LOVE AND GLORY

-サイキックの眼-

怨念と希望

2015-02-08 06:08:34 | サイキックの眼

     

怨念と希望


いくら未来に希望を描いても、一筋縄ではいかない。
希望を持ち、希望通りに事が進む~ッ!なんて想像すると、気持ちも体も前向きになる。

いいや・・・
どの件(くだり)から今回のテーマを解いていくか。
『怨念』
つまり、恨みつらみ。

怨念について書くのですが、その解読レベル度数?で言えば、
今回書ける範囲は、数万~数億分の1?
測定不可能な高低範囲からの、ほんの少しのサワリだけとなる。
そうせざるをえない。
それほどに、人の持つ『怨念』、恨みつらみは底知れない。

それは、オカルト趣味のナントカ・カントカ言うようなモンが何処かに存在するではなく、誰の心情の中にも在るモノだ。
その誰の内にも抱く『怨念』の底知れぬ深さは、言葉や表現にもおさまらない…執念が生き続けている。
ギャーッ!!とか
怖い!とか
ありえなくナクなぁ~い?とか
ウケるぅ~~!とか
そんなモンではない。
笑えないし、声も出ない・・・。

ただ、作り笑いをし、平常心を保つ。
静かに平常心の壁の裏に抑えているモノ。

それが長期にわたり、
それが親から受け継いでしまい。
その家系と血を遥かに遡って、『怨念』は平常心の壁の裏側に蓄積され続けている。
今回のテーマを「怨念と希望」としたのは、この2つが相対的にあるモノだと思えるからです。

『怨念』とは⇒「誰かに希望を断たされた」⇒『怨念』⇒「希望を持てない」⇒『怨念』⇒⇒「ヤラレたらヤリ返す」⇒『怨念』⇒『怨念』⇒「浮かばれない恨みつらみ」⇒『怨念』⇒「作り笑顔…」⇒『怨念』⇒「他人の希望に嫉妬する」⇒『怨念』⇒「他者の希望を奪う」⇒『怨念』⇒「他者に希望を奪われてしまった」⇒『怨念』⇒「※ 続く」

長いナガ~イ!希望無き『怨念』の無限ループ。

好景気の社会の中では、適当な仕事やお金などで埋め合わせて・・なんとか無視して生きては行くが、もしも・・その埋め合わせ?などがままならなくなったら、抑えていた平常心の壁の維持にも限界が来て、『怨念』がムキ出しになる。
「他者に希望・未来を断たされた」、これが『怨念』の執念を抱く瞬間であり、相手が人でなければ怨念とはならないだろう。

僕のいつもの言い回しになりますが、動物や植物などは『怨念』は無いだろう。
在るのは、「希望」を行動に反映し続けている自然だけ。
自然は「希望」と「希望」のぶつかり合いが永遠に未来へと続いているのであり、人間は『怨念』と『怨念』の果し合いが互いに続いている。

「希望」は永遠に続き、果てることはないが、
『怨念』は、破綻へと向かっていくのです。
『怨念』の無限ループとも言いましたが、『怨念』は相手を無き者とするまで消えません。
そしてそこに行きつくまでに身も精神も耐えきれなくなくなります。
それが病気・・癌などの症状となって現れる。

あたりまえの「希望」を自然に持って生きることがままならない人間社会。
それには『怨念』恨みつらみを越えて生きる強さが・・不自然にも人間には必要なのです。

薄っぺらな希望では生きて行けません。
天使がドーたら邪気がコーたら?とかでも無理・・・。
人間が・・人間に抱く『怨念』恨みつらみは計り知れません。
もしこの調子で更に掘り下げて『怨念』の無限ループを全て書き綴ると、きっとサーバーがブッ飛ぶほどのデータ量になるでしょう。

僕がカウンセリングを行うにあたり、
『どのような「希望」が在って見出せるか?』
『どのような「怨念」が絡まっているか?』
を視ることが多くなる。

実際…先祖からの『怨念』で、気が著しい方も居る。
病気が末期状態の方も居られる。
その原因は先祖から・・というのは昔の霊能者。
今はそんな余裕なんて無くて、親と子と家庭環境の全てが著しいと指摘せざるを得ない状況。
お墓参りや神社詣(もうで)などでは追いつくワケがない状態。
何の「希望」も無い持たないのに・・社会保障にしがみついて現状維持のみの時代。
「希望」が無い
「希望」が解らない
「希望」を持たせない
限定商品・・という名目での「希望?」の奪い合い
それが手に入らなければ・・『怨念』となって、恨みつらみをブチ撒けたり。

「希望」を閉ざされると、『怨念』となるのです。
その『怨念』は、他者の「希望」を奪うのです。
奪われないよう・・『怨念者』に気を使い平常心を保つ日々。
学校などでの児童のあらゆる問題事とされる事例だって、子供が学校にも家庭にも「希望」が見出せないからでしょう。そこから産まれるフラストレーション(欲求不満)は恨みつらみとなってイジメをするようにもなる。

つまり
自分の「希望」に強く、そして精神的にも利口になる必要があると思います。
僕のカウンセリングでは、常時それらを解き明かしつつ、アドバイスを行います。

多くのカウンセリング事例の中でも、他人との恨みつらみゴトですと関係を解消するという「希望」が持てますが・・、親から子へと与えられてしまった『血縁怨念』は、この世で一番手強いモノと言えます。
そんな親を持つ子供には、全く「希望」が存在しないのです。
昨今のニュースになる親子による事件例などは、恨みつらみが重なった末に・・何の希望も閉ざされた結果の破綻と言えます。

「希望」が無いのです。
「恨みつらみ」のみが家族の絆となっている家庭です。
『怨念』は「希望」を潰します。
「希望」を願い・・神頼みしても、人の『怨念』は容赦なく踏みつけるでしょう。

「良き世間体の張りボテ建て前看板」の裏側には、家庭内の恨みつらみが渦巻いているというコト。
これは日本特有のモノなのでしょうか?。
「世間サマ・お客サマはみな神様で・・うちの子はバカです」
みんな・・世間の恨みつらみをかうのが恐いのでしょう。
それぐらいにみな・・「希望」無き『怨念』と共に生存して生きているというコトだ。
何があっても平常心の作り笑顔が出来ることが優秀な社会人?となるのでしょう。

「希望」と『怨念』は相対しています。

例えば、むしゃくしゃイライラして花や木をへし折り・・恨みつらみの吐け口にしたとしても、花や木は「希望」のみを持っており、スグさま再生していきます。人間が吐き出す『怨念』には負けないのでしょう。
そう成れれば良いのですが、人間は『怨念』と『怨念』の醜い駆け引きを・・さもしていない?かのような平常心で持ち堪える毎日で・・「希望」の日々とは程遠い。

別に・・色々な活動団体で言っている?ような世界平和やら、悪霊退散?やら、反対運動に明け暮れ・・希望や子供たちの未来を奪還しよう!!とか言うのではありません。
あと、我々が正義の宗派だ!とか、どうとか・・・。それは世界平和を訴えている人と同じ内容であって。
それは『怨念』の無限ループです。

『怨念』を『怨念』がやっつけ合って淘汰し合うことよりも、自分が自らの持つ「希望」に負けないコトでしょう。
屁理屈のようにも言いますが・・自然の生き物のすべては、それだけで生きているのです。
でも、人間はそんなキレイごとだけでは生きてはいけない。
その通りです。
ですが、そのあたりまえの自然の持つ「希望」が私達にも備わっているのも事実です。
だから苦しいのです。
だから人を恨みたくなるのです。
だから・・また更に乗り越える「希望」を持ちたいのです。
でなければ、生物の一員として・・生きていけないのです。
そういう気持ちになるのです。
そうならないほうがおかしくなってしまうのです・・。

それが、その中でも一番厄介なのが、親が子に『怨念』を向けるケースであります。

今回はここまで。

怨念と希望 でした。


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