学生時代(20数年前)に人造言語のエスペラントについてちょっと教科書に書いてあったのですが、当時の学校の先生もエスペラントについては詳しくなかったようで、エスペラントについてちょっと深く学ぶこともありませんでした。
あんまり使われていない言葉と言うことで、あまり学ぶ価値の無い言葉と、私自身認識しておりましたので。(;^_^A アセアセ・・・
地域通貨の情報を調べていたときに、エスペラントの情報も載っていまして、グローバルな言語を目指すエスペラントと、ローカルな地域の通貨を同列に扱っていることに興味を持ちまして、今日調べてみた次第です。
Wikipediaには次のように説明されています。
エスペラント - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88
創案者のルドヴィコ・ザメンホフがこの言語を発表した際、「エスペラント博士(Doktoro Esperanto)」というペンネームを使ったためこの名がある。エスペラントとは「希望する者」という意味である。ザメンホフは当時の帝政ロシア領ポーランドのビアウィストク出身のユダヤ人の眼科医で、1887年7月14日にUnua Libro(最初の本)でこの言語を発表した。
ザメンホフは世界中のあらゆる人が簡単に学ぶことができ、世界中で既に使われている母国語に成り代わるというよりはむしろ第2言語としての国際補助語を目指してこの言語をつくった。
現在でも彼の理想を追求している使用者もいるが、一方、実用的に他国の人と会話するためや他の国や異文化を学ぶために使っている人もいる。今日異なる言語間でのコミュニケーションのためにこの言語を普通に使っている人も少なからず存在する。
日本では、20世紀初頭に二葉亭四迷らが普及に尽力し、2005年現在、約1500人が日本エスペラント学会に所属している。
ザメンホフがなぜエスペラントをつくろうと思い立ったかについては次のページを。
希望(きぼう)する人-ザメンホフ伝-
http://www.jei.or.jp/ponto/zamenhof/esperanto3.htm
国際語のデファクトスタンダード(事実上の標準)な存在に「英語」がありますが、別に英語が優れた言語だから普及したわけではなく(簡単な言葉ではあるらしいが)、世界中を侵略しまくった成果にしか過ぎません。
つまり力任せのデファクトスタンダードに過ぎないのですな。
OSに例えればWindowsみたいなものです。たいして良いものではないが、金の力でデファクトスタンダードの座についている。
力任せのデファクトスタンダードは他を潰すことによりその地位を築くものですが、言語においてもそのような問題が生じています。
「プラハ宣言」への視点
http://www.sal.tohoku.ac.jp/~gothit/ro9706.html
情報元:
後藤斉のウェブサイト
http://www.sal.tohoku.ac.jp/~gothit/gothitj.html
エスペラントが19世紀に提唱されたときに念頭に置かれていた当時の言語状況は、言語の混乱(「バベル」)と呼べるものであった。20世紀も末を迎えた今日の世界の言語状況は、経済の用語を借りれば、言語の寡占と呼べる。世界の多くの言語のうちごく少数の「大言語」への著しい集中が見られるのである。
ある学者の見積もりによれば、世界の6760の言語のうち269語の話し手の数の合計で世界の人口の96%になるとのことである。つまり、残りの大部分の言語はその話し手の数を合計しても世界の人口の一割にも満たない。また別の学者の推定では、世界の約6000の言語のうち、(1)子供が母語として習得しなくなった言語が 20~50%、(2)現状のままでは来世紀までに(1)の仲間入りをする可能性のある言語が 40~75%、(3)将来にわたって安泰な言語が5~10%となっている。つまり、世界の言語の半数近くが21世紀中に消失するであろうし、悲観的に見ると95%の言語が消失してしまう可能性さえあるということである。
地上から生物の種(しゅ)が急速に失われつつあることはマスコミで報道されることも多く、環境保護運動には広い関心が集まっているが、言語も現在同様の状況にある。言語間に不平等があり、強国の言語がより多くの話し手を集める状況は古代から世界各地で見られた現象であるが、世界の半数もの言語にとって事態がもはや回復不可能であるということは人類史上での大事件だとも言えよう。
武力による次は経済による侵略によって、英(米)語がデファクトスタンダードとなりつつありますが、このような力任せのやり方が良いはずがありません。
言葉の消失は文化の消失でもあり、現に欧米による力任せのやり方で失われた文化は多いのです。
そう言う事情を考慮してみれば、日本においては、単に英語を学ぶことが経済的に有利だからと言って、義務教育で英(米)語を教えることは問題ではないかと?と思うのですよね。(自称平和主義者の方よ。怒れ!)
これは各国においても同様の問題ではないでしょうか?
代わりになる言語があれば、英(米)語などを義務教育みたいな形で教える必要はないのです。
覚えやすくてビジネスや文芸にも通用する言語があれば、それを各国で義務教育で教えれば良いのですね。
エスペラントは完成された言語ではありませんが、Linuxみたいに成長していく言語であります。
インターネットが普及するに連れて、エスペラントの価値が再評価され始めたのはそのような意味もあるのですね。
基本的な規則(エスペラントの基礎)から外れない限り、皆でエスペラントの表現力を強化していけるのですな。
計画言語の可能性を実証した ザメンホフ
http://www.sal.tohoku.ac.jp/~gothit/geng0102.html
【言語案から計画言語へ】
エスペラントの歴史は、公式には、エスペラント博士の筆名で発表された『国際語』 (1887)から始まる。永年温めていた国際語の案を公に提案する際、彼はエスペラントに対する提唱者としての特権を放棄した。ロシア帝政下のポーランドという地は運動を組織するには政治的・地理的な制約が多すぎたが、それ以上に彼は言語には指導者よりも使用者の方が重要であることを直感的に知っていたのである。その後の彼は、国際語の理論的考察を著しながらも、むしろ雑誌編集者、翻訳家、著述家、そしてまれに見る筆まめとして、つまり実際の使用を通して、エスペラントの可能性を世に示した。雑誌に連載され、没後に単行本にまとめられた『語学問答』(1925)では、言語の規範を示すよりは、表現の可能性を広げようとする彼の態度が明瞭に見て取れる。
エスペラントが案の域を脱して言語として成立した日時を確定するのは不可能であるが、1905年の第一回世界エスペラント大会を一応のメルクマールとすることができよう。この年、フランスのブローニュ・シュル・メールに集まったエスペランティストたちの大部分は初めて、エスペラントが(それまで主に使われていたように) 雑誌や書籍、手紙など文字言語としてだけでなく、会話や演説、演劇など音声言語としても十全に使えることを実感した。
この大会では、ザメンホフの起草の下に「ブローニュ宣言」が採択され、これはその後のエスペラントの言語面と運動面とを規定することになる。言語面では、『エスペラントの基礎』(1905)によって、少数の文法規則と約1800の形態素および若干の例文集を言語の骨格部分として変更不可と規定した上で、それ以上の言語の発展を実際の言語使用にゆだねることとした。「変更不可」ということは言語学的に疑問の余地があるが、これは人工語にありがちな恣意的な改造をふせぎつつ、言語の自然な発展の可能性を保障するという意味があった。
これによってエスペラントという言語はザメンホフを越えて存続していくための基盤を得たと言えよう。エスペラントの言語共同体は 20世紀のあいだ国際情勢の変化の荒波を受けるが、言語としては安定を保ちつつ、時代に適応した語彙を得て、文体と表現力を豊かにしていくことになる。
エスペラントの面白いところは、特にインターネットの時代になりつつある今日では、皆で自分たちの言葉をつくりあげていくと言うグローバルな共同作業に皆が参加できると言うことです。
妨害する者さえいなければ、これほど価値のあり夢のある事業はありません。
本来、グローバルスタンダードと言うものは皆でつくりあげていく性質のものです。
言語もそうですが、金(マネー)の価値も皆でつくりあげていくべきものだと思うのですよね。
最初に既得権を得たものが、武力や金の力で無理強いするようなデファクトスタンダードを受け入れるような連中こそ、精神的な「負け犬」であり、デファクトスタンダードを押し付ける者の奴隷にしか過ぎない。
どこぞのご隠居さんみたいな経済オタクの者たちがクチにするグローバルスタンダードなどは、所詮は武力と経済と言う暴力による押し付けのものでしかない。
ネットで負け犬根性をさらす自分の姿を客観的に見る能力は彼らにはないのでしょうね。(" ̄д ̄)けっ!
え~、自分のメモついでにエスペラントの基本文法を紹介しておきます。
エスペラント語の基本文法
http://morioka.cool.ne.jp/ihatov-esperanto/gramatiko.html
情報元:
イーハトヴ・エスペラント会
http://morioka.cool.ne.jp/ihatov-esperanto/index.html
まだ、エスペラントの勉強を始めてはおりませんが、英語よりも簡単そうな感じに思います。
(´ヘ`;) う~ん・・・
四十の手習いを始めることになるかしら...。
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あんまり使われていない言葉と言うことで、あまり学ぶ価値の無い言葉と、私自身認識しておりましたので。(;^_^A アセアセ・・・
地域通貨の情報を調べていたときに、エスペラントの情報も載っていまして、グローバルな言語を目指すエスペラントと、ローカルな地域の通貨を同列に扱っていることに興味を持ちまして、今日調べてみた次第です。
Wikipediaには次のように説明されています。
エスペラント - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88
創案者のルドヴィコ・ザメンホフがこの言語を発表した際、「エスペラント博士(Doktoro Esperanto)」というペンネームを使ったためこの名がある。エスペラントとは「希望する者」という意味である。ザメンホフは当時の帝政ロシア領ポーランドのビアウィストク出身のユダヤ人の眼科医で、1887年7月14日にUnua Libro(最初の本)でこの言語を発表した。
ザメンホフは世界中のあらゆる人が簡単に学ぶことができ、世界中で既に使われている母国語に成り代わるというよりはむしろ第2言語としての国際補助語を目指してこの言語をつくった。
現在でも彼の理想を追求している使用者もいるが、一方、実用的に他国の人と会話するためや他の国や異文化を学ぶために使っている人もいる。今日異なる言語間でのコミュニケーションのためにこの言語を普通に使っている人も少なからず存在する。
日本では、20世紀初頭に二葉亭四迷らが普及に尽力し、2005年現在、約1500人が日本エスペラント学会に所属している。
ザメンホフがなぜエスペラントをつくろうと思い立ったかについては次のページを。
希望(きぼう)する人-ザメンホフ伝-
http://www.jei.or.jp/ponto/zamenhof/esperanto3.htm
国際語のデファクトスタンダード(事実上の標準)な存在に「英語」がありますが、別に英語が優れた言語だから普及したわけではなく(簡単な言葉ではあるらしいが)、世界中を侵略しまくった成果にしか過ぎません。
つまり力任せのデファクトスタンダードに過ぎないのですな。
OSに例えればWindowsみたいなものです。たいして良いものではないが、金の力でデファクトスタンダードの座についている。
力任せのデファクトスタンダードは他を潰すことによりその地位を築くものですが、言語においてもそのような問題が生じています。
「プラハ宣言」への視点
http://www.sal.tohoku.ac.jp/~gothit/ro9706.html
情報元:
後藤斉のウェブサイト
http://www.sal.tohoku.ac.jp/~gothit/gothitj.html
エスペラントが19世紀に提唱されたときに念頭に置かれていた当時の言語状況は、言語の混乱(「バベル」)と呼べるものであった。20世紀も末を迎えた今日の世界の言語状況は、経済の用語を借りれば、言語の寡占と呼べる。世界の多くの言語のうちごく少数の「大言語」への著しい集中が見られるのである。
ある学者の見積もりによれば、世界の6760の言語のうち269語の話し手の数の合計で世界の人口の96%になるとのことである。つまり、残りの大部分の言語はその話し手の数を合計しても世界の人口の一割にも満たない。また別の学者の推定では、世界の約6000の言語のうち、(1)子供が母語として習得しなくなった言語が 20~50%、(2)現状のままでは来世紀までに(1)の仲間入りをする可能性のある言語が 40~75%、(3)将来にわたって安泰な言語が5~10%となっている。つまり、世界の言語の半数近くが21世紀中に消失するであろうし、悲観的に見ると95%の言語が消失してしまう可能性さえあるということである。
地上から生物の種(しゅ)が急速に失われつつあることはマスコミで報道されることも多く、環境保護運動には広い関心が集まっているが、言語も現在同様の状況にある。言語間に不平等があり、強国の言語がより多くの話し手を集める状況は古代から世界各地で見られた現象であるが、世界の半数もの言語にとって事態がもはや回復不可能であるということは人類史上での大事件だとも言えよう。
武力による次は経済による侵略によって、英(米)語がデファクトスタンダードとなりつつありますが、このような力任せのやり方が良いはずがありません。
言葉の消失は文化の消失でもあり、現に欧米による力任せのやり方で失われた文化は多いのです。
そう言う事情を考慮してみれば、日本においては、単に英語を学ぶことが経済的に有利だからと言って、義務教育で英(米)語を教えることは問題ではないかと?と思うのですよね。(自称平和主義者の方よ。怒れ!)
これは各国においても同様の問題ではないでしょうか?
代わりになる言語があれば、英(米)語などを義務教育みたいな形で教える必要はないのです。
覚えやすくてビジネスや文芸にも通用する言語があれば、それを各国で義務教育で教えれば良いのですね。
エスペラントは完成された言語ではありませんが、Linuxみたいに成長していく言語であります。
インターネットが普及するに連れて、エスペラントの価値が再評価され始めたのはそのような意味もあるのですね。
基本的な規則(エスペラントの基礎)から外れない限り、皆でエスペラントの表現力を強化していけるのですな。
計画言語の可能性を実証した ザメンホフ
http://www.sal.tohoku.ac.jp/~gothit/geng0102.html
【言語案から計画言語へ】
エスペラントの歴史は、公式には、エスペラント博士の筆名で発表された『国際語』 (1887)から始まる。永年温めていた国際語の案を公に提案する際、彼はエスペラントに対する提唱者としての特権を放棄した。ロシア帝政下のポーランドという地は運動を組織するには政治的・地理的な制約が多すぎたが、それ以上に彼は言語には指導者よりも使用者の方が重要であることを直感的に知っていたのである。その後の彼は、国際語の理論的考察を著しながらも、むしろ雑誌編集者、翻訳家、著述家、そしてまれに見る筆まめとして、つまり実際の使用を通して、エスペラントの可能性を世に示した。雑誌に連載され、没後に単行本にまとめられた『語学問答』(1925)では、言語の規範を示すよりは、表現の可能性を広げようとする彼の態度が明瞭に見て取れる。
エスペラントが案の域を脱して言語として成立した日時を確定するのは不可能であるが、1905年の第一回世界エスペラント大会を一応のメルクマールとすることができよう。この年、フランスのブローニュ・シュル・メールに集まったエスペランティストたちの大部分は初めて、エスペラントが(それまで主に使われていたように) 雑誌や書籍、手紙など文字言語としてだけでなく、会話や演説、演劇など音声言語としても十全に使えることを実感した。
この大会では、ザメンホフの起草の下に「ブローニュ宣言」が採択され、これはその後のエスペラントの言語面と運動面とを規定することになる。言語面では、『エスペラントの基礎』(1905)によって、少数の文法規則と約1800の形態素および若干の例文集を言語の骨格部分として変更不可と規定した上で、それ以上の言語の発展を実際の言語使用にゆだねることとした。「変更不可」ということは言語学的に疑問の余地があるが、これは人工語にありがちな恣意的な改造をふせぎつつ、言語の自然な発展の可能性を保障するという意味があった。
これによってエスペラントという言語はザメンホフを越えて存続していくための基盤を得たと言えよう。エスペラントの言語共同体は 20世紀のあいだ国際情勢の変化の荒波を受けるが、言語としては安定を保ちつつ、時代に適応した語彙を得て、文体と表現力を豊かにしていくことになる。
エスペラントの面白いところは、特にインターネットの時代になりつつある今日では、皆で自分たちの言葉をつくりあげていくと言うグローバルな共同作業に皆が参加できると言うことです。
妨害する者さえいなければ、これほど価値のあり夢のある事業はありません。
本来、グローバルスタンダードと言うものは皆でつくりあげていく性質のものです。
言語もそうですが、金(マネー)の価値も皆でつくりあげていくべきものだと思うのですよね。
最初に既得権を得たものが、武力や金の力で無理強いするようなデファクトスタンダードを受け入れるような連中こそ、精神的な「負け犬」であり、デファクトスタンダードを押し付ける者の奴隷にしか過ぎない。
どこぞのご隠居さんみたいな経済オタクの者たちがクチにするグローバルスタンダードなどは、所詮は武力と経済と言う暴力による押し付けのものでしかない。
ネットで負け犬根性をさらす自分の姿を客観的に見る能力は彼らにはないのでしょうね。(" ̄д ̄)けっ!
え~、自分のメモついでにエスペラントの基本文法を紹介しておきます。
エスペラント語の基本文法
http://morioka.cool.ne.jp/ihatov-esperanto/gramatiko.html
情報元:
イーハトヴ・エスペラント会
http://morioka.cool.ne.jp/ihatov-esperanto/index.html
まだ、エスペラントの勉強を始めてはおりませんが、英語よりも簡単そうな感じに思います。
(´ヘ`;) う~ん・・・
四十の手習いを始めることになるかしら...。
***** この情報に価値を感じたら *****
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鹿児島県はエスペランティストが少なくて、地域エスペラント会もないようですが、いまはインターネットでも勉強できますね。
私のブログは、エスペラントのみをテーマにしています(半分は旅行記ですが)。一度お越し下さい。
(+_+)
さて、日本語の場合はどうかというと、戦後から現在において、大半の日本人が英語が分からなくとも日本の高等技術、高等教育の元に高度経済成長を果たすと共に日本がその技術力、文化を世界に知らしめたことは我々も知っているかのごとくです。
なにも英語が普及しなくとも日本語という外国語を安易に取り入れることができる優れた母国語があるのですから、日本語の習得事態、英語を習うよりはるかに重要だと思うのは私だけでしょうかな?
なにも本田総一郎や松下幸之助が流暢に英語を話せた人でもないと思いますし(^^;)ポケモンや遊戯王の作者もおなじですよね?
母国語がしっかり話せない通訳などは、通訳としてはサイテーだそうで...。流暢に英語を話しているように聞こえても、幼稚な表現を使っている場合があるのでしょうね。(-_-;)