レダック ピースボートに乗る

2014-04-30 18:46:16 | 日記
⑨ 洋上生活<3> 問題や!!!(4/21~23)
 これだけ寄港が続くと寄港日は出勤日、航行日はお休みの日みたいな感覚になっていって、また実際バテテくるので、おまけにこのブログ書きがお仕事みたいになってきて、数日遅れのことを思い出しながら書くという形になってきて、起床時間も遅くして、朝運動までとりやめて体力維持に努めてという形をとりだしたりして、またまたレダックの参加した講演で問題があり、さらにお仕事じみてきました。
 ピースボートは、名前や由来からして、寄港地・国・地域にまつわる平和・環境・人権上の課題を洋上生活の間に考えてもらうというスタンスをとっています。そのために「水先案内人」と名付けた学者・ジャーナリストや、現地の運動家などによる講座を設けています。このため、ピースボートそのもの、あるいは講師のスタンス等を政治的に問題にしネット攻撃をする人々もいます。しかし、問題はそれにとどまらず、乗客の側にもあります。上記のようなことを深く知りたい(訴えたい)ということを参加の動機の一番に挙げる人は少数だけれども、教養としては知っておきたいという人も少なくないのでしょう。だから、500人くらい入る一番広いラウンジで、毎日3本ほどメインテーマの講演会等が開かれており、結構一杯になります。(独断と偏見を十分承知の上でいえば、ちょっと革新的なスタンスはとっておきたい?全国紙で言えば朝日新聞的?教養講座的?といえるでしょうか?言い過ぎかな?)と、ここまで前説ネ。
 デ、ロマの女性活動家Pさん(国籍はスペイン)による3回の連続講演の企画があり、ジプシーとして知られているロマの差別の状況、解放への取り組みなどに関しての報告がありました。会場質問にもありましたが、Q「ジプシーは差別的な用語ではないか?」:A「差別的な状況で使われたら、差別用語だ」という認識では、レダック的には「ウーン」となります。私見では言葉は流布する中で、人々の思いがニュアンスとしてその言葉にまとわりつきます、いわば手垢がつくのです、それが侮蔑的、排外的、劣等視の手垢にまみれてくると差別的な用語となっていきます。ジプシーもそのような用語なので私は以下ロマと書きます。(この私の認識は後半に関係してきます。)
 彼女の言説では、ロマは10世紀ころインド地域で起こった紛争を嫌った人々が西へと漂泊する民になっていくというのが始まりのようです。中東から全ヨーロッパ地域に流れていきます。しかし、家族第一主義、定住よりも移動生活でも可能な生業ナリワイを主とする、などの経済的・文化的差異のため、異端視され差別・迫害されてきたといいます。ロマの言葉を喋らせないよう舌を切るとか、不妊手術とか相当エグイことも行われたようですし、ナチスの迫害はユダヤ人だけでなくロマにも及びました。現代社会でも、つい先年、スエーデンでロマに対する迫害があったことを認めたそうです。(日本でもアイヌを旧土人と呼ぶ法律が改正されたのはそう古くではなかったことを思い出しました)
 教育の分野でも地域住民との分離・隔離政策や、養護学校にしか入れないなどが今も続いているらしい。彼女は女性解放の立場からのコミットもしているそうです。ただ、差別の存在理由は、差別する政治家がいるから、経済的要因は資本主義の価値観と衝突するからとしか聞き取れなかったのは、私の理解力不足か? 
それで、勇気を奮ってQ「差別の理由は、政治家が、ロマは自分らの文化を守り、国民として戦争などでは頼りにならぬと考えているとしか聞こえない、だとすれば徴兵に対してはロマはどんな立場をとるのか」 A「1点目すれちがい、2点目 スペインでは徴兵制は無い」 エ、ソウナノ。認識不足でした。
 問題にしたいのは2回目のことです。事務局か講師のどちらの提案か知らないが、「皆さんも身のまわりの差別について10分ほど討議してください」というということになり、近所の席での話になった。そしていくつか発表を求めたところ、一人のオバさんが「日本でもそういう人がいる、問題がある」と言って、得々と蔑称語を連発し始めたのである。驚いた以上にショックだった。晩飯に一杯飲んだことは関係ないと思うが、不覚にも悔し涙がこぼれてしまったのだ。「私は東京なので詳しくは知らないが」・・なら、喋るな、「関西では」・・黙れ!「なんでも、肉屋さんなどに多く」 アウトや。差別発言や!!! でも、鼻水拭くので忙しく、抗議の声もあげがたく、次のグループの発表に移ってしまった。
 このままでは終われない、会終了後、進行責任のピースボート・スタッフKさんに話し合いを申し込む。過去と現状との意識的混同や、当事者の思い抜きの興味本位の知識ひけらかしは偏見の拡大につながりやすいこと、現に人権問題・同和教育に携わってきた者にとって悔しすぎることを伝え、次回に抗議の声があったことと、事務局の見解を聞きたい旨申しいれた。Kさんも「問題だ」という認識はあったようで、快諾してくれた。
 そして3回目の冒頭、Kさんは、「人権問題を語る時、様々な意見・思いを持つ人がいることに留意する必要があり、現に抗議もあった」ことを言明したので、マ、許したろカ。それで講演者への上記質問になったわけです。しかし不十分だ、終了後も話をさせてほしいと頼み、Pさんに「前回の乗客の一人の発言は不十分な理解に基づくもので、これをもって日本の人権問題を語ってほしくない」こと、二つ目に「克服・解決の道筋を示しながら、取り組みの成果が進んでいることも知ってほしい」ことを述べ、理解してもらった(と思う?スペイン語だからね)。若いPさん、がんばってネ。

⑩ スペイン モトリル(4/24 木)
 またまた3日連続の寄港日が続く。スペイン南部アンダルシア地方に太陽海岸と呼ばれる地域がある。その中のモトリルという港町に寄港するのだ。ここから内陸にバスで1時間半ほど北上すると、グラナダのアルハンブラ宮殿に行けるし、クロマニヨン人の住居遺跡や彼らが描いたとされる壁画のあるネルハという地へのOPがある。判断つかず申し込まなかったので自分らで散策することにした。どうもアルニューカルと発音しにくい街まで行けばどちらの方面にも行けるようだ。30分ほどで着いたのだが、その道中がすごい。高速並みの気持ちいい道路の眼下に地中海―太陽海岸がひろがっている。ここを歩くというOPもあったようだで、ピースボート軍団の豆粒くらいの一行の姿も見えた。この街並みもなんとなくいい雰囲気だし、ネルハ行きバスが2時間待ちで、行けても帰りが心配なので、この街を探索することとした。ブラブラ歩くうちに12時となり、カフェで食事も頼んだのだが、でも何となく勝手が悪い。客は私らだけなのに半時間近く待たされる。そうでした、昼食には早すぎるんですね。ラテンの時間感覚を忘れていた(エビは新鮮でお得だったけれど、肝心のパエージャがべたついて期待外れ)。時間感覚と言えば、海岸の展望台から改めて太陽海岸のすばらしさを見てから、急峻な坂道をよたよた登って観光名所のお城にたどりついたのに閉まっている??よく見れば14時~16時はシェスタ午睡の時間。思わず、大声で「殿、ご開門をー」と叫んだ。嫁さんが、軽蔑の眼差しで見ている。ここを降りる道も、ミニ・ミコノス島みたい。観光地図頼りに降りていくと今度は植物園風(これも当然閉まってます)、Bonsaiとある、盆栽も世界語なんですネ。教会も外観を見るだけ、16時まで待てず15時のバスでモトリルに帰りました。
そこでタパスを食するためにBAR(バルと読む、バー 気軽な居酒屋のこと)に立ち寄りました。タパスとは、そこで出されるアテ、つまみの小皿のことで店ごとに自慢の品が出てくるという。ピルゼン(ピルスナー)ビールとともに、タパスを頼んだところ、生ハムとパンのお皿、オリーブのお皿の二つが出てきた。オリーブがおいしい、病み付きになりそう。そして、勘定を頼んだら、ビールと妻のコーヒーだけで、件クダンのタパスの分はついていません。サービスということらしい。感激! その店の他の席では、ピースボートのHさん(航路説明をするえらいさん)が船員と、そのうち別の店の客(もと船員のようだ)と親交を深めていた。まっ赤な顔をしていたので、店を出るとき「帰船時間遅れないよう」と言い置いたら、最初キョトンとし、やがて豪快に笑っておられた。
 いい街だ。1日だけしかスペインには立ち寄らなかったが、逢坂剛の小説などから、ゆっくり来て見たいと思う国だ!可能性??

⑪ ジブラルタル(英領) (4/25 金)
アア、知らなんだ、知らなんだーー。ジブラルタルはただの海峡の名と思っていたのに港がありそれも英領、スペインの先っちょが英領?! おまけに反対側のアフリカ大陸はモロッコなのに、それも先っちょだけが今度はスペイン領でセウタという?!
この疑問も水先案内人と呼ばれるジャーナリストIさんによって事前講習を受けました。しかも、それを定めたのがユトレヒト条約とのこと。何世紀遡るのかな。いろいろ転変があり、またこの2、3年、英国とスペインの関係がこの地を巡って緊張気味だそうだが、まあいい、読者諸氏もいいかげん歴史の話に疲れたことでしょうから、早速、英領ジブラルタルの町に繰り出しましょう(狭いのでOPは申し込まず)。
軍事・交通の要衝でありますから南端に灯台があります。ヨーロッパ側の南端という意味でヨーロッパ・ポイントと言われます。そして△の岩山が特徴的で、海沿いに市街地が山にへばりついていますが、変わっているのはスペインとの国境線に沿うように飛行機の滑走路が伸び、海上に少し突き出ています。辺野古もこんな風にやられるのでしょうか。離着陸は見れませんでしたがジェット雲が延びていくのを2回確認しました。その近くに船のターミナルがあるので、市の中心部までは20分ほど歩いて行かなければなりません。観光地としても人気があるようで欧米人が溢れかえり、昼時なんぞは肩の肌や胸元を露にし夏バカンスモードのおば(あ)さんたちが闊歩しています。ただ、ユーロも米ドルも使えますが、この地独特のジブラルタル・ポンドが通貨で、郵便切手はこれでしか買えないために、両替をしたところ50€=40ポンドだから、1ポンド=170円といったところでしょうか。観光ポイントはケーブルカーで展望できるところに上がると地中海とジブラルタル湾が望めます。そして野生の猿が集い、観光客の人気を集めおり、時たま嬌声も聞こえます。「何が珍しいねん? 動物園でいつでも見られるやん。大阪では箕面に行けば・・」と内心毒づいていたのですが、そうです、ニホンザルではないのですネ。まあ、しかし、お天気にも恵まれ、地中海の海と空の美しさに昨日に続き感動ものです。でも、遅れて登ってきた同じピ-スボートの若者たちの「ワー すげえ」と何回も大声で繰り返しているのが聞こえてくると(このまわりくどい言い方は聞こうと思っているわけではないのに)「感嘆詞以外の言語感覚の乏しいやつらめ。しかも外国人いっぱいいる中で傍若無人に日本語わめき散らすな」と思ってしまいます。もうおじいさんなので、黙って離れるだけです。
デ、山をおりたところのカフェでお茶を兼ねてランチといたしましょう。サンドイッチのつもりが、サーディンが今日はおいしいというので、ついビールも。焼いた皮が香ばしくて、鰯を見直したわけです。ポンドではちょうどこのビール分くらいが不足するのでユーロ―を使い、土産物屋街をぶらぶらし、孫の土産をポンドで買いました。あと6ポンドと小銭が残りました。帰船リミットが近づいてきたので、最後に冷たいものを食べようとスムージーの店で「はう、まっち」とやると一つ3.5、二つだと7ポンドということです。6ポンド出し、小銭のポンドを全部見せ、これで1ポンドあるかと聞いたところ、3枚の硬貨を返してくれて、「not 7、but our charity」ダッテ・・施しをうけたのです(連日のラッキー賞です)。残った3枚は2枚が2ペンス、1枚が1ペンス、あわせて5ペンス=8円くらいで、大道芸人にあげたらと言います。コーヒーとラズバリーのスムージーは入れたアイスクリームがいいのでしょう、とてもおいしく、冷たく、気分よく帰れました。でも、こんなに硬貨多いとはネ。日本で言えば1円、2円、5円、10円、20円、50円(ここまでペンス)に、やっと1ポンド(これも硬貨)、なんてややこしい。
この海峡を越えれば、そこはもう、大西洋!!

レダック ピースボートに乗る

2014-04-26 02:57:17 | 日記
⑦ イタリア バーリからマテーラ観光
アテネの外港ピレウスを出港したピースボートは、戦争の名前で憶えさせられたペロポネソス半島をグルッとまわり、アドリア海に入る。目指すはイタリアの長靴、というかハイヒールの踵のあたりのバーリBariという港町。ここのOPは世界遺産洞窟の町マテーラ観光(13000円)。バーリからは、とんがり屋根にいたづら書きをしたような童話に出てくるような街並みのアルベルベッロというOPもあったのだが、洞窟の町といううたい文句にひかれた。4/18(金)は今までになく寒い日、天気予報では15℃~6℃でおまけに雲行きも怪しい。風に吹かれれば体感温度は真冬並み。桜の花びらに送られて出国してきたというのに、また2月の気候に逆戻り、だが、見学中は寒さも忘れるほど「スゴーイ」光景だった。高低差のある街並みを通り、教会前の広場から向こうを見やれば、想像を絶するような光景が広がっている。二つの谷沿いに家が埋めつくされており、その中でにいくつか教会が見える。その全貌は僕のデジカメではとらえきれない、写真もやがてアップするけれど、腕も悪いしそれでも分かりにくいだろう。巨大なもの好きと以前書いたが、これも凄い、僕のBig5に入るでしょう。自然に依拠した人工物としては、ペトラとは違う意味で感動もんです。
何でも、10世紀のころ、イスラムの迫害を受けた人々が、このあたりの岩山の洞窟に居住するとともに、墓としても使用してきたらしい(トルコのカパドキアとの類似性からか?)。そして岩山は凝灰岩で柔らかいから、自由に掘り進み、教会や住居を建てていったらしい。しかし、このような形で住居を求めざるをえないということは貧民窟化することを意味するわけで、1960年ころには3万人ほど居住するようになっていたという。市当局としては、合法的建築物ではないし、インフラ整備されていない、衛生面などの心配もあるなど、住民を強制退去させたという。しかし、あまりにも巨大な地域で、すでに観光地化し始めており、一定の環境整備したうえで一部住民?の帰還を認め、今では2千人ほどの住民が暮らしているという。その街中を少し歩いた、つまりは坂を登り下りし、博物館化された1軒?1穴?の洞窟の家を見学した。2mほどの高さの洞窟の形に合わせて3つくらいに分かれ、一番広い所にベッドと食卓、ちょっと低い所が馬小屋(馬の塑像もおいてある)、小さな区切りのところは一応台所というもので、人間と家畜が同居せざるをえないということ。土産物屋に立ち寄って、少しぶらぶらしていくうちに、気がつけば教会前広場に戻ってきていたのだから、多分ごく一部にしか立ち入らなかったのだろう。
(またまた閑話休題「ガイドさん、迷路みたいであんまりはやく行かないで、ちょっと待って、待ってーら」などと国辱的なダジャレなど言うはずがありません)
そして、今日は、カソリックのおひざ元の国でイースター復活祭の始まりの日に当たる(正教もたまたま今年は日が一致するそうだ)。この広大な丘の一方の頂に3つの十字架が建てられているのが見えます。イースターのお祭りの儀式として、今夕にマネキンを使い処刑を行う予定とガイドさんが説明していた。そのためか、イタリアの国営TVの中継車が狭い谷間の道を大きな音を立てて走り回っていたのも印象的だ。
(南イタリアへは行く機会は少ないだろうけれど)世界遺産指定され一見の価値があると思うが、よーく考えれば、目的有っての見学ならまだしも、観光などというのは、住民から言えば、傲慢で失礼な話だよネ

⑧ クロアチア ドブロブニクと、モンテネグロ コトル
4/19(土) バーリの港を夕方出港したピースボートは、夜中にアドレア海をほぼ北上し対岸のドブロブニクに着きました。ミコノス島の「白」に対し、こちらは橙に近いレンガ色の屋根で覆われた美しいたたずまいをみせる街です。世界遺産の一つで、旅行案内などで人気となってるのかこの街の発音しにくい名前も何度か見聞きしたことがありますし、訪れた経験のある人と話していた時絶賛されていたので、何となく知っていたのですが、そもそも国名がピント来ません。私の場合だと、ナチスドイツを追い払ったパルチザンの指導者チトーさんが大統領として率いるユーゴスラビアは、東欧だから社会主義体制だったけれど、ソ連からの一定の自立性を持った国という記憶しかありませんし、せいぜい、その後なぜか紛争が続いていきたらしいという不確かな知識しかありません。多分、乗客の多くも同程度の知識水準と推察されたのでしょう、⑥で書いたように、4/17に入門的講演(および事後、4/23「旧ユーゴ紛争に何を学ぶか」)が企画されており非常に参考になりました。この講師Cさんは話もうまく、メッセージも明確でした。またまた、煩瑣な知識紹介は避けたいと思いますが、読者諸君もあまり変わらないと思いますので少しだけ触れます。(サッカー好きならジーコのあとの全日本監督のオシムがクロアチア人であるとご存知かもしれない、そして、このCさんがオシムさんの通訳であったことからオシムについての講演もあったがここでは省く)
・ユーゴは南の、スラビアはスラブ人の住む国という意味だそうで6つの連邦共和国として形成されていた
・チトー死後、ユーゴは国際経済の危機に見舞われ連邦としては崩壊していく
・各連邦共和国ごとの選挙では当該連邦の民族政党が勝利し民族主義が台頭した
・そしてあほなミロシェビッチという大統領のせいで1991年から始まる5つの紛争・戦争が起こり、多くの犠牲者を出すという代償を支払ったうえ今は7つの国になっている
など。
デ、寄港するからというだけでなく、この時の教訓から学ぶことが多くあるとCさんは言います。言語・宗教などの面からなるほど民族は異なるにしても、ユーゴスラビアとして連邦をくんでいたように兄弟民族といえるほど近親性が高い、にもかかわらず、自民族が犠牲者・被害者であり、その回復・復権を叫ぶ民族主義の台頭はなかなかとどめることが難しいと言われます。そして、紛争のあった20数年前と違うのは、日本も今や、すでに領土問題などで民族主義が煽られだし、ヘイトスピーチなどの兆しが見られるではないか!紛争当事国になっているのではないか!? とりわけ阿部さんの矢継ぎ早のナショナリズムへの動向への警告などが強調されました。ここまで、詳しく説明したのは、Cさんの意見に同感のところが多かったからでありますが、クロアチアも、モンテネグロ(黒い山の意)も、このユーゴ紛争後の名前であり、20年ほど私の世界認識は止まっていることに気づき愕然とさせられました。世界史で覚えた「マケドニア」っていうのもこの7つの国の一つって知ってました?また、このドブロブニクにも戦火の深い爪痕が残り、屋根を葺きかえて色調も微妙に違うそうです。
それはともかく、ワイン攻撃の2日間ではありました。19日のOP「コナブレ(地名)地方の陽気な生活体験とドブロブニク観光」、20日のモンテネグロはコトルという港街からのOP「モンテネグロ観光」も、バスが着いた先で10時くらいの朝ッぱらからワインを試飲するという嬉しくも、ホンノリ酔って歩くのがしんどいという贅沢な2日間でした。言い訳になりますが、OPではワインのことなど書いていませんでした。特にドブロブニクでは、ワイナリーのオーナーは日本好きで4種類も試飲させてくれましたし、1時間半後の別の昼食会場ではいわば飲み放題、出されるものはボリュームが多いので食べ放題に近い状態の上、ギター・コントラバス・アコーディオンの弾き語り付きの大宴会・・。そして私が驚いたのは、踊りだす人がアレヨ!アレヨ!と増え始め、10数人が踊り狂う。それも男性も・・・、そしてカメラのシャッターが切られる。20分もそんな喧噪が続いたでしょうか? いやあ、日本も変わってきたものです。というより、ピースボートの乗客が、特異なのでしょうか? (多分そうなのでしょう。このことについては、もう少し余裕が出たときに書きます)
 赤い顔の人々を乗せたバス車中でも陽気な話し声が続くのですが、ひときわウルサイのが隣の座席の最初に踊りだしたおば(あ?)さん。旧市街に着くまで「アー楽しかった」と友人に話しています。ウルサイけれど、そんなに楽しいのなら、と博愛精神で文句を言いませんでしたが・・(このパワフルばあちゃんの相手をしたら、どんなことになるか予測がつかんというほうが当たっていますが・・)。
さて、旧市街は、遠望した街並み以上に城壁都市としても有名だそうです。ピースボートの着いた港以外のもう一つの港を抱える形で城壁が総延長距離2Km築かれ、その内部に教会、市庁舎、家などがあり、メインの通りは300mとのことですから、大体想像してもらえると思います。一通りガイドさんの説明を受け、自由時間ももらったのですが、城壁に登って歩くというほどの時間は無いので残念ながら断念することとし、広場のフリーマーケット風の店屋を覗いて回りました。野菜、土産物の香料や工芸品・ドライフルーツなど目移りするものが多くありました。残念ながら16時にバスは港に帰りましたが、タイムリミットは22時と帰船時間まで結構余裕があります。ワインのほろ酔いも薄まり、この機会を逃すはずはありません。もう一度土産の荷物を船室に置くや否や、取って返しました。しかしクロアチアではクーナという通貨が使われ、城壁歩きの料金はクーナでしか払えません。そこでカードで200クーナ分引き出しましたが、料金を聞くと一人100クーナと全額ピッタリ賞、買い物も食べ歩きもできません。よく考えれば、1クーナは約20円なので、料金一人2000円、それくらいはしますよねー。観光地をナメてはいかん。でも城壁散歩は、高低差、道幅、広くなって銃眼や大砲の設置してある砦風の場所、壁のすぐ横が住居に使われており洗濯物に手が届きそうな場所など多彩なので半時間はあっという間に過ぎました。旧市街に降りて、クーナを持たぬままだったこともあり(何も「クーナ」ってこと)、教会に入ったところ(クロアチアはカソリック中心)立派なパイプオルガンもあり、どんどん人々が詰めかけてきます。そうでした、イースターの儀式が始まるのです。こんな経験めったにないので、異国の異教徒(っていうか、確信的無神論者!そのほうが性質タチが悪いかな?)が参加したのです。ろうそくの灯をうつし、同じように立ち、讃美の歌か祈りの歌か知らないが皆の歌を聞き、区切りいい所で抜け出し、何も食わずに帰りました。
翌日のモンテネグロは国土の3/4が山で、25回同じような坂を登って海抜900mから下界を眺むれば風光明媚なはずなのに、天候不順でガスっている。おまけにワインの試飲の最中には雹が降ってきて、1Cm大の雹が飛び跳ねるのをはじめて見た。この地の王族ロマノ何世とかの館を見て、また城壁都市を見て・・ということなので、特記事項無し。

レダック ピースボートに乗る

2014-04-22 06:04:47 | 日記
ゴメン、船から衛星中継でのインターネットでは写真は重すぎて送れないそうです。もう一度再編集した時に入れる準備だけしました。
その2 ピースボートで地中海クルーズ゛ 
④ トルコ クシャダス エフィソス遺跡観光 
4/14(月)アカバ乗船組にとって、エジプトに替わる最初の寄港地はトルコのクシャダスという港は、トルコ第3の人口のイズミールが近く、近くのエフィソス遺跡が有名(だそうだー知らなかった)。事前のオプショナルツアー(以下OP)募集に申し込み(6千円)。  以下、同じやり方だが、OP参加者は、知らされ時間に指定された場所(たいてい一番広いブロードウエイという間)に集められ、誘導されて舷門でIDカードを通し、バス乗車口でツアー参加を証するバウチャーを渡す。各バスごとにピースボートのスタッフ、現地ガイド、通訳がおり、例の赤組など行動単位としての色マークが渡される。
この遺跡は、1世紀前後につくられたものとのことだから、当然ローマ帝国の様式が主となり、図書館(写真353)、共同トイレ(社交場でもあった)、公衆浴場などの遺跡、彫像が割合保存状態よく残っている。頭がペトラと混乱しかけるが、ここでのおもしろいは二つ。
 ①スポーツのブランドのナイキはローマ字表記すればNIKEでニケとも読める。首の欠けたサモトラケのニケは有名な彫像だが、ローマ神話ではニケは勝利の女神。「レ」の後ろを引っ張るデザインはこの(写真352)に明らか。
 ②世界最古の宣伝広告が足型。分かりにくいが右下の人の膝あたりを無視してハート形も見える?(写真363) 足をもう少し延ばせば「売春宿」がありますよ、というデザイン、この時代からハートマークが使われていたというのもビックリ。
 朝8時からのコースであったので、港帰着は昼過ぎ、トルコ人ガイドに頼んで「ケバブのサンドイッチのおいしい店」を紹介してもらい、10数人が付き従う。確かに回しながら焼く牛肉と鶏肉の塊を切り取ってはさみ込んだサンドは旨かった。トルコリラは持っていないので支払いはドルかユーロ。先に払った夫婦は4ドルと言っていたのに私らの番になって「5ドル」と言う。抗議する。4ドルでよくなった。大阪をなめるなよ。スーパーを探しに街をぶらつくことにする。一緒にサンドイッチを食べていたおじ(い)さんがついてきて、「私はユーローで3ユーロ―支払った」と訴えかける。知らんがな! 確かに400円ちょっとと、500円以上でおかしいが、「抗議したらよろしいがな」と言ったら、「まあ、大したことないし・・」と言いいながら付いてくる。結局、スーパーで買い物をし帰り道の途中まで一緒に行動した。
船内のインターネットは衛星頼みでなかなかつながらないこともあり、一度帰船してWiFiフリーの店で食事をすることにした。カラマリや煮魚、サラダでなかなかのものだったが、おかげで作業途中で帰るべき時間となり、インターネットの悩みは解消されないまま、トルコから離れることとなった。

⑤ ギリシャ ミコノス島 
4/15(火) 朝から船内TV(そうTVもあるのです、この船専用)では、ジュディ・オングの「ウインズ イズ ブローイング フロム エイシャ」をやっていたそうだ。エーゲ海を南西?に突っ切り、ギリシャ最初の寄港地はミコノス島である。島の建造物全体がすべて白いことで有名で、デュロス島へのOPなどもあるが、島内見学、自分らで独自にフェリーを使って行けるならデュロス島へも行こうという計画だった。ところが行き違いで妻と離れ離れになってしまい、一人観光をする羽目になった。また、フェリーの乗り場を探し当てて得た情報では、一般客のフェリーはオフシーズンだから朝の2便もうないとのこと。仕方ない。街に踏み入る。店・家の屋根を白一色で統一されているばかりか、迷路のようになった道も白く塗られている。規制がかかっているというより、これが観光資源だと認識し自主的に「白さ」を競っているかのようだ。遊歩中に家の壁や道路を白く塗っている場面に3回も出くわしたのだから。道幅は3mくらいのところが多いが、やっと対向できるくらいのところもある(写真376)。そこを車が通っていく。直線の道など無いに等しく見通しがつかない。ピースボートからバスで運ばれてきた千人ほどが、好き勝手に歩いているのだから、いたるところで遭遇しては、お互いにすれ違いながら、情報交換をする。そうやって、私もミコノス島のもう一つの目玉である風車小屋跡にたどり着いた。眼下の清澄なエーゲ海からきりたつ崖の上の一画に数軒の風車小屋が並ぶ。日本のそれと違って二重の円の枠に10本くらいロープが張ってある。「何だ、これは?」と訝ったが、そのロープに風をはらむ布を結びつけるのだ(写真377)。穀物の臼ミルとして使っていたのだが、今は観光用のシンボルとしてしか機能しておらず、錠が下され布もはずされているのだ。そして、向こうのほうでビデオカメラをまわしているのは・・妻だった。どちらが悪いというケンカにならずホッとした。今度は二人で街中を彷徨ううちに、妻が言った。「岩だけで、土がない」 そうなんですね。ペトラの砂岩、エフィソスも砂岩や石灰岩・大理石、そしてこの島、このあたりの文明は岩で築かれている、なんて言っちゃっていいのかな?
デ、ジエラート、ヨーグルトを食べ、土産物屋を冷やかしながら、民俗博物館に行ったが、これもオフシーズンにつきお休み。それなら、帰りのバスの乗り場付近の博物館に寄ろうということにしたが、これが大正解。教科書にもよく出てくるギリシャ土器の復元したものや、彫像などが並べられている。私ら二人ともう一人英語を喋る女性の3人だけの入館者に、受付のおじさんが、多分かつての学芸員と思わせるような熱心さで説明してくれた。目の保養、話のタネになった。(写真387)
デ、この日も爆睡。 

⑥ ギリシャ ピレウス 「パルテノン神殿とプラカ散策」
 4/16 今日の寄港地は、ミコノス島から、ギリシャ本土、アテネの外港として2500年の歴史を持つピレウスである。私は標記のオプションのコース(11000円)、旅行経験のある妻は単独行動で博物館めぐりと、行動を別にした。このコースの参加者はバス5台分、今日はグリーン組となったが、一人なので、座席もゆったりしておりグリーン車並みであった。たしかに、アテネ市内の至る所に神殿等の遺跡、モニュメント、人物の彫像等が見られる。アテネ人のガイドさんはギリシャ神話を交えながら、要領よく説明してくれる。聞いた話で物知り顔に講釈するのが目的でないので、神話や名所案内は、例により省きます。ただ、アテネ神誕生のいきさつや、海神ポセイドンとの争いなどはおもしろかった。小高い丘の街を意味するアクロポリスにそびえるパルテノン神殿は、やはりとてつもなく巨大なものであった(写真403)。僕が観光で感動するのは、人知を超えて圧倒する自然そのもか(私の中でのNO1はイグアスの滝と思う)か、それに立ち向かうかのような人工物だ(万里の長城は素直にスゴイと思っている)。古代から、そのような巨大な物への畏怖、巨大なものを作りたいという願望は強かったのではないか。僕もそういった意味では古代からの心性が宿っているのかもしれない。(ドバイや上海のように乱立すればやりすぎと思うが)。パルテノン神殿そのものもそうだが、登りきる途中で説明された眼下の街並みの中に見える神殿(名前は忘れた)のところではさすがに興奮した。その前のアゴラこそがかつてソクラテスもたむろしていた場所(写真410)という。団体行動で残念ながら行く時間はなかったが、時空を超えて近接したという感動がある。20年間ほど「青年期の特徴」のあと「ギリシャ哲学」でパラドックスで生徒たちを煙にまいた後、登場していただいたのがソクラテスだったわけで、いわば飯のタネの恩人の一人なのです。(ト、だんだん正体を自己暴露していきます。ア、ソウソウ。ついでながら、卒業生の諸君、80日間を実感するため、あごひげを伸ばし始めました)
 デ、アテネ市内の繁華街プラカでお食事ということだったのですが、博物館を探しあぐねている妻とバッタリあったのはお互いにびっくり。
 3日連続の観光地回り、やっぱり疲れました。

⑥ 洋上生活―<2>
 さて、観光するだけでなく、ピースボートがピースボートたる所以は、寄港しない航行日によくあらわれている。ちなみに、立て続けに3日連続寄港し、また一日おいて3日連続寄港することになる、4月17日(木)の私の日程をご紹介しよう。いやはや、体力は使わないが結構ハードなお勉強日で、とても休養日とは言えない。
 ちなみに◎は全員参加、○は自主参加であるがせっかくの機会だから参加しておいたほうがお得、×はクラブ活動みたいなもの、まったくの自主参加。高校の単位で言えば◎は必履修科目、○が選択科目といえるが、卒業単位として不可欠ではなく何もとらなくてもいい。だから食事時間以外、いつのぞいても麻雀をやってる爺様・婆様もいる。妻は、私のメニューの以外にスペイン語とタイ語の集まりにも参加、サルサにも参加。よーやるでー。
5:30~ 起床、洗面、×部屋で体操(風強くウオーキングできず)
6:40~8:00 朝食(9F)、接続悪いインターネットに挑戦したが、うまくいかず
8:30~9:45 ◎避難訓練(救命胴衣をもって集合点呼。その後の行動指示不明確でイライラ、救命艇の下まで行くもデッキで待つだけ、寒い!耐寒訓練のよう)
10:00~11:20 ○日本のニュース⇒ジャーナリストが水先案内人の一人として、3/13以後のニュースを伝達
11:30~ この間に昼食(献立を見て9Fへ)
12:30~13:45 ○パレスチナレポート2014⇒パレスチナ人のNGO代表、当事者としてイスラエルの入植settlements問題、分離壁・検問所を設けて移動規制、パレスチナ人の拘束問題を報告。ここまでひどいとは、知らなかった、絶句。
14:15~15:45 ○旧ユーゴスラビアへの扉⇒この地に30年関わる日本人ジャーナリストによる入門、寄港するクロアチア ドブロブニクを中心に、クロアチア人の証言も加味した解説。全く知らなかったバルカン半島の歴史。戦争起こすなという強いメッセージ
16:00~16:40 ◎航路説明会 今後の航路 明日からの3日連続の寄港地について
17:00~18:00 ×運動(腹筋・レッグイクステンション、アップ1Km8分、快調走3Km18分)シャワー
18:20~19:00 夕食+生ビール(4F) 後休養
20:00~21:00 ○ユーゴ紛争1991⇒昼間の続き。民族紛争と言いながら、クロアチアとセルビアは同根であるとの言説
21:30 ×ブログ書き、22時半やっと眠れる


レダック ピースボートに乗る

2014-04-21 14:53:02 | 日記
その2 ピースボートで地中海クルーズ゛ ③洋上生活―<1>
4/14から3日連続で寄港・観光が続く。4/13(日)は航行日、洋上生活についてご紹介しよう。
<衣>寒さ対策やフォーマル・ディナー用スーツ・僕の場合はトレーニング用シャツ・パンツなど荷物の大部分をキャビン内のクロークや棚に収納できて一安心。ホテルなんどでのクリーニング利用は高くて活用しにくいと思っていたが、40×50Cmくらいのクリーニング用布袋に詰めるだけ詰め込み、伝票に衣類の枚数を書いておいたらルームキーパーが持って行き3~4日後には戻ってくる、Tシャツやパンツもちゃんと畳んで、それで一袋350円というのがうれしい。もちろん、シャワーのついでやチョコットした時に、妻が日本から持ってきた洗面器を使って洗濯するのですガ・・
<食>4階にメイン・レストラン、9階にビュッフエ・レストランがある。メニューが貼りだされているのでそれを見て選ぶ。寄港日はだいたい同じだが、航行日は、大体4Fが和風、9Fが洋風の傾向となる。何しろ毎回千人分なので、4Fは早組と遅組に分けてあり、それを示すレストランカードを持たされている。誰が来たかまではチェックできないので、例えば若者が昼食時9階でラーメンを食べてきて、4階にも来て丼を食べるということもできるし、実際にいる。おまけに、6時前から起きてウオーキングや太極拳をするご老人(とは限らないが)もいるので、6時半から9階でモーニングコーヒーもある。その上、15時から16時には、これも9階でアフタヌーン・ティー(お菓子もとれる)を楽しめる。
寄港日にも、船内に残っておれば、食堂はやっているので80日×3食+モーニングコーヒーやティーの食事代が全部込みになっている。お味?主観的要素が高いので、ウーン、表現しにくいが、割烹旅館に来ているわけではないんだから、まあ、食べれる。選べるし・・
飲むのはどうか、夕食時に酒を頼むことができる。IDカードで読み取って後で請求だから、ビールやワインを1杯程度たしなむ人は少なくない。また、居酒屋・バー・ピアノ演奏バーなどもあり、午前様まででも飲める。ぼるスナックよりは安全で、ビール中ジョッキ300円程度だから呑み助も安心。だから酒の持ち込み、部屋で一杯はだめ。船の入口で、横浜まで没収と相成る。
<住>キャビンの様子は値段によって違うのは当然で、我々のところは二人部屋、窓付きだが、4人部屋窓無、同窓付き、2人部屋窓無、同窓付き、一人部屋、スイートルームみたいな豪華部屋(まわりはベランダ)、などいろんな種類、価格ランクがある。一人参加で二人の相部屋になった人の話では、お互いのプライバシーを守るため、部屋の間にカーテンをしている部屋とそうでない部屋とでは10万円の差があるとのことだ。4人部屋窓無90万円くらいから、超豪華部屋400万円まで、まさにピンからキリまで、しかも申し込みが早ければ早割があったりしてややこしい。不満なのは、机・椅子が一つ(内覧会ではそこまで注意しなかった?)。困るのは、すべてそうなのだが、トイレがバキューム式なので、凄い音がする(飛行機のGooo--Juba アレね)。私は既に書いたように夜中3~4回行く。嫁さんだからいいようなものの、他人とならそうはいかぬだろう。
<オプショナルツアー>申込み契約が成立すると、オプショナルツアーの冊子が送られてくる。各寄港地で、自分勝手に観光して回ってもいいのだけれど、安全・安心・安楽の面から、ピースボートから紹介されるツアーに事前に申し込むというシステムだ。その費用が馬鹿にならない。足元を見られている!と思うのだけれど、よほど安心な街で、港からすぐ近いということでなければ、申し込むことになる。それも複数用意されている。申し込む時点では、今一つピンと来なかったので、ほとんど妻に任せ、違ったのはアテネでの行動だけだった。
<情報>ところで、今日どこで何があり、どう行動するのか?という情報は、一つは直接集められての説明会と、もう一つ「船内新聞」によって得られる。20時に発行される船内新聞には、翌日が航行日なら各場所で行われる活動の予定表、寄港日なら簡単な寄港地情報が掲載されているので、これなしには生活できなくなる。さらにオプショナルツアーに関しては前々日に各コースの集合場所や現地事情についてキャビンの入口ポストに届けられる。ちなみに13日(日)は、全員対象に14日からのエーゲ海の3港への航路説明会があった。
<航行日の様子>については、また別の機会に。

レダック ピースボートに乗る

2014-04-18 19:11:47 | 日記
その2 ピースボートで地中海クルーズ゛
① アカバ港 ピースボート乗船
 4/10 ペトラから約2時間で我々はアカバ港に到着しました。港にすごい豪華客船が目に入りましたが、違いました。その先に「オーシャン ドリームOceanDream号」が待ち受けてくれました。それでも約3.5t、長さ?200m、定員1400人、10階デッキまであるすごいものです。船員やピースボートのスタッフが待ちかまえてくれ、バスから降ろされた荷物を予定の部屋まで運びこみ、そこでIDカードを含む書類をくれました。ヤレヤレ、左右に備え付けベッド、窓付き(窓の有無によってもお値段が違います)のこの部屋がもう75日間の家となるのです。早速、船内生活についての説明会が開かれました。
このツアーはNGOピースボートの企画に基づき、ジャパングレースという旅行業者と共同実施の形をとり、パナマ船籍のこの船を長期間チャータ―しているということになるのだそうな。かつての旅行記を読むと、「やはり船長さんが一番偉く、酒癖が悪い乗客に下船命令を出し、港に置き去りにできるほどの権限を持っている」らしい。
 船内生活に関してはまたご報告するとして、すでに3/13に横浜から105日間の600名ほどのフル・クルージング組の人から聞いた話を二つ。①出港直後から3日間は大揺れで大変、至る所にゲロ用袋がおかれ、苦しみぬいたらしい。そういえば過去の旅行記でも、黒潮に逆流して進むのだから、一番揺れが激しいらしい。②アラビア半島をまわる時、ソマリアなどの海賊騒ぎで自衛艦の護送という話があったが、あれは誠という。日本の商船など6艘が集められ船団を組み、先頭を海上自衛隊の艦船が進んだという。その時には客室の窓も外からブラインドがかぶせられていたという。話してくれた人は自衛隊に感激し、話が現今の外交情勢に移りそうなので、それ以上は聞けなかったが・・
 デ、アカバ湾を出港後、本船は、シナイ半島をまわり紅海を北上し、スエズ運河から地中海へと向かいます。11日は、初めてのフルの洋上生活となりました。
        
② スエズ運河航行
 4/12 5時ころ、船内放送が始まります。「今からスエズ運河に入る。一方通行なので北上する船のグループの4番目として順番待ちしているところ、船間距離1マイル、運河航行中のスピード15ノット程度」というようなことが説明されたが、多分全乗客は8~10F のデッキで必死に写真を撮っている。(さすがに、航行しはじめて時間がたち、朝食の時間には、押すな、押すなのデッキ前方も余裕がでてくるが) 待てよ、一方通行なら長時間反対側は待つの? ソウナンデスネ、単線電車と同じなんですね、大きな駅では複線にしているように、南下・北上の交差は湖2つの大きな湖で行っている。右舷側はシナイ半島の砂漠が続き、左舷側はエジプトの道路・住居・畑?などが見える。近い所では、甲板から「オーイ」と叫ぶ乗客に向かい手を振ったり、トラックの荷台に乗る兵士たちが声を発するのが聞こえる。ピースボートのスタッフも、写真撮影のサービスをしてくれる。(それでとった写真をアップしたいんだがWiFi環境が悪いうえに初めてのブログで送れない状況が続いている、ゴメン)
「スエズ運河を抜けた」という放送があったのは15時半頃であったのだから、9~10時間かかったことになる。地中海に入ったのダ。しかし、冒頭で書いたように、テロの続くエジプトの寄港は取りやめになったため、代わりにトルコのクシャダスという街に寄港することになった。