LOVE AND GLORY

-サイキックの眼-

意地

2015-01-24 11:28:23 | サイキックの眼

     

意地


意地が悪い・・・

意地が良い・・・?!

「意地が良い」??なんて言わない、
そんな場面なんて思いつかない。(笑)
じゃあどうして「意地が悪い」んだろう。

つまり、『意地』ってのは自分のオリジナル。
自己自家製のオートクチュール。
それぞれが、自分の中でだけで持つ、持ちうるモノなんです。

親子であっても、夫婦であっても、男も女も同性愛者も。
ペットと飼い主であっても、仕事の同僚でも、
金持ちとそうでなくても・・。
上から目線の人も、下から目線の人も。
ベテランの人も、若輩者も。
暴走族も、警察も。

みんな『意地』がある、
みんな『意地』を持っている。

でも、「意地がある」とは、なかなか人には言えない。
意地を隠して、折り合いをつけていなければ生きてはいけない。
意地の折り合いの→落としどころを→見ぃ出すことが→『平和』と言うのかも知れません。

そういう意味では、みんな「意地っ張り」と言えるでしょう。
というコトは、「意地っ張り」は責められるモノではなく、みんなが等しく持ち合わせているものなんでしょう。

どんなルールが出来ても、どんな経済社会が出来ても、どんな教育方針を確立しても、どんなに悟り?を開いても、やはり『意地』は納まることはない。

戦争をもってして、相手の国の『意地』を破壊しようとしても、その『意地』は消えることはない。
雑草でも、キレイな野生の花々だって、きっとそれぞれ『意地』をもって生きている。
と、言えるでしょう。

『意地』は本来、自分の中にだけで在る。
集団が集団の中で共有して持つ『意地』も在るが、胸を握りしめるような熱い狂おしい想いの『意地』は、やはり自分の中だけに存在するだろう。


では、ここから本題に。

意地は危険
意地っ張りは良くない
意地を捨てて、みんなと仲良く。
意地を張らないで、良い社会環境と良い教育を与えて。
あなたの為を思って言ってるの、意地を張るのはやめなさい。

意地を張っては生きていけない。
意地を捨てたら、社会で生きていける。
意地さえ持たなければ、みんなに認めてもらえる。

当然ですが、ここで先に、このテーマのオチを申しておきます。
色んな疑問や・・気持ちに不都合が湧いてくると思います。
なので先に答えを記します、それは。

自分の意地をより良く知ること

これに沿って、これを中心にして話しをしております。

意地が悪い、意固地、性悪、社会不適合。
例えば、このようなレッテルを張られてしまうような人が居たとしたら、では・・意地が良い人ってのはどういった人なのか?を説明してあげなければなりません。
でもまず・・そんな説明なんてありません。
大体は、管理機関で再教育とかをするのみです。

「意地が良い」という言葉は無いんですよね。
『意地』というのは、他人が判断したり、それよりも「他人が他人の意地を管理」することは出来ないんです。

僕が思う「意地が悪い」というのは、本当は、
『自分の意地の在りようを良く知らないんだよね?』
というコトになります。

つまり
「自分の意地を達成すること」が、世間でいう「夢の達成」の本質ではないでしょうか。

それがです。大体の人は、意地の所在が不透明で、お互いに侮辱しあって・・足の引っ張り合いが絶えないのみ。

本当の『意地』とは、自分の中にしか在りません。
相手や他人の中に見ぃ出せるモノではないのです。
他者から奪い取って、自分のモノとすることが出来ないのが『意地』なのです。

本当に『自分の意地』を知り得てる人は、「他人の意地」を侵したりはしないのです。

あと、「世界平和」とウタっている人にかぎって、『意地』は持ち得てはいません。
戦争をする人も、世界平和を訴える人も、共通点は「意地っ張り」です。
意地を張るのみで、自己の意地を持ち得てはいないのです。
共通点は・・どういう意味かと言いますと、
『自分の意地とトコトン向き合うことがないのです。』
双方共に、相手を恨むトコロが共通点なのです。

つまり
『自分の意地とは何なのだろうか?』
これと向き合うことが、尊重すべき重要さなのです。

意地がまったく無い人はいません。

意地を侮辱されて悔しい
意地を奪われて取り戻したい
意地を守れずに日々後悔が絶えない
あたりまえに、生きる意地を持ち達成し続けたい。

意地なんて安っぽいわ!
もっと楽して生きればいいじゃん!!
もっと社会保障の充実ぅ~!なんちゃってぇ。

不謹慎な言い方をしたのではなく、
『自分の本当の意地を知り、持っているか?』ということ。

『意地を持つ』のと、「意地を張る」の違いです。

『意地を持つ』というのは、無言で表現をするでしょう。
「意地を張る」のは、表現の仕方が解らないときのこと。
そして
「意地が悪い」のは、本当の意地を持っていない人のおこない。

では、『本当の意地』とは何のか?。

それは、『無二の自分で在ることの意地』ではないだろうか。

自分を守る為のヨコシマな手段をとる意地ではありません。
存在意義・・というモンでもない。
どちらかというと、動物的意地。
「意地を張る」なんて、張ってる余裕があるんです。
『意地を持つ』とは、余裕という時間が生まれる隙間は存在しません。

『本当の意地』は、誰かに語れるモノではありません。
だから・・・
『本当の意地』とは、『本当の自分が張れるモノ』、それを意地と称するのでしょう。
 
『本当の意地』は、エゴにはなりません。なれません。
なぜなら
『本当の意地』は、相手や周りの人の『意地』の深い領域の琴線に触れるからです。
『本当の意地』は、『本当の意地』の良さを感じ合うからです。
ですが、「共感」とはまた違うのです。


サイキックの眼  ヤマモト・コージ