先日の入院時(また新しいがんが見つかる)に病室に持ち込んだ宇江佐真理の三冊の文庫本。
『夕映え』(上・下巻)と 『月は誰のもの』(髪結い伊三次捕物余話シリーズ第14作)を再読してみた。
【 夕 映 え 】 (上・下巻)
江戸の本所にある「福助」というおでんが評判の縄暖簾の見世を舞台に物語は展開する。
幕末のペリーの来航から安政の大獄、桜田門外の変から尊皇攘夷、討幕運動と激動の時代。
武士の視点から描いた幕末作品は数多いが、この作品はその視点が従来とはまったく異なる。
下から目線で描いており、否応なしに翻弄される庶民からの目線だ。
薩摩藩士による横暴や、尊皇攘夷の名を借りた強盗や押し込みなど江戸は騒然とした空気に包まれていく。
そんな中で、息子の良介は彰義隊に入る。一夜にして政府軍によりその彰義隊が壊滅(上野戦争)。
良助を案じ、夜中じゅう上野を探し回る父親。 幕末に翻弄される庶民を生き生きと描く。
所詮幕末も各藩の跡目争いや政争の具でしかなく、現代における欧米など大国の横暴と似て非なるもの。
それらをプロテストするが如く、庶民目線で描く作者の凛とした姿勢に共感を覚える。
松前など道南・渡島半島全域が戦場となった戊辰戦争の最後の箱館戦争までを描く、見事な力作だ。
【 月 は 誰 の も の 】
かの藤澤周平は 「女で読ませる」 ともいわれるほど登場する女性は素晴らしく魅力的だった。
宇江佐真理の【髪結い伊三次捕物余話シリーズ】はなんといっても伊三次の女房・お文(おぶん)だ。
(「文吉」という権兵衛名(源氏名)の深川芸者で、その情の熱さときっぷの良さはなんとも魅力的)
口入れ屋番頭が、お文の家に女中・おふさを伴ってやってきた。
おふさは一度嫁いで離縁され実家で野良仕事を手伝っていたが、出戻りのおふさにとって
実家には居場所がなかったらしい。
恐ろしく体格のいいおとなしそうな女だった。
「お内儀さん、働き者で性格もよろしい子です。手癖が悪いとか男出入りが激しいという心配
もございません。 ただ・・おお食らいなんですよ。めしを喰っている時だけが極楽と思ってる
奴なんです。それじゃ、こちらはお困りでしょうね。」
番頭の言葉にお文はぷッと噴いた。 おふさは恥ずかしそうにうつむいた。
『 そいじゃ、わっちは気張っておふさの米代を稼ぐとしよう 』
お文の言葉におふさは驚いて眼をみはり、それからはらはらと涙をこぼした。
よほど嬉しかったのだろう・・・・。
このシリーズには、なにげない 江戸・市井の話のなかに胸に迫るものがいくつもある。
乳がんと闘いながら創作を続ける作者は、伊三次シリーズの最終回を書いてから死にたいという強い
思いがあるときく。(今年『文藝春秋』2月号の筆者のがん病闘記を読む)
息子・伊与太が、月を指さし ≪月は誰のもの≫と尋ねるシーンがある。
『 月は誰のものでもない。皆のものでもない。 月は月だ。
ただ夜空にあって青白い光を地上に投げかけるだけだ 。
また人の気持ちによって、月は喜びの象徴ともなれば悲しみの象徴ともなる。
なまじ満ち欠けをする月だからこそ、人々の気持ちが投影されるのだろう。
いつも月を美しいと感じられるように、ありがたいと思っていられるように、
お文はそっと掌を合わせて祈る 』
そう、作者が言うように 月は月だ。
どうあがいても 自分は自分でしかない。 日々懸命に生きるしか、、、お文はそう言っている気がした。
それにしても 小説のなかでの女性に惚れるなんぞ、藤沢周平著 『海鳴り』 の≪おこう≫以来である。
『夕映え』(上・下巻)と 『月は誰のもの』(髪結い伊三次捕物余話シリーズ第14作)を再読してみた。
【 夕 映 え 】 (上・下巻)
江戸の本所にある「福助」というおでんが評判の縄暖簾の見世を舞台に物語は展開する。
幕末のペリーの来航から安政の大獄、桜田門外の変から尊皇攘夷、討幕運動と激動の時代。
武士の視点から描いた幕末作品は数多いが、この作品はその視点が従来とはまったく異なる。
下から目線で描いており、否応なしに翻弄される庶民からの目線だ。
薩摩藩士による横暴や、尊皇攘夷の名を借りた強盗や押し込みなど江戸は騒然とした空気に包まれていく。
そんな中で、息子の良介は彰義隊に入る。一夜にして政府軍によりその彰義隊が壊滅(上野戦争)。
良助を案じ、夜中じゅう上野を探し回る父親。 幕末に翻弄される庶民を生き生きと描く。
所詮幕末も各藩の跡目争いや政争の具でしかなく、現代における欧米など大国の横暴と似て非なるもの。
それらをプロテストするが如く、庶民目線で描く作者の凛とした姿勢に共感を覚える。
松前など道南・渡島半島全域が戦場となった戊辰戦争の最後の箱館戦争までを描く、見事な力作だ。
【 月 は 誰 の も の 】
かの藤澤周平は 「女で読ませる」 ともいわれるほど登場する女性は素晴らしく魅力的だった。
宇江佐真理の【髪結い伊三次捕物余話シリーズ】はなんといっても伊三次の女房・お文(おぶん)だ。
(「文吉」という権兵衛名(源氏名)の深川芸者で、その情の熱さときっぷの良さはなんとも魅力的)
口入れ屋番頭が、お文の家に女中・おふさを伴ってやってきた。
おふさは一度嫁いで離縁され実家で野良仕事を手伝っていたが、出戻りのおふさにとって
実家には居場所がなかったらしい。
恐ろしく体格のいいおとなしそうな女だった。
「お内儀さん、働き者で性格もよろしい子です。手癖が悪いとか男出入りが激しいという心配
もございません。 ただ・・おお食らいなんですよ。めしを喰っている時だけが極楽と思ってる
奴なんです。それじゃ、こちらはお困りでしょうね。」
番頭の言葉にお文はぷッと噴いた。 おふさは恥ずかしそうにうつむいた。
『 そいじゃ、わっちは気張っておふさの米代を稼ぐとしよう 』
お文の言葉におふさは驚いて眼をみはり、それからはらはらと涙をこぼした。
よほど嬉しかったのだろう・・・・。
このシリーズには、なにげない 江戸・市井の話のなかに胸に迫るものがいくつもある。
乳がんと闘いながら創作を続ける作者は、伊三次シリーズの最終回を書いてから死にたいという強い
思いがあるときく。(今年『文藝春秋』2月号の筆者のがん病闘記を読む)
息子・伊与太が、月を指さし ≪月は誰のもの≫と尋ねるシーンがある。
『 月は誰のものでもない。皆のものでもない。 月は月だ。
ただ夜空にあって青白い光を地上に投げかけるだけだ 。
また人の気持ちによって、月は喜びの象徴ともなれば悲しみの象徴ともなる。
なまじ満ち欠けをする月だからこそ、人々の気持ちが投影されるのだろう。
いつも月を美しいと感じられるように、ありがたいと思っていられるように、
お文はそっと掌を合わせて祈る 』
そう、作者が言うように 月は月だ。
どうあがいても 自分は自分でしかない。 日々懸命に生きるしか、、、お文はそう言っている気がした。
それにしても 小説のなかでの女性に惚れるなんぞ、藤沢周平著 『海鳴り』 の≪おこう≫以来である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます