LOVE AND GLORY

-サイキックの眼-

「依存」という名の代用品

2016-01-09 18:39:47 | サイキックの眼

     
   
「依存」という名の代用品


依存、共依存、依存症・・・
なにをもってそう言えるのか?
その線引きは難しい。

生活を営む上の必需品?
絶対不可欠なモノ
或いは
仕方のないもの…。

仕方なく…
依存するしか、仕方がない。
タバコ、酒、ゲーム、ギャンブル、買い物、SEX、浮気、宗教、暴飲暴食、健康食、ペット。
って…こんな解りやすいコト以外にも、人それぞれに他人から依存といわれても仕方ないモンって誰にだっておおいにある。

いえいえ、それは依存ではなく、個人の好む嗜好品です。
最初はそう言いたいが、ゆくゆくはそうも言ってられなくなる。
だって仕方ないでしょう?
関西弁では、しゃ~ないやん!笑
そう言いつつ、エスカレートする。

今回のテーマでは「依存症を治しましょう」という話しではありません。
「依存」とは、何かの代用品なのだということ。
何か?の代わりを求めること
何か?の代わりを求め続けること
それが「依存」

つまりこうゆうこと
・どうしても手に入らなかった
・どうしても手が届かなかった
・どうしても叶わないコト
・本当は手元に有って良いはずのモノが人生に無かった
・希望が叶わなかった
だから…人って誰でも、その代わりを求めるのです。

初級例の話しだと
・本当は鉄道の運転手になりたかったが叶わず、結局鉄道マニア熱がエスカレートし、趣味をこえた鉄道依存となってしまい…。
中級例は
・自分の家や仕事場も、なにもかもイライラする生活環境の空気感に嫌気がエスカレートし、タバコの煙りで部屋中を濁し続ける喫煙依存。
上級例は
・ 親の愛情が得られなかった…、だからそれに代わるモノを求め、そのモノへの依存症になった。

あたりまえに有っていい、所在していいモノ。
それが無かった、得られなかった。
努力しようにも叶わなかった。
誰の人生にも必ずあることでしょう、気が付けば…その代用品を求め探している。
そしてその代用品が無ければ恐怖を感じてしまう。
もっと欲しくなる。
いくら手に入れても、更にイライラし不安が高まる。
もっともっと代用品が欲しくなる。
どんどん虚しくなる…

本当に必要なモノじゃない
本当に欲しいモノじゃない
では、本当に欲しいモノってなんだ?
そう、それが無かったのだ
それを思うと苦しくなる
なぜ苦しくなるのか?
どうして代用品ではいけないのか?

答えは、自分を愛してくれるモノが無かったわけ。
自分を愛してくれるはずの人の…その気持ちが無かった。
生活があり、仕事があり、収入お金があり、家財が揃ってもいて、食べるモノもあった。
だけど、感じる気持ちが無かった。

宗教っぽく言うと、近隣に愛を与えなさい とか言いますよ…ね?
でも実際そんなん欲しい人はいませんわ。
極論でも理屈でも屁理屈でもなく、産んでくれた人の気持ちが欲しいだけです。
つまり、「親子の気持ち」 これがトコトン貧しい、まだまだ貧しい世の中である。
だから、その貧しさからスタートした人生の空虚感を埋める何らかの代用品が必要となるのです。なぜなら、その空虚感は…恐怖でしかないからです。
自分の人生のスタートに、明確な気持ちが備わっている?
…いいや、気持ちなんて解らない。愛されてたと思うよ?…多分ね。
でも、親夫婦だって、祖父母だって、そして我々だって、みんな共依存でしょう?
そう、みんな共依存関係なのがスタンダードなんだわね。
本当の気持ちなんて言ったら、共依存関係が破綻して、生活していけなくなる。
本当の気持ちの吐け口は…代用品でまかなうしかないんだよ。

親に気持ちなんて無い、だから子供に対しての気持ちも無い、そして自分の人生の気持ちも解らないし考えないし…考えたくない。
代用品さえあれば丸く収まるのだ。
本当の気持ちの→代用品さえあれば、なんとか過ごしていけるのだ。

これが「依存」のカラクリです。
「依存」には本当の気持ちは存在しないのです。
依存関係の夫婦家族では、気持ちは存在せず、他方へまた代用品を求めるでしょう。
人生が共依存関係の人は、子や他者を自分に依存させる事を仕向けます。
依存は、依存を産むのです。

「依存心」 に相対するものは 「本心」 と言えるでしょう。
本心は誰にも在ります。
野生の生き物はすべて「本心」のみで生きている。
ですが社会では共に「共依存」を求められる。
「共依存」は楽だが?イライラする。
「本心」は生きる大変さが途絶えないが、常に清々しい。


共依存社会
共依存家族
依存代用品

本当の気持ち
心に置いてみてください。
 
 
サイキックの眼  ヤマモト・コージ