の~んびり タイランド 2

タイの風景、行事や趣味の陶磁器を写真を中心に気ままに紹介しています。

堺市博物館 「タイの古陶磁 Ⅲ」(1)

2015年05月21日 | 博物館

ネット検索で偶然「堺市博物館」で企画展「タイの古陶磁 Ⅲ ―アユタヤ王朝とミャンマーの優品―」が開催されているのを知り、やって来ました。

「タイの古陶磁 Ⅲ」が示すように、2012年、13年に続く3回目の個人コレクションの展示会のようです。
学芸講座もあるということで4月12日(日曜日)の訪問、入館料は200円と良心的な価格です。



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展示室の入口に仁徳天皇陵古墳を始め、44基の古墳が現存する百舌鳥古墳群と、その東方10kmで120基を超える古市古墳群の航空写真が大きなパネルで掲示されています。
写真は、長辺840m、最大幅654mで外周2718mの仁徳天皇陵古墳と、その西南にある履中天皇陵古墳を中心に切り取ってみました。堺市博物館は両古墳の間に位置します。

第一室の中央には明治5年に崩れた仁徳天皇陵古墳の前方部、前面の斜面で発見された凝灰石の石棺と銅に金メッキを施された甲冑のレプリカが展示されています。
石棺は長さ2.7m、幅1・5m、高さ1.6mで重量は推定で30トンになります。
石棺は開封調査をされず、埋め戻されたようです。

4世紀後半の乳岡古墳から出土の石製腕輪です。

履中天皇陵古墳の南400mに位置する大塚山古墳から出土の甲冑です。
大塚山古墳は5世紀前半に築造された、全長約168mの百舌鳥古墳群では5番目の大きさを誇る巨大な前方後円墳でしたが、昭和24年から採土工事が始まり、昭和60年には墳丘が消え、住宅地に変貌してしまいました。
先に44基の百舌鳥古墳群と書きましたが、この一帯には100基を超える古墳があったようですが、半数以上が開発によって潰されたようです。

大塚山古墳出土の鉄製刀剣です。

大塚山古墳出土の銅鏡「斜縁二神二獣鏡」(左)、「斜縁三神四獣鏡」(右)「筒型石製品(玉杖)」です。(キャプションによる)

大塚山古墳出土の冑です。

大塚山古墳出土の勾玉、管玉、ガラス玉などの装身具です。

湯の山古墳から出土の「変形四獣鏡」と鉄剣です。5世紀中から後期のものです。
ノーンカイの銅鉱山で記載しましたが、タイで出土している青銅器や鉄器は装身具や農耕用具が大半でしたが、日本では刀剣などの武具が多いようです。

仁徳天皇陵古墳より出土した巫女形埴輪の複製品です。

仁徳天皇陵古墳より出土の鹿形埴輪と馬形埴輪の複製品です。

5世紀前半に築造された全長146mの前方後円墳、いたすけ古墳出土の「衝角付冑形埴輪(しょうかくつきかぶとがたはにわ)」です。
いたすけ古墳は昭和30年に住宅開発で壊されそうになりましたが、考古学者や市民を中心とした運動で古墳は買収、保存されることになり、翌年には国の史跡に指定されました。
これは、全国各地で起きた遺跡保存運動の先駆けとして、その後の埋蔵文化財保護にも大きな影響を与えました。後円部から出土した衝角付冑形埴輪は堺市の文化保護のシンボルとなりました。(展示解説文より)

泉北丘陵一帯は古代では茅淳県陶邑(ちぬのあがたすえむら)と呼ばれ、約500年続いた大窯業生産地でした。最初の築窯は4世紀後半から5世紀前半頃で、渡来人が伝えたロクロで成形し、穴窯で焼いた須恵器が生産されていました。
窯跡や古墳から出土した須恵器が展示されています。







窯跡出土の5世紀前半の須恵器です。











四ッ池遺跡から出土の5世紀前半に作られた須恵器です。

5世紀前半に造られていたコーヒーカップです。古代日本にこんな器形があったのは驚きです。

5世紀中期の大仙中町遺跡出土の須恵器、土師器です。写真には写っていないですが、手前の碗も把手付です。

墳丘や外堤に並べられた円筒形埴輪です。
古墳を造るのに10トンダンプカーで27万台相当の土が運ばれ、土止めにダンプ1300台分、およそ14000トンの葺石が墳丘に敷き詰められ、15000本の埴輪が巡らされたようです。
当時の日本の総人口は600万人で、仁徳天皇陵古墳築造には延べ人数680万人が従事、1日2000人が働いたと仮定して、完成までに15年8ヶ月の歳月を要すると推定されています。

6世紀中期の日置荘西町窯跡群から出土の埴輪です。






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次の展示室は「自由都市 堺」、南蛮貿易で活躍した堺商人の中世になります。
「南蛮唐草文入り総象嵌火縄銃―銘・芝辻小兵衛清正(花押)」、堺の鉄砲鍛冶で1679年(延宝7年)に尾張藩御用鉄砲鍛冶として召抱かえられた、芝辻小兵衛造の火縄銃です。

1543年に種子島に漂着したポルトガル人によって、初めて鉄砲が伝えられると、その翌年には堺商人橘屋又三郎がその製造方法を堺に持ち帰ったと伝えられています。(展示解説文より)









16世紀末から17世紀初期の景徳鎮窯で焼かれた「青花花鳥文盤」です。





後期アユタヤ時代のシンブリー、メナム・ノイ窯の壺です。南蛮貿易によって日本へもたらされました。
展示品の解説文です。

常設の最後の部屋は「祈り、祭り」で堺に伝わる仏像、祭りに使われた鉾が復元されています。
仏像は撮影禁止で、写真はありません。


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