スノーマン見聞録

ジャンルも内容も気の向くまま~“素浪人”スノーマンの見聞録

万葉の秘密

2013年06月07日 | 雑感
先日何年かぶりで(『万葉集』解説付き)を眺めて見たのですが、日本人のこころを美しく歌った歌集、、との認識だけで、その裏に隠されたものなど知るよしもありませんでした。

日本古代史学者・小林やすこ著『本当は恐ろしい万葉集』ー歌が告発する血塗られた古代史ー を読んでみたら、面白いことが載っておりましたので少し紹介します。(小林氏は1936年生まれの東洋史・古代史学者で著作も数多い)

古事記も古今和歌集も序文に、編纂を命じた天皇・編纂者・成立年月を明らかにしている。

ところが万葉集には序文がなく、いきなり雄略天皇の歌から始まる。誰が命じたなど全く記されてないという。

(ちなみに全二十巻すべての巻頭の歌が雄略天皇の歌で始まっている)

序文は天武系天皇(聖武朝)によって発想され、天智系天皇(桓武朝)により抹殺されたのでは、、、と。

確かにこの時代は、天武は朝鮮半島の新羅・天智は百済がそれぞれバックにつき、加えて唐や高句麗も加わって互いに争いながら和合をも繰り返していた時代。

『日本書記』や『続日本記』などの正史といわれる歴史書においてもそうであるように、歴史は時の偽政者によって歪曲され作られてきた、、万葉集もそうした史実を活写した典型なのかもしれません。

万葉集は歌数4500首を超え400年もの歳月。大伴家持一人の歌集では到底あり得ないとするのが今や通説。

著者は言う、、、。
≪最初に『万葉集』を企画した聖武天皇等の意図は、天武朝が正当であることを後世に残すため、序文にはその意志が明快に書かれていたが、実際に編纂に携わった大伴家持以下の人々は、天智・天武朝の融合(和合)を目的としたので『万葉集』はその初期の目的と相違してきた。万葉集の序文は編纂の最終過程で消えざるをえない運命を背負っていた≫、、、と。


『万葉集』に数多くの歌がある額田王・柿本人麻呂・大伴家持の三人の歌人がいる。

【額田王】
百済の武王(欽明天皇)である父と新羅・加羅系母との間に、倭国で生れ育ち、新羅系・大海人皇子(後の天武天皇)に嫁ぎ十市皇女を生み、後に百済系・天智天皇の後宮に入ったとされ天武朝と天智朝に翻弄され続けた、あの額田王(ぬかたのおおきみ)。
 ~《君待つと 我が戀(恋)ひをれば 我がやどの 簾(すだれ)動かし 秋の風ふく》
  (君を待つと私が恋しく思っているところに、家のすだれを動かし、秋の風がふく)
  悲しいかな、額田王が待っていた相手は天智天皇ではなく、天武天皇だったとの裏読みが必要のようです。

  ♪♪ぬかたのおおきみはすすきのかんざし熱燗徳利の先つまんでもう一杯いかがなんてみょうに色っぽいね
   吉田拓朗の歌ったあの歌ですよ。 どうもこれしか思い浮かばず。
   (あとで解ったのですが、浴衣の君は、、が本当だそうです(笑))

【柿本人麻呂】
蘇我系・百済系の出で持統・文武朝・元明朝(天武系)で謀反の罪で粛清され、新羅に異常なほど憎しみを募らせ百済系天智朝の存続に生涯を賭けた政治家・そして名歌人の柿本人麻呂。
 ~人麿呂が死に臨んだ時の歌 《鴨山の 岩根しまける 我をかも 知らにと妹(いも)が 待ちつつあるらん》
  (鴨山の岩を枕に死んでいる自分を知らずに妻はひたすら私の帰りを待っているのだろうか)
  という哀切きわまりない最後の歌である。

飛鳥の人麿呂・人麿呂を慕う西行・西行を慕う芭蕉・芭蕉を慕う山頭火・山頭火を慕う白頭人といったところか。

【大伴家持】
そして、天智系・桓武天皇の臣、藤原種継を暗殺した大伴一族に連座していたとされ、死後も除名の憂き目にあった『万葉集』編纂に大きく携わった大伴家持。
 ~私の好きな、あの呑んべえ歌人・大伴旅人(おおとものたびと)(当ブログ~万葉の酒呑み)の長男である。
  『万葉集』全二十巻の末尾を飾る歌。
  《新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)》
  その後没する迄46年間一首も詠まず。この歌を最後に歌人としての命を絶った。
   
  父・旅人にこんな歌があります。《世間(よのなか)は 空しきものと知る時し いよよますます 悲しかりけり》
  子の家持は、晩年どんな気持ちで酒を呑んでいたのでしょうかねえ。
    
万葉人をとりまく得体の知れない<怨念>と<愛憎>いや<ロマン>がこの『万葉集』に散りばめられているという。

『万葉集』の初期を飾る額田王・中期を飾る柿本人麻呂・後期を飾る大伴家持。

謎めいた、興味をそそる三歌人、、、 古代は不思議いっぱいで実に面白い。


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