。
「ん? こういうでかい教室でやってる講義なら深道先輩と一緒に話聞いてるらしいぞ。狭い教室のは人数が少なくて一人一人に目が行くから避けてるって言ってたけど。まあ万が一見える人が混じってたら大変だしな」
とんでもなく忙しかった月曜日を経て、本日は火曜日。今日から大学の講義が始まります。で、僕が作成した時間割の火曜日分ですが―――ラッキーな事に、昨日に引き続いて今日も午前だけです。ちなみに月曜日は朝から午後まで。講義開始が今日からで良かった。
……と言っても、大学の時間は一時間が九十分。つまり、例えば一限と三限に講義があって二限が抜けているとすればその二限の九十分は丸々休憩時間になる訳で、大学から家までが徒歩五分だと余裕で帰って来てしかも充分くつろげる訳です。で、月曜日はそんな感じで講義に穴がある訳です。最高です。
では……本日の講義とは無関係な事柄にぬか喜びした辺りで、行ってきます。眠いけど。
「そう言えば椛さんと孝治さんはもう帰っちゃったのかな」とか思いながら外に出ようとすると、伸ばした右手がドアノブを掴む直前でチャイムが鳴った。
「はあぁい」
ので、そのままドアを開く。が、その際、寝不足が祟ってか意図しないところで若干不機嫌そうな声になってしまう。
「うわ、早――――ってああ、ちょうど行くところだったの? ギリギリセーフだね、あはは」
チャイムを鳴らした途端にドアが開いた事に驚き、次に僕の左手に携えられたカバンを見てそう笑うのは、何を隠そう寝不足の遠因―――いや、もういっそ原因である栞さんその人。その人がその人であると確認すると同時に「あ!」とか声を上げてしまい、そしていろいろと凄まじき記憶が脳内を駆け巡り、眠気は吹き飛ぶ。
「おっ、おはようございます栞さん」
「おはよう、孝一くん」
「えーっと、えっと、どうしました? こんな朝早くから」
ちなみに今は八時四十分頃。そんなに早くもなかったりする。一限が九時からで登校所要時間が五分だから、これでも結構余裕を持っているつもりだ。だから朝の時間は結構ゆっくり取れるんだけど、それでもついさっきまで睡眠不足を感じていたって事は………相当遅かったんだろうな、寝るの。
すると栞さん、「んー」とちょっとだけ言いにくそうに困った顔をすると、
「ついて行かせてもらっていいかな。大学」
予想外な事を言ってきた。
「は?」
「あ! ご、ごめん、無理だったらいいの。そうだよね邪魔だよねやっぱり」
栞さんがここにいる事自体が予想外なのでぶっちゃけ何を言われても予想外になるんだけど、それにしたって今の反応はない。多分栞さんから見たら「あんたは何を言ってるんだ?」みたいな返しだった筈だ。
驚いたとは言えさあ、もうちょっと堪えようよ僕。ほら、栞さん勘違いしてるし。
という事で、外に出てドアを閉め、鍵を掛けつつ弁明する。
「い、いえ今のはそういう事じゃなくて…………えっと、いいですよ。来てもらっても全然大丈夫です。是非一緒に来てください」
むしろ栞さんが暇になっちゃうんじゃないかとも思ったけど、せっかくのご厚意に水を差すのもなんなので言わずにおいた。
そして断られたと思ってかやや沈んでいた栞さんの表情は、ぱっと明るくなる。
「い、いいの? ありがとう」
全然大丈夫と言っておいて、それでもふと、本当に大丈夫なのだろうかと不安が脳裏をよぎる。―――でも大丈夫だよね? 霧原さんだって深道さんについて来てたし。……まあ、教室の中まで一緒なのかどうかは見てないけど………
「じゃあ……」
いい加減極まりない安全宣言を出すと、栞さんがそう言って少し言葉を詰まらせる。そして本の少し間を置くと、恥ずかしそうに右手を差し出そうとして―――こちらの手を見て一旦止まる。つまりは手を繋ごうという事なんだろうけど、右手に対応するのはもちろん左手。で、僕の左手はカバンに塞がれている。そして右手に持っていた部屋の鍵は既にポケットの中なので、フリーなのはこっちも同じく右手。
「あ、こ、こっちだね」
握手ならいざ知らず、手を繋ぐとなると右手同士じゃあかなり無理があるのでさっと手を入れ替え、今度は左手を差し出してくる栞さん。
だけどなんとも間の悪い事に、それと同時に僕もカバンを持つ手を入れ替えていた。無論、元が逆の逆同士なのならまたしても結果は逆な訳で。
「……………」
「……………」
じゃあ栞さんがもう一度左右を変えるのを待とうと暫らくそのままにしてみるが、あちらも同じ事を考えたようでただの睨めっこに。
じゃあ仕方ない、こっちが手を変えよう。としてみれば案の定、
「………………」
「………………」
二人揃って右手を差し出す。
「……えっと、栞が手を変えるから。いい?」
「了解しました」
そうまでしてやっと僕の右手と栞さんの左手がこんにちは。
冗談でわざとこっちも手を変えてみようかとも思ったけど、やられた側の立場に立って考えてみると相当なウザさだったので止めておいた。止めておいて、やっとの事で足並みならぬ手並みが揃ったので、少々のためらいを伴いながらその手を握る。
すかっ。
「……あれ」
緊張の余り目測を誤ったか、僕の手は何も掴まずにただの握り拳に。………いや、いくらなんでもそこまでくるともう視覚障害だ。実際位置は合ってるし―――って事で、
「えっと、栞さん?」
僕の手は、栞さんが差し出した手に埋まっていた。つまりは、壁や物をすり抜けるのと同じ事をされた訳だ。
「ふふ、冗談冗談」
冗談ですか。こっちは直前で控えたとは言え、変なところで意見が合っちゃいましたね。
そうした冗談も済んだところで、朝っぱらからちょっとした苦難を乗り越えようやく繋がる栞さんの左手と僕の右手。
「じゃあ、行こ」
「はい」
右手の温かくて柔らかい感触を最大限意識しつつ、あまくに荘の正門に差し掛かったあたりの事。右手に加わる栞さんの握力がちょっとだけ強くなったような気がしたので、視線を正面から栞さんへと向けてみる。すると栞さんは二人の手が繋がっている部分を「なんとはなしに」といった表情で見下ろしていた。
「どうかしました?」
呼びかけてみると、その顔が手からこちらへと向けられる。
「あ、ううん。……大した事じゃないんだけどね、孝一くんってそんなに体ガッチリって感じでもないでしょ? それでもやっぱり男の子の手なんだなあって。ちょっと硬い」
まあ自慢じゃないですけど体についてはその通りですね。体重量った時に「痩せ過ぎじゃないか?」って言われましたから。身長殆ど同じ人に。
「そう言う栞さんは見た目通り女性の手ですよね。ちょっと柔らかめな感じですし」
手の平の筋力なんて誰でも同じようなものだろうし、それほど脂肪とかも付いたりしなさそうなんだけど……筋肉の質自体が違う? それとも、骨の太さとか? 不思議なもんだなあ人体って。
「そう? よかった、あんまり自分と違わないなんて言われたらどうしようかと思ったよ」
「そんな手の肉付きくらいで大袈裟な」とも思ったけどそれ以前に、
「昨日の夜の事を考えたら何を今更って感じですけどね。普通はこうやって手を繋いだりしながら遊びに出掛けたりして、それからああなるんじゃないですか?」
告白して抱き合ってキスしてだもんなあ。ああ、今思い返しても顔が熱い。
「あはは、それもそうだね。抱き締めたりしてたのに今更手の柔らかさだなんて―――あっ」
最初は笑った栞さんも、それきり顔を伏せて沈黙。
ああそちらも顔が熱いんですかそうですか。
「―――やっぱり、その場の勢いってのは怖いですねえ。あの時はなんとも―――いや、そりゃ全くないって事もないんですけど、ここまで恥ずかしいとは思いませんでしたよ」
「そ、そうだねー。孝一くんなんか押し倒すとか言っちゃってたし」
「それは勘弁してください……」
押し寄せる羞恥心に耐え切れず、カバンを持っているほうの手で顔を抑える。もしかしたらあれは十八年の人生の中で最大の暴言だったかもしれない。なんせ実行したら犯罪だし。
「それよりもですね、ちょっと思ったんですけど」
「なに?」
あんまり恥ずかしいもんだから、話を替えてしまうことにしました。
そして何の話かと言えば、今こうして二人並んで歩いているその始まり。つまり部屋を出ようとしたら栞さんが尋ねてきた事について。
「あまりにもばっちりなタイミングで僕の部屋のチャイム鳴らしてましたけど、僕が今日一限からだって知ってたんですか? 言ってはなかったと思うんですけど」
時間割云々どころか大学の話自体、みんなに話した記憶が殆ど無い。まだまだ話すような事なんて何も起こってないからね。そこで出会った四人組の事以外には。
「え? えっと―――」
しかし栞さん、僕が言ってる事が理解できないとでも言うように、そして必死に理解しようとしているかのように、首を傾げたまま考え込んでしまう。
……そんなに難しい質問でしたか?
こちらもそう疑問に思って腕を組みそうになるが、カバンを持った左腕はともかくもう片方の腕は完璧にロックされているので結局そのまま考える。そんなに難しい質問でしたか?
暫らく―――十歩ほどそのまま二人で考え込んでいると、栞さんがこっちを向く。ゆっくりゆっくり、恐る恐る、そして苦笑いで。
「―――ごめん孝一くん。大学って絶対に一時間目からって事じゃないの? 学生さんっぽい人が通り始める時間だから、そろそろかなって思って部屋に行ってみたんだけど……」
ああなるほど、了解しました。そりゃあ知らなくても仕方が………すいません、気がつきませんで。
「どこでもそうなのかどうかは知りませんけど、自分で作るんですよ時間割。だから、始まる時間も終わる時間も人によってバラバラです。違う時間にも学生っぽい人が通ったりしてませんでしたか?」
「そう言えば、ちらほらとは……でも意識して見てた訳じゃないし、遅刻してるとか学校の関係で始まるのが遅かったりするのかなって思ってたよ。へー、そうだったんだ………」
四年間大学から徒歩五分の所に住んでおいて―――うーん、いや、案外そんなもんなのかな。通勤途中のサラリーマンを見てその人の会社のスケジュールが分かる訳でもなし。………これはちょっと違うかな。まあいいや。
大学の仕組みについて納得すると、それについて更に栞さんから質問が。
「じゃあさ、今日は孝一くん、何時くらいに大学から帰ってこれるの? 栞はお掃除があるから昼頃には一回帰るつもりなんだけど」
「僕も午前中だけですよ。えーと、正確には十二時十分までです」
九時から講義が二つで九十×二の百八十分で三時間、それから講義の間に十分の休憩があるから、うん十二時十分間違い無し。
「そうなの? それじゃあ………お昼からさ、二人でどこか行きたいな。天気もいいし」
おおう。それは――実に良さげな提案ですね。……いや、提案と言うよりは既に決定した事って扱いのほうが合ってるのかな。栞さん、嬉しそうだし。もちろん僕も。
その嬉しさの表れか、ほんの僅かだけ栞さんの手に力が加わる。それに応えるようにこちらも見た目には分からないくらいちょっとだけ力を加え、そうしてる間に大学正門に到着。すると今度は、栞さんの手から力が抜ける。口では何も言わないけどこういう事だろうか? とこちらも手を緩めると、思った通りに栞さんの手がすっと離れる。その大多数が見えてないとは言え、やっぱり人多いですからね。
しかし人を気にするとなると、やっぱり手がどうこうよりも一人で空中に話し掛けてるのを気にしたほうがいいのだろう。今回は栞さん以外誰もいないから誤魔化しも効かないし。
栞さんもそれを気にしてか、辺りの人波を見渡しながら口を開こうとしない。
「ちょっと、あっち行きましょうか」
小声でそう言い、離れたばかりの栞さんの手を再度掴んで引っぱる。
「あ、うん」
向かう先は正門の柱、そのすぐ裏側。門から入ってくる人達が続々と前方を通過していくが、睨んだ通り誰一人としてこちらを気にする人などいない。社会の死角ってやつですか。
喋っても安心な場所を確保したところで、晴れて会話再開。それでもつい、ちょっと小声になるけど。ついでに手も離れるけど。
「えーっとですね、成美さんと大きな人の事はありますけど、それが済んでからなら大丈夫ですよ」
「あ、そっか。それがあるんだったね」
「はい。……でも、どこに行きましょうか? 正直な話、未だにこの辺りの地理はちょっと………」
不安に思ったところで、この近辺で自分が知っている場所をリストアップしてみる。
岩白神社。
駅前のデパート。
終了。
………これは酷い。もうちょっと歩き回ろうよ僕。一人でデパート行く度に道に迷いそうになってる場合じゃないよ。まあさすがにそろそろそんな事もなくなってきたけど。
しかし、こうなると遊びに行く場所の選択は栞さんに頼るしかないのか……
眉毛を若干八の字にし、口だけ微笑ませながら栞さんを改めて見る。すると栞さん、変わらずににこにことしたまま言う。
「前にさ、お花見どこでしようかって話になった時にちらって出たでしょ? 大きい公園があるって。あそこに行きたいな。桜もまだ散ってないだろうし、綺麗だよ? 道に沿ってたくさん咲いてるの」
確かにその公園の話は憶えてます。例年の花見場所はそこだったって話でしたよね。でも確か……
「そこって、遠いんじゃないでしたっけ? 車で行ってたって聞いた気がするんですけど」
二人で出掛けたいって言ったのが栞さんである以上、その栞さんが提案した場所に家守さんの車で送ってもらうって事にはならないだろうし、そもそも家守さんは今日も仕事で留守だ。軽ならではの少々高めなエンジン音は、今朝もちゃんと聞こえてたし。
「車で行ってたって言っても、車じゃないと無理って程遠いわけじゃないの」
あ、そうなんですか。てっきり前にみんなで行ったプールとかそのくらい距離があるもんだと思ってました。
しかし栞さん、こちらの不安が拭えた途端にそれを煽るかのようなうつむき加減。しかも申し訳無さそうな表情で。
「まあそれでも歩きだと一時間半くらいかかっちゃうけど………無理、かな」
うつむいたまま後ろで手を組み、こちらへと懇願するような視線を向けつつ、栞さんはそう頼んできた。
僕と栞さんの身長にそれ程差はなく、そしてその栞さんが、うつむいたままで、こちらを見る。という事は必然的に上目使い。―――という事はこれまた必然的に僕撃沈。
ああ駄目だ。可愛すぎる。
「いえ、全く問題無いです。僕もその公園には行ってみたいですし」
口でそう答え、指をしゃっきり伸ばした手の平を栞さんに向けて押し出し、言葉でも行動でも「是非ご一緒させていただきます」とアピール。片道一時間半どころか、目的地設定の無いただの徘徊だったとしても確実に頷いてるよ。今の目で見られたら。
「本当? いいの?」
うつむいていた栞さんの顔が、まじまじとこちらを眺めたままゆっくり持ち上がる。しかしその目に映るのは、嘘をつく余裕すら奪われて無言のまま首を縦に振る男の顔。その余裕を奪ったのが自分だって事には気付いてないんだろうなあ。いや、そもそも余裕がどうしただの自体に気付かないか普通は。
「ありがとう孝一くん」
「いえいえ、こちらこそ」
「え? 何が? 栞、何かしたっけ」
「あー、行く場所をね。いい所選んでくれてありがとうって事です」
「ふーん……?」
不可解そうだったけど、話もまとまったところで教室へ。
いやーなんて言うか、今ならもう死んでも……いや、これはさすがに止めとこう。と言う事で、今でもまだ生きたい! …………むぅ、何か確実に間違ってるなこれ……
「うわぁ……広いねぇ」
教室に到着すると栞さんはドアをくぐったその場で部屋内部を一瞥し、その広さに半ば呆然とする。
この大学に入学してからこれまで散々いろいろな教室をたらい回しにされてきたけど、今いるこの教室が大学内で一番大きいタイプの教室だ。……いや、訂正。少なくとも僕が入った部屋の中では、です。入学したての一回生には縁の無いような教室も多々あるでしょうからね。
「こういう前に向かって坂になってる教室、実際に入ったのは初めてだよ。ちょっと感激―――あっ」
言ってから、口を手で覆う。さっきわざわざ人気のない場所で話し合っていた事を忘れるくらいには、本当に感激していたらしい。
二人しかいないとちょっと喋るだけでも大変だ。でもこれはこれで、スリルがあって楽しいかもしれない。
せっかく感激したところを黙殺するのも悪いので、廊下側から誰も来ないのと周囲に誰もいない事を確認してから返事をする。
「でもこういう所で丸い消しゴムとか落としちゃうと大変なんですよ。一番前まで転がって行ったならまだいいですけど、誰かの足かカバンに引っかかったりして途中で止まるとほぼ確実に見失いますからね」
追いかけて立ち上がっちゃってたりすると、見つけられずに席に戻るのが癪で自分から前列の人の足元じろじろ見て回る羽目になるし。ふぅ。
すると口を塞いでから辺りをきょろきょろしていた栞さんが、まるで言葉に釣られたかのようにくるっとこちらを向く。
「あ、経験者?」
思い出して喋ってる間に事件当時のイライラが口ぶりに出てしまったか、即座に見破られてしまった。
「…………まあ、はい。高校の視聴覚室がこんな感じでして」
僕は消しゴムつきシャーペンの芯を入れ替えようとしただけなのに、あの使いもしない円柱型の消しゴムは…………まあ使いもしないのに追った僕も僕なんですけどね。
「じゃあ前のほうに座る? それなら転がっちゃってもすぐ拾えるよね」
と言いつつ、こちらの顔を覗きこんできた栞さんは半笑い。嫌味なのは見て取れる。
「いーえ、一番後ろでいいです。友達が来ますからね。部屋の入口からすぐの場所ならすぐ見つけられますし」
どうやらまだ来てないみたいですからね、明くん。それに消しゴムはもう四角のしか使ってませんし。
手近な三人掛けの机の右隅に席を取りながらそう言うと、僕の隣に腰掛けながら栞さん。
「友達? って言うと、あの……持田くん? だったよね? その持田くんの話をしたって人かな」
ちなみに腰掛ける際、席の左隅から入ってこちらに詰めてくるのではなく、椅子の裏から直接僕の隣に入ってきました。もちろん椅子を跨いでではなく、すり抜けて。微妙に便利ですね。
「そうです」と返事をしようとしたその時、背後の入口から人の気配が。って言ってもまあ足音が聞こえただけなんだけど。とにかくそういう事なので、返事は小さく頷くだけに止めておく。
栞さんも自分が言い終わってすぐに人が来た事に気付いてしかも驚いたのか、目を丸くし、背筋をぴんとして沈黙。僕の首肯を受け取ると、前列へと歩き去るその人の背中を、まるで上官の退室を見送る部下軍人のように不動で眺めていた。
でも口を塞ぐのはいいとして、姿勢を良くして動かない事には何の意味もないと思うのですが。気持ちはまあ分かりますけど。
その人がある程度離れた場所の空いていた席につくと、栞さんがぐにゃりと机に突っ伏した。
「ふぁ~。びっくりしたぁ~」
しかし一人をやり過ごして安心しきったのか、その時真後ろに人が立っていた事には気付かなかった様子。
「おっす」
「ふぁっ!?」
後ろの人物に声を掛けられると、珍妙な疑問文を読み上げながら跳ね起きた。と言うか、ちょっとだけ跳ね上がった。
まあ声を掛けられたと言っても、その対象は僕であって栞さんじゃないんですけどね。
「うぉっ!?」
ね、明くん―――まあまあ、そんなに驚かないでも。
あー、授業中に居眠りしてると今の栞さんみたいな感じでビクッてなって目が覚める事ありますよねー。あれ恥ずかしいんですよねー。まあ僕はする側じゃなくて見る側ですけどねー。
栞さんはともかく、明くんのその悲鳴に教室の中の一割くらいがこちらを振り返る。
一割。意外とこんなもんですよね他人の異常事態に反応する人の割合って。これなら結構栞さんと堂々話しても大丈夫だったり………? いやいや、それはさすがに危ないか。
驚き合って見詰め合って硬直し合う二人を微笑ましく眺めている間に、居眠りどうこうやら世間の他人に対する無関心さを考える。
しかしそこで時間切れ。二人の時が再度動き出した。
「えーと、前連れてきてた人達とは別の人みたいだけど、この人も孝一の知り合いか?」
明くんはそう言って崩れた姿勢を正し、
「え……あ、な、なんだ。孝一くんのお友達かぁ。あ~驚いて損したぁ………」
栞さんはそう言って再び机に突っ伏す。そして続けて、
「そうだよね、前に見える人だって言ってたし」
憔悴した顔で情報の確認という独り言。人の流れに気を揉んだり驚いたり、本当にお疲れ様です。
で、明くんの質問ですけど、知り合いって言うか彼女―――いや、わざわざ言いふらす事でもないか。
「えっと、こちらは僕の部屋の隣にお住まいの―――」
手の平を返して栞さんに向けると、その栞さんはすっと起き上がる。潰れたままで自己紹介ってのもやっぱり変ですからね。
「喜坂栞です。初めまして」
「俺、日永明です。こちらこそ初めまして」
軽く頭を下げ合う二人。その時僕達の傍を二人組が通り過ぎるが、特にこちらを気にした様子は無し。明くんが一人でやってたら変だけど、隣に僕がいるからなんとも思われないのかなやっぱり。霧原さんの時だってそうなんだろうし。
するとここで九時になったらしく、チャイムが鳴る。
「えーと、隣いいですかね?」
「あ、はい。どうぞどうぞ」
明くんが打診すると、元から三人掛けの真ん中に座っていたのにちょっとだけこちらへ寄って来る栞さん。
いや、電車とかの座席とは違って席はくっきり三つに分かれてますからね。そんなに譲ろうとしなくても大丈夫ですよ。
左端の席にどっかりと座り込んで「ふぅ」と一息つくと、明くんは早速、今知り合ったばかりの栞さんに話し掛けた。多少ためらいがちな声で。
「あの、失礼かもしれないんですけど幽霊の方……で? さっき見える人がどうとか……」
「はい、そうです。だから、こういう人の多い所で話し掛けるのはちょっと気をつけたほうが―――あ、それでも話し掛けてくれるの自体は全然構わないですよ?」
語弊の発生を防ぐため、手を小さく左右に振りながら最後に注釈を付ける。
そうですよね、声に釣られて外に飛び出すくらい誰かと話すのが好きなんですから。
しかしそれを聞いた明くん、「はっ」と息を吐くように一笑い。そして机に両腕を掛け、体を前に倒して、栞さんより向こうの僕のほうを見た。それを察して、栞さんは体を少し後ろに反らせる。
「そんなの今更―――なあ孝一? 俺達、霧原先輩と普通に喋ってるし」
「え、ああ、うん、まあ……」
―――ああ、なんて言うか説明が難しい。栞さんが言ってるのはさっきまで自分達がこそこそ話してた事を受けてだろうし、明くんが言ってるのは霧原さん以外に深道さんと僕がいての話だろうし。幽霊さんと一対一の場合と一対複数の場合じゃあ結構状況が変わってくるんだけど……
「ねえ明くん、霧原さんって講義中はどうしてるのかな」
なので、唐突ではあるけど実例を出して訊いてみた。わざわざ一対一がどうとか説明するまでも無く、講義中なら二人だけだし。
それに答える明くんは、頬杖をつく。
「ん? こういうでかい教室でやってる講義なら深道先輩と一緒に話聞いてるらしいぞ。狭い教室のは人数が少なくて一人一人に目が行くから避けてるって言ってたけど。まあ万が一見える人が混じってたら大変だしな」
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