(有)妄想心霊屋敷

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新転地はお化け屋敷 第四十八章 ここにいない人の話 十一

2012-08-01 20:55:41 | 新転地はお化け屋敷
「で、どう?」
「うーん」
 身体を捻ったりしながら患者服姿を見せ付け、感想を求めてくる栞。しかしながら、正直なところ。
「似合ってるとか可愛いとか、そんなふうに感じる服じゃないよね、やっぱり」
「やっぱり?」
「パジャマっぽいって意味ではまあ、可愛いっていうのもなくはないんだろうけど……そんなこと考えてる場合じゃないっていうのがね、どうしても」
 ご期待には添えない返事だったかもしれません。が、しかし栞は気にしたふうでもなくこちらへ歩み寄ってくると、「これはまあ、おまけみたいなものだけど」とある品へ手を伸ばしました。普段は棚代わりの衣装棚の上に置かれていて、しかし食事にそこを使った際にベッドの上へ除けられていたそれというのは、つい先日までは常に付けていた赤いカチューシャです。
 それを頭に嵌めた栞は、にこっと首を傾けます。
「完成。これが入院してた時の私だよ」
「ずっとしてたわけじゃないでしょ? そのカチューシャ」
 入院生活が始まったのは小学生の頃だったといいます。その当時に買って貰ったものだとすれば、もちろんながら今の栞にサイズが合っている筈もなく。
「うん。だから、おまけってことで。孝さんのイメージ的にはこっちなんじゃない?」
「まあ、ね」
 入院している栞、というものを思い描く時、そこにいるのは今くらいの年齢の栞であって、小学生や中学生ということはありませんでした。となれば時期的にも、なんて推理じみた考えを持っていたわけではありませんが、その頭にはやはりその赤いカチューシャが嵌まっていたのです。
「そっちについては似合ってるとか可愛いとか、いくらでも言ってあげられるんだけどね」
「言ってくれていいよ?」
「……そのつもりだったんだけど、宣言してからっていうのは辛いものがあるね」
 などとまたしても照れてみせる僕を栞は笑い、するとその勢いに任せて――いや、別に勢いも何もなくたって普通のことではあるんでしょうけど――布団にその身を滑り込ませ、僕と並んで横になってくるのでした。
「眠くなった?」
「そういうわけじゃないんだけど、ちょっと実験というか」
「実験?」
 冷静ぶって、というほど緊張しているわけでもありませんが、ともあれそんな感じで尋ねてみます。
 何に対して冷静ぶっているかというと、そりゃあやっぱり患者服姿の栞です。似合ってるとか可愛いとかいう話を抜きにしても、そこにはまだ「その姿で暮らしていた頃の面影」というものが残っているわけで。いや、まあ、面影なんて言ってみても僕の場合のそれは想像上のものでしかないわけですが。
 しかしともあれ、栞のほうです。実験、なんて言いましたけど、はて。
「この格好でベッドで横になったらあの頃の思い出が湧いてきたりして、とか」
「それって大丈夫――なんだよね、もう」
「うん。もう、ね。しかもすぐ隣に孝さんがいるし」
 栞は天井を見上げていました。すぐ隣に僕がいる、とは言いながらも、こちらを向かずに薄目を開けて。
 それを横から見ていた僕は、こんな提案をしてみます。
「手、繋ごっか」
「どっちのため?」
「どっちも」
「そっか」
 うんとは言わなかった栞ですが、それでも僕の手を拒みはしませんでしたし、それどころか僕がそうしたのと同じく、あちらからも指を絡めてきてくれました。汗ばんだ手で申し訳ない、なんてことを思わないわけではないのですが、「どっちも」の中の僕の方については、そうなっている原因こそが手を繋ぐ理由だったりするわけですしね。さっきまでと同じく。
「手もそうだけど、栞、暑くない? こんな状態の僕と同じ布団に入ってたら」
「幽霊は暑さ寒さに強いんだよー」
「これもその範疇なんだ……」
 考えてみれば理屈としてはむしろそうならないとおかしいわけですが、それでもやっぱり違和感が。
 しかしそれはそれとして、病気がうつる心配はないということも合わせ、ならばこうして並んで横になることに遠慮や心配は必要なさそうです。だとしてもどうなの、という感情や感覚の問題については、もう目を瞑ってしまいましょう。そこまで気を回せる状態じゃないです、正直なところ。
「ごめん栞、もしかしたらこのまま寝ちゃうかも」
「眠くなった?」
「今のところはそうじゃないけどね。暫くしたらって話」
「そう。まあ、どっちみち謝るようなことじゃないけどね」
 考えてみればそうでした。と、考えなければそんなことも分からないほど頭が回らなくなっていることを自覚してみたりも。
 というわけで眠くなったら遠慮なく寝ることにしておきますが、しかし少なくとも現在はそうじゃない、というのは今言った通りなので、
「何か出てきた? その格好してた頃の思い出」
「あはは、気にさせちゃうよね、やっぱり」
「そりゃあね」
 気にしてるから手を繋ぎにいったわけだし、そうでなくても栞のことだし。特別な理由でもない限りは、いつだって何かしら気にしてますとも。
「というか、気にしてるほうが気が楽なんだよね。何も考えてなかったらただしんどいだけでさ」
「こんな時でも孝さんらしいんだねえ、孝さんは」
「頭こんがらがりそうな話だけどね……」
 僕が僕らしくなければ僕は一体誰らしいのか、なんて話は、今の状態で考えられることではありませんでした。頭が破裂しそうです。
 僕が僕らしくなければ僕は一体誰らしいのか、なんて話は、今の状態で考えられることではありませんでした。頭が破裂しそうです。
「で、さっきの質問だけど」
「あ。ふふ、忘れてた」
 なんでまた、と思ったところ、それを尋ねる前に繋いだ手をきゅっきゅと軽く握られました。そうですか僕のせいですか、なんて、恐らくは口元を緩ませながら。
「そうだねえ、いろいろ出てきたけど――やっぱり、ご飯かな?」
「やっぱり、でそれが出てくるっていうのは、話す相手が僕だから?」
「どうだろうねえ? 孝さんの影響があってっていうのは間違いないだろうけど、誰相手でもご飯の話してたかもしれないよ?」
 …………。
 これ以上はさすがにお見苦しいことになりそうなので、それまでは栞の方を向いていたところ、僕も栞と同じく天井を見上げることにしました。緩む口元を、なんとか栞とは反対側の一方のみにしておいて。額に乗せたタオルを手で押さえなくてもよくなるので、これはこれで楽なんですけどね。
「本当かなあ」
「あはは、まあ、分からないけどね。――でも、今のご飯とあの頃のご飯が全然違うっていうのは間違いないよ」
 声のトーンを若干落としてくる栞。ならば僕もまた、思考がそっちの方向を向くわけです。まあ声のトーンがどうあれ、食事についての具体的な話という時点でこうなっていたのかもしれませんが。
「どんなふうだった?」
「作業だね、一言で言うと。いちいち美味しいとも美味しくないとも思わない、決まった時間に出てくるものを噛んで飲み込むだけの作業。場合によってはそれすらなくて、点滴だったりもしたけど」
「…………」
 僕自身、自分が食事というものについて人一倍関心を持っているというのは自覚しています。ので、こんなことが気になりました。
「それ聞いて、どんなふうに思うものなんだろうね。普通の人は」
「さあねえ。――あはは、孝さん、普通じゃないもんね」
「喜ばしいことにね」
「うん」
 普通じゃないせいで今、恐らくは普通の人より一層強く気分を暗くしている僕なのですが、それでもやはり喜ばしいことなのでしょう。
 栞はその頃の食事を作業だと言いました。けれど、そんなふうに考えるのは現在の食事との比較があって初めて、ということになるのでしょう。口に含んだものについて美味しい美味しくないということすら思わないのであれば、それを自分が作業と感じているかどうかなんてより一層、頭をよぎりすらしないでしょうしね。
 ということであれば、比較となる「現在の食事」を提供できていることは、やはり僕にとっては喜ばしいことなのです。今現在の栞を幸せにしてあげられることはもちろんながら、過去の不幸せを不幸せだと思えてすらいなかったなんて、それはそれで不幸せなことなんでしょうしね。
「お腹空かないのに毎回ご飯の時間を楽しみにさせるって、本当に凄いことだと思うよ」
 栞はそう言いました。そしてどうやら、それと同時にこちらを向いたようでした。ベッドの軋みやら布団の動きからして、重ねてどうやら身体ごと。
 なら僕も、ということで額のタオルを手で押さえながら横を向いたところ、栞の手もタオルへと。どうやら、押さえるのを引き受けてくれるということだそうです。
「美味しいし、楽しいし、あったかいしね。私、孝さんの料理大好きだよ」
「どれだけ褒められても実践してあげられない状況なのが心苦しいところだけど……」
 強がりなのか弱がりなのか自分でもいまいち分かりませんがそんなふうに返してみたところ、すると栞、ここで何やら悪戯っぽい笑みを浮かべました。
「じゃあ孝さん、その代わりと言っちゃあなんだけど」
「ん?」
「キスしていい?」
「…………」
 えらく押してくるなあ、今日は。「こんな日だというのに」なのか、「こんな日だからこそ」なのかは、よく分かりませんけど。
「いいよ、もう。同じ布団に入りまでしてキスは駄目って、それもう踏ん張りどころ間違ってるとしか思えないし」
「ありがとう」

「……私だってさ」
 キスをし、唇が離れた後、けれど栞は寄せてきた身体までを離そうとはせず、むしろそれまでより更に身体を寄せてきさえしながら口を開きました。
「さすがに、普通なら遠慮するところだっていうのくらいは分かってるんだよ? でも」
 とそこで、栞の言葉に区切りが入れられました。言葉に詰まったのか、それともただの息継ぎだったのかは分かりませんが、僕はそれを確認したその瞬間に、栞の身体を抱き締めていました。今までは「それでもやっぱり風邪ひいてるんだし」と身体を寄せるのもキスそれ自体も栞に任せていたのに、この時ばかりはこちらから。
 栞の手が離れ、額のタオルがずり落ちましたが、気にしないでおきました。というか、気になりませんでした。
「うん」
「でも、孝さんは受け入れてくれるって、喜んでくれるって、そう思えてさ。そう思えることがすごく嬉しくて、だから」
「うん」
「あはは、自分勝手だよね、私」
「すっぽり抱き締められながら言う台詞じゃないと思うけどね」
 それが本当に自分勝手であったなら、僕は嫌がっている筈なのです。だというのに今の状況は、でもそれどころか、とでも頭に付けなければならないような。
 ……当たり前ながら、栞のこの様子は病院生活をしていた当時のことを思い出して、ということなのでしょう。今はもう思い出しても平気なのでしょうが、しかしだからと言って、それらの思い出に対して何も思わないなんてことは有り得ないのですから。
「熱出して横になってても、これくらいのことはしてあげられるからね」
「うん」
「これが精一杯だったりもするけどさ」
「充分だよ。本当だったら求めるべきじゃないんだしね、病気の人にこんなこと。甘えさせるならともかく、こっちから甘えに行くなんて」
 間違ってはいないので、だったら正そうとはしないでおきました。僕はそうじゃない、というのは、把握してくれているんでしょうしね。だから今こうなってるんですし。
「だから、もういいよ。ありがとうね、孝さん」
「ん」
 ということだそうなので、最後にそれまでよりちょっとだけ強く抱き締めてから、栞を解放しました。――解放、なんて、熱くなってるうえ汗だくな自分を顧みると実にピッタリな表現なのでした。
 とはいえ、その後も手だけは引き続いて繋ぎ続けていたりも。
「孝さん、まだ眠くない?」
「ん? なんで?」
「ちょっと長くなっちゃいそうな話がね。……あはは、もういいよ、なんて言ったばっかりなんだけど」
「大丈夫だよ」
 さらっと答える僕にくすっと笑んでみせる栞。話があるということであるならこれは甘えに行くのとは違うんでしょうし、だったら「もういいよと言ったばかり」というのは何の関係もない――というのは少々、好意的な解釈が過ぎるんでしょうけどね。まあしかし、そうしていられる余裕があるということで。
「厳しい言い方になっちゃうんだけど――あ、これ、一貴さんの話なんだけどね?」
 随分戻りましたが、しかし今回の話の大元はそれと道端さん大森さんの話だった筈なので、ならばこれはただ話題を戻しただけということになるのでしょう。そんなふうに考えるとより一層、こんな状態で何イチャイチャしてんだ僕は、なんて。
 まあしかしそれはともかく、
「もし前の彼女さんに会えたとしても、そこからすんなり事が運ぶとは思えないんだよね。亡くなって――から、かなり時間が経ってるみたいだし、だったらその間にいろいろあったんだろうしね。一貴さんも前の彼女さんも、お互いに」
「幽霊になったら人が変わっちゃったっていう話?」
「それも一つとして、いろんなこと」
「……まあ、そうだね」
 具体的な例えとしては、諸見谷さんという新しい彼女を迎え入れたこととか。諸見谷さんは平気そうでしたし、一貴さんもそれに安心していたようですが、それを前の彼女さんがどう思うかは全く分からないのです。嫌がるかもしれません、というか、一般的には嫌がって当然なのでしょう。
「そうなった時に話をいい方に持っていけるっていうのは、よっぽど――なんて言えばいいのか分からないけど、本当によっぽどじゃないと、難しいと思う。楓さんや高次さん、四方院の人達なんかは仕事としてやってるからその辺りの技術があるけど、気持ちだけで向かい合うわけでしょ? 今でも好きだっていう」
「そうなるね」
「それが大事なものだっていうのはもちろんだけど、不確かなものだっていうのも間違いないからね。その不確かなものだけで前の彼女さんを説得できるのかって考えたら、楽観的にはなれないよ、やっぱり」
 そこは流石にちょっと考えましたが、
「……そうだね」
 同意せざるを得ませんでした。大吾が庄子ちゃんの話をした時にも言いましたもんね、『どうにかしようとはするだろうけど、やっぱりどうにもできなかったんじゃないかな』って。あれだって同じような話なんですから、あっちが無理でこっちは大丈夫なんて、理屈が通りませんもんね。
 ところで、こういった話というのはやっぱり自分達にも帰ってきます。改めてそんなふうに考えるまでもなく、これまでだって散々、行き着くとことは結局僕達自身の話だったわけですが。
「だから一緒に暮らそうとするのかな」
「ん?」
「不確かなものだからずっと確認し続けなきゃならないのかなって。好きだとか、愛してるとか」
 結婚とか同棲とか、何を求めてそんなことをするのかと考えると、僕達の場合はそうなるのでした。
 一般的な例を上げれば、経済的な面だとか、いずれ産まれてくるであろう新しい家族のことを考えてだとか、そういう理由もあるのでしょう。けれどそれらが関係ない僕達だって、やっぱりこうして結婚し、同じ部屋に二人で暮らしているのです。「お隣さん」のまま関係を続けていたって、事実上何の問題もないというのに。
「そうかもね」
 こちらが長々と考えていられるだけの間を挟んでから、栞は同意してみせました。
「確かなもの……例えば形のあるものだったとしたら、それはそれで味気ない気もするけどね」
「んー。そうだね、それもそうかも」
 はいこれ愛どうぞ、とその「形ある愛」を無造作にテーブルに突き出しているところを想像すると、味気ないどころか笑いそうになってしまいました。そんな愛があってたまるもんかって話ですよね。はいどうぞって、お茶じゃないんだから。
 …………。
 で、まあ、真面目な話に戻りまして。
「だからこそ、ね。一貴さんの場合、別れてから時間が経ってることが大きくなっちゃうんだけど」
「どうしようもないことではあるんだけどね」
「そうなんだよね……」
 人間社会の中では、幽霊は存在しないということになっています。ならば先立たれた側が「じゃあ捜そう」なんてことにならないのはもちろん、先立った側だって、「じゃあ戻ろう」なんてことにはならないのでしょう。
 例えば道端さん大山さんの家族や恋人のように、人が変わりもするのでしょう。
 例えば大吾や清さんのように、家族から距離を置こうともするのでしょう。
 例えば栞のように、病院から出られなくなったりもするのでしょう。
 常識がひっくりかえるほどの、ではなく、まさに常識がひっくり返るのです。しかもそれは、自分の身に起こったこととして。
「栞」
「ん?」
「ありがとう、ここにいてくれて」
「どういたしまして。で、どうしたの急に?」
 受け答えの手順が違うような気がしますが、まあ、いいでしょう。ちょっと笑ってしまいましたが。
「栞だって――まあ、いろいろ状況は違うけど、家守さんと出会うまで暫く病院で一人きりだったんでしょ?」
「うん」
「それがこう、なんていうか……」
「ちゃんと立ち直って?」
「そう、そんな感じ」
「止めを刺した人が言うことじゃないと思うけどねー」
「止めって」
 いや、言わんとすることは分かるのです。家守さんが切っ掛けを作って最後は僕が、ということなのでしょう。しかし、だからといって止めというのは、なんというかこう物騒というか。
「こんなふうに言っちゃうと、孝さん怒るかもしれないけどさ」
「ん?」
「傷跡のことを伝えて思いっきり怒られたあの時に、私はもう一回死んだんじゃないかなって。そんなふうに思わなくもないんだよね」
「…………」
 怒るかもしれない、と言われたこともあってやや身構えて聞いた話ではありましたが、特に怒りが湧いてくるようなことはありませんでした。というか、混乱してそれどころではありませんでした。
「ええと、どういう意味?」
 しかし栞はこんな反応も予期していたのでしょう、説明に入るまでには一切の淀みがありませんでした。
「幽霊って――まあこれも人間的な見方なんだろうけど、よく言うでしょ?『肉体を持たない』みたいなさ」
「まあ、ね」
「ってことは幽霊って、というか私って、これまたよく言う『精神体』ってやつなんだよね。それが正しいのかどうかはひとまず置いといて」
「うん」
 幽霊というものをファンタジックな想像物として扱っている世界での言葉なので、それが本質を突いているということはないのでしょう。しかし取り敢えず、ここは大人しく栞の話に耳を傾けてみることにしておきます。
「ということはさ――間違いなく精神に大きな変化があったあの夜っていうのは、じゃあ精神体である私としては、生まれ変わったも同然なんじゃないかなって。精神体って、要するに身体も精神で出来てるってことなんだし」
 生まれ変わった。言い換えればそれは一度死んだということになるわけですが、ニュアンスは随分と違ってきます。ならば恐らく最初に言った「もう一回死んだ」というのも、こちらの言い方の方が本心に近くはあるのでしょう。
「……まあ、少なくとも」
「ん?」
「怒るような話ではなかったかな」
「ふふ、そっか」
 つまるところ、これは例え話です。事実だと思っているなら怒るところですが、そうでないというのは確認するまでもないでしょう。
「死んだっていうのは、今の自分から切り離して思い出にしたとか、そういう意味なんだよね?」
「そうだね。――あはは、なんで私より上手く纏めちゃうかな。『死んだ』なんて言っちゃってるのに」
 つまりあの頃の、世界全体を呪っていた栞はもう「ここにはいない」と。思い出として「ここにある」だけだと、そういうことなのでしょう。
「栞の場合、自分の話だからね。上手い下手じゃなくて、強い言い方になるのは仕方ないと思うよ。そのほうがいいんだろうとも思うしさ」
「そのほうがいい?……の、かな? 自分じゃあよく分からないけど」
 ふむ。自分のこととなると、やっぱりそれくらいの認識なのかもしれません。
 体調のこともあって今日はもうないかと思っていましたが、しかし結局いつも通り、僕は栞の傷跡の跡へ手を伸ばしました。
「僕のこれは手助けでしかないからね。乗り越えられたのは――『死んだ』ことにできたのは、栞自身の強さがあったからだよ。弱い言い方で問題を小さく見せかけてじゃなくて、強い言い方をしてそのうえできっぱりと、っていうのはね」
 すると栞は、傷跡の跡に触れる僕の手に自分の手を重ねてきつつ、しかし曖昧な笑みを浮かべてこう言いました。
「問題を大きく見せかけるってことだよね? 自分で自分の足引っ張ってるみたいだけど」
「自分に勝つってそういうことだと思うよ。勝つどころか死なせちゃったしね、栞は」
「……少なくとも、負けるわけにはいかないよね。大好きな人が手助けしてくれてるのに」
 ふむ。どうやら栞は、どうしても手柄を僕に譲りたいようでした。
 ならばちょっと卑怯な手を使ってみましょう。
「あんまり長引くとしんどいんだけどなあ。ゲホゲホ」
「あっ、ずるい。こんな時だけそんな」
 非難されてしまいましたが、しかしそれは効果があることの裏返しだったようで、狙い通り栞はそれ以上何も言えなくなってしまうのでした。無理矢理に口を封じただけなので、何か言いたそうな目はしていましたが。
 そんな顔も可愛いなあ、なんて思っていたところ、けれど一分も経たないうちに栞は再度口を開きます。
「そんなこと言うからには孝さん、早くよくなってよね」
「なんだかんだでこれだけ喋れてるんだし、今のところそんなに長引きそうな気はしないけどね」
 これで重病だとか言ってたら本当に重病な人に失礼な気がします。栞だって、今はそうでないにせよかつてはそうだったわけですし。
 そんな考えに次いで「心配してくれてありがとう」みたいな言葉が口から出そうになりましたが、けれどさすがにそれは当たり前過ぎるだろうということで、引っ込めておきました。
「孝さんの場合、どんなに酷くてもお喋りしてそうな気がするけどね。あ、もちろん、今は私がそうさせちゃってるっていうのはあるんだけど」
「あはは、確かにそれはなくもないんだろうけど――でも栞、そういうのはもう考えるだけ無意味だと思うよ?」
「え? なんで?」
「有り得ないでしょ、もう。家で大人しくしてる時、傍に栞がいないっていう状況は」
「いやいやそれはそうだろうけど、でも結局は私が静かにしてればいいだけの話で」
「静かにしてられないのはお互い様だよ。ちょっと前にも言ったけど、喋ってるほうが楽なんだしね僕」
「むむう」
 栞が静かにしたところで僕が自分から喋り始める。となったら当然、栞もその受け答えのために口を開き始めるわけで。
「そういう男と結婚しちゃった時点で諦めなさい、いろいろと」
「あーあ、変な人選んじゃったなあ」
「後悔した?」
「すると思う?」
 どうやら愚問だったようで、にこにこしながら髪を撫で返されてしまうのでした。


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